戸惑いから喜びへ

2022/09/25 三位一体後第15主日礼拝

使徒言行録説教第32(10923) 「戸惑いから喜びへ」

牧師 上田彰

*神様の「シナリオ」を生きる

 昨今、あちこちで耳にし、また目にする言葉が、「シナリオ」です。最も印象的だったのが、また戦争のことになってしまいますが、ウクライナの作戦で、「陽動作戦」というのだそうですが、ロシアにおさえられている地域のうちで南のヘルソンを攻めると見せかけておいてロシアの兵力を南に集中させておきながら、手薄になった東のハルキウを攻める。それでハルキウ周辺のロシア兵がパニックになってしまって兵器や戦車、弾薬を置きっぱなしにして逃げてしまった。一説によれば、このようなウクライナの子供だましのような戦略に引っかかってしまったのは、ロシアが資源不足から偵察衛星をほとんど飛ばすことが出来ていないせいであるとか、いやいや8月くらいからヘルソンよりさらに南にある、クリミア半島近辺でも現地のウクライナ側のゲリラ的抵抗勢力であるパルチザンがロシア側の基地や弾薬庫を爆発させたり、西側からの精密に狙える兵器でロシア側の補給網を損耗させるよう鉄道や道路を破壊する準備が功を奏したとか、いわれています。しかし重要なのは、片方が(ここではウクライナが)ある作戦を立て、数ヶ月かけて準備をし、その意図を見抜けなかったもう片方の側(ロシア)が引っかかってしまった、ということです。ロシアを引っかけるために、ウクライナは現地に報道機関が入ることを許さず、秘密で準備を進めたといいます。そして実際に作戦が実行されてから、結果が判明してから、世界はあっと驚いた。そんな「シナリオ」だったのか、と。

 この場合の「シナリオ」とは、前から軍によって準備されていたものが発動してから皆に明らかになった、ということです。そしてそのような「シナリオ」の存在は、ロシア側にもまたあるのだろうか。ロシアはどんな「シナリオ」でウクライナを侵攻しようとしているのだろうか。一体全体、シナリオという言葉を用いるなら、両者はどのような軍事シナリオを展開していくのだろうか。

 これが将棋の戦略シナリオであればまだいいのに、と一方でため息をつきながら、現実に人が死んでいくシナリオが展開するのを私たちは目の当たりにせざるを得ないのです。


 ここまでお話ししてきた「シナリオ」には、二つの特徴があります。まず一つ目は、ここでいうシナリオとは、「公開シナリオ」ではなくて、「秘密シナリオ」である、ということです。そして、人間が立てたシナリオには、誰かが誰かを「出し抜く」、という性格があります。出し抜かなければ生き残れない状況がある、という前提がある。これが「シナリオ」の一つの特徴です。そしてもう一つは、こういった「シナリオ」は、軍事の戦略シナリオだけでなく、世界の様々なニュースに目を通すならば、経済の戦略シナリオとか、技術やメディアにも同じようなものがありそうだ、ということです。誰かが誰かを出し抜かなければ生き延びることが出来ない、生き残ることが出来ないという、必死な状況が存在する、ということです。

 今日の聖書箇所で私たちが目にするのは、「シナリオ」の中でも、神様が用意して下さった「シナリオ」です。人間が立てるシナリオと、大きな違いがあります。それは、今日のペトロが目にする「シナリオ」においては、ペトロ自身が望むことは今までに一度も無かったシナリオが神様によって示されて、それでどうしようかと戸惑ってしまう、というところです。そしてこの「シナリオ」は、確かに神様が戸惑うペトロたちを尻目に、最終的には世界中の人を出し抜いてしまうシナリオです。最初はペトロにしか示されないという点で、秘密シナリオであることは人間の軍事シナリオと一緒です。しかし神様のシナリオは、出し抜いた側だけが生き延びる、そんな了見の狭いシナリオではありません。出し抜いてしまった人々を、出し抜かれてしまったことに気づいた人々を、「生かす」シナリオです。

