本当に欲しかったもの

2022/08/28()  三位一体後第十一主日礼拝  「本当に欲しかったもの」

出エジプト記34110節                          牧師 上田文

 

最近、このような事がありました。娘が、コロナのワクチンの接種に行った時の事です。彼女は、注射が怖くてとても脅えていました。お医者さんの前に座った時には、もう半泣きになっていました。そこで、私はなんとなく「あゆちゃん。一番怖いのは、お注射ですか?」と聞いてみました。すると、娘は事もあろうにお医者さんや看護婦さんが皆見ている前で、真剣に「ううん。ママ」と答えたのでした。ママは、こんな事を皆の前で言う娘が一番怖い!と思いましたが、娘は、何故か一番怖いママのお膝で、安心して泣く事なくワクチンの接種をしました。そこで、娘はどうして一番怖いはずのママのお膝に座ってワクチンを受けたのかと考えてみました。辞書を開いてみると、「こわい」や「おそれる」という言葉には、さまざまな使い分けがあるようです。例えば、「失敗を恐れる」というように、こわがるという意味の使い方があります。また、「お化けや物音に怖れる」といったように、びくびくしたり、おじけるような使い方もあります。そして、「おそれうやまう」や「おそれはばかる」というような意味でつかわれる畏れもあります。神さまを畏れるというのは、この最後の意味で使われる畏れです。畏敬の念といった意味があります。「ママが一番怖い」と言った娘は、ひょっとするとこの畏敬の念に近い、信頼する気持ちを持って「こわい」と言ったのかもしれません。

今日の聖書箇所は、神さまを畏れるということが、いつの間にか、怖がる、ビクビクするという事に変わってしまったイスラエルの民の話です。しかし、神さまは怖がる必要のない方です。今日は、モーセに語られた神さまのみ言葉を通して、神さまを正しく畏れるという事について聞いてみたいと思います。

 

 今日の聖書箇所の少し前には、イスラエルの人々が、神さまではない金の子牛を作って拝み始めた事が書かれています。イスラエルの人々は、エジプトでの奴隷生活から解放されて、約束の地に向かっていました。その途中で、神さまのさまざまな恵みを体験しました。その一つに、シナイ山で十戒を中心とする契約を神さまが結んでくださった出来事があります。この契約は、神さまがイスラエルの民の神さまとなってくださり、イスラエルは神さまの民とされるという契約でした(24章)。しかし、イスラエルはこの契約をいとも簡単に破ってしまいました。モーセが神さまのみ言葉を聞くために、山に登った時の事です。モーセは40日もの間、神さまからさらに詳しい約束の言葉を聞き、神さまは十戒をご自分の指で記した二枚の石の板をモーセに授けてくださいました。ところが、イスラエルの人々は、指導者であったモーセがなかなか帰って来ないので、死んでしまったと思い不安になってしまったのです。イスラエルの民の心は、揺らぎ始めました。今、災いが起こったらどうしたらよいのだろうと考えたかもしれません。そして、彼らは祭司アロンに自分たちを守ってくれるような偶像を作るようにせまり、金の子牛の偶像を拝むようになってしまったのです。十戒の第一の戒めは、「あなたには、わたしをおいて他に神があってはならない」です。そして第二の戒めは、「あなたはいかなる像も造ってはならない。それらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」です。これは、神さまの民とされたイスラエルが守るべき戒めでした。しかし、イスラエルは、十戒が与えられてすぐに、これらの掟を破ってしまいました。山を降りたモーセは、この様子を見て「激しく怒(いか)って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた」(19)と聖書にしるされています。それは、神さまと民との契約が破棄されたことを意味しました。

 

 モーセが砕いた板には、神さまが記してくださった十戒が書かれていました。十戒は、神さまの民とされたイスラエルが守るべき大切な掟です。それにも関わらず、モーセはなぜ怒って投げつけてしまったのでしょうか。

