出来事の前進

2022/10/23 三位一体後第十九主日礼拝 

使徒言行録第34回説教(1034節以下) 上田彰

 *ダーバール=出来事、言葉

 神学校に入った時に、一冊の雑誌を手に取りました。学生が作る、同人誌のような体裁の雑誌で、年に一度発行されていたもののようです。そのタイトルは、ヘブライ語となっていました。今日はこの言葉だけでも覚えて帰っていただいて、損はないと思います。「ダーバール」といいまして、その意味は「言葉」という意味と「出来事」という意味があります。言ってみれば、どちらも「こと」に関わっています。創世記の冒頭には、こういう言葉があります。

神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。(1:3

少し訳し直してみます。

神は、ダーバールした。「光あれ」、と。

「こと葉」によって「出来ごと」が起こる。つまり、旧約聖書の人々は、一つの単語である「ダーバール」あるいは「ダーバールする」という言葉によって、言葉が出来事を起こした、ということを言い表したのです。ヘブライ語は語彙の少ない言葉です。現代で言えば、中国人は1万近くの漢字を使いますし、英語などの辞書で、1万語しか見出しの言葉が掲載されていない辞書というのは、すこし使うのに不安になります。ところが旧約聖書のヘブライ語は1500から2000語で書かれているというのです。したがって、意味の重なっていること場が多くあります。その代表的なものが、「出来事」と「言葉」が一つになっている、というものなのです。要するにユダヤ人にとって、「出来事」も「言葉」も分ける必要が無かった。「出来事」が起きて「言葉」でそれを言い表す、そんな風に言い直す必要を感じなかったから、一つの言葉なのです。彼らはこう考えていることでしょう。神様の創造のわざを見ればいい。光があるといいなあといって、それから光をお造りになったのではない。光があるといいと口にし、すぐに光が出来た。言葉と出来事を使い分ける必要が無いのは、神様の創造のわざを考えれば明らかではないか、と。

 こういったことは、聖書の中だけの出来事でしょうか。神様の言葉には力があるのは当たり前であって、私たち普通の人間の出来事は区別されるべきだと考えて良いのでしょうか。確かに、普通の人間である私たちは、せいぜい日記のようなものしかつけない、という考え方も成り立つかも知れません。つまり今日は晴れだった、と記録することだけが人間に出来ることだ、もし例えば日記に明日は雨と書いても、それが理由で雨が降るはずがない。だから神様の言葉とやらには力があるのかも知れないが、人間の言葉には力があるわけではない。そういう考え方をする人がいても、不思議はありません。

 一方で、聖書の世界以外にも、言葉が力を持つという発想がないわけではありません。最も有名なものが「言霊信仰」と言います。「口にすると不吉なことが起こる」または「口にすると幸いなことが起こる」というようなものです。呪いの言葉、祝福の言葉というものがあります。

 言霊信仰の立場からもう一度聖書を読み返すなら、確かに聖書の中の考え方がそれに似ている、ということは言えるかもしれません。聖書の中で、「祝福を祈るように」というような教えは時々説かれていますし、祝福や呪いを預言者や神の使いが口にすることでそれが実現する、というようなことも起こっています。

 

 *ダーバールの実践

 私たちはよく、判断に詰まることがあります。何か困難に直面している人が身近にいる。その困難から、解放されることを心から願っている。しかし、どのように解放されればよいのだろうか。病気であれば治るのが一番です。しかし治りますようにと祝福を願う言葉をかけたとして、それで治らなかったらどうなるのだろうか。祝福の言葉に力が無かったことになってしまうのではないか。そこであえてこう言葉をかけます。祈っていますよ、と。祈っているのはその通りです。どのような形でこの方が今後この課題と関わることになるのか。それはある意味で神様にしか分かりません。神様にだけ分かっている答えに対して、何か人間がこういう答えもあるとかこういう答えもあるということを口にするのは、それこそ言霊信仰のようなものの領域に入り込むことになるので、うかつなことは言わない方がいいのではないか。「治りますように」というのは少し不遜なのではないか。むしろ祈っていますとだけ伝える方が信仰的なのではないか。治りますようにと言ったら治るというのであれば医者はいらないことになる。だからあえて祈っていますとだけ言っておくのが無難なのではないか。そういう考え方もあるのです。

 しかしどこかでその伝え方が不十分であることも分かっている所もあるのです。きちんと思いを伝えた方がいいのではないか。しかしどう伝えたらいいのだろうか。

 そのような迷いというか、答えの出ない答えというのは、信仰者であれば、牧師でなくても持つものだと思います。いえ、牧師であっても迷うものなのでしょう。だから、牧師の卵である神学生達が、一生懸命自分たちのための同人誌を考えて、自分たちの将来の課題は、あるいはこれまでに課題としてきたことは、結局の所ダーバールという一言に尽きるのではないか。これは言葉を指しているのか、出来事をさしているのか、その両方ではないか。これは神様が直接に関わっているダーバールなのか、人間に託されたダーバールなのか、それらは区別できないのではないか。神様がなさったダーバールに私たちもまた巻き込まれているのではないか。牧師の卵たちの身の回りで起こっている、いえ世界全体で起こりつつある事柄を、たった一語に託している。ダーバールが起こりますようにと祈る。