 「生かす」という言葉はこの一連の箇所の重要なキーワードです。使徒言行録の中で最も重要と思われる転換点にさしかかっています。10章から11章にかけて、少し細かく丁寧に見ていきたいとも思っていますが、その最終的な地点は、次のような言葉なのです。ペトロの仲間であるイスラエルの兄弟たちから発せられる次のような言葉を、人々は静まって聞いたというのです。いきます。「それでは、神は悔い改めさせ、命を与えてくださったということになる」(1118)。神様が出し抜くのは、人々に命を与え、生かすためだ、ということに気づいたときに、人々は悔い改めに至ります。この箇所で悔い改めるのは、直接的にはユダヤ人ではないキリスト者のことです。しかし同時に恐らく、「神様のシナリオ」によって出し抜かれている全ての人々が、悔い改めて命を得ることが出来ます。その中には、ペトロも含まれます。ペトロもまた「神様の途方もないシナリオ」によって打ちのめされて、悔い改め、そして生かされるのです。


 *シナリオには伏線がある

 このシナリオは、突然実行されたのではなく、神様が周到に準備されたものであることに、後から気がつかされます。それは、パウロ物語が9章の途中で終わり、そこからまたペトロの物語が再開されるのですが、その中でペトロはもともとの伝道の拠点であったエルサレムから見ると、北西部分に伝道の軸足を移すのです。その時に使った地図をもう一回添付しますが、今ペトロがいる海沿いの街ヤッファや、コルネリオがいるカイサリアは、いずれもサマリア地方で、今まではユダヤ人と敵対していた場所であったために、ペトロたちも足を踏み入れることが出来ない地域でした。しかしサマリア人伝道が可能になり、今まで入ることが出来なかった地域で伝道が進められていたのです。リダとヤッファ、現代の地名でいえばロードとヤッファ(ヨッパ)においてペトロは中風の男性を癒し、また息を引き取った女性をよみがえらせるのです。ペトロはその後も引き続きヤッファに滞在していたというのです。ここでペトロがヤッファにいたからこそ、カイサリアからコルネリオが人を使わしてすぐに会うことが出来ました。神様は「生き返らせるべきタビタ」「癒されるべきアイネア」「福音を告げ知らせられるべきサマリア人たち」を、それぞれ適切な場所と適切な時をご用意して備えて下さり、ペトロとコルネリオを引き合わせて下さった、そのように言うことも出来ると思います。

 このペトロとコルネリオの出会い、障害が大きいのはペトロの方でした。変な話です。今で言えば、伝道をする方、例えば牧師であったり教会員であったり、というのは福音を伝える気は満々で、伝えられる側である地域住民がむしろそれを受け入れようとしない、課題というか障害が多い、そういう風に考えることが多いはずです。伝える側が重荷を負っていて、そこには福音が伝えられることを待っている人々が大勢いるのに、なかなか伝えようとしない、というのはなかなか想像が出来ません。しかしペトロが異邦人伝道へと目を開かれなかったというのと同じようなことが、実際には世界中の教会あちこちで起こっているようにも思います。教会が伝道のために上げなければならない腰を重くしてしまっているのではないかという指摘もあります。そういう指摘を自分たちの問題として受け止めるときに、この一連の聖書箇所は大変に役に立つと言えるでしょう。

*物語

 ペトロは祈るために昼過ぎに屋上に上ったというのです。大変にお腹がすいていた。そこで彼は幻を見ます。その幻とは、天が開き、大きな布のようなものがつるされて下ろされていく様子です。そこには様々な動物が収まっていて、次のような声が聞こえてきます。「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」。「身を起こす」というのはここでは「目覚めて」というニュアンスです。寝ぼけまなこの目をよくこすって、目の前の動物で腹を満たしなさい、というお告げです。ペトロは、これが自分の願望と反する幻であることに気づきました。お腹がすいているときに見る夢というのは決まっていて、一言でいえば今ペトロが欲しているのはパンとぶどう酒なのです。パンとぶどう酒が浮かんでくる幻なら、自分の願望に沿っています。しかし神様は動物を種々ペトロに示して食べるように促すのです。ペトロは、この促しが神様からのものであることを良く理解して、こう返事をします。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」。