 それはモーセが、イスラエルの民の不安をよく理解していたからかもしれません。神さまの民となったイスラエル。しかし、イスラエルは簡単に戒めを破ってしまいます。そのことは、イスラエルが神さまの民として、神さまと親しく交わりを持っていなかった事をあらわしているかもしれません。イスラエルの民は、エジプトから約束の地へと長く続く旅の中で、神さまがどのような方であるのかを考えられなくなったのでした。なぜなら、イスラエルの民は、モーセの言葉を通してしか神さまの事を知る事が出来ないのです。きっと、旅の大変さと不安の中で、戒めの意味も良く分からないままに、しかし守ろうと努力していたのかもしれません。また、旅の苦労は、エジプトから解放してくださった神さまの恵みをも忘れさせてしまうものであったのでしょう。彼らは、イスラエルを守り導いてくださる神さまを実感できないで苦しんでいました。神さまの戒めを守っても、旅の苦労はなくならないではないか、生きて行く中での恐れや不安が無くならないではないかと思ったことでしょう。ひょっとすると、なぜ戒めを守らなければいけないのだろう。戒めを守っても何も変わらないではないかと考えたかもしれません。そして、とても簡単に戒めを破ってしまったのでした。そのようなイスラエルの心を、モーセはよく分かっていたのでしょう。また、モーセ自身も、イスラエルを導かれると言われた神さまのお考えが分からずに、苦しんでいたようにも思います。彼は、神さまにこのように言います。「お願いです。もしあなたがわたしに御好意を示してくださるのでしたら、どうか今、あなたの道をお示しください。そうすれば、わたしはどのようにして、あなたがわたしに御好意をしめしてくださるか知りうるでしょう。どうか、この国民があなたの民であることも目にお留めください」。モーセは自分に語りかけてくださる神さまと、神の民とされたイスラエルの間で、十戒が書かれた石板を砕くまでに思い悩んだのだと思います。

 

モーセは、神さまに必死になって祈りはじめます。聖書には、このイスラエルの状況を見た神さまは、激しくお怒りになり、人々を滅ぼしつくそうと言われたとあります。また、モーセは偶像を焼き、神さまに逆らった人々の罪を罰したとあります(32章)。イスラエルは、モーセから神さまの言葉を聞いて、ますます不安になったと思います。神さまの怒りの言葉を知らされて、恐れおののき、神さまの方を向けなくなってしまいました。神さまが怖い方であると思い、祈ることも出来なかったかもしれません。そのようなイスラエルの為に、モーセは祈り続けました。そして、その結果、神さまはアブラハムに「イスラエルの民を星の数のように増やす」と言われたあの約束を思い出してくださいました(33章)。この約束は、アブラハムに何かの理由があったのではなく、ただ神さまがアブラハムを選び、結んで下さった約束でした。そして、この約束がイスラエルの民にも続いているという事を神さまは、思い出してくださったのでした。不安の中で、神さまの方を向けなくなったイスラエルの民、自らの力で神さまの方を向き直す事が出来ない民のために、神さまは、再び自らの手を伸ばし握ってくださり、契約を結んでくださいました。神さまは、再び選びと恵みにより、イスラエルを自らの民としてくだったのです。その時の事が今日の聖書箇所には記されています。

 

神さまはモーセに「前と同じ石の板を二枚」用意させます(1)。神さまは、その二枚の石の板に前と同じ十戒をしるしてくださり、イスラエルとの間に再び契約が結んでくださいました。契約を交わすことは、互いに同意が必要です。また互いに守り行うべき義務を負います。その義務として、以前の十戒は、イスラエルに与えられました。そして、それを破った時には責任を負わなければなりませんでした。しかし、その責任はイスラエルが追い切れるような物ではありませんでした。神さまは、モーセの祈りを通して、イスラエルの弱さを理解して下さり、怒りや罰ではなく、祝福を与えるために、再び契約を結んでくださったのです。

