喜び・祈り・感謝

2022/10/16 三位一体後第18主日礼拝

テサロニケの信徒への手紙512-22節 「喜び・祈り・感謝」牧師 上田文

 

 

 一マイルレースという陸上競技があるそうです。1923年、この競技でヌルミという選手が4分10秒3という記録を出しました。この記録は「人間の限界を超える」記録として、人々に驚きを与えました。この記録を聞いた、あるスポーツドクターはこのように言ったそうです。「これは人間が出せるギリギリのタイムであり、これ以上の記録は死に至る」。この言葉を世界中の人々が信じ、この言葉は常識となってしまい、「1マイル4分10秒3、これは人間の限界ギリギリのタイムであり、破ることは出来ない」という事が、スポーツ界の目に見えない壁となって行きました。そして、実際に31年間、ヌルミ選手の記録が破られる事がありませんでした。ところが、31年間破られなかった記録をロジャー・バニスターという選手が破りました。1マイル4分という記録を出したのです。世界中は驚きに包まれました。人間は、1マイル4分10秒3を超えることが出来ないという、陸上界の常識の壁が崩されたのです。更に驚くべきことは、このバニスター選手が記録を破った同じ年に、23人の選手たちが、さらにバニスター選手の記録を破ったのです。そして、その後この記録は更新され続けています。いったい、何が起こって、不可能とされた壁が崩され、記録が更新され続けたのでしょうか。ある陸上選手は、このように分析します。「人間には、人に出来ないものは、自分にも出来ないと考え、人が出来たことは、自分にもできると考える性質がある。つまり、不可能と思われていた目に見えない壁を一人の選手が破る事で「自分にもできる」という確信が他の選手にも広がった」。

これは、私たちの信仰生活においても同様に起こる事だと言えます。自分の凝り固まった、限られた世界の中で、「これは絶対に出来ない。無理だ」と思い込んでしまい、限界の壁を造ってしまい、それを定説のように考えてしまうことが、信仰生活にもあるように思います。

 今日の聖書に出てくるテサロニケの教会の人々は、厳しい迫害に会い、「これはもう無理だ。信仰を持って生きることなど出来ない」と感じ始めていました。しかしパウロは、テサロニケの教会に宛てた手紙の中で、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と書きます。なぜこのような事を書くのでしょうか。パウロは、テサロニケの状況を知らなかったのでしょうか。そうではありません。パウロは、この言葉によって、教会の人々が感じている限界の壁を乗り越えて欲しいと願ったのでした。今日は、パウロが教えてくれる、限界を乗り越える福音の力について、耳を傾けたいと思います。

 

 テサロニケの信徒への手紙を書いたパウロは、この手紙の始めでこのように言います。「わたしたちは、いつも祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同の事をいつも感謝しています」(1:2)。パウロは、テサロニケの教会の人々のことを覚えて神さまに感謝しているのです。またこのようにも書いています。「実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです」(2:20)。テサロニケの教会の人々こそ、自分の喜びだと言っています。パウロは、テサロニケの教会の事を覚えて絶えず祈り、その中で喜びと感謝に満たされているのです。

 この喜びと感謝は、パウロの伝道によって建てられたテサロニケ教会が、順調に上手く成長している、問題なくやっているということから来る喜びと感謝なのでしょうか。聖書を読むと、そうではなかった事が分かります。そもそも、なぜパウロはテサロニケに手紙を書かなければならなかったのでしょうか。彼が、テサロニケに再び行くことができないからです。パウロによって、テサロニケで福音の種が撒かれ、芽を出し、信仰者が生まれ教会が誕生しました。しかし、彼の伝道活動は、妨害や迫害によってさまたげられ続けました。そして、遂に彼がテサロニケを去らなければならないまでの騒動が起きたのでした。この騒動の中心にいたのはパウロだけではありません。み言葉を信じ、洗礼を受けた教会の人々もまた、迫害の対象となっていました。手紙の中には、イエスさまの再臨と、その時まで「眠りについた」人々の救いの事が、細かく記されています。「眠りについた人」とは、この迫害により死んでいった教会の仲間のことでしょう。この死んでいった仲間も、そしてあなたたちも同じように神さまの救いに与っている。そのことを、手紙に書き記さなければならないくらいに、教会の中に動揺が広がっていました。イエスさまに救われて、永遠の命に続く信仰の道を歩み出したけれども、その信仰を持っている者もやはり死んでしまう、果たしてこの信仰は本当に救いを与えるものだろうかと、人々は考え始めました。テサロニケの教会の人々は、信仰の歩みを進めることに限界を感じていました。そのような現実の中で、パウロは、この教会の事を常に祈り覚え、喜びと感謝に包まれているのです。そして、教会の人々に、自分のこの喜びと祈りと感謝に加わりなさりと語りかけるのです。

