革も人もなめされる

2022/10/02 三位一体後第16主日聖餐礼拝

詩編133編、使徒言行録102433節(第33) 

「革も人もなめされる」 牧師 上田彰

*異邦人伝道のために乗り越えられねばならない壁

 日本基督教団の総会が、四年ぶりに行われました。本来二年ごとに行いますが、一昨年からは日程を決定をしては順延ということを繰り返す羽目になり、今回は三度目の正直です。多くの地方在住者にとっては久しぶりの上京、私もsuica3年ぶりで、使い方が分からず立ち往生しました。教会での対面の集会を制限している教会もまだまだ多く、いきなり大規模集会に匹敵する会議(正議員400名、裏方も合わせると500名以上)を経験することになった、というのがほとんどの方の状況ではないかと思います。


 会議の成果は、確実ではあったが総じて小さなものであったと評価しています。四年前の総会では選挙協力が崩れて選出母体の異なる副議長が生まれたというエピソードがありますが、会議のレベルでの混乱が起こることはありませんでした。その意味で、今回選挙協力がほぼ順調に行ったからといって、劇的に何かが変わるわけではありません。むしろその間に起こったコロナ、またそれ以前から顕在化しつつあった財政危機、それになによりも伝道そのものの危機に対して、確信を持てる方策が存在しないという状態が変わっていない、ということが明らかになりつつあるという状態です。

 しかしその上で、今回は「集まれた」ということに皆が喜びを感じているように思いました。誰もがお互いに感染しないためにお互いを避けるような仕方ではなく、むしろ再会を喜ぶ様子でした。400人もいると、本来なら親しく話したい相手にも握手以外はするいとまが無いのが実情です。握手。二年前には決して出来なかったことが今は出来ている。さらに周りを見回すと、昼の会議よりも夜の会議に精を傾ける方たちの姿が普通に見られます。そのこと自体、ある意味で「やって良かった」と思えるものでした。「総会」は英語ではsynod、またはassemblyといいますが、どちらも「集まる」という意味です。集められ、交わりを持つことの喜びを味わいました。開会礼拝の聖書箇所は、「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」、詩編133編の言葉です。先ほど読んでいただきました。兄弟姉妹がそこに共にいるということ自体が恵みであり喜びである、という感覚を私たちは共有することが出来たと思います。


 先週の聖書箇所は、次のような言葉で終わっていました。「ペトロはその人たちを迎え入れ、泊まらせた。翌日、ペトロはそこをたち、彼らと出かけた」。ローマの百卒長の使いたちをペトロは迎え、泊まらせました。そして彼らと共にカイサリアに向かうのが今日の出来事です。何気ない語り口ですが、ユダヤの人たちとローマの人たちの対立を乗り越えようとしている姿が現れています。ユダヤの人たちからすれば、「神の国の住人」が「異邦人、地上の国の住人」と親密な交わりを持つことは、考えられないことでした。

 ペトロは、そのような交わりのうちに自分がおかれることになるという、予見の幻を既に与えられていました。ているとされる動物を、屠って食べるようにと命じられるのです。同じように、汚れているとされる国の人たちを、ペトロは受け入れました。

 今日の箇所は、10章冒頭で示された、コルネリウスの側の反応が中心に書かれている所です。異邦人伝道は、ペトロたちユダヤ人教会が異邦人を受け入れるということだけでは始まりません。異邦人がユダヤ人教会の伝える福音を受け入れなければ始まらないのです。「兄弟姉妹が共に座っている」と言える交わりの始まりまで、もう少しです。


*コルネリオ、ひれ伏すのをやめる

 今日の箇所の冒頭で、コルネリオはローマからやって来た異邦人の姿を典型的に示す仕草を行います。それは、ペトロを神の使いと信じ、迎えに出た時点でペトロの足元にひれ伏し、拝むのです。旧約聖書を見ておりますと、ユダヤの周りの国の異教徒たちが、天使を礼拝する儀式を行っていて、それをユダヤ教の側が厳しく批判していたのが分かります。ペトロの背中には羽が生えていませんが、神様の使いであるとコルネリオが信じ、拝み始めたのです。

