立ち返るべき所をしる

2022/09/11 三位一体後第13主日礼拝 

使徒言行録説教第31(1018) 「立ち帰るべき所を知る」  牧師 上田彰

*神を神とする、「パイアス」な生活

 先ほど歌いました讃美歌は、「真の神よ」という歌い出しで始まります。ドイツで17世紀の讃美歌集に収められた曲だということが分かります。実はこれと同じタイトルの曲は多くの作曲家によって作られています。先週のチャリティー祈りの会において、バッハによる「真の神よ」という曲が演奏されていました。プログラムをよくご覧下さった方の一人から、かなり作り込まれて準備された曲目になっている、という感想をいただきました。ウクライナを覚えるチャリティーというのは探せばいくらでもあるはずです。その中で、今回の会に先だって甲斐さんと準備を進めました。例えば、ウクライナの勝利を祈願し、ロシアを悪者扱いするようなものもある中で、私たちが考える本当に教会らしい、キリスト者らしい視点は何かということについて、具体的な考えをいくつか挙げ、ドイツにおいてなされている同じ類いの集まりについても教えてもらいました。

 かつて宗教改革者のルターが、自分の祖国ドイツがトルコと戦わねばならない状態に陥ったときに記した一つの書物を思い出しました。そこでは、トルコという異邦人の国から攻められている以上、ドイツが戦うことは必然だとルターは主張します。さらにこう続けます。「しかしその一方で、私たちの国が異邦人から攻められているというのなら、それは神様からの使いによる何らかのメッセージの可能性がある。私たちは悔い改める必要がどこかにあるのでは無いか。私たちは戦争に勝利しなければならない。しかしそれ以上に悔い改めなければならない」。このような観点から、戦争における悔い改めの必要性を説くのです。今回私たちが経験している東スラブ地域(ロシアとウクライナを含む)の戦いにおいて、ロシアの悔い改めのみならず、ウクライナの悔い改め、そして私たちの悔い改めがあるのではないでしょうか。このことをはっきりさせるため、預言者イザヤによる悔い改めの呼びかけを盛り込んだヘンデルの曲をプログラムに組み込んだのです。


 互いに祈りを合わせるような仕方で、一つ一つの曲目を挙げ、これは私たちの祈祷会には合わない、これは入れよう、というような話し合いを進めました。その中で、甲斐さんが前奏に入れたいと申し出たドイツ語の曲があり、その曲名をどのように日本語に訳すかで議論になったのです。

 ドイツ語の元の曲名は、今日の讃美歌にありますように、O Gott, du frommer Gottとなっていて、「ああ神よ、frommな神よ」となります。frommというのは普通は「信仰心のある」と訳します。しかし、「信仰心のある神よ」というのは明らかにおかしいのです。そこで色々調べました所、このバッハの曲と同じ曲名の讃美歌が偶然讃美歌21に収められているとわかりました。frommという言葉は英語に同じ響きを持つ、違う意味の言葉があって、話がややこしいので、ここから先は英語に置き換えます。pious(パイアス)といいます。パイエティーという言葉が、やはり「信仰心」と訳されます。oh pious Godというのが元の曲名を英語に置き換えたものです。問題はここからで、日本語の讃美歌集がpious Godを「真の神よ」と訳しているのです。つまり、「信仰心がある」と訳すことの多いpious(fromm)という言葉を、日本語の歌詞を考える際に「真の」と訳したことになります。外国語辞書を見ても、うまくこの訳語にたどり着くことは出来ません。一番近いのは「誠実な」という訳語でしょうか。

 しかし結論からいうと、この「真の神よ」という讃美歌歌詞の翻訳は正しい翻訳だと思います。パイアス(fromm)という言葉のここでの意味は、「神様をきちんと神様とする」という意味だからです。「信仰深い神よ」と訳して意味がわからなかったものが、「神様、あなたはきちんと神様として崇められている神様です」というのなら分かります。パイアスとは、人間の内側を言い表す「信仰深い」という意味の言葉ではなく、「神様が真の神様として真実に礼拝をされている状態」を指すことになります。そしてこの曲を通じて、東スラブの状況が、そして私たちの生活が、パイアスなものであるかどうか、悔い改めをもって考えたいと願い、この曲をプログラムに組み込みました。

 色々考えさせられます。私たちは普通、信仰というのを「信仰心」と考えます。毎日お祈りをし、週ごとに礼拝のために教会に行く。自宅でも出来る限り聖書を読み、隣人愛にいそしむ。そのような、神様と結びついた生活習慣を作っていくことが信仰心だと考えています。しかし、今日の二節に出て参ります「信仰心あつく」という言葉の元の意味は、「神を神とするような、真の生き方をする」という意味合いを持っていることに気づかされるのです。これはロシアにだけ求めるべきことではありません。私たちの課題でもあるのです。私たちは自分の生活を整えて、なんとか神様のパイアスに沿った生き方をしたいと願っています。しかし神様が求めておられるのは、私たちが日に何度祈るかというような、生き方の一部の自己改革ではなく、私たちの生き様そのものが神様を神様とするような生き方になっているか、あるいはもっと大きくいえば、私たちの世界が神様を神様とするような世界になっているかということについて考えることが、調えることが、パイアスとかパイエティーと言われている言葉の意味であることに気づかされるのです。


