心を広げる

終末主日・特別伝道礼拝「心を広げる」

新約聖書・マタイによる福音書5章6節 説教者 牧師 上田彰

 *「地を受け継ぐ」「地から絶たれる」ということについて

 柔和な人々は幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。

 聖書を読んでいると、不思議な言葉に出くわします。全く意味が分からない、奇々怪々な表現だというわけではありません。しかし、全体としては直観的には分かりにくい。そんな表現に時々出会うのです。

 例えば今日の箇所、「柔和な人々を幸いな人と呼ぶ」、そこまではなんとか理解出来ます。しかしその、理由というのでしょうか、柔和な人が幸いであるのは、地を受け継ぐからだ、というのは、かなり面食らう話ではないでしょうか。地を受け継ぐというのは、どういう意味であるかを、まず確認しておきたいと思います。聖書の中で同じような表現を探していきますと(例えば旧約聖書「詩編」37編)、「地を受け継ぐ」という言葉と対になって使われる言葉があります。それは「地上から断絶される」という言葉です。要するに、断絶するか、受け継がれるか、なのです。「地を受け継ぐ」というと、例えば「財産相続を受け取る」という風に、受け取るべき立場に立ってものを考えがちです。しかし聖書の思考法というべきものがあって、ここでいう「地を受け継ぐ」というのは、今で言うところの受け身形というか、「地が受け継がれる、断絶されることなく受け継がれる」、という意味合いであるということに気づかされます。私が受け継ぐ、というのではなく、残す人がいて、受け継ぐ人がいる、という風に、継承がなされていく様子を思い浮かべます。柔和な人々は幸いだ、そのような「継承」のわざに、「受け継ぎ」の出来事に、その人々は組み込まれていくからだ。そこで受け継がれているものは何か。結局の所、それは「柔和さ」を受け継ぐことになるのではないでしょうか。

 「柔和な者は地を継ぐ」。これは、柔和な人々の志を継承する人が現れる、しかも、細々と受け継ぐグループがいるというよりも、そのようにして受け継がれるグループが、地上において何らかの意味で代表的なグループになっている、ということを意味していることになります。


 これはどういうことでしょうか。たとえばここで、「力のある者が地を受け継ぐ」とか、あるいは「知恵ある者が」ということならわかると思うのです。実際私たちは、権力を持った者がこの世を支配している現実を経験しています。しかしイエス様はおっしゃるのです。柔和な者、二心のない者が地を受け継ぐ、と。


 少子高齢化社会がやって来た、といわれています。どこにおいても、「跡継ぎがいない」ということを聞きます。例えば、今回私どもが作りましたポスター、伊東市内の新聞折り込みで各世帯に配りました。それを見たという町の方、私より少し若い、十字の園の職員の方ですが、こう聞くのです。あの写真の子ども、みんな教会の子ですか。

(正直に申しますと、この中で教会に来ている子どもはほんのわずかしかいません。それから、教会員に声をかけて、お孫さんが写っているケースもあります。外国人の方もそういうケースだと聞いています。完全なモデルというのは、写真背景が白いもので、いわゆる著作(肖像)権の問題の無いものをお借りしてきたとうかがっています。しかし、)

皆が関心を持っているのは、あちこちで若い人が減っている。これを怖れと感じているのだと思います。自分たちの志を引き継ぐ人が現れなくて、自分たちがここにいるということの証をしてくれる人がいない。このままで自分たちは消え去り、地上から忘れ去られるのではないか。



 *クアジモドの生き方

 ここで、自分の命が地上から取り去られるときに、怖れではなくて幸いな思いを持ちながら自分の最後の務めを果たした男性、つまり幸いな者がここにいるという宣言をする意味での鐘を鳴らしながら天国への旅路についた、一人の男性を巡る物語を紹介してみたいと思います。

 原作はヴィクトル・ユゴー、『パリのノートルダム教会』という作品です。(1831年発表の原作はかなり複雑なストーリーですが、ここでは今から100年前にアメリカで映画化された際のストーリーを紹介することにします。)時は15世紀のフランス・パリです。いわゆるフランス革命が起こる18世紀まで、フランス市民社会は三つの身分制に分かれておりました。一つは聖職者の身分、一つは貴族の身分、そしてもう一つが平民の身分です。これらの身分はそれぞれ、独自の世界を築いておりました。例えば第二身分である王や貴族も、社会全体を完全に支配しているわけではありません。彼らは剣、つまり武力を持つことで、社会を一応は支配しています。しかし例えば、第三身分である平民が、祭りの時には反乱じみた行動を起こす様子が映画には描かれています。また彼ら第二身分は、第一身分である教会とも仲が良いわけではなく、対立をしておりました。


