引き上げられる生き方

2022/08/21(召天者記念礼拝説教 「引き上げられる生き方」

エゼキエル書37114節、ルカによる福音書147

                                                                          牧師 上田彰

 

 「私どもはこれから葬儀式を開始いたします。この葬儀において記憶され、記念されるのは、敬愛する故人であります、◯◯兄弟・姉妹です。しかしここにおいて崇められ、礼拝されるのは私どもの主、イエス・キリストであります。これから営みます式を、礼拝の形で行います。」

 私たちの教会で行う葬儀式は、このような宣言の言葉によって始まります。キリスト教の伝統的な、葬儀の開始を宣言する言い方です。「しかし」という言い回しが用いられています。強調されているのは、この式において「私たちの主がイエス・キリストである」ということがはっきりされるべきである、ということです。さらに広げて考えてみますと、次のようにも言えます。「私たちの主が誰であるか」が分かったときに、「葬られようとしている人は何者であるのか」がわかる、と。

 

 事柄がはっきりするように、聖書の中の知られている別の事例に平行移動してみたいと思います。

 時は今から2000年前、ナザレという小さな村のどこにでもいる一人の女性の住まいが、出来事の舞台です。そこに一人の天使がやって来て、こう告げるのです。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(ルカによる福音書128)。この呼びかけに対してマリアは、「マグニフィカート」として有名な曲にもなっている、歌によって、天使に答えます。

 彼女は自分の持っている最も美しい歌声によって、次のように歌います。「私の魂は主を崇めます」(147)。息を尽くして歌う歌声、内容を直訳しますと、「私の魂が主を大きくする」となります。「マグニファイ」には「大きくする」という意味があります。人間が神様をマグニファイするといえば、神様を崇め、礼拝をするということになります。マグニフィカートを歌うソプラノの歌い手を想像しながら、小さな人間が、その小さな体のどこにそのように大きな音量を隠すことが出来ていたのだろうと思わせるほどに人間は大きな息を蓄えることが出来ます。

 人間がため込むことの出来る息の元々の出所は神様にある、これが聖書の示す人間理解なのですが、ルカ福音書でもそのことが出て参ります。先ほどの「マグニファイ」という言葉には二通りの意味があって、マリアなど人間が神様をマグニファイすると「賛美」となりますが、神様が人間をマグニファイすると「祝福」となるのです。ちょうどマグニフィカートの歌の直後で、マリアの親類であるエリザベトの出産に際して、この言葉が用いられます。「主がエリサベトを大いに慈しまれた」(158)。

 語弊のある言い方かも知れませんが、人が風船を膨らませるように、神様が息を吹き込んで人間を大きくするというのです。大事なことは、息吹き込まれて大きくされようとしている人間は、真に大きなお方である主なる神によってそうされる、ということです。

 息を吹き込まれる根拠など何一つ無い、人生において自分が生きている価値をもし世間に示すとするならば、これからだろうという一人のうら若き女性が、主によって選ばれて、大きなものとされてしまう。

 人は生きていく上で、何らかの形で世間に名を残します。しかし主が慈しまれた一人の女性マリアが、推定ですが15才足らずであったことを考えると、人が世間で名を残すかどうか、などということは神様の前ではさして意味を持たないのではないか、と思わされます。ましてやこれから申し上げるように、どのような記憶を残した状態で地上で息を引き取るか、ということよりは、その息をそもそも与えて下さったお方についての記憶をはっきりさせておく方が、はるかに重要なのではなのです。

 「生きる」という言葉に元々「息をする」ということが含まれていることからもわかるように、息をすることは生きることの必須条件でありますが、同時に、息を吹き込んで下さるお方がいることによって、人は生かされるのです。大きくされていくのです。

 