*「パイアス」な人コルネリオ、そして私たち

 今日出てくる一人の人物コルネリオは、使徒言行録において極めて重要な役回りを果たす人物です。軍人コルネリオは、元々は教会に所属するメンバーというわけではありませんでした。キリスト者でないばかりか、ユダヤ人でもありませんでした。一人のローマ軍人が、紆余曲折を経て洗礼を授けられます。これを聖書は、神を知らない者が神を知る者となった出来事だとは単純にはとらえません。神を神とすることをばくぜんとは知っていた、つまり一番広い意味でのパイエティーを持っていたのがコルネリオという人なのです。確かにコルネリオに救い主の名前を正しく教えたのはペトロです。神を神とするという信仰は、キリストを神とする信仰に至るのが本当の筋道です。その道筋へと至るのは、自分だけの力では無理です。コルネリオが信仰深い人物でも、ナザレのイエスこそがキリストだと自ら気づくことは出来ません。ペトロの伝道によってコルネリオは変えられたことになります。

 しかし同時に気づくのは、ペトロや、ペトロ達の教会もまた変えられた、ということです。パイエティーが必要だった、ということです。今までペトロ達の教会は、サマリアでの伝道を手がけて、その地域の人々を、またエチオピア人の宦官に伝道をしました。サマリアは元々はユダヤ教と同じモーセの教えを奉じる者たちですし、エチオピア宦官も聖書の巻物を馬車に持ち込み朗読をし、エルサレムの神殿参りを欠かさない人物でした。ユダヤ教と無縁であったわけではありません。彼らはペトロ教会からすると、ユダヤ人に準じた人々でした。しかし今回のコルネリオは全く違います。今までと全く違う方面へと伝道の可能性を示された。聖霊によって気づきを得た。要するに、パイアスな信仰によって目覚めさせられたのはコルネリオだけではなくて、教会もまた変えられた、ということです。真に神を神とするような信仰が、コルネリオと、ペトロ達との、両方に働いたということです。真に神を神とするような信仰を教会がそれまで持っておらず、今日の10章をきっかけに180度の転換をしたということではありません。しかし10章を経験した教会が、ああ今まで自分たちはパイアスな集団だと思っていたけれども、本当にパイアスであるということはこんなことなんだなあと気づかされる出来事が今日の箇所なのです。


 使徒言行録10章の出来事は過去の歴史の一コマに過ぎないのでしょうか。私たちもまたペトロの教会に連なり、さらにコルネリオに連なる者として、多くの場合は洗礼を受けてこの場所にいます。私たちはペトロに出会う前のコルネリオとは異なり、誰を神とすればいいのかを分かっていないわけではありません。言葉の普通の意味において、私たちはパイアスな集まりです。それでは、私たちは十分に神を神とするような生き方をしており、もはや変わる余地が無いほどにパイアスであると言えるでしょうか。例えばこうです。私たちは異邦人教会ですから、特定の人でなければ伝道をしないという風にはなっていません。教会には誰が来ても良いことになっている。にもかかわらず、私たちは伝道の可能性を自分で狭めていることはないでしょうか。自分の周りの◯◯さんは教会に来ることが絶対にない人だ、というような偏った決めつけをしていることはないでしょうか。私たちもコルネリオに出会う前のペトロのようになってはいないでしょうか。本当は福音の言葉が伝わるべき部分に対して、神を真に神とすることが出来る部分に対して、なお鈍感であり続けていることはないでしょうか。私たちにもまた調えられ、パイエティーを再び経験するべき余地があるのではないでしょうか。

 教会は度々、パイエティーを深められ、ああ信じるということは、伝道するということは、このようなことだと再認識させられる機会が度々あります。歴史をひもとくならば、今日のコルネリオとの出会いは、パイエティーが調えられ深められていく一つの歴史的出来事であると言えるでしょう。


*パイエティーによる改革

 さらにパイエティーが調えられ深められていく歴史的出来事として、16世紀の宗教改革を挙げることは間違いではありません。その時に先ほど名前を挙げたルターという人は、信仰によってのみ救われるという信仰義認の教えによって、福音を教会が受け入れる仕方を更に調えられ深められていくのが福音主義教会のあり方だと考えました。福音主義教会にも、整えられていくべき箇所を発見する、パイエティーが必要だと考えていたことになります。