 律法によれば、清い動物と汚れた動物は区別をされるのです。レビ記11章によれば、蹄が分かれていて反すうするものは食べて良い、とあります。山羊や牛はいいがらくだはだめだという風に、右と左に分けて考える生き方が、モーセ以来このペトロに至るまで受け継がれてきたのです。ところがここでペトロが見た幻の中では、今まで截然と分けてきたはずの動物が、混ざっているのです。今までの考え方と全く違うので、今までペトロがその中で生きてきた伝統とは全く違うので、ペトロは拒否をしたのです。

 するとその声はこう続けるのです。「神が清めたものを、清くないなどと、あなたは言ってはならない」。これは相当に挑戦的な言葉です。ペトロはこう思ったことでしょう。今まで神様は、律法を通じて私たちに何が正しいのかを示して下さってきたのではないのですか。そして、清いものと汚れているものとを分けるのが正しいとおっしゃってきたのではありませんか。今幻を通じてあなたがお示しになっているのは、私たちが生きてきた伝統を全部否定することになるのではないのですか。

 ためらうのは当然です。ペトロはこの幻を三回見たといいます。何度も何度も、繰り返し見させられたという意味でしょう。そのくらいペトロは受け入れがたいメッセージであったことが想像できます。


 なおこのメッセージをペトロが受け入れられずにためらっている所に、さらにたたみかけるようにこう続けます。「今人が訪れるが、その人とたちをためらわずに受け入れ、行動を共にしなさい」。二つのためらいを結び付けるものが何であるかが、すぐに示されます。それは、訪れた人々は、ローマの軍人の使いである、というのです。汚れた動物と清い動物を分けることなくためらわずに受け入れなさいとおっしゃる神様が、ユダヤ人と非ユダヤ人、異邦人とを分けることなく、ためらわずに異邦人を受け入れなさい、とおっしゃるのです。





 *「生き延びるためのシナリオ」の転換

 ここでペトロが、どのようなためらいのうちにいたのかを、異邦人受け入れということと結びつけて考えてみたいと思います。旧約聖書のいわゆるモーセ律法の中に、異邦人との交わりをユダヤ人として持ってはならない、と具体的に書いてある場所は、私の知る限りでは、聖書にはありません。ただし、そういう事を示唆している箇所はいくつかあります。例えば、お金を貸すときに、ユダヤ人には利子を取ってはならないが、外国人には利子を取ってよい、という、後にシェイクスピアが記した、『ベニスの商人』というユダヤ人の金貸しが登場する伏線となる規定があります。中世のヨーロッパにおいて、キリスト教内部では利子を取ってお金を貸すことはありませんでした。そのような、ある意味汚れた役回りをするのが非キリスト者であるユダヤ人であったのです。シャイロックはユダヤ人相手には金貸し商売をしなかったわけです。仲間内、身内には慈善事業として無利子で貸していたお金を、異邦人には利子を取って貸す。

 このように、ユダヤ人には「身内意識」が強いのです。その理由ははっきりしていて、ユダヤの周辺の外国人は皆軍事的にも強く、文化的・宗教的にもあるはっきりした自己主張があるのです。そこで、下手に交流し、助け合いましょうなどと言っていたらすぐに弱小民族であるユダヤ人など歴史から消え去ってしまうのです。そこで、ユダヤ人の生存戦略として他の民族との交流禁止を、これは聖書(律法)に書かれているからというよりは、本能的な生存戦略、生き残りの「シナリオ」として持っていたのです。