 

 信仰の歩みに限界を感じるということは、私たちの信仰生活にもあり得ることです。例えば、コロナの感染拡大の中にあって、人が密集することを避ける、人が密集する所では大きな声を出さないという感染防止の対策が出されました。このことにより、礼拝を捧げることが出来ない教会がありました。また、人が集まる礼拝に感染の恐ろしさを感じた人もいました。三密を避けるという事が、何よりも実行されなけばならない規則となってしまい、福音による生活を送ることに限界の壁が出来てしまいました。人間が作り出した規則によって、生活そのものが左右される出来事は他にもあります。家族であっても、宗教の話はご法度という習慣が日本人の中にはあるように思います。そのためでしょうか、世界と比べると、日本人は宗教に対する認識が本当に薄いと言われています。最近、世間を騒がせている悪徳な宗教に日本人が簡単に引っかかってしまうのもそのためだと言われています。相手に深入りしない。何か疑問を持っても、そのこと聞いてはいけない。そのような、ルールに引きずられて、大切な物を遠ざけてしまう。遠ざけてしまった結果、何が大切なのかが分からなくなり、別の悪いものに引っかかってしまう。宗教を持たない事を美徳とした社会にも限界の壁が出来始め、困難な状況になり始めました。

 

このような困難な状況にある時、教会どのような状態になるでしょうか。12節の文章からそのことを読み取ることが出来ます。「主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、また、そのように働いてくれているのですから、愛を持って心から尊敬しなさい」。この事を命じているということは、教会がそのような状態ではなかったということです。主に結ばれた者として導く人とは、牧師だけではありません。教会の役員や、普段は見る事の出来ない所で、細やかな奉仕をしている人もこの中に含まれます。この一人ひとりの奉仕の働きが、私たちを主に導く働きであり、福音に導く働きです。ところが、奉仕の働きが、福音として響いてこない。教会に集まる一人ひとりから、イエスさまの愛を見出す事が出来ない。教会の中にあるイエスさまの香りを味わう事が出来きない状態が、テサロニケの教会にありました。それは、教会に集まる信徒たちが迫害に脅える中で、イエスさまを見つめるよりも、迫害者たちを見つめるようになったからかもしれません。イエスさまを見る事が出来なくなった教会は、平和と救いの福音から遠ざかるしかありませんでした。

 

 しかしパウロは、福音から遠ざかってしまうテサロニケ教会の人々と私たちにこのように語りかけます。「私はあなたがたのことを覚えて、いつも喜んでいる。絶えず祈っている。そしてどんなことにも、どのような困難な現実があっても感謝している。あなたがたもその私と共にいつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しなさい」。つまり、困難の中で、人に出来ないものは、自分にも出来ないと考えるのではなく、人に出来ることは自分にもできることを知りなさい。私パウロが、困難の中でも喜びを感じて生きているということは、あなた方もそのように出来るのだと教えてくれるのです。パウロはこのようにして、私たちを再び福音の中に入れてくれるのです。

 

 このことを知るとき、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」というパウロの言葉は、教会に与えられている言葉であるという事が分かります。もし「いつも喜んでいなさい」という言葉を、救いの恵みを土台として聞かないならば、私たちは無理難題を押し付けられていると感じるでしょう。私たちは、嬉しい事や、楽しい事があるから喜びます。しかし、嫌な事や苦しい事があったら喜ぶことは出来ません。だから、パウロはあえてこのように書くのです。「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(18)。私たちの力では、いつも喜んでいられないけれども、キリスト・イエスにあるならば出来るというのです。確かに、自分の力で喜ぼうとしても出来ません。私たちの力には限界があるからです。むしろ、人生には喜びを奪われてしまうほうが多いかもしれません。そのことは、テサロニケで起こった出来事を見ると良く分かります。しかし、そうした中にあっても、キリスト・イエスにおいて喜ぶことができるのです。キリスト・イエスにおいて、迫害者や自分自身の思いから解き放たれ、喜び続けることができる。パウロはこのようにして、私たちを喜びに導いてくれます。