 

 *「証し」について

 今日の聖書箇所に、ダーバールという言葉は出てきません。そもそもダーバールとはヘブライ語であり、聖書が記されているギリシャ語では、同じように言葉と出来事を一言で言い表すことが出来ないのです。しかし、今日の箇所に出てくる「証し」という言葉には、そのような意味合いが込められています。言葉が出来事となるという、言霊信仰にも重なってくるような事情を示し、また私たち信仰者はどのような言葉遣いをしていけばいいのかということを示す、「証し」という言葉が今日の箇所でどう用いられているか、見てみたいと思います。

 まずは39節から41節にかけて、「証人」という形で二回出てきます。「わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです」と出てきます。

 この箇所についてまず考えてみたいのですが、この箇所で出てくる「証し」という言葉が鍵になります。実はこの言葉にもいくつかの意味が込められていて、一番直接的な意味は「証明する」「証言する」ということで、そこから発展して、「伝道する」という意味になったり、さらには「殉教する」という意味になったりします。ここでは、イエス様がなさったことを証言するのが私たちだ、という意味で使われています。イエス様がなさったことを私たちが証言するときに、私たちはイエス様と共にいる。イエス様のわざを共に行っている、というのと同じくらい強い意味で、「証言」という言葉が使われています。イエス様のわざと私たちの言葉が重なる、という意味で旧約聖書のヘブライ語のダーバールと似ているとも言えるのです。

 もちろん、違いもあります。世界全体を創造するというダーバールのに比べると、「証し」というのは、イエス様が宣教を始められ、十字架にかかって復活をなさったということに限られた証しです。世界が造られたということは、信仰を持って受け止めるかどうかは別にして、造られた世界の中に住んでいることによって、誰もが経験していることです。それに対してイエス様の出来事は形の上ではもっとローカルに、限られた場所と時間の中で起こっていますから、一番最初にそれを経験する人々は限られています。ダーバールは広く世界中の出来事に当てはまりますが、証しについてはイエス様の出来事に限られる、という訳です。

 

 *証しをする人は限られているのか

 同時に、その証しを行う人が限られている、ということがいわれているのも興味深い所です。先ほどお読みした箇所の中でも、限られているということはかなり強調されていて、違和感さえ覚えます。なぜ違和感が起こるかといえば、今日の箇所は、全体としては、ユダヤ人ばかりにではなく異邦人にも福音が伝えられる、という話をするところです。したがって、ユダヤ人ばかりにではなく異邦人にもイエス様の出来事は関わっている、ということをいっている箇所なのです。ですから、「みんなが証し人なのだ」と言っても良さそうな所なのですが、「弟子である私たちだけが証し人なのだ」とわざわざペトロは言っているのです。証人となり得る人は限られている、それは復活なさったイエス様に直接出会った12弟子に限られる。なぜわざわざそう言いきっているのでしょうか。なぜ12弟子がまず証しが出来たのだ、私たちは復活なさったイエス様に直接出会っているからだ、イエス様がどのような息づかいをして、どのように人々を見つめ、弟子たちに話しかけたのか、どうやって復活した日曜日の朝、ガリラヤ湖のほとりで焼いた魚をお食べになったのか、それらを知っている私たちが証しをするのだ、というのです。

 確かに言われればその通りです。裁判で証言をするときに、誰かにこう聞いたというのでは証言にはなりません。証言をすることが出来るのは、直接その現場にいた人だけです。そのことが丸ごとここで当てはまると弟子たちは考えていました。

 自分たちだけが証しをすることが出来る。考えてみれば尤もな話のはずだ。自分たちだけがあれほどイエス様に密接に、今でいえば密な距離で接していたのだから、この私たちをおいて他に証しをすることが出来る人などいない、イエス様の出来事を伝える資格を、伝え方を考える場合に、ディスタンスがどうのこうのということは出来ない、そう思っていたのです。

 しかし、裁判の時に証人になるかどうかではなく、教会において信仰を伝えるということでいいますと、弟子たち以外も証しをするようになり、そしてその証しには力がありました。イエス様が地上におられたときの出来事について直接は知らない者たちの間にも証しが広がり、そして彼らの中から証しをする第二世代の者が生まれ始めたのです。

 第一世代はこう考えていました。イエス様の出来事の中には、イエス様の息づかいとか一挙手一投足について知っているということを含む、だから自分たちだけが証しが出来るのだ、と。

 第二世代が誕生すると、事情が変わってきます。どうやらイエス様の出来事の中には、どうしても伝えなければならない事がある一方で、伝えなくてもよいことも含まれていることに皆が気づき始めました。どうやら、イエス様が地上で神の国についてお語りになり、十字架にかかってよみがえられた、これは証しをする上で欠かすことの出来ない内容である。それに対して、どんな服を着ていて、どんな食べ物がお好きだったのかについては、飛ばしたとしても証しにはなる、というわけです。それで、第二世代の者たちはもっと洗練された証しを始めるのです。今日のペトロの証しは、第一世代の証しですが、ずいぶんメリハリが付けられるようになり、省略すべき所は大胆に省略し、大事なことだけを伝える証しになっています。

