心ひかれる神の思い

2022/09/18 三位一体後第14主日礼拝 

創世記181633節「心ひかれる神の思い        牧師 上田文

 

 

8月から9月の始めにかけて、夏期伝道実習が行われました。皆さんも、教会の中に新しい風が巻き起こされた記憶が、まだ新しく残っていると思います。私も、神学生の頃に、夏期伝道実習に行った事があります。私たちの頃は、もう少し実習期間が長かったように思いますが、私は、広島の爆心地の直ぐ近くにある広島教会に遣わされました。もちろん、実習のプログラムの中には、平和記念式典と平和祈祷会への参加が組み込まれていました。また、広島教会にも、原爆に遭われた方が沢山おられました。広島教会自体も、原爆で焼かれてしまい、焼け野原にジェラルミンで出来た礼拝堂を立てて長い間礼拝を捧げていたと聞きました。そして、信徒の方々に、原爆の話を聞く機会が沢山与えられました。小学校で遊んでいて、机の下に鉛筆が落ちたので、それを拾おうとした瞬間に原爆が落ちた。立っていた友だちは、死んでしまったけれども、自分は鉛筆を拾っていて影に入ったので生き残った。また、配給の順番を待っていて、自分の番になったのでビニールテントに頭を入れた瞬間に、ピカッと原爆が光った。その後、すごい爆風が来てテントが倒れたのだけれども、自分はテントの下じきになったために助かったという人もいました。しかし、この話をしてくださる多くの方が、私にこのような疑問を投げかけられました。それは、なぜあの友だちは死んで私は助かったのだろうか?神さまが、正しい神さまであるのならば、なぜあの友だちを、あの家族を死なせたのだろうか?神さまはが全能の神さまであるのならば、なぜ助けてくれなかったのだろうか?という疑問です。そして、この言葉に続けて必ず言ってくださる言葉がありました。それは、「私は、ただ神さまに与えられた信仰によってのみ生きております」という言葉です。私は、この夏期伝道実習の期間、ずっと信仰によって生きるとはどのような事なのかを考えさせられました。神さまは、「正義の神さま」だと言います。しかし、正義とは一体何なのか、何が正しい事なのか。その答えが見つけられなかった私は、その正義の神さまを信じて生きていますという、この方々の言葉が上手く理解できなかったのでした。

 今日の聖書には「正義を行う」という言葉が出てきます。神さまは、アブラハムに向かって、「正義を行うように命じよ」(19)と言われます。アブラハムも神さまに向かって「正義を行われるべきではありませんか」(25)と言います。今日の聖書箇所は、神さまが私たちに、「正義」とは何か、「正義を行う」とはどういう事なのかという事を教えてくださる物語です。

 

 神さまは、アブラハムにあるご計画を伝えられました。それは、ソドムとゴモラの罪を確かめる事です。20節、21節にはこうあります。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは下って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう」。ソドムという町は、アブラハムの甥であるロトが住んでいる、豊かな潤った場所でした。しかし、豊かな地であるソドムの町は、「住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた」(13:13)と聖書にあります。また、14章には資源の豊かさのために、その利権をめぐる戦いがあったとも記されています。そして、次に読むと思いますが、19章にはソドムの罪の有様が具体的に記されています。二人の旅人がソドムに行き、ロトの家に泊まった時の事です。19章の4節、5節にはこのように書かれています。「彼らがまだ床(とこ)に就(つ)かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、わめきたてた『今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから』」。「なぶりもの」というのは、性的な関係を意味していると言われています。つまり、ソドムとゴモラは、性的にとても乱れていた町であったことが分かります。また、エゼキエルやイザヤなどの預言者たちは、ソドムとゴモラの町で不正と不公平が公然と行われていると訴えています(エゼ16:49、イザ1:10~)。貧富の差があり、性的な乱れがあり、経済的な繁栄とそれがもたらす腐敗や堕落が集まる町として、ソドムとゴモラが聖書に描かれるのです。そして、それが、ソドムとゴモラの罪だと聖書は教えるのです。しかし、このように社会的な正義が失われ、強い者が弱い者を食い物にするようなことが見過ごされ、また性的にも道徳的にも乱れているという状況は、ソドムとゴモラだけの事ではないように思います。私たちの近くにも、このような風景が広がっています。そして、あげくの果てには、その事が戦争を引き起こしています。神さまは、これらの罪を見過ごされません。なぜなら、「わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう」と言われるのです。そして、神さまのやり方で正されるのです。それは、罪に対する裁きかもしれませんし、罰かもしれません。