 また第二身分が戦っていたのは第一身分や第三身分ばかりではありません。言ってみれば「第四身分」、つまり市民の資格を持たない、アウトローの者たちもいたのです。

 作品全体を支配しているのは、世界の不条理に対するやるせなさ、です。特にその中で、第一身分、つまり当時の教会の不条理さを良く体現しているのが、主人公のクアジモドという人物です。彼は背中に大きなこぶを持つ、現代で言う身体障害者、1923年の映画のタイトルに寄れば「せむし男」と表現されます。彼の仕事は鐘を撞くことです。ノートルダム教会の鐘を鳴らすのが彼の務めなのです。


 ニュースによれば、つい最近このノートルダム教会(寺院)が火事に見舞われたそうです。パリ中の、いえ世界中の人々が悲しむ事故でした。現在、再建のために祈りが合わせられています。祈りの発信地である教会が、今は祈りを向けられているのです。

 物語に戻る前に、もう一つ注釈をします。映画の中には表れてこないけれども重要な事実は、鐘突男というものの社会的地位は、著しく低いのです。良くありがちな、教育ママが、「がんばってあの仕事が出来るようになりなさい」といって指さすような仕事ではないのです。毎日うるさい鐘を間近で聞いていると耳がおかしくなります。学があったり、何かの才能があって人々に認められているような人がする仕事ではありません。

 しかし、確かに社会的地位は低いものの、教会においては鐘突男の地位は決して低いわけではありません。社会のど真ん中に、社会の価値観や基準とは全く違う世界が存在するのです。なぜなら、鐘突の仕事は、誰かが必ず一生かけてしなければならないものだったからです。いわゆる輪番制でやれるような仕事ではありません。しかし鐘を鳴らさない教会は、当時教会としては命を失ったも同然と見なされました。教会の皆が、教会が地を継ぐためには司祭やいくつかの役職と並んで、いえ場合によってはそれ以上に、鐘突男が必要であることを知っていました。

 そこで人々は、鐘突男のところに食事を持っていく輪番制の奉仕なら出来るといって、その役割を買って出るのです。もしヨーロッパを旅行し、教会の上の部分に入ることが出来るのであれば、鐘突男の部屋の床の真ん中に大きな穴が空いていて、そこから籠をつるして生活用品を受け取ることが出来る仕組みが残っていることがありますから、ご覧になってください。この物語の時代において、鐘を鳴らす者は、教会に住み込で、時が来れば自分の全体重をかけて鐘を撞きます。そのようにして、パリの街中の人々に、祈ることを求めるのです。

 要するにこういうことです。当時の教会において、一番人々から尊敬されていたのは司祭でした。しかし次に尊敬されているのは鐘突男だったのではないか、と私は考えています。この二つの、通常大きくかけ離れていると思われている職業には、切り離しがたい共通点があります。それは、どちらも「全てを教会に献げている」ということでした。社会からは隔絶した価値観が、社会のど真ん中に存在する、ということです。

 話を戻してクアジモドに関して申しますと、彼は十分な教育を受けたわけではなく、非常に粗野な振る舞いをします。人から愛されたことがなかったことも理由の一つでした。元々は捨て子であり、教会で育てられ、鐘突の仕事を始めたようです。彼の名前であるクアジモドとは、ラテン語で「もう一つの生き方」と訳せる意味合いの言葉です。

 さて、この物語には、第四身分ともいうべきアウトローの世界から舞い降りた一人のヒロインが登場します。その名はエスメラルダといい、映画の中の表現でいえばジプシー、流浪の民の一員ということになっています。どうやら本当は第二身分に生まれた娘であるようなのですが、訳あってクロパンという、悪党の養女として育てられました。このクロパンは「奇跡御殿」と呼ばれる、ならず者たちが集う場所のリーダーで、エスメラルダの前でだけ優しい父親となることが出来るのでした。


 エスメラルダに対して、二人の男性が恋をします。よこしまな恋をするのがジェハンと言いまして、彼は兄が第一身分であるノートルダム教会の司祭、自分自身は第二身分に属していて、恋をする二人はいずれもある身分を代表する立場ではありません。身分の異なる女性を愛することが許される時代ではもともとありません。ジェハンはクアジモドを使って、エスメラルダの誘拐を試みますが、これが失敗、クアジモドはむち打ちの刑に処せられます。ちなみにその刑の最中に飲み水を差し出すのがエスメラルダでした。生まれて初めて自分に優しくしてくれた人が現れたクアジモドは、人間性を身につけるようになります。