 

再び契約を結んでくださる神さまはまず、「だれもあなたと一緒に登ってはならない。山のどこにも人があってはならず、山のふもとで羊や牛を放牧してはならない」と言われました。神さまの事が実感出来ず、そのため自分たちに分かる形の神を造り上げてしまったイスラエルに、神さまは、自らが真に存在する神であるという事をはっきりと知らせてくださったのでした。だれもあなたと一緒に登ってはならない。人も家畜も、山に立ち入ってはならないというみ言葉は、神さまが聖なる方であるということ、また、その聖なる方が山でイスラエルの指導者であるモーセと出会って下さっているという事を、イスラエルが経験するために与えられたみ言葉でした。イスラエルは、この行いをすることによって、真に聖なる方を信ずる信仰に導かれたのでした。イスラエルは、この行為の制限を通じて、神さまを意識することが出来ました。

 

次に神さまは、モーセに、ご自分の名前を宣言されました。神さまが自分の名前を知らせるという事は、神さまがどのような方であるかを人々に知らせるという意味があります。33章の19節にはこのようにあります。「主は言われた。『わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ』」。神さまは、あらゆる善い物に満ちたお方であると宣言されるのです。そのことが、具体的にどのような事なのかを神さまは更に教えてくださるのです。

 

6節の頭には、「主、主」と記されています。これは、神さまが私たちの主(しゅ)、主(あるじ)になってくださるという意味です。イスラエルにとって、モーセから伝えて聞く神さまは、遠い所におられて、自分たちの生活に直接影響を与えてくださるような方と理解する事は出来ませんでした。そのため、神さまの民とされても、彼らの長い旅の生活も変化はなかったように思います。彼らは、相変わらず不安や恐れに囲まれる毎日を送っていたのでした。そして、イスラエルは、自分たちの分かる神さまを作り上げてしまいました。そのようなイスラエルに、神さまは、自らがあなたたちの「主である」「主となる」と宣言してくださるのです。あなたたちには、主(あるじ)がいる。その主(あるじ)を見なさいと言われるのです。神さまは、イスラエルと私たちの主(あるじ)と言えるほどに、私たちの近くに居て下さいます。そして、イスラエルと私たちの必要を分かってくださり、養ってくださるのです。この神さまは、私たちが悲しいときには、共に涙を流してくださり、そして慰めとなってくださる神さまです。私たちに不安があれば、その不安を知り平安に導いてくださり、そして、絶望の中にある時は主が正義となり、希望を与えてくださると、神さまご自身が言ってくださるのです。神さまは、そのようにしてイスラエルと私たちの「主」になろうとしてくださるのです。

 

 そして、この「主」は「憐れみ深く恵みに富む神」であると教えてくれます。「憐れみ深い」とはどのようなことかと思います。「主よ憐れんでください」と叫んだ盲人の話を思い出しまする(ルカ18章)。彼は、多くの人が商売をする町で、物乞いをすることによって命を繋いでいました。その彼が、イエスさまに「憐れんでください」と叫んだのです。イエスさまは、彼を大切に思ってくださいました。そして、この人をイエスさまを見る事が出来る人としてくださいました。これと同じことを、神さまは私たちにしてくださるのです。神さまの事が分からず、神さまに従うのではなく、むしろ神さまを恐れ、遠ざかってしまう私たちを救ってくださいました。そのどこまでも伸びる長い手で、私たちを引き寄せてくださいました。そして、神さまとの確かな交わりが持てず、罪を犯し、死への闇の中に突き進んでしまう私たち人間のために、神さまは、その独り子であるイエスさまを、人としてこの世に送ってくださいました。この、誰よりも人となってくださった、神の子であるイエスさまが、不安や恐れの中で、頼るべき神さまから離れてしまい、さらなる闇の中に突き進んでしまう人間の心を、私たち自身が分からないほど深くまで知ってくださり、憐れんでくださいました。そして、闇の中で神さまを恐れるしかない私たちを知ってくださり、また、私たちが知る事も出来ないような罪まで全てを背負って十字架に架かってくださいました。そして、復活してくださったので私たちは今、神さまの御前に立ち、神さまとの交わりによって日々新しい命を生きる事が赦されています。そして、今その恵みの中で、神の国を目指す者とされています。今生きている、私たちの存在そのものが、神さまの憐れみと恵みの救いよって与えられているのです。