 

 しかし、神さまはなぜアブラハムにこのことをわざわざ告げられたのでしょうか。その理由が書かれています。「アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うように命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである」(18,19)。アブラハムによって、すべての人々が神さまの救いに与るようになるためには、彼が息子や子孫たちに、主に従い、正義を行うように命じ、人々を導く事が必要なのです。アブラハムは、そのような使命を神さまから与えられていました。そして、その使命を行う事ができるように、神さまは、いつもアブラハムと共におられ、アブラハムの信仰を導かれます。その神さまが、すべての人が救われるためには、今、アブラハムが信仰的に成長する必要があるとお考えになり、これから行おうとされる事をお知らせになったのでした。

 

 これから行おうとされる事。それは、ソドムとゴモラの罪を確かめ、神さまのやり方で正す事です。この事を聞いたアブラハムの事が次のように記されています。「その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた」(22)。神さまのみ使い達は、ソドムの方へ向かっていたけれども、神さまご自身は、なおアブラハムと共におられたのでした。「アブラハムはなお、主の御前にいた」とありますが、この文章は聖書が手で書き写されて伝えられて行く中で、書き直された文章であると言われています。この文章は元々は、「主はなおアブラハムの前にいた」となっていたそうです。神さまは、み使い達をソドムにやり、御自身はアブラハムの前で何かを待っておられたのでした。まるで、何かを一生懸命考えて、答えようとしている子どもの答えを待つ親のように、神さまはアブラハムの前に留まっておられたのでした。そのためでしょうか、19章の始めには、三人であったはずのみ使いが、二人となって登場します。神さまは、二人のみ使いを先にソドムにやり、いま告げたソドムとゴモラを正す御業に対して、アブラハムがどのように考えるのかを待っておられたのでした。その神さまの導きに応えるように、アブラハムは神さまの御前に進み出て語り始めます。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか」(23-25)。アブラハムは、全世界を裁く神さまは、正義を行うべきだと言うのです。そして、少し変わった言葉を口にしています。「あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人のために、町をお赦しにならないのですか」(24)。私たちは、ふつう「正しい者は滅ぼされず、悪い者が滅ぼされる」と考えてしまうと思います。アニメーションや映画の世界でも、主役の正義の味方は勝って、悪い奴は最後には必ず負けるのです。戦争に対する考え方だって同じかもしれません。なぜ悪い人が生き残って、善良な人たちが殺されてしまうのかと考えてしまいます。正しい者が悪い者と一緒に裁かれて、滅ぼされるような、神さまのやり方は不公平だと考えてしまうのです。しかし、アブラハムはそうは考えませんでした。アブラハムは、少数の正しい者によって、他の多くの悪い者たちを神さまはお赦しにならないのか。神さまは、そのような憐れみによって、何時か悪い者たちが悔い改めるのを待ってくださる方ではないのか。神さまが、正しい方であるというのは、そういう所にあるのではないのですか。あなたこそが、正しい事をなさる方ではないのですか。つまり、アブラハムは正しい事をするのは、神さまあなたの方ではないのですか。と、言ったのでした。

 