 もう一人のエスメラルダを愛する男性は、この誘拐事件で彼女を救出したフォッビュという人物です。ジェハンは結局彼女に振られまして、逆恨みをします。それで、ジェハンはある考えに至ります。それは、このフォッビュの暗殺を試み、その疑いが彼女に向けられるようにする、という作戦です。このエスメラルダにも被害が及ぶようにして、それを自分が救出することによって恋愛感情が自分に向けられるようにしようと考えたのかどうか、とにかくゆがんだ考えを抱えたまま、ジェハンはフォッビュに刃を向けます。この作戦が実行されてしまい、エスメラルダに疑いが向けられ、逮捕されてしまいます。裁判の結果、死刑に処せられることになりました。よく考えてみますと、フォッビュの暗殺は未遂です。しかし彼女は死刑になります。これは明らかにアンバランスです。現代で言えば、量刑不当ということになるでしょう。しかし話は15世紀、支配される者と支配される者の身分の違いは天地ほどに大きいのです。ましてや、エスメラルダは第三身分ですらない、いわば第四身分の立場です。人間の命がどこまでも軽かった時代の話です。

 さてその当時、処刑は教会の前で行われることになっていたようで、死刑が執行される前に鐘を鳴らすのもクアジモドの仕事なのですが、今回ばかりは鐘を鳴らしてから下を覗いて驚きました。あのエスメラルダが処刑台に連れて行かれようとしているのを見たからです。そこでクアジモドは急いで教会の高いところから下りてきます。普段はクアジモドは下に降りるということはないらしく、映画の中では階段を使って下りるシーンはありません。建物の壁に埋め込まれている様々な彫刻物を手がかり、足がかりにして下りていく様子が出て参ります。もちろん飛び降りれば死んでしまう高さです。この時はたまたま工事のため、上からロープのようなものが垂れていて、そこに飛びついて急いでおり、死刑執行を見守る兵士たちを足蹴にして蹴散らします。

 そしてクアジモドは彼女を抱きかかえ、すぐ目の前にある教会の建物の中に入ってしまいます。ここで彼女を取り囲んでいた兵士たちは、取り戻すために、やりを手にしたままで教会の中に入ろうとしますが、ジェハンの兄である司祭は、これを阻止します。司祭は叫びます。「ここは聖なる場所であるぞ」。武器を持って入ることが出来る場所ではない、と言うのです。

 こうして守られたエスメラルダですが、この彼女を救出しようと動き始めるのが養父のクロパンです。恐らく、第四勢力に属するクロパンは、教会という第一勢力を信頼しきってはいなかったのでしょう。部下たちを連れて武装蜂起をし、彼女を連れ戻そうとします。大勢のならず者たちが、第一身分の象徴である教会を壊しに訪れます。彼らを鎮圧するために第二身分の兵士たちが大勢やって来る。教会の前で戦いが繰り広げられるのです。

 この戦いのさなか、色々と見当が外れてしまって登場の機会を失ってしまっていた、例のジェハンが教会に現れます。そしてエスメラルダのいるところにやって来て、性懲りも無く彼女を誘拐しようとします。しかしそれを食い止めるのがクアジモドです。格闘の末、ジェハンを教会の塔から突き落とします。しかし同時に、クアジモドはジェハンに刃で刺されてしまい、命絶え絶えになります。

 こうなると大体話が終わりに近づいてきたことが分かると思うのですが、最後の大団円を飾るのが、フォッビュです。元々はクアジモドが実行犯に仕立て上げられてしまっていた例の誘拐事件の時に、救出で男を上げていたフォッビュが、ここでもまた彼女を守りに来るのです。二人の出会いを祝福するために、クアジモドは最後の仕事を果たします。それは、鐘突です。彼は幸せそうに最後の力を振り絞って鐘を撞き、そして息絶えるのです。

 *私たちの生き方

 柔和な人々は幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。

 柔和な生き方は、世間をうまく渡ることの出来る生き方ではないかもしれません。この話の中で、二心のない柔和な生き方をしている人物は、いずれも社会的ステータスが著しく低い、鐘突男クアジモドと、踊り子であったエスメラルダです。彼女もまた、自分を襲ったクアジモドがむち打ちの刑に処せられたときに、同情して彼に水を与え、クアジモドの人間性の回復に一役買ったのでした。しかし明らかに、この物語において注目されなければならないのは、クアジモドの二心のない柔和さです。決して人から注目されることのない人生の中で、愚かなまでに素朴な二心のなさを持って、振る舞い続ける、彼の柔和さは、際立っています。

 しかしその一方で気づかされるのは、彼の生き方は「地を受け継ぐ」生き方になっているのだろうか、という疑問です。例えば、目に見える形でクアジモドの後継者が生まれる、というようなことは起こっていません。因みに、鐘突という仕事は、機械化の流れによって現代の教会には全く残っていません。

