深呼吸の必要

2022/07/03(三位一体後第三主日聖餐礼拝

 使徒言行録説教第26回「深呼吸の必要」(919) 

牧師 上田彰

 *言葉で深呼吸する

 長田弘という詩人がいます。今から30年ほど前、私がまだ高校生の頃に、新聞の文化面にエッセーを載せておられたのを読みました。代表作である詩集のタイトルが印象に残りました。『深呼吸の必要』というタイトルです。これと同じタイトルの映画がその後撮影されました。映画の方が、この「深呼吸の必要」という言葉を聞いた時に人が普通想像する内容だと思います。沖縄のサトウキビ畑で働く若い男女の青春ドラマといった様相です。つまり、どんな人でも確かに深呼吸が必要で、都会の喧噪の中ですり減ってしまった心を、自然の中で深呼吸を通じて回復する――、その必要性について皆が気づく、という訳です。私もまた、詩集そのものを開くこと無く、なんとなくそのような印象で思っていました。そういう風に思い込むにいたる状況も覚えています。高校生の頃です。自分が一体何者になるのか。今考えれば期待だけしていればいい年頃なのですが、しかし実際には不安ばかりを持っていた様な時期に、深呼吸が必要だという言葉は、自分にとってとても印象深いものだったことを記憶しています。


 今日扱います聖書の箇所は、私自身が神学校に入る前から印象深く繰り返し読んでいた箇所です。「意気込んで」という言葉を以前の翻訳では「息を弾ませながら」と表現します。「鼻息荒く」とも訳すことが出来るかも知れません。サウロもまた、鼻息の荒い人物でした。当時の年齢で30歳過ぎだと思われます。最初にこの箇所を読んだ時には当時のサウロよりも若かったのに、この箇所で実際に説教をする今となっては、サウロよりも年が上になりました。そしてそのいずれの時にも、このサウロに深呼吸が必要だという考えは、変わっていません。

 しかし『深呼吸の必要』というこの本をもう少し知った時に、長田弘はこの言葉についてもっと深く考えていることに気がついて、驚きました。この詩集には、「深呼吸の必要」というタイトルの詩そのものが収められているわけではなく、詩集全体のタイトルが「深呼吸の必要」となっています。従って、「深呼吸の必要」という言葉について作者の考えを知るには、後書きを見ておく必要があります。そこにはタイトルの意図が作者自身によってこう記されています。

 言葉を深呼吸する。あるいは、言葉で深呼吸する。そうした深呼吸の必要をおぼえたときに、立ちどまって、黙って、必要なだけの言葉を書きとめた。そうした深呼吸のための言葉が、この本の言葉の一つ一つになった。

 つまり、深呼吸をするためには「言葉」が必要だ、というのです。普通私たちは、深呼吸のためには新鮮な空気が必要だ、と考えます。例えば宗教の立場でも、仏教の座禅やあるいはヨガには深呼吸についての教えが含まれています。しかし一人の詩人は、深呼吸のために必要なのはむしろ「言葉」なのだ、というのです。私たちが色々な理由でこの世の出来事に疲れ切ってしまっている時に、自分の中の古い何かを交換して新しい何かを取り込む、これが呼吸ということに他ならないのですが、私たちが交換すべきものは、二酸化炭素が多めに含まれている体の中の空気と酸素が多めに含まれている外の空気というのではない。むしろ現実の中を空回りする私が、現実の外にあるみずみずしい言葉に触れることによって空回りをやめ、現実をしっかりとつかみ取るために、「言葉による深呼吸」が必要だ、そんなことを教えてくれるのです。