 

 また「憐れみ深い」という事は、「忍耐強い」という事にも繋がるような気がします。「忍耐」というと、子育てを思い起こします。子育てをしていると「どうして、子どもはこのような事をするのだろう」と不思議に思う事があります。しかし、そのことを罰したところで、子どもは何も理解できません。ただ、罰する親の事が怖くて言う事を聞くようになるような気がします。それよりも、「忍耐強く」子どもが何故そのような事をするのか、大人の方が子どもを理解し、子どもが分かるように導く時に、子どもは成長していくように思います。私たちとイスラエルを見て下さっている神さまも同じような気持ちを持ってくださったように思います。イスラエルは、モーセを通して聞く神さまが分からず、神さまを信頼する事がなかなか出来ませんでした。皆さんは、どのようにして教会に集められ、神さまに繋がる者とされたでしょうか。さまざまな経緯によってこの教会に来られたと思います。神さまは、私たちが神さまの御前に立つ事が出来るまで、どのように私たちを見ておられたのでしょうか。忍耐して、ご自分の怒りを下らせること我慢してくてくださっていたと思います。そして、なぜ私たちが神さまの御前に立つ事が出来ないのか、分かろうとしてくださったと思います。それは、ひょっとすると今の私たちの姿をみても同じなのかもしれません。私たちは、完全に神さまのご意思を理解しているとはとても言えません。また、いつかそのような日が来ると信じていますが、今はまだ、神さまと完全に顔と顔を合わせて話が出来ているわけでもありません。そのため、知らないうちに神さまから離れてしまいます。神さまに従おうと思っても、なかなかそう出来ません。しかし、神さまは私たちが成長し、さまざまな事を克服するのを待っていると言ってくださるのです。また、世の中に悪がはびこっていても、それに対する裁きを送らせて下さるとも言われるのです。

 

また忍耐強い私たちの「主」は、「慈しみとまことに満ちた」方であると教えてくれます。「慈しみ」と聞くと何か高貴な事のように思いますが、慈しみとは、親が子に対して愛情を持って可愛がることを言います。毎朝、私は娘よりも早く起きます。時間があるときは、寝ている娘をじっと見ている事があります。面白いというか、可愛いのです。娘はただ寝ているだけなのですが、その娘の顔を見ているだけで、幸せになるような気がします。ひょっとすると、これが「慈しみ」なのかもしれません。神さまは、そのような「慈しみ」を私たちに抱いて下さると、教えてくれます。「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(ヨハ111)というヨハネによる福音書の聖句を思います。これに続いて「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」ともあります。この世の全ては神さまによってできているにも関わらず、イスラエルの民と私たちはその神さまが、どのような方かをはっきりと知りません。自分自身の存在さえ、神さまによって与えられたものであるのに、神さまを知らないのです。そして、自分の考えでは理解しきれない偉大な方を、ただ怖がり、どこか遠くに置いておこうとしてしまうような気がします。しかし、神さまはこのような人間に対して、呆れたり、諦めたりなさいません。神さまは、神さまを認めないで離れてしまう人間たちの世に、モーセをそして、救いの源であるイエスさまを送ってくださいました。そして、私たちと繋がり続けてくださっています。偉大な力を持たれる神さまは、「慈しみ」に満ちた私たちが信頼できる方です。その神さまが、私たちに一人ひとりに手を差し伸べてくださり、まるで子どもが安心して母の膝に座るように、私たちが神さまの下に立ち返る事を待ってくださっています。