しかし、神さまは、「わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うように命じて」と、アブラハムに正義を行うことを求められます。そして、アブラハムとその子孫とされる私たちが、正義を行うという使命に生きる時に、アブラハムの子孫は「大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る」という事が実現されるのだと言われます。それは、アブラハムの子孫とされた私たちもまた、正義を行う事を神さまは求められているという事のです。そして、私たちが正義を行う時、それはただただ私たちだけが救われるのではなく、その他の者たちも祝福に入れられると神さまは約束してくださるのです。ここで、では正義とは何なのか、どのような事が正義なのかという質問が生まれてくるように思います。しかし、その答えは、神さまが既に教えてくださっています。「すべての者が祝福の中に入れられる」ようにする事です。正義とは、私たち個人に関係することではなく、世界のすべての民の救いと祝福に関係している事なのだと神さまは言われるのです。

 

 このような神さまの教えと導きによって、アブラハムは自分でも分からない間に「正義」を行い始めました。アブラハムの「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか」という問いかけは、神さまが待っておられた問いかけであったのではないでしょうか。このアブラハムの問いかけに対して、神さまは「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう」と言ってくださいました。神さまは、はじめから言われていた「世界のすべての国民は彼によって祝福に入る」という御心を実現しようとしてくださっていたのでした。神さまの正義というのは、神さまだけが行われるものではない事が分かります。正義は、人間が神さまの御心を聞き、従う時に初めて実現するものなのかもしれません。そして、神さまとアブラハムのこの共同作業が、世界のすべての民の祝福の中に入れられるという神さまのご計画を進めたのでした。

 

この神さまのご計画は、今も続いています。アブラハムとその子孫であるイスラエルの民が、そして教会に集められた私たちが、神さまの民とされているのは、「世界のすべての国民が私たちによって祝福に入る」という神さまの御心が実現するためです。神さまは、そのために私たちを選び、教会へ招き、信仰を与えてくださいました。神さまは、私たちによって世界のすべての人々が神さまの祝福に入れられる事を期待して、待っておられるのです。

アブラハムは、ソドムの人々が全く知らない所で、ソドムの人々のために、神さまに訴えました。そして、神さまはこのアブラハムのする事は「正義」である、神さまの御心にかなった事であるとしてくださいました。「正義」とは、自分のため、自分の救いのために何かする事ではなく、ソドムとゴモラのような町に住む、多くの人々が神さまによって救われるために、祝福に入れられるために執り成し祈る事であるとも言えるかもしれません。人間の罪を裁くことは、神さまがされる事です。しかし、それと同時に、神さまはアブラハムとその子孫が、全ての国民が祝福の中に入れられるために執り成しをすることを願われたのだと思うのです。だからこそ、神さまはご自分の業をなさる前に、わざわざアブラハムにその事を告げられたのです。神さまは、アブラハムやその子孫とされている私たちが何をするのか見て下さっています。神さまのご計画、御心が進められるために選んだ私たちが、そのことをするかどうかを見ておらられるのです。私たちは、このソドムのような社会の中で、自分の救いだけを求めるのでなく、人々の罪の赦しのために執り成しをする事を求められているのです。神さまは、そのために私たちを選んで下さり、私たちが執り成しをすることを待ってくださっています。

 