 それでは、やはりクアジモドのような、世間からは注目されない柔和な生き方は、やはり文学の世界にだけとどめておくべき美談に過ぎないのでしょうか。いえ、そうではありません。クアジモドの二心のない生き方を指して、イエス様は「地を受け継ぐ」ものである、とやはりおっしゃっておられるのではないでしょうか。

 現代において、身分制度は存在しません。第一身分と第二身分が第三身分に合流し、皆が第三身分に属するということになっています。しかし実際に合流したのは、第二身分と第三身分だけであって、第一身分と、それから「第四身分」は消滅した格好になっているように思います。それは昨今の旧なんとか協会騒ぎを見ても、そんな感じを受けます。また戦争をすることを祝福する教会が東スラブにあると聞くと、ああそれは古い時代の名残なのだ、と訳知り顔の解説に出くわします。後継者の問題というと、大体が第二身分と第三身分に関すること、つまり名誉とか権力とか財力に関することばかりで、信仰に関する後継者問題は二の次だ、というような錯覚に私たちも時々陥ってしまっています。

 そのようなときに、作中にでてくる教会司祭の声を思い出します。クアジモドが処刑台にかけられる直前のエスメラルダを抱きかかえて礼拝堂に駆け込み、それを追いかける兵士たちの前に立ちはだかったときの司祭のあの鋭い叫びを思い起こしましょう。「ここは聖なる場所であるぞ」。この声は、「地を受け継ぐ者たち」というのが「富と権力と知恵に満ちた者たち」のことであるのか、それとも「柔和さを与えられた者たち」のことであるのかを決めるのは、人間ではなく、社会でもなく、神様である、ということを思い出させる声なのです。

 「ここは聖なる場所であるぞ」という叫びについても、解説をしておきたいと思います。作品の中では、その場所に来ると、権力から自由になることが出来る場所(サンクチュアリ)である、という意味で使われています。日本でいえば、千利休が茶の間を設計するときに、部屋に入るときには刀を持ち込めないように、わざと入口を狭くしたことが有名です。キリスト教の歴史をひもといても、中世の時代に教会で役員会を開くために用いられる部屋には、第二身分の者たちが会議の部屋に入る際に腰に差している剣を外して置いておくための部屋が用意されていたことがわかります。現代における教会でいえば、教会のことを話し合う際に、世俗の事柄を持ち込むことは、お互いに戒め合わなければなりません。そうでなければ教会が「聖なる場所」であるということが、いつの間にか名目だけの事柄になってしまうからです。そういった危険性は常にあるように思います。つまり、教会が「聖なる場所」であるかどうかは、そこに相手を力で脅かす、冷たい鉄で出来たものを具体的に持ち込むかどうか、ということだけでなく、そのような冷たい鉄の話題を持ち込むことによって、相手を力で脅かすことが出来るという、そういう考え方そのものを排除することが出来るかどうかにかかっているのです。鐘突という職業が尊敬され続ける、そのような価値観を持ち続けることが出来るかどうかは、教会が「聖なる場所」であるという自覚を皆が持ち続けられるかどうかに、かかっています。

 今回、マスクをした子どもたちの顔写真をポスターで並べました。子どもたちの無邪気な顔を並べたら耳目を集めることが出来る、そんな話でないことは明らかです。その子どもたちがマスクをつけさせられているのです。

 マスクをしたらマスクをした人を守ることになり、また結果としてその場にいる別の人をも守ることが出来る。そんな考え方が「ソーシャルディスタンス」という言葉と共に広がりました。しかしいつの間にか、マスク着用そのものが目的化してしまい、何のためにつけているのかは忘れていて、単なる慣習になってしまっているのではないか。そんなことを、パリにいる知り合いが教えてくれました。今回のポスターを、パリ・ノートルダム教会の復興の様子について聞くついでに、今パリにいる何人かの知り合いにメールを送りました。そうしたところ、教会の復興は、時間がかかっているが着実に行われているという返事と共に、「今時子どもがマスクを日本ではしているのか」と聞いてきました。もしかしたらコロナの前後から、私たちの社会はだんだんに衰退していることに気づかされます。そのような状況にあって、初心に立ち帰ることはいつも必要です。

 「ここは聖なる場所であるぞ」という叫びによって、私たちは気づかされます。「地を継ぐ」ということは「柔和な者に対する神様の選びである」ということに。私たちの教会は、確かにマスクは外していません。しかし、世間的知恵によって世渡りをする生き方ではなく、愚直なまでに柔和な生き方をすることを神様が祝福して下さることを知っている私たちは、心のマスクを取り外すことが出来る。

 「ここは聖なる場所である」という声は、声高なものではなく、しかし静かに、私たちの心に響いてきます。柔和な人々は、確かに幸いなのです。