O2(酸素)を取り込むのではなく、「言葉」を取り込む呼吸

 もっと時間があれば、もっとこの詩集について共有したいとも願います。しかし今日は先に進むことにします。


 *言葉による深呼吸の必要、サウロの場合

 サウロが鼻息荒くダマスコへの道を歩いています。手には縄を持って、そして心には彼なりの正義心を携えています。ステファノ事件と言われる最初の迫害の出来事は、迫害される側である教会にも大きな変化を与えましたが、迫害する側であるユダヤ人にも大きな変化を与えました。最初の迫害をきっかけにして、キリスト者の神殿との関係は大きく変化しました。エルサレム市内にある神殿にキリスト者が近づき、以前のようにその前庭で説教をすることは事実上出来なくなりました。後にユダヤ教は、キリスト者に対してシナゴーグ、つまり各地にあります礼拝堂に立ち入ることを全面的に禁じるようになりますが、この使徒言行録の段階ではその禁止令は出ていません。古くはイエス様ご自身がシナゴーグに立ち入って、そこで説教をなさいました。広い意味のユダヤ教の男性メンバーであれば、誰でもシナゴーグで説教をすることが出来たのです。しかしサウロは、シナゴーグに教会の関係者が立ち入ることはステファノ事件以降あり得なくなったはずだ、と考えました。今日の箇所(2)で「男女問わず」と書かれているのは、シナゴーグにおいて説教が許されていた男性ばかりでなく、それを聞いているの中で、イエス・キリストを主と仰ぐ者たちは、すべからく逮捕する、ということを意味しています。

 パウロの荒い鼻息とは別に、この時点で、依然としてキリスト教(ナザレ派とかイエスはと呼ばれていた)はユダヤ教の一派だと見なされていました。キリスト教はこの時点でキリストの復活の日である日曜日の礼拝には移行しておらず、まだ安息日である土曜日に一番重要な礼拝を献げていた可能性が高く、見た目ではっきりとナザレ派を他の分けることは出来なかったはずです。シナゴーグにはサウロが属していたファリサイ派の他にサドカイ派や、それ以外のグループがいました。

 しかしサウロは鼻息荒く、ナザレ派を見分けることは可能だと考えていました。それはあのステファノのように、尋問をすれば自分たちがナザレのイエスをキリストであると告白し、神殿を冒涜する言葉を口にするに違いないと考えていたからです。そこで彼は、エルサレムの大祭司であったカイアファの所に行って、ダマスコにあるシナゴーグでナザレ派を見かけたならば逮捕して良いという書状をしたためてもらい、それを手に北に向かったというのです。

 現代の研究によれば、逮捕許可状をローマから使わされた総督と無関係に神殿に仕える祭司が発行が出来るかどうか、かなり怪しいと言われています。例えばイエス様を死刑にしようとユダヤ人達が画策した時にも、まず最高法院で死刑判決を出した後に、総督のところに連れていって、総督を半ば脅迫して、総督自身が死刑判決を出したという形にさせて十字架刑は執行されました。細かいことをいいますと、十字架刑はユダヤ人達が非ユダヤ人、つまり異邦人に対して行う処刑方法です。それに対して、ステファノに対する死刑が石打ちの刑であったというのは、ステファノはユダヤ人という自分たちの身内なので、自分たちユダヤ人が勝手にその命を処理して良いという理屈で殺してしまったのです。

 従ってサウロが持っている書状とサウロの意気込みには、本来は矛盾が含まれています。ナザレ派はユダヤ教ではないので逮捕して良い、ということが大祭司の署名で許可されている、というのですが、サウロの考えによれば、そのようにして逮捕された者はユダヤ教内部の処理として石打ちによる死刑へと追い込むことが出来る、というのです。冷静に考えると矛盾があるのですが、しかしサウロは会堂内にナザレ派、つまりキリスト者がいればユダヤ教メンバーではないという理由で逮捕し、ユダヤ教内部の出来事として死刑に追い込むことは出来る、と考えたのです。どさくさ紛れにそう考えたとも言えますが、おそらくは迫害をすべきだと息巻くユダヤ人達共通の理解でもあったのでしょう。

 こういったことは私たちの周りで極めて容易に起こっているのではないでしょうか。あるテーマについて、一時期は皆が熱狂的に論じていたのに、それが時期を過ぎると誰も論じない、というようなことが幾つも転がっています。そして私たちが忘れたそれらの出来事によって被害を被り、社会的に抹殺され、場合によっては生命そのものが抹殺されるということさえ起こっています。どさくさ紛れに何かをすることが許されない、という訳ではありません。しかし責任を最後まで取らずに息巻くのがユダヤ人ばかりでなく人間の性(さが)なのだということは記憶しておく必要があります。そのことも含めて、私たちは「言葉によって深呼吸」をしなければならないと思うのです。


 *鼻息荒く

 さて、このサウロの鼻息が荒かったことは、単にどさくさ紛れに今流行りのナザレ派迫害の波に乗っかろうというような単純なものではなかったように思います。彼の中にある本質的な正義感が、キリスト者の迫害へと彼を駆り立てました。元々はファリサイ派の中ではガマリエルという、比較的穏健な師匠について学んでいたサウロですが、師匠の思いを超えて自分と違う考えの者を許容しないという、過激な思いへとサウロが向かっていったのは、彼自身の傾向であったとも考えられます。そのような傾向を加速させたのが、つい最近目の前で聞いたステファノの説教です。