 思い浮かべたのは、料理をするときに、小麦粉をボールに流し込んで、少し偏っているときにボールをたたいて偏りを調える様子です。強く揺さぶってはいけません。優しくたたくことによって、偏りが調えられていくのです。


 16世紀を経ても教会という名のボールを優しくたたき、中の小麦粉を調えていくわざはなされ続けました。大事な転換点は19世紀にあります。私たちの伊東教会は、19世紀に世界教会が経験した、もう一つの重要な歴史的出来事によって生まれた教会です。19世紀半ばに当時の欧米の信仰者達が集まって、世界伝道を始めようということになったのです。「福音同盟会」と呼ばれる運動は日本に教会を建てるに至りました。日本に渡ってきた宣教師達は、ボールをたたきながら教会を調え、やがて日本人に手渡したのです。

 因みに歴史的に、すべてのヨーロッパ教会がボールをたたきながら世界宣教を行ったわけではありません。例えばオランダ改革派教会は、南アフリカに教会を建てるときに、アパルトヘイトの仕組みを是認していました。その流れは20世紀末に至っても変わることがなく、いよいよアパルトヘイトがなくなるまさにその時まで、ずっと教会が積極的にこの制度を肯定していたのです。

 先週まで、世界教会協議会の総会がドイツで行われていましたが、その際にロシア正教会から議員を受け入れるかどうかということが事前に議論されました。ウクライナの教会は、ロシア正教会を正規のメンバーとして受け入れないでほしいと申し入れたようです。そして世論はそれを後押ししていました。にもかかわらず世界教会協議会は、ロシア正教会を会議のメンバーとして受け入れたのです。その際に、協議会の代表者は、次のように説明をしました。「私たちは対話のためのプラットフォームが必要であると考える。丁度アパルトヘイト問題で揺れていたときにオランダ改革派教会を私たちが受け入れたように、今回もロシア正教会を受け入れることとする。対話をするための受け入れなのだ」というのです。実際の会議に参加した知り合いの牧師によれば、会議の席上でロシアとウクライナが話を交わす場面は見ることがなかったといいます。またロシアの代表者が現在の状況について説明する言葉を聞くことがあったのだそうですが、その話をそのままウクライナに話したら関係が余計こじれるだろうなあ、というような無神経なことを発言していたと言っておられました。

 教会という名のボールは、なおも優しくたたかれ揺さぶられて、調えられ続けなければなりません。


*神様からのメッセージを受け取る

 今日の箇所の二節にある、「信仰心あつく」ということを、単純にお行儀の良い人という風にとらえることは、私たちの信仰を狭いものにしてしまいます。コルネリオは、「調えられ続けることを受け入れている人」であったのです。そしてこの意味では、ペトロ教会は、コルネリオに倣う必要がありました。なぜなら、ペトロ教会は、「サマリア人はともかく、異邦人になど伝道をする必要はない」というところで考えがストップしていたからです。今日の所ではコルネリオが幻を見ます。次回の所ではペトロが幻を見ます。幻を見ることを通じて両者の信仰が調えられていくのです。

 幻を見るということには、色々なものがあります。例えば若きエレミヤは、鍋が噴きこぼれる方角が北であったことから、北からの侵入者があると預言します(エレミヤ1)。またエゼキエルは、バビロンに強制移住させられた仲間達の多くが、すぐにエルサレムに帰ることが出来るという楽観論を支持している中で、自分たちが生きている間にエルサレムに帰ることは出来ず、そしてこのバビロンの地で死んでその骨は葬られることなく地上にさらされ、そして骨同士がつながって巨大な人としてよみがえるという幻を見ます(エゼキエル37)。少しまどろっこしくて、解釈が必要な幻もあるということです。先ほどの例でいえば、エゼキエルは夢のような形で空中に聖霊が引き上げたので、現実と間違えることはなかったと思います。その一方で、エレミヤの場合は、これは幻ではなくて、実際に鍋が噴きこぼれていたのでしょう。現実の一つの出来事を、祈りながら読み解くことで神様からのメッセージと理解したのです。

 21世紀に生きる私たちは、神様からのメッセージを直接受け取ることはなくなったと言ってしまって良いのでしょうか。私たちの教会では、私たちの教会は、聖書と説教、そして聖餐を通じて神様からのメッセージを受け取ると考えています。しかし、それ以外の出来事を通じて神様からのメッセージを受け取ることは実際にあるはずです。日常生活全体が神様からのメッセージの宝庫なのです。恐らく今日の箇所で、コルネリオの所に天使がやって来て、しかもわざわざ「はっきり見た。呼びかけられた」と記されているのは、コルネリオが鈍感な人で、他の形で神様のメッセージが発信されても気づかないからではなくて、むしろ他の様々な形で神様からのメッセージを受け取るのに敏感な人であったからこそ、神様は天使を使わして、はっきりしたメッセージをコルネリオに送ったのだと考えられます。コルネリオ、パイアスな人です。