キリスト者と呼ばれる理由

2022/11/06 三位一体後第21主日聖餐礼拝 

使徒言行録説教第36回 キリスト者と呼ばれる理由 牧師 上田彰

 *私たちはどこから来たのか。私たちは何者なのか。私たちはどこへ行くのか

 フランス人の画家であったゴーギャンは、比較的若くして亡くなりますが、その晩年に大きな作品をキャンバスに残しました。「私たちはどこから来たのか。私たちは何者なのか。私たちはどこへ行くのか」というタイトルです。作品の題材は、ポリネシアに浮かぶ島であるタヒチにおいて見かけた、現地の人々の生活です。私自身、この作品について十分語るほどこの画家の生涯や作品について知り尽くしているわけではありません。しかしこの作品の題は私の心を若い頃からとらえ続けています。私たちはどこから来たのか。私たちは何者なのか。私たちはどこへ行くのか。これはある解説によると、彼が幼い頃に学んだカトリックの神学校における学びの際に扱う、教理問答の問いなのだそうです。プロテスタント教会の有名な問答に、ジュネーブ信仰問答というものがあり、その問答は「人生の目的は何か」と問い、「その目的は、神を知ることです」と答えることで始まっています。同じようにカトリックは、少年少女に問うのです。私たちはどこから来て、どこへ行くのか、何者であるのか、と。

 ゴーギャンは結局この教え、あるいは教え方に反発して、キリスト教から離れたとされています。一つの見方としては、教会からは離れたけれども、この問いは結局一生ゴーギャンの心に残っていて、その答えの一端をタヒチで見出した、というものが成り立ちます。絵を通して彼が表現した答えは、教会に対する皮肉でしょうか、それとも彼なりに納得した答えとなっていたのでしょうか。この絵は明らかに、フランスの文明的で文化的な生活よりも、タヒチの原始時代を思わせる生活の方が人間の人間らしさをよく言い表している。タヒチの生活を見れば人間の本質が分かる、ということを主張しています。問題はその意味で、もしこの絵をカトリックの教えに対する皮肉であると取るならば、教会では人間は神様によって立派なものにされると教えているが、これが立派な人間の本当の姿だ、ずいぶん教会の教えと違うのではないか、と考えていることになり、もしも彼なりに信仰的にも納得できる絵だととらえているとしたら、また変わってきます。私は若い頃は教会で教えるのは立派な服を着て立派な仕事をする人になりなさいということだと勘違いしていたが、よく考えたら神様にとらえられて神様に救われる人であることを自覚しなさいというのは、決して世間的に立派な人になりなさいという意味ではなかった、そのことに今頃になって気がつくことが出来た、そんな彼なりの答えをこの絵で示していることになります。そのどちらであるかは分かりません。有名なエピソードですが、この絵が完成した後ゴーギャンは自殺を試みます。結局未遂に終わるのですが、それはこの絵を描いたことと関係している可能性があります。

 色々思いは膨らみますが、今日の聖書箇所を読みながらその問いを思い出したことには理由があります。それは、エルサレムから始まった使徒言行録の教会は、ある時期を境にして大きく姿が変わります。ご存じ、異邦人伝道がきっかけです。問題は、この異邦人伝道は、教会にとって必然的な成長なのか、それとも偶然的な成長なのか、という問いです。これは同時に、教会は成長するのだろうか、という問いを含みますし、そもそも人間にとっての成長とは何かという問いも含みます。

 例えば昨日娘が、特別伝道礼拝のポスターを眺めていて、その下の方に熊の人形がマスクをしている写真が加わったことに満足げでした。それで食後の洗い物をしながら、背後にいる娘に呼びかけて、「愛結実がリクエストしたんだよな」と言ったら、「リクエストじゃないよ、アイディアを言ったんだよ」と答えました。時々今自分が話している相手が小学校一年生であることを忘れさせる瞬間がありますが、そういうときに思うことがあります。それは、こういう現象は、教育や子育ての成果とは言えない、思った通りの子育てをしてこのようになるわけではない、子どもの、いや人間の成長というのは、誰かが枠を設定してその型にはまるようにする教育とは全く別の、成長する力のようなものがあるのだと実感するのです。この子はどう成長するのだろうという問いは、人間はどこへ行くのかという問いへとつながっていくのです。人間の成長に関する問いは、信仰的な畏敬の念を私たちに与えます。