 第二世代は、エルサレム生まれであったり外国生まれであったりする、ユダヤ人たちです。彼らはユダヤ教の一派であるナザレ派、イエス派に属して、イエス様に出会ったことはないけれどもイエス様の出来事を証しするようになりました。

 そして今日は、第三世代へと証しが受け継がれるようになる所です。第三世代は、異邦人です。第一世代、第二世代を通じてなかなか気づかれず、ずっと誤解されたままだったことがここで改まるようになります。それは、証しを聞いたときに証しをする側に移ることが出来るかどうかは、割礼が必須条件である、という誤解が改まる、ということです。イエス様の出来事を伝え広めるにあたって、ユダヤ教のメンバーになっておく必要がある、と誤解されていたのです。しかし、イエス様の出来事を広める立場になるにあたっての条件は、割礼ではなくむしろ洗礼なのではないか、ということに気づき始めました。

 出来事としては、今日の箇所はイエス様が天に上られて弟子たちの教会としての活動が始まってからまもなくというわけではありません。1年とか2年経って異邦人伝道が始まったというのではなく、最低でも10年、おそらくは15年ほど経ってから今日の出来事に至っています。教会は、相当長い間異邦人伝道を行わないできました。自分たちは割礼を受けたユダヤ教グループの一派である、良いユダヤ教徒であろうとすることはあっても、ユダヤ教徒の枠組みを超えることは考えていない、という立場でした。ところがイエス様の福音を宣べ伝えていく中で、神殿を追い出され、エルサレムの内外の町中で作った教会にはユダヤ育ち以外のユダヤ人が集う中で、今岐路に立っている使徒言行録10章の教会は、自分たちは割礼を受けた者たちのグループとしてではなく、洗礼を受けた者たちのグループとして活動を始めるべきなのではないか、という判断に傾きつつありました。

 その決定的な出来事が、今日の44節の出来事です。ペトロが証しをしているときに、聞いていた人々にも聖霊が降ったというのです。かつて使徒言行録2章の段階では、エルサレム生まれ以外のユダヤ人に対しても聖霊が降ったのです。しかしその場には割礼を受けていない者はおりませんでした。ペンテコステの出来事はユダヤ人の中に限られていたのです。

 しかし今日、ダーバールがユダヤ人と異邦人とを隔てていた中垣を打ち砕く形で、異邦人の側にまで力を及ぼしてきたのです。割礼を受けていない者たちにも聖霊が降っているのが分かりました。割礼を受けていないと証しをすることは出来ない、とはもはや言えないのではないか。聖霊を受けていることの証明を割礼に求めないのなら、一体何に求めたら良いのだろうか。

 そこで人々はパウロがダマスコの町で受けた式を思い出しました。洗礼です。洗礼を受けることによって、証しをする者たちの群れに加わることが異邦人にも出来るようになるのではないか。

 

 *証しを通じて成長する

 使徒言行録の中にはペトロの説教が幾つも収められています。今回改めて、それらを読み比べ、ペトロが信仰者として、また教会の指導者として、首尾一貫して語っていることと、そうでなく変わってきた部分がどこかについてもう一度確認を致しました。彼の説教そのものが洗練されていく様子を見ると、気づかされることがあります。それは、この説教者ペトロの成長は、同時に聞く教会の成長を含んでいる、と。聖霊の力がイエス様から12弟子へ、12弟子からからユダヤ人、ユダヤ人から異邦人へと広がっていくのは、証しを聞いて神のダーバールに巻き込まれ、神のダーバールを証しする人々が成長していくことと関係している、ということに。

 神のダーバールは今も広がり続けています。12弟子から数えると、私たちは何番目の世代に属するか数えることは出来ませんが、しかし間違いなくダーバールを証しする群れの中に加えられています。かつてはつたない形でしかイエス様についての証しをすることが出来なかった教会が、より明確な言葉によって、ポイントをずらさずに証しをすることが出来るようになっている。証しの言葉が洗練されるというのは、世代を経て洗練されるということもありますが、一人の信仰者の生涯の中で、かつては大雑把な言葉でしか伝えられなかった主の福音が、より大胆に調えられた言葉で語られるようになるということを含みます。教会が成長するのと同時に、信仰者個人も成長するからです。それら全てがダーバールの力、証しの力であると言って良いでしょう。私たちがかつて兄弟姉妹にかけていた信仰的な言葉が、もっと洗練される、もっと強い言葉によって兄弟姉妹の祝福を祈ることが出来るようになったとき、私たちの信仰は成長したと言えるのではないでしょうか。

 私たちは、いわゆる一般的な言霊信仰に生きているのではありません。イエス様の出来事を私たちが証言する栄光に与っている。私たちが証言するときに、私たちはイエス様の出来事をもう一度体験し直すことが出来る。私たちが祈るときに、私たちにイエス様が共にいて下さる。主なる神は、私たちに救いの言葉を与えて下さいます。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」、パウロが証しするこの言葉は、私たちに生涯与えられ続ける成長の恵みを、言い表しています。