 それに対してペトロは、「お立ち下さい。私もただの人間です」と答えます。考えてみますと、コルネリオが属するローマ帝国では、皇帝自身が神でした。「現人神」というと戦時中まで日本でも普通に言われていたのと同じことが、もっと大規模に行われていました。しかしコルネリオは信仰深くあろうとする人物です。皇帝は神様ではないと分かっている人物です。皇帝にひれ伏してはならないと分かっているのです。

 そこにペトロがやって来た。彼はペトロにひれ伏すのです。神の使いを見て、神に近いお方なのだから、神様に相対するのと同じ姿勢でお迎えしなければならないと思って、ひれ伏したということです。しかしペトロは彼の腕を取り、立ち上がってほしいと声をかける。私はあなたと同じ人間なのだから、と。

 この時起こっていることは、表面的にいえば、ペトロがコルネリオが犯した勘違いをただしているということです。しかし実際には、少し前のペトロもまたただされねばなりません。彼はコルネリオと似たような間違いを犯していました。救いの福音は自分たちユダヤ人の所には届くが、異邦人の所には届いていない。ひれ伏することを露骨に相手に要求するわけではありません。しかし人間同士に違いがあることを前提にしているのです。「兄弟姉妹が共に座っている」状態とはほど遠い所にいたのです。


*革がなめされる

 しかし今や、ペトロとコルネリオは互いに語り合う関係になるのです。27節には互いに話し合いながらみんなのいる所に入っていく様子が記されています。この「語り合う」という言葉は、聖書の時代よりずっと昔に使われていた言葉で、聖書の中ではここでしか用いられていない単語です。後に「説教をする」という意味で用いられる単語であることからして、恐らくお互いの身の上を話しながら、証しのようなことをし始めたのでしょう。

 こういうときに、どんな話をするのでしょうか。想像すると面白い気がします。例えば教団総会の時に初めて知り合った相手なら、自分が生まれて、そしてその後住んだ場所を次々と挙げ、また通っていた教会の名前を挙げていきます。お世話になった牧師の名前でもいいかもしれません。そうすると、どこかで必ず重なりが出てくるのです。どこかで親しみを持つことが出来るようになるのです。

 ペトロは改めて尋ねます。なぜ私を訪ねてくれたのか、と。そこでコルネリウスの証しが始まります。彼は幻の説明を始めます。その中で、彼は天使から受けた指示がどんなものであったかを話し、シモン・ペトロはヤッファの町の海岸沿いに住む革なめし職人シモンの所にいる、そこを訪れなさい、と言われたというのです。

 実はこの9章から10章にかけて、コルネリオの使いの者がヤッファを訪れたときに、ペトロが滞在していた場所が革なめし職人シモンの家であったことが三度にわたって言及されているのです。なにかが示唆されているのかも知れないと詮索するには、十分な回数です。そこで、「革なめし」というものについて調べてみました。わざと辞書風に記してみます。


 なめすとは

 獣の皮は、はがした状態(原皮)であれば、「血」と「毛」と「肉片」を含んでいる。この順番に除去していき、最後に渋につけることで、柔軟性を持たせると同時に、腐敗を防ぐ。厳密にはこの最後のプロセスが「なめし」。しかし総じて、この、「皮(覆っているもの)」を「革(ぴんと張っているもの)」に変えることが「革なめし職人」の仕事になる。

 それぞれの作業の中では、血の除去は極めて容易で、また毛の除去についても石灰水に漬けることで可能である。ここまでは専門性はあまり要求されない。しかし、肉片の除去を素人の作業が行うことは、用具の問題もあって大変に難しい。

 旧約聖書(モーセ律法)の中でも、この作業の難しさを指摘する箇所がある。それは、「革にカビが生えている場合は祭司に見せて、一週間隔離をする」(レビ記1354)という規定である。肉片が十分取れていないときに生えるカビが、どのような性質のものかはっきりしない間は、隔離を必要とする。

 日本人になじみが深い表現である「にべもなく断られる」の「にべ」とは、「肉片」に含まれるコラーゲン質のものを生成して作った膠(にかわ)のこと。なお、「にべ」は膠を作る際に用いる代表的な魚の名前であり、転じてそれらの製品の総称となった。

 もう一つ日本人になじみが深いかもしれないのが、「革なめし」という職業の社会的位置付けで、死体を扱うためか総じて低い。ただし、「革なめし」そのものが「汚れた」仕事であると明記されているわけではない。むしろ専門性が要求される仕事で、その難しさ故に、誰でも手を出さないよう聖書の中で「革」の扱いに慎重を期することを要求しているとも考えられる。