 

 *教会の成長は必然か、偶然か

 使徒言行録の教会に当てはめるとこうなります。彼らは主が天に上られて聖霊が代わりに共にいて下さるようになってから最初の10年間、ユダヤ人にしか伝道をしてきませんでした。教会という呼び方も最初は定着しておらず、ユダヤ教ナザレ派とかイエス派と呼ばれる、ユダヤ教の一派として活動をしていました。そのうちに自分たちの間では「この道の者」という呼び方がされるようになりましたが、おそらくは自分たちだけの呼び方で、他の人たちからはナザレ派という言い方が一般的であったようです。

 そのうちにサマリア地方をフィリポが伝道します。また執事であったステファノの説教は、外国帰りのユダヤ人たちの間に波紋を引き起こし、事もあろうに彼らが訴えて、ステファノは「ユダヤ教を冒涜している」という容疑をユダヤ人の最高議会に告発し、捕まって石投げの刑で殺されてしまうのです。「この道の者」たちはユダヤ教徒として、しかも良いユダヤ教徒として振る舞っていたのに、神殿に立ち入ることも出来なくなりました。ステファノ殺害は大きなキリスト教迫害の合図となります。この場合の迫害というのはユダヤ教の内部の迫害なので、エルサレムやユダヤ地方から離れれば、基本的には安全です。サウロのような人物が「この道の者」を捕まえようと縄を持ってうろついていることもありますが、今日の箇所を見ますと、できるだけエルサレムから離れて、しかも大きな都市に逃げていることが分かります。この後60年代になりますとローマ帝国によるキリスト教迫害が始まりますが、まだこの時点ではユダヤ教、例えばファリサイ派の追っ手から逃げれば良かったようです。それで、周りに人が多ければ安全だということなのか、人の多い町に住むようになったことが分かります。恐らくそういった大きな町では、田舎と違って地方ごとに信仰が決まっているということもなく、お互いにお互いの信仰を尊重し合うような風土があったに違いありません。

 この道の者と呼ばれる教会のメンバーたちは、逃げているはずの町においても、ユダヤ人でナザレ派ではない人を見かけると、伝道をしていたようです。ところが、フェニキアとかキプロスといった、他の町では起こらなかった現象が、アンティオキアでだけ起こったのです。それが異邦人伝道でした。問題は、そのような移り変わりが起こったのはなぜか、ということです。先週の所まで何回か、コルネリオが洗礼を受けるに至るいきさつについて呼んで参りました。コルネリオとペトロ、つまり伝道される者と伝道する者の両方が神様から幻を与えられて、それで出会いが起こったという物語です。今日の出来事には、そのような、いわゆる不思議な出来事があったというような書き方はされていません。10章で強調されたような不思議な出来事であると言い立てなくても、目立たない形で伝道は不思議な形で続けられていました。これは推測になりますが、キプロス島やキレネ出身の信仰者がアンティオキアにおいて、偶然的な仕方で異邦人伝道を試みることになって、結果的に大きな動きになっていった、つまり最初はあくまで偶然であった、という推測です。一番最初にキプロス・キレネ出身のユダヤ人キリスト者がアンティオキアで「試しに」あるいは「思いつきで」異邦人伝道を始めた。するとうまく行った。もともとキリストの救いはすべての人のために死なれたということにあるのですから、律法を与えられたユダヤ人にだけ向けられたものではありません。すべての人に伝道することが出来る素質がキリストの福音にはあったのです。思いつきで始めたことによって、素質に気がついた。十年かかってやっと気づいた。その場合、異邦人伝道を始めるという、教会の成長は、あくまで偶然であったということになるのでしょうか。そうとも言えません。偶然的に始まったことが必然的と言えるほどに大きな流れになっていった、そう考えることも出来そうです。はっきりしていることは、主イエス・キリストについて語る福音は、元々ユダヤ教という器に留まっているようなものではなく、世界を器とするようなスケールの大きな世界の民を救う内容を持っていた、そして時と場所ははっきりしていないものの、いずれ広がる運命にあった、ということです。その意味では、この成長は必然的である、ということです。今までの、ユダヤ教の枠に留まっていたキリストの福音が、この大都市アンティオキアにおいて、広がりを持った教えに変わりつつあります。異邦人伝道は無視できない規模で繰り広げられるようになったのです。