 神様に息を吹き込まれることによって大きくされる。このことを紀元前6世紀の預言者エゼキエルは、次のように言い表します。彼の時代には、人々はどのような息づかいをして暮らしていたのでしょうか。時の王はエホヤキンといって、既に傾きつつあったイスラエル国家の命脈を保つために、大国バビロニアにすがることを画策しました。人々もまた、生きていくために大国に依存することはやむを得ない、生きていくための知恵に過ぎない、と考えていたのでしょう。バビロニアに従うということは、その国の宗教を多かれ少なかれ受け入れるということです。そのことを、生きていくための必然的な妥協だと見なすのが、当時のイスラエルの息づかいでした。主なる神から離れても生きていける、という楽観論が支配的であったとも言えます。

 しかしバビロニアはいつまでもイスラエルを守ってはくれませんでした。帝国は、イスラエルがバビロニアに反逆したことを理由にして攻め入ります。戦いに敗れ、強制的にバビロニア帝国の首都バビロンに連れて行かれる者たちが出始めます。いわゆる(第一次)バビロン捕囚に連れて行かれた者の一人がエゼキエルでした。彼自身は、祭司の家系に生まれた信仰者です。恐らく技術者などと共に働かされていたのでしょう。人々は、故郷から遠く引き離され、神殿という心のよりどころもない状態で、どのようにして信仰を保てばいいのか、途方に暮れていたに違いありません。そこで人々に信仰を持ち続ける仕方を教える役を引き受けていたのがエゼキエルなのです。

 労役を重ね、また祭司としての役割も果たして、多忙を極める毎日の中で、彼はふと天を見上げます。天を見上げる彼は一体何を思ったのでしょうか。戦いに敗れて帝国に強制移住させられた人たちの信仰的息づかいについて、エゼキエルは彼らが余りに楽観的であることに、疑問を感じていたのではないでしょうか。しかし言葉が見つからない。「自分たちはバビロニアに連れてこられてしまった。しかしここでなんとか生きていけるのではないか。生きていさえすればなんとかなるのではないか。そのうち帰ることも出来るのではないか」と考え、少しばかりの安寧を持ちかけている人々に、なんと声をかければよいのでしょうか。

 不安と迷いを感じながら天を見上げていたときに、1節にあるように、「主の手が私に臨み、連れ出された」、というのです。「引き上げた」という風に言い表すことも出来ます。よくいわれる言い方でいいますと、エゼキエルは「幻」を見せられたのです。この場合、彼はいきなり天国に行ってしまった訳ではありません。天国と地上の丁度中間の所にまで引き上げられた、と考えられます。「幻」と申しましても、いわゆる頭がハイになって幻影を見たとか、そういうことを言っているわけではありません。

 私たちの教会の信仰的指導者の一人であった松本廣牧師は、「いつも喜んでいなさい」という聖書の言葉を座右の銘のようにしておられた方ですが、その第一テサロニケの少し前を見ますと、信仰者は「空中で主と出会う」(417)という、いかにも不思議な表現を目にします。ここでいう「空中で」、というのは地上と天国の間において、エゼキエルのように引き上げられた状態において主と出会う、ということです。エゼキエルは、息吹き込まれ、また大きくされて幻を見ることが出来る高さにまで「引き上げられた」のではないでしょうか。

 ここでいう「幻」の意味についてこう考えてみましょう。エゼキエルは冷静になって天を仰ぎながら、このバビロンに来てからの自分たちの息づかいを思い浮かべています。「この異教の帝国バビロンは神様が使わす天使の大群によって一瞬にしてやがて滅ぼされ、私たちは意気揚々と帰ることが出来る。その時にはやっつけられて横たわっているバビロニア軍の兵士の頭を一つか二つ蹴っ飛ばしておきたいものだ、早くこんな捕囚なんぞ終わるといいなあ」。そんな風に浮かれ具合で自分たちの運命について考えている人がこの捕囚に連れてこられていた人々の中にもいる。しかし、もっと現実的に考えなくてはならないのではないだろうか。これから、もっと大規模な捕囚が起こるのではないか。すぐに帰れるはずの捕囚がそうはならず、むしろこちらに連れてこられる人が多くなったらどうなるだろう。気休め程度の楽観論によって不安を落ち着けてきた人々の気持ちが一気に爆発し、大きな悲観論に傾いたときに、テロとか戦争が再び起きるのではないだろうか。捕囚の民は帝国の首都バビロンにいる。その王様をやっつけるために城に攻め入って寝首をかけば、自分たちは故郷に帰れる、そんな単純すぎるシナリオが捕囚の民の間で支配的になっても不思議はない。帰れないままで戦争になってしまい、祖国の土地を踏むことなくここで私たち同胞は死体となるのではないか。しかしその先には一体何があるだろう。