 昔の生活の中で革は欠かせないもので、特に「革袋」は場合によっては「革の服」以上に重要だった。新しい皮袋でなければ新しいぶどう酒を保存する際膨張して裂けてしまうという。ハードな使用にも堪えられるような高い品質が求められている。


ペトロが、わざわざ革なめし職人の家に長く滞在したことについて、いろいろな人が想像を加えます。少し昔の日本と同じように、革なめしという職業が卑しいものとされていたのかどうか、私にははっきりとした証拠はありません。聖書を見る限りでは、革の扱いが「汚(けが)れ」と結びついていたのは間違いありませんが、職業そのものが「汚れた」ものであるという記述を見出すことは出来ません。ただし、社会的慣習として汚れたものと見なされていた可能性は十分にあります。ここにもまた、律法が一人歩きして差別される人々がいた可能性がある、というわけです。

 そうであるならば、なぜペトロがそんな職業の人の所にいたのかということが問題になります。想像するに、ペトロは革なめし職人という仕事が汚れたものであるとは聖書に書かれていない以上、滞在したのがたまたま革なめし職人の家であった、というだけではないかと思います。しかしカイサリアに向かう際、革なめしの職人の家から出発してコルネリオと出会ったということは、振り返って考えてみるとやはり示唆的である、そのことに気づいたルカは三度にわたって、ヤッファでペトロが滞在していた家の職業を記すのです。

 先ほどの説明にありますように、革をなめすプロセスに間違いがあると、革にカビが生えます。そうなると使っている人が隔離をされなければなりません。職人の腕次第で、隔離が起こるかどうかが決まるといっても間違いではありません。隔離を起こさないようにきちんとなめすことが出来る職人が、一流の職人です。


*人の心がなめされる

 やむを得ず、隔離をしないとならないこともあるでしょう。それは革にカビが生えてきたときです。そのようなときに出番が回ってくるのが祭司です。生えてきたカビが伝染病をもたらすものであるか、特に問題の無いものかどうか、判断するのが祭司の役割です。祭司が隔離を命じてから一週間後、水洗いをし、カビが生えている部分を切り取り、焼き捨て、それ以上広がらなければこう宣言します。「清くなった」。一時的に隔離をすることは、古今東西伝染病を根絶する有効な方策です。私たちはこの二年、互いに互いを隔離し合うことで自分の身を守り、相手の身を守ることをしてきました。そしていつの間にか「リモート」の技を身につけました。これらは、一時的なものとしては有効であるといえるかもしれません。しかし、いつまでも相互隔離をしていてはならないのです。「兄弟姉妹が共に座っている」ことが幻になりきってしまってはならないのです。この間、私たちの心は頑なになりがちでした。そのような私たちが、その心が、なめされ、腐敗を防ぎながら柔らかくされる必要があったのではないでしょうか。

 人間の心がなめされるために、一体何が必要なのでしょうか。誰が、あるいは何が、革なめし職人の役割を果たし、また祭司の役割を果たすのでしょうか。そのヒントは詩編133編にあります。兄弟が共に座っていることを詩編の歌い手は恵みであり喜びであるというのですが、ここでいう「座る」というのは神様の言葉を聞くために座っている様子を指しています。新約聖書のルカによる福音書の中に、マルタとマリアの話が出て参りますが、そこで姉マルタに批判されながら、マリアはイエス様の言葉を聞くために座っています。当時のユダヤ人の礼拝堂には、女性は入ることが出来ませんでした。詩編133編の言葉は、兄弟(したがって男性)に限られていたのです。しかしイエス様の言葉を聞くことに熱心であった一人の女性によって、歴史が変わりました。神様の言葉を聞くために兄弟と姉妹が共に座る光景が実現したのです。

 そして今日の聖書箇所を通じて、人類の歴史がさらになめされたのです。異邦人とユダヤ人が共に座っている。この恵み、この喜びが実現したのです。私たちがこの聖書箇所を覚えながら聖餐に与ることが出来ることは、非常に意義深いと思います。


 私たちの時代において、人の心がなめされる必要は、ますます増えています。私たちの心は、兄弟姉妹との交わりを通じて、さらに柔らかくされるのを待っているのです。