 では、「キリスト・イエスにおいて」とはどのようなことなのでしょうか。イエスさまが私たちのために十字架に架かってくださったその恵みにおいてということです。このことについて、パウロはヘブライ人への手紙においてこのように記します。「イエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように」(12:2)。罪人である私たちの背きを、イエスさまは十字架で耐え忍んでくださいました。私たちの事を、それでも愛し続けてくださったからです。私たちは、自分の思い込みによって、罪にまみれ、そのため、気力を失い疲れ果ててしまう人間です。しかし、イエスさまは、私たちのことを思ってくださり、私たちが、疲れ果ててしまわないように、十字架に架かって死んで、復活してくださいました。そのことにより、私たちは、罪が赦され、新しい命の中をいきいきと生きることが出来ます。私たちにとってもっとも素晴らしい事、それは、このイエスさまが私たちと共におられることです。それこそ喜びです。この事に比べれば、他のさまざまなことは、どうでもよいことになってしまいます。このとき、「いつも喜んでいなさい」というパウロの言葉は、私たちが作ってしまった、信仰生活の限界という壁を崩し、再び、イエスさまと共に生きる生活に招き入れてくれる言葉となります。

 

 パウロが教えてくれるもう一つの事。それは「絶えず祈りなさい」ということです。しかし、24時間ただひたすら祈り続けるなど、とても出来ないと感じてしまいます。私たちは、勉強も、仕事も、家事もしなければなりません。しかし、「絶えず祈りなさい」というのは、お寺や神社で手を合わせるように、ずっと手を合わせていなさいというようなものではありません。パウロは、祈りによって、神さまが、そこにいてくださることを意識できると教えてくれるのです。祈りは、神さまとコミュニケーションをすることだと言う人がいます。とてもよい例えだと思います。生活するさまざまな場面で、私たちは祈る事ができます。大変な騒ぎを見た時、知り合いに出会った時、嬉しい時、困った時、私たちはいつでも共にいてくださる神さまに「神よ」と話しかける事が許されています。そのため、迫害の中にあるテサロニケ教会の人々に、パウロは「ほかの人のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう」(5)と呼び掛けるのです。目を覚ますとは、神さまのご臨在を意識する事です。逆に眠っているというのは、神さまのご臨在を意識しないという事になります。私たちは、祈らないでいると、眠ってしまいます。共にいてくださる神さまを忘れ、自分の力に頼るようになります。しかし、私たちの力には限界があります。自分の力では、何もすることが出来ないのです。自分の力によってでは、罪に気づく事さえできないのです。だから、パウロは祈りへと私たちを導いてくれるのです。それは、共にいてくださる神さまの恵みの中を生きなさい。この神さまと、いつも交わりを持ち続けなさい。神さまと親しくありなさいということです。

 

 三つ目のパウロの教えは「どんなことにも感謝しなさい」ということです。私たちは、「感謝」というものは、神さまが何か良いものをくださった時にするものだ。また、感謝の思いを伝えたくなったときにすることだと考えているように思います。だから、パウロは「どんなことにも」と言ったのです。それは、すべてのこと、つまり、苦しみに直面している時でも、失敗したときでも、悲しい時でも「どんなことにも感謝しなさい」という事です。このことも、やはり私たちは自分の力では出来ません。「キリスト・イエスにおいて」可能となるのです。神さまが、私たちのためにイエスさまを送ってくださり、そのイエスさまの十字架の死と復活により、私たちは罪が赦され、永遠の命が与えられました。これに代わる物などありません。そして、神さまは、すでに私たちの全てを満たしてくださっています。現に、私たちは神さまに命を与えられてこの世に生まれてきました。そして、水や食物、仲間を与えられて、今も生きています。私たちは、すでに与えられている祝福を数えるように感謝するればよいのです。私たちは、神さまに感謝をするとき、自分が神さまによって満たされ、祝福の中を生きていることを意識することが出来ます。

 

けれども、それだけでは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」という言葉は、やはり私たちの個人的な信仰生活のために与えられた言葉となり、教会に与えられた言葉として理解することが難しくなってしまいます。しかしパウロは、福音から遠ざかってしまった教会そのものを回復に導いてくれます。

19節には「“霊”の火を消してはなりません」とあります。“霊”とは、教会で働かれるイエスさまの霊です。つまり、霊の火を消すというのは、教会で働かれるイエスさまの“霊”である聖霊を否定するということになります。