 ここまではエゼキエルの想像です。このあたりで主の手が臨み、いわゆる「引き上げられた」状態となり、さらに次の、長い年月を経た将来の姿が頭に浮かんできたのです。それは、死体となった同胞が、葬られることなくこの土地で白骨と化したら、一体どういうことになるだろう。私たちの想像が及ばないようなことを、エゼキエルは「幻」として見ることになります。

 

 信仰者が敬意をもって呼ぶ、「預言者が見た幻」というのは、人々が漠然と抱く単純すぎるシナリオに対する神様の警告です。今日は時間がありませんので、現代社会における薄っぺらいシナリオの例について語るいとまはありません。ただ、感染症の到来、核保有国による公然とした軍事侵攻、そして週報コラムに記した事態と、私たちの国を取り巻く現状は余りに予測が立たず、本当にちょっとした力が加わるだけで大きくその未来図は変わってしまうという感じを抱かせます。その一方で、自分たちの国の未来について、とても良くなることはないが、とても悪くなることもないのではないか、という風な漠然とした楽観論が支配しているような気がしなくもありません。

 しかし、そんなに甘い物だろうか、という風に深く考え始めた預言者が目撃する、幻という名のシナリオは、バラ色と呼ぶことは決して出来ないものでした。小さな期待とか人間的希望を全て捨て去って現実を見るときに、捕囚は続き、この場所には同胞が倒れて死体が積もるのではないか。そのような現実を人々は受け止めることは出来るのか。エゼキエルは自分で答えを出すことは出来ません。しかし預言し続けなければなりません。バラ色の幻の預言を示すことは出来なくても、現実を見据えた幻の預言を語り続ける。現実から目を背けるのではなく、現実の中に、現実を超えた将来の形を見出す。これがエゼキエルの預言です。

 彼はおそらく今、盆地と思われる、ある開けた土地に自らを置いています。戦いがあるとしたらこんな所だろう。戦いが起こったら死体が山積みになるだろう。(そして引き上げられて)死体が白骨化したらこの場所は骨でいっぱいになるだろう。エゼキエルの幻の預言はこうして始まるのです。

 

 彼はその時に主の次のような問いかけを聞かざるを得ないのです。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」。この問いには二つの意味があると思います。まず一つは、この骨は生物学的な意味で文字通りよみがえって、再び息を取り戻すことが出来るか、という意味です。この問いに対して、人は普通「いいえ」と答えることになります。時々、仮死状態になっている人が葬儀に集まっている人たちがいる中、棺桶に横たえられている状態で目を覚まし、人々を驚かせるということが当時は起こりました。いわゆる「蘇生」です。ここでは骨になっているわけですから、蘇生は絶対に不可能です。その意味で、「いいえ」と答えねばならない所です。ところでこの「骨」にはもう一つの意味があります。それは、亡くなってしまい骨となって野にさらされている人たちに関する記憶は、完全に失われてしまっている、ということです。誰も葬られないままで長い年月が経ってしまっているのです。ですから主の立てた、「これらの骨は生き返ることが出来るか」という問いのもう一つの意味は、「この骨となった元の人たちに関する記憶は、取り戻されるものなのか」、という意味であることになります。

 問われたエゼキエルは戸惑っています。どちらの意味で「生き返る」と主はおっしゃったのか、にわかには判断がつきません。またそれら二つの意味の「生き返り」がどのようにして起こるのか、想像もつかないのです。彼はそこで、小さなため息をついてこう答えたのです。「主なる神よ、あなたのみがご存じです」。