 よく、ユダヤ人には選民思想というものがあって、自分たちは神様に選ばれたエリート民族だから他の外国人とは関係を持たないのだというようなことが言われます。しかし、ユダヤ人はエリートというにはあまりにも小さく、弱い民でした。他を出し抜いてでも生き残るための「シナリオ」が必要で、それは部分的には聖書、つまり神様の言葉であったものの、それ以外の大半のシナリオは自分たち民族自身が作っていったルールという形を取っていました。例えば、ローマ帝国はローマ人、つまり異邦人が支配する国家だ。そして彼らに進んで従う徴税人はユダヤ人の風上にも置けない者たちであるから、交わりを持たない方がいい、というルールです。旧約聖書には出てこないルールが、ローマ帝国の支配以来幅をきかせるようになったのです。そういうローカルルールは色々あって、ローマ帝国への税金は納めるべきではない、なぜなら貨幣には皇帝の像が刻まれているからだ、という運動もあったようですし、ローマの味方をする者たちを殺すための短剣をいつも胸にしのばせておく熱心党という運動もありました。彼らがローマから使わされた軍人であるコルネリオなどを見かけたら、襲いかかっても不思議はありません。

 もちろんペトロだって、イエス様がそのような追加のローカルルールというか、異邦人との交わりをことさらに排除するような類いの生存シナリオが後からどんどん出来ていくことに対して、抵抗をなさったことは良く知っています。イエス様はいわゆる律法主義に対して徹底的にノーを貫き、徴税人を弟子にしたりザアカイたち徴税人と交わりを持ったり税金を納めたりしておられたことをペトロは目の当たりにしてきたのです。そしてそのような形でご自分の弟子たちを守って下さったイエス様のお姿をペトロが思い出さないはずはありません。しかし同時に、今のペトロは、こう考えていたのではないでしょうか。「確かにイエス様は色々な追加ルールを徹底的にお嫌いになった。そして私たちガリラヤの漁師出身の、エルサレムの宗教的エリートからしたらどう考えても中途半端なユダヤ人を弟子にして下さった。しかしイエス様はそのように追加ルールを破ったが故にエルサレムの人々によって恨まれ、十字架についたのではないか。私たち主の道を歩む者たちは、最も良いユダヤ人であるべきだから、追加ルールは積極的に守るべきだ。そうやってユダヤ人の模範になることが、良い伝道になるのだ」。

 ペトロは、自分たちが身を置いていたユダヤ人の伝統を、つまりは生存シナリオを、よりユダヤ人的に強めることで生存戦略を描いていたのです。そのままで教会が発展していくとしたら、教会は律法主義者であるファリサイ派よりも律法主義的な集団になっていたのかも知れません。

 しかし、神様はおっしゃる。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」。これは、生き残りのためのシナリオを描いて下さるお方自身の言葉です。人間の知恵によってユダヤ人のみが生き残るシナリオではなく、神の恵みによって皆が生きるようになるシナリオが、示されようとしているのです。生き残りのために人間的な知恵をこらすことが大事なのではない、神様のシナリオに自身を委ねることが大事なのだ。ペトロは次のようなコルネリオの使いの者の言葉を聞きます。「百人隊長のコルネリウスは、正しい人で神を畏れ、すべてのユダヤ人に評判の良い人ですが、あなたを家に招いて話を聞くようにと、聖なる天使からお告げを受けたのです」。

 ペトロは一体どのような気持ちでこの言葉を聞いたのでしょうか。このコルネリウスは、汚れているはずの異邦人の中でも、比較的いい人のようだ。彼は異邦人の中でも例外で、彼のことは受け入れても良さそうだ。そう考えたのでしょうか。おそらくは違います。ああ、今自分は異邦人を受け入れようとしている。異邦人の中でもとりわけ汚れの薄い異邦人を受け入れるというようなことではなく、異邦人全体を受け入れようとしている。

 大きな岐路にペトロは立っています。教会そのものが、真の命にむけて悔い改めようとしています。今日はクライマックスではありません。静かな終わり方をしています。ペトロは彼らを受け入れ、翌日一緒に出発した。とても静かに、大きな方向転換が描かれています。ペトロは彼らを受け入れたのです。一緒に行動を共にするのです。ここには新しい生き方があります。新しい命に生かされようとしている群れが、新しいシナリオによって生かされる共同体が、カイサリアに向かおうとしています。