〇〇の歯がなければ

2022109日 三位一体後第十七主日礼拝

(信徒伝道日礼拝、教会修養会第一日目)     

「〇〇の歯がなければ」(ヨハネによる福音書8章)

                     伊東教会 木村愛子

 今日、このような形で主をお証する時を与えられました。決まったのは7月頃だったでしょうか。その時から、何で引き受けてしまったんだろうと何度も思いながら、今日を迎えました。

ピンクタワー

 少し長い前置きになりますが、今私が勤めている幼稚園では、モンテッソーリ教育を行っています。モンテッソーリという名前を聞いたことがある方も多いかと思います。モンテッソーリ教育は、イタリア初の女性医師マリア・モンテッソーリによって確立された教育法です。モンテッソーリによって考案された様々な教具があり、子ども一人一人が自分で選び活動します。子どもたちは「お仕事」と呼んでいます。6年程前、それまで 朝の掃除や預かり保育の保育者として幼稚園に関わっていたのですが、直接「お仕事」を教えられるようになりたいという思いが沸々と湧いてきて、50歳の時にモンテッソーリ教育を学ぼうと決意し、広島にあるモンテッソーリ教師養成コースに通わせて頂きました。1年目は月に一度程一週間集中的に学びます。月曜日から金曜日まで主に教具の提供法(子どもにどの様に教えるか)と理論の学びがあり、土曜日は総練習です。コース生と卒業生の前で、自分の番号が呼ばれ、先生役と子ども役が決まります。何の教具があたるのかはわかりません。緊張の一日です。2年目は、実習生として 広島、山口、京都、東京のモンテッソーリ教育園で一週間づつ学ばせて頂きました。さて、その1年目の教具提供法の総練習の日、緊張の土曜日ですね、朝から自分のノートにかじりついてにらめっこです。必死に見返していると、後ろから声がします。声の主はコーススタッフの先生。「あるものしか出てきません!(^^)!」振り向くと、にこやかに後ろに立っておられます。あ〝ー 仰る通り!「あるものしか出てきません」今日もそのような心境です。しかしながら、「あるもの」を用いて下さる神様の恵みに畏れつつ、何とか絞り出していきたいと思います。


 

 さて、はじめにちょっとした頭の体操をしたいと思います。『楽しく学べる!新約聖書おもしろクイズドリル』から抜粋させて頂きました。

次のに入るのは、からだのどの部分でしょう?下の表から選んでください。

A 「わたしは今こんなに大きな字で、自分のであなたがたに書いています」。       (ガラテヤ6章)

B 「大祭司アナニアは、パウロの近くに立っていた者たちに、彼のを打つように命じた」。(使徒23章)

C「もし体全体がだったら、どこで聞きますか」。(コリント12章)

D 「彼らはを神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」。(フィリピ3章)

(答えは最後)


 今日、お話させて頂くタイトルを「〇〇の歯がなければ」としました。「〇〇の歯がなければ」の後に、「御言葉を食べることは出来ない」と続きます。これは、2014年に100歳で天に召された伊東教会の召天会員である相田武さんの言葉です。156年前になるでしょうか。まだ我が家の子ども達が小学生の頃、後ろの席で礼拝を守る若い親たちを、相田さんは時々呼び止めてお話をされます。その日曜日も後ろを振り向いておられた相田さん。目が合うと手招きしておられます。近づくと静かにお話を始めました。「あのね赤ん坊はね歯がない時はご飯を食べることが出来ない。歯が生えてきて初めてご飯を食べられる。それと同じでね、信仰の歯がないと御言葉を食べることは出来ない」相田さんは自分の仰った事にうなづいて前を向きました。そう、〇〇に入る言葉は「信仰」です。その時は「はい」と返事をして、サッと何かに書き留めておいたのですが、書き留めると共に、心に刻まれる言葉でありました。そして「信仰の歯がなければ」と仰った、相田さんという一人の信仰者の言葉の重さは、自分が歳を重ねると共に徐々に増していきました。赤ちゃんの歯が生えるように信仰の歯は備えられるもの 与えられるもの、歯が小さければまだ上手に噛めないし、奥歯が出てきたらよくすり潰して味わう事が出来る。歯はあってもよく噛まずに飲み込んで喉につっかえるかもしれない。何より信仰の歯で御言葉を咀嚼することは、生きることに直結する。相田さんは言葉の少ない方だったというのが私の印象ですが、いつも神様と対話していたのだろうなと思います。やがてご自宅から平和の杜の施設に移られた時のこと、夏の行事にお邪魔したことがありました。お部屋に伺うと、相田さんはお話を始めました。それは、水の循環についてでした。「雨が降り、地表に流れ海に注いだ水が、水蒸気となって雲になり、また雨が降る。神様のなさることは いくら考えてもわからない!!」と わからないことが痛快なんだよと言いたげに、嬉しそうに話してくれました。私はその時に、相田さんに質問してみました。ふっと心に湧いた問いでした。「相田さん、教会学校で子ども達に何を教えたらいいですか?」相田さんは少しも迷わずに こう仰った。「人生は、イエス様によって救われるっていう事、子ども達にわかりやすく話してあげてね」「人生はイエス様によって救われる」80歳を超えても、大掃除になると高い脚立に登って 皆をハラハラさせながら 会堂正面の十字架を拭いていた相田さん。いつもご自分の力の限り主に仕えておられた、その静かな背中を私は見ながら、伊東教会の中で 子どもと共に育てられてきたと感じています。

 静かな背中を思う時、今日読んで頂いた聖書の個所が重なるのです。この個所は私自身大好きな聖書個所です。

 罪を犯したと言って、一人の女性がイエス様のところに連れて来られた。「先生こういう罪を犯したら、石で打ち殺せとモーセは律法で命じています。あなたはどうお考えになりますか?」周りは大騒ぎで、イエス様の答いかんでは、その場でこの女性に石を投げつけようとしていた。感情に左右され一人の女性を吊し上げようとした人々、イエス様をおとしめようとした律法学者やファリサイ派達。様々な思惑が交錯しています。昨今のSNS等による誹謗中傷と重なります。聖書の時代からどれだけ経っているのでしょう。私たちはまだ同じことを繰り返している。これは人のことじゃない、自分の私自身のことです。イエス様はと言えば、この騒ぎと対照的に道にかがみこみ地面に何か書き始められた。しかし彼らがしつこく問い続けるので、身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず この女に石を投げなさい。」イエス様の言葉に年長者から一人また一人と去っていき、女性一人が残りました。イエス様は仰った。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」だから、罪に戻ってはいけない、もう罪に戻る必要はないのです。

 いつの頃からか、きっと相田さんが言ってくれた「人生はイエス様によって救われる」この言葉を聞いてから、私は道を歩きながら、時には電車の中で「ここにキリストがおられなかったら」と考えるようになりました。「ここにキリストがおられなかったら、キリストの愛がなかったら」底のない虚しさの中に生きることになるのではないだろうか、そう思うようになりました。そして人生はこのキリストの背中について行くこと、信仰生活はキリストの背中を見失わないように歩いていくことだと思うようになりました。よそ見をして見失う事もあります。でも、キリストは待っていて下さる。歩けなくなったら、静かにしゃがんだ背中にいつの間にか背負われている。御国への道を知っているのはキリストです。このキリストの背中を追い続ける者でありたい、そういう信仰者でありたいと思います。


答えは↓























 (^^  クイズの答え  A-手  B-口  C-目  D-腹)