 主はここで深く息を整えて、歴史の中に生きる人類が記憶に刻むべき、次のような命令をお命じになります。

 あなたは、自分の目の前に広がっている骨に対して、預言をする姿を想像しなさい。「主なる神が骨であるお前達に向かって息を吹き込んで下さるぞ、と。お前達は生き返るがよい、お前達はその息を吹き込んで下さったお方こそが主なる神であると知ることになる」、と。

 

 「主なる神が誰であるかを思い出す」。これはその人が、自分が何者であるかを知るために、また互いに何者であるかを知るために、決定的に重要です。少し不適切に思われるかも知れませんが、現代アメリカの兵士達の装備品の一つを思い出しました。戦場に向かうときに身につけることになっている、IDタグ、身分を明かす金属製のプレートです。やや自虐的にドッグタグと仲間同士で呼ぶその金属製の小さな板は、不幸にも戦死してしまった兵士の遺体識別に用いられます。そこには氏名と性別、血液型のほかに社会保障番号に加えて、その人の宗教が刻まれています。亡くなるときに、どのような葬り方をすべきかを、仲間に示すのです。

 気がつかされるのです。目の前に広がる盆地に、戦いの後長い年月もの間そのままになっている白骨に対して、主なる神が息を吹き込んで下さった時に、どのようなよみがえりが起こるのかを。無数の骨が筋と肉を伴って息を始めたときに、そこには失われていた記憶が大いに復活することを。一人一人の生まれたときからの記憶が、一人一人の家族や友人との記憶が、よみがえるのです。そして人が記憶する最大の記憶とは何でしょうか。それは自分の主は誰であるか、ということなのではないでしょうか。

 骨の元となった一つ一つの遺体、いえ一人一人の同胞が、自らが信じた神を思い出し合うようにして、彼らはよみがえるのです。今日の聖書箇所で示されたエゼキエルの幻、将来の姿は、一人一人の亡くなった方が、今まで通りの人生を送れるようになるというような、いわゆる蘇生を言っているわけではないようです。10節にはこうあります。「彼らは生き返ってそれぞれが自分の足で立った。そして彼らは非常に大きな集団となった」。蘇生以上のことが起こっているということがはっきり分かるように、息を吹き返した後の一人一人が手と手を取り合って語り合い、記憶と記憶を再び結び合わせる姿の再来を示しているのです。

 先ほど、テサロニケの信徒への手紙を引用しながら、「空中で主と出会う」という言葉を紹介しました。エゼキエルが引き上げられるのと同じように、私たちもまた引き上げられて地上と天国との中間地点で、私たちの主が誰であるのか、そのお方とお会いするのではないでしょうか。手を取り合うような仕方で引き上げられるのではないでしょうか。

 

 ここで、私たちの教会にこの一年の間に新たに加えられた召天会員の方々のお名前を読み上げたいと思います。堀越良子姉妹。雲野福寿兄弟。室伏恵一兄弟。稲葉巌兄弟。山道愛子姉妹。これらの方々を加えて、召天者名簿を通じて私たちの教会が覚える信仰の先達の数は363名です。

 

 私たちの教会は、「引き上げられる」経験を共有するために、葬りを重んじている教会です。地上で息絶えてからも、天の御国への道のりを先に始めている兄弟姉妹と共に生き、共通の記憶である主なる神への礼拝を捧げ続けること、これこそが、宗教の、いえ人間の営みの本質であるということを知っているからです。363名の中には、以前の逝去の情報が、数年後にわかるということもあります。最近ですと、長く連絡が途絶えていた召天会員のご家族との連絡が再開され、召天者記念礼拝に掲げる写真を提供していただける、ということもありました。いずれもが、「息吹き返し、私たちの主が誰であるかを知る」ことの尊さを思い起こさせるものです。しかしそれ以上に、地上において息吹き込んで下さり、引き上げて下さる方を覚えて礼拝を献げたのと同じように、礼拝を捧げ続けるような仕方で御国への道を進み続ける信仰者の姿を私たち自身が思い、私たちも大いなるお方、大きくして下さるお方に感謝をしたいと思います。