さてしかし、私たちは厳しい現実にも目を向けなければなりません。神さまが、このように全ての人々を救おうと御心を示して下さり、導いてくださったにも関わらず、次の19章でソドムとゴモラは結局滅ぼされてしまいます。つまり、正しい者は一人もいなかったのです。アブラハムの執り成しは、成功せずに終わってしまったのでした。私たちの執り成しの業や祈りがこの世を救う事は難しいのかもしれません。だからでしょうか、神さまは、この執り成しの業を成功させるために、イエスさまを私たちに送ってくださいました。イエスさまは、十字架の上でこのように祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ24:34)。イエスさまは、神の子であり、アブラハムの子として、ダビデの子としてメシアとして来てくださった方です。このイエスさまを十字架に架けた人々は、イエスさまが、神様を冒涜する者である。神さまの正義が守られるように、この者を殺さなければと固く信じていた人たちでした。このような人々のことをイエスさまは「自分が何をしているのか知らないのです」と執り成しをされているのです。ひょっとすると、神さまに救われた私たちは、正義を行おうとする時に、この罪に陥ってしまうのかもしれません。私たちはどんなにがんばって正義を行おうとしても、また神さまに従おうとしても、罪に捉えられてしまうのです。イエスさまを十字架に架けた人々と同じように、私たちもまた正しい事をしていると信じて、イエスさまを十字架に架けてしまう者なのです。基本的に、罪を持っており、ソドムに住む者なのです。私たちは、世を救う者ではなく、救われなければいけない罪人なのです。イエスさまは、そのような私たちのことを、神さまに「どうぞ裁いてください」とは言われませんでした。それよりも、「彼らをお赦しください」と祈ってくださいました。また、イエスさまと共に十字架にかけられていた犯罪人が「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言うと、イエスさまは、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とまで言ってくださいました(ルカ23:42,43)。イエスさまは、自分が何をしているのか分からないような罪人の赦しを祈り求めてくださり、また、罪を犯したと分かって赦しを求める者には赦しと救いを宣言してくださる方なのです。これが、神さまがアブラハムの子として、ダビデの子として、またメシアとして私たちに送ってくださった、イエスさまのお考えになる正しさ、正義なのでした。また、イエスさまは、神さまに執り成しを祈ってくださるだけでなく、私たちの罪を全て担って、十字架にかかって死んで下さったのです。ご自分を神さまにいけにえとして捧げてくださったのです。このイエスさまの正義によって、私たちは罪を赦され、洗礼を受け、イエスさまと結ばれ、教会の枝とされています。そして、アブラハムの子孫、新しい神の民とされているのです。イエスさまに救われた私たちに求められている正義。それは、罪人が赦されるために、犯罪人を救うために十字架に架かられたイエスさまが求められる正しさです。イエスさまは、すべての人間が、自分が何をしているのかに気づき、そして、その罪がイエスさまの十字架によって赦された事に気づき、悔い改め、神の子とされることを願ってくださっています。そして、このイエスさまの導きにより、私たちは、アブラハムのように、絶えず神さまに真の正義を求め、正義行うという神さまとの共同作業が出来るようになるのです。世界のすべての国民は、イエスさまによって祝福に入る(18)のです。

 

先ほども言いましたが、結局、ソドムには正しい人が十人もおらず、アブラハムの甥のロトと娘二人が救出された以外は皆滅ぼされてしまいました。これもまた、神さまの御心であり正義だったのです。しかし、今、イエスさまによって神さまに繋がれ、新しいアブラハムの子孫とされた私たちに対して、神さまは命じられます。「主の道を守り、主に従い、正義を行いなさい」。それは、ソドムにはいなかった十人の正しい者になりなさいという事です。そのことを、神さまは期待して待ってくださっているのです。私たちは、イエスさまに教えて頂いた正義を行いたいと思います。イエスさまは、私たちにこのように祈りを捧げ続けなさいと言われました。「父よ、皆が崇められますように。御国がきますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。私たちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください」(ルカ11:2-4)。殺し合いを続ける私たちをどうか、イエスさまの十字架によって赦して下さい。どうかすべての人間が、悔い改めて、あなたの下に集められ、イエスさまが教えてくださった、この主の祈りを祈る者と成らせてください。私たちは、この祈りを祈りつつ、十字架と復活のイエスさまを証する者、正義を行う者とされるのです。広島での夏期伝道実習で与えられた言葉を思い出します。「ただ、神さまに与えられた信仰によってのみ生きております」。「ただ、神さまに与えられた、イエスさまの正しさと真実によってのみ生きております」。新しいアブラハムの子孫とされた私たちは、祈りと証しを口にしながら、すべての人が神の御国に入る時を待ちのぞみたいのです。