 ステファノの説教には、既成のユダヤ教に対する、ある種の挑発が含まれています。それは、既成のファリサイ派やサドカイ派といったユダヤ教の主流派は、ユダヤ教の本当の精神に到達していない、平たく言えばユダヤ教のメンバーに向かって、あなた方は本当のユダヤ教が分かっていない、という発言をしているのです。

 この言葉がステファノが石打ちの刑にあった直接の理由となったことについては、ほぼ間違いの無い所でしょう。問題は、その迫害する者たちの心理です。二通り考えられます。それは一方では、自分たちはユダヤ教の心理を間違いなく会得し、体現している。従ってステファノは間違ったことを発言しており、死刑になるのは当然だ、という考え方です。そして他方にあるのは、全く別の可能性で、もしかしたらステファノが言うとおり、私たちは本当は真理に到達していないのではないか、という焦りのようなものをステファノの説教を通じて心の中に持ち、その焦りを打ち消すためにあえて石打ちにした、という考え方です。

 この二つの考え方の違いは、今日の箇所でサウロが遂げた回心の意味の理解の違いにつながります。つまり、サウロが今まで全く考えたこともなかった十字架による救いということを、主の光が照らすことによって教えられたということなのか、それとも、サウロは律法によって救われるという考え方に無理があることは既に薄々気づいており、主の光が照らすことによって、律法による救いではなく十字架による救いという考え方を教えられた、ということなのか、という違いです。これは信仰的な救いの体験ということをどのように考えるのか、という違いにもつながってくることになります。

 一つの推測ですが、サウロが鼻息が荒かったことは、100%の正義感、ファリサイ派は絶対的に正しくてナザレ派は絶対的に間違っていて、迫害は絶対的に正しいということではないのではないか、と考えられます。100%正しいと考えている人はもっと冷静で、鼻息を荒くしてまで迫害に駆り立てられることはないのではないでしょうか。

 よく回心という信仰的な体験のことを、180度の転換という風に言い表すことがあります。それはキリスト以外のものによる救いからキリストによる救いなのですから、正反対であることには間違いはありません。しかし、見方によれば、その転換は180度というよりも、ずっと小さな、わずか1度の転換でもあるのではないでしょうか。私たちは次分でその1度の転換を遂げることが出来ない。自分の力によって救われるという考え方から逃れることが出来ず、鼻息を荒くしている。

 しかし、主が光に包まれたサウロに対して話しかけて下さるのです。言葉による深呼吸を促して下さるのです。それまで救いへの憧れを持ちながら、その救いを自分の力によって達成しようという考え方から抜け出ることが出来なかった、そのサウロに深呼吸を可能にさせたのは、主イエス・キリストによる呼びかけの言葉でした。

私たちの救いにいたる回心の体験は、人によって様々です。よく想像される、劇的な回心の体験を持っていないという風に言う人もいると思います。しかし考えてみると、サウロからパウロへの回心の出来事は、決して劇的な体験ではなく、実はわずかな違いに気づかされたということでもあるのです。あなたが救いを達成するのではなく、キリストが達成して下さる救いに与るのだ、そのことに気づくことが誰にとっても洗礼の志が与えられる共通体験なのであり、その意味でサウロ、いえパウロの回心の体験は私たちの体験でもあると思います。そしてパウロに対して呼びかけられる主のみ声は、私たちに対しても向けられています。今日の出来事を15年以上後に振り返ったパウロが、ガラテヤ教会に宛てた手紙の中で、次のように記しています。

 「しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」(1:15~16)。サウロがパウロになった時に、今までAであったものがBという全く別物になったというのではなく、生まれた時から救いの中にあることをある時に主に示していただくことによって明らかにされた、それがダマスコ途上の体験なのだ、と振り返っています。どんな人であっても救いにいたる道筋は色々です。全くキリスト教の背景のない所から信仰に入る人もいることです。しかし、どんな人であっても生まれる前から神様に選び分かたれていて、その選びに気づくような仕方で信仰へと導かれています。(そのような仕方で守られ続けた一人の兄弟を、棺に収める仕方で今日は共に礼拝を守っています。)

 これから持たれる聖餐式が、私たちを生まれる前から守って下さるお方による呼びかけであると信じて、与りたいと思います。