 さて、その噂はエルサレムにも入るようになりました。そこでエルサレムから人を遣わすことになりました。選ばれたのがバルナバです。バルナバ。今までに二回登場しています。一回目はアナニアとサッフィラが献金額をごまかして神様に打たれて亡くなったとされる直前、献金額をごまかさなかったのがこのバルナバです。もう一回が、後にパウロになるサウロをエルサレム教会に紹介する際に、身元保証人になったのがバルナバだということです。因みにバルナバが身元を保証したにもかかわらず、最初はサウロがエルサレム教会で受け入れられることはありませんでした。そこでサウロは出身地であるタルソスに滞在していたのです。しかしバルナバはまずアンティオキアで新しい教会を査察し、また人々が教会に加わることを推奨しました。そこまではエルサレム教会の要請通りです。ところがその後バルナバは、更に足を伸ばしてタルソスに行き、そこでパウロを説得するのです。何の説得かといえば、アンティオキアで伝道を一緒にしようという説得です。話の流れからして、エルサレム教会全体の総意として、バルナバのタルソス行は独断です。思いつきというか、個人的なアイディアと言っても良い。バルナバは、これからの伝道のためにはサウロが必要だ、そう個人的に理解してタルソスに行ったのではないでしょうか。

 結論としては、このバルナバの個人的な行動は、彼の思いつきに終わることなく、教会の歴史を大きく成長させるきっかけとなるものでした。歴史に「もしも」はありません。もしもバルナバがタルソスまでサウロ、いえパウロを探しに行かなかったら、サウロは教会に合流しないで終わったのでしょうか。それとも、何か別のきっかけによって彼は結局キリストの使徒となる運命だったのでしょうか。はっきりしたことは言えません。しかし、キリスト教にとって異邦人伝道が神様の御心であって、アンティオキアでそれが始まらなければどこか別のところで必ず起こっていたのではないか、福音の力は眠ったままでは終わらないと思います。同じように、パウロの能力を神様は必ず何らかの形で教会と結びつけたのではないか、それが神様の御心なのではないのか、そんなことを思わされます。

 

 *私たちの教会はどこから来たのか。何者なのか。どこへ行くのか

 今日の箇所は、異邦人伝道が教会レベルで始まった記念すべき箇所であると同時に、もう一つの意味で記憶され、記録されるべき箇所です。それは、この教会に集う人々のことを、周りの者たちが「キリストの者たち」あるいはもっと短く言って「キリスト者たち(クリスチィアノス)」と呼ぶようになったのです。その言葉の響きは、「良い者たち」または「バカ正直な人たち(クレースティアノス)」という言葉を思い起こさせるものでした。恐らくその呼び名は、教会の指導者でもあったバルナバとサウロの様子から来ているのだと思います。バルナバについて聖書は短く、こう証言しています。「立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていた」。使徒言行録の著者ルカはこう考えていたことになります。人間とは何者か。どこから来てどこへ行くのか。その答えは教会にある。教会に集う立派な人物とはどのようなものでしょうか。お金を稼ぎ、社会的に尊敬され、知恵ある賢い振る舞いができる人でしょうか。むしろ、正直の上にバカがつくほどの人が、聖霊と信仰に満ちた人だと言われているのではないでしょうか。バルナバがエルサレム教会に加わったとき、後に原始共産制とも呼ばれる、持ち物を共有するような生活を教会は実践していました。バルナバはその時に、全財産を寄進して教会が営む寮のような所に住むようになった人物です。共有するような生き方を彼はエルサレムにおいても、アンティオキアにおいても実践していました。それが「立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていた」と言われる当時の理想的なキリスト者の姿であったのです。

 ユダヤ教ナザレ派と呼ばれていた人たちは、この時にユダヤ教を離れ、キリスト教になりました。もう彼らの帰るところはエルサレム神殿ではなくなりました。彼らの帰るところは教会です。彼らはそれを「キリストの体」とも呼びます。今日はそのキリストの体を味わうために聖餐の食卓も用意されています。このあとキリスト教は、ユダヤ教から迫害されるだけでなくローマ帝国から迫害を受けるようになります。その意味は、ユダヤ人相手に伝道をする宗教から、世界全体を相手に伝道をする宗教への成長です。私たちはどこから来てどこへ行くのか。神様の恵みによって成長させて頂く。畏れをもってこの事実を受け止めたいと願います。