 

神さまは、いつまで私たちを待ち続けてくださるのでしょうか。そのような疑問を抱き、心配する私たちに、神さまは、神さまの恵みは「幾く千代にも及ぶ」と言ってくださいました。7節には、「行く千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、祖父の罪を子、孫に三代、四代までも問う者」とあります。神さまは、遠く離れようとする私たちの手を握り続け、私たちが犯してしまう罪を、永遠に赦してくださるのです。しかし人間の罪に対して、罰をお与えになり、その罪を子や孫の代までお問いになる厳しい方でもあると言われるのです。私たちは、この言葉を聞くと、「罰すべき者を罰せずにはおかず」という言葉にばかり気を取られてしまうかもしれません。しかも、子や孫にまで、親の罪の責任を取らせるなんて酷いではないかとも思ってしまいます。しかし、神さまは、金の子牛を造りそれを礼拝し罪を犯したイスラエルに再び契約を与えてくださった方です。その事を思い起こす時、この言葉は意味の深いものになります。

 神さまの事を良く知らないまま、神の民となったイスラエルは、簡単に掟を破りました。そして、その罪を子や孫にまでも問われざるを得ない者となったのでした。私たちはこの事をどのように理解したらよいのでしょうか。私たちは、自らの罪が子や孫にまで及ぶと言う言葉を、なかなか受け入れる事が出来ないような気がします。むしろ、神さまは恐ろしい方だという印象だけが、強く残ってしまうように思います。そして、神さまを良く分からない怖い方だと誤解してしまう事もあるように思います。

しかし、神さまはこの言葉さえも恵みとして与えてくださったように感じる事があります。神さまは、神さまのみ言葉を上手く理解できない私たちのような人間の事を、知ってくださったのでした。そして、もう一度契約を結び直してくださったのでした。神さまは、イスラエルの民とそして私たちと共に、もう一度歩もうとしてくださったのです。その神さまが、罪を問うのは三代、四代までだけれども、慈しみは幾千代にも及ぶと宣言してくださったのです。罪と裁きに震え上がるイスラエルに、神さまの恵みは、罪に対する怒りや罰よりも、遥かに大きいのだと教えてくださったのです。罪に対する罰は、私たちが罪から離れるように、言い換えると、私たちが神さまから離れることのないように、神さまが、一時的に罪からくる悲しみを私たちに教えるために与えられる物だと言えるかもしれません。神さまは、私たちが、罪からくる悲しみや不安を知り、悔い改めることを通して、さらに霊的に成長させてくださるのです。

 

 この神さまの御名の宣言に答えてモーセは、急いで地にひざまずき、ひれ伏して言いました。「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください」。このモーセの祈りは、時を超えてイエスさまによって実現されます。イエスさまは、私たちの中に生きて働いてくださる神さまとして来てくださいました。そして、神の子であるイエスさまが、私たちを誰よりも理解してくださり、罪と過ちから来る、私たちの不安と闇を取り除いてくださるのです。イエスさまは、今も私たちの中にあって進んでくださっています。そして、かたくなな私たちを導き、神さまと繋いでくださいます。私たちは、恐れる事なく、他の何物にも頼ることなく、イエスさまが教えてくださる「憐れみ深く慈しみに富む」神さまに礼拝を捧げ続けたいのです。そのとき、私たちは、恐れを取り除く魔術を求める者ではなく、神さまを信頼し讃美し続ける者に変えられていきます。一番怖いママのお膝でワクチンの注射を受ける娘ように、一番怖かった神さまが、誰よりも信頼できる方となってくださるのです。私たちはこの方を畏れ敬い、安心して、信頼して、この方の膝に座る事が赦されています。

 

「主は羊飼い、わたしには何も欠ける事がない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」と、感謝の賛歌を歌い続けたいのです。