 私たちは皆、この聖霊を知っていると思います。この聖霊によって、私たちは今、教会に集められました。そして、洗礼に導かれます。そのことを、経験されている人が沢山いらっしゃると思います。私たちは、聖霊の働きによってイエスさまが「主である」という告白に導かれました。同じように、私たちは今も教会でさまざまな聖霊による促(うなが)しを受けています。礼拝でみ言葉を聞くとき、また奉仕をしているとき、奉仕をしている兄弟姉妹を見る時、私たちはさまざまな形で聖霊に出会い、促しを受けます。そのような、聖霊との出会いに目を背けることは、“霊”の火を消してしまうことになります。パウロは、“霊”の火を燃やし続けることで、教会で働かれるイエスさまに出会う事が出来る。イエスさまに繋がり続けることが出来ると教えてくれるのです。

 

さらにパウロは霊の働きについて、コリントの信徒への手紙でこのように説明します。「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に“霊”の働きが与えられるのは、全体の益となるためです」(Ⅰコリ12:4-7)。聖霊の賜物には、いろいろな種類があるとあります。それは、人々に分かりやすく説明する力であったり、また慰める力である場合もあります。計算したり、お掃除をしたりする力かもしれません。また、教会のため、教会員お一人お一人のために祈る力かもしれません。そうした、賜物はすべて、「全体の益」のために与えられています。そのような、一人一人に与えられた賜物によって、キリストの体である教会が立てられ、福音が前進していくのです。そして、私たちはさらに、喜びと祈りと感謝に導かれるのです。

パウロは、こうした賜物のなかでも、特に「預言を軽んじてはいけません」と語ります。

「預言」とは、イエスさまに与えられている使命とビジョンです。私たちは、聖霊の促しを受けて、神さまからさまざまな幻とビジョンを頂きます。パウロはこのビジョンを軽んじてはいけないと私たちに強く教えます。なぜなら、預言は必ず教会を養い育てるからです。そして、そのことによって教会は長い歴史の中に立ち続けるのです。今、伊東教会はさまざまな預言を与えられています。その中で、教会が育てられていく恵みを実感している方が多いのではないでしょうか。キリスト・イエスによって、喜び、祈り、感謝することは、私たちの信仰生活の限界の壁を崩すどころか、信仰の新しいビジョンまでも与えられるのです。

 

 けれども、パウロはまたこのようにも注意もします。「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい」(21-22)。預言だからといって、新しく与えられたビジョンだからといって、それをやみくもに信じてはいけない。与えられた預言が、本当に神さまから発せられたものかどうか、吟味しなさいというのです。そして、それが神さまによる預言であるのならば、私たちの時が良くても悪くても従いなさいと教えます。では、私たちは教会で語られる預言をどのようにして吟味したらよいのでしょうか。それは、聖書を読み、調べることです(使徒17:11)。あなた方は、聖書のみ言葉によって立つときに、自分の限界を超えることがる。動揺したり、もてあそばれたりしない。良いものは、すべて聖書に書かれている。パウロは、このように私たちを導いてくれます。

 

 説教の冒頭で、福音は私たちの限界を超えさせる力があると話をしました。私たちには、なぜ限界があるのか。そのことを、ある陸上選手は、人間は、「無理だ、出来ない」という自分の凝り固まった考えから抜け出す事が難しいからだと説明しました。限界を超えるという事、それは鵜呑みにすることを止(や)めるという事かもしれません。私たちの目の前で起こることを鵜呑みにしないで、聖書を読みイエスさまのみ言葉に従うとき、私たちは限界を超える力を与えられます。テサロニケの信徒たちは、パウロによって語られる言葉を、聖書によって確かめ、聖霊による喜びをもって、受け入れていったとあります。このテサロニケの教会の人々の信仰は、多くの所に響き渡り、伝道の力となって行きました。この聖霊の力が、伊東教会にもまた与えられています。

私たちもまた、イエスさまによって与えられる、喜び、祈り、感謝の中を生きることによって、ビジョンを見続けたいと思います。そこには、私たちの考えを遥かに超えた、救いと恵みの福音があります。

 

 わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭(さと)してくださいます。わたしは絶えず主に相対(あいたい)しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩(いこ)います。あなたはわたしの魂を陰府(よみ)に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます。わたしは御顔(みかお)を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手(みて)から永遠の喜びをいただきます(詩編16:7-11)。

 

救い主であるキリストに従い続けた、ダビデの讃美です。主の恵みを信頼し、歴史の中に立てられた、教会の歩みを力強く進めたいと願います。