なくならない贈り物


 2022/06/19 三位一体後第一主日礼拝  

「なくならない贈り物」創世記1718            牧師 上田文



我が家の娘は、名前の他に呼び名を持っています。私は、彼女が小さい頃から「大好きちゃん」と呼んで来ました。最近、本屋さんで、また立ち読みをしたのですが、この「大好きちゃん」という呼び名は、とても良い効果がある事を知りました。本は「天才を育てた親はどんな声をかけていたのか?」という本なのですが、この本がおもしろいのは、歴史の専門家と子育ての専門家によって書かれているというところです。本には、アンデルセンやエジソン、ダーウィンなどさまざまな偉人の生涯と、それを育てた親の言葉が出てきます。この親たちの言葉には共通点があります。それは、子どもの心を受け止めたり、サポートしたり、今ある現状を肯定したりする言葉にあふれているという事です。その中で、とても関心を持ったのがダーウィンを育てた親の言葉です。ダーウィンは医者を目指していましたが、外科手術の実習中に逃げ出してしまい、医者になることをあきらめ、また、牧師になろうとしましたが、神学部の授業についていけず、さぼりまくり、牧師にもなることも出来なかった人です。彼は、何をやっても上手くいかない、落ちこぼれのダーウィンなのでした。学校に上手くついていけないダーウィンは、結局、森で昆虫採集をはじめます。その昆虫採集の結果、彼が30歳の半ば頃、生き物には進化があることに気づいたのだそうです。この30歳の半ば頃まで、彼は落ちこぼれのダーウィンだったわけです。このダーウィンの人生を見て、子育ての専門家はこのように書いています。人生は長いし、挫折する事は普通である。それよりも、その中で自己否定をしないことが大切である。親は、子どもの現状をあるがままに肯定することが大切である。本には、何をやっても上手く行かない状況にある人に架ける言葉が紹介されていました。「がんばっているね、ありがとう、大好き」という言葉です。結果が出ない人でも、頑張ってない人はいない、その努力をみつけてあげること、また自分の事が肯定出来ない時に、あなたは役に立っているという事を知らせることが大切なのだそうです。そして何より「大好きだよ」という言葉をかけて欲しいと書かれていました。なぜなら、「がんばったね」や「ありがとう」は評価する言葉なのに対して、「大好きだよ」は、存在自体を肯定する言葉だからだとありました。確かに、「君が大好き」「いてくれて嬉しい」という言葉は、自分はここにいて良いのだと安心し、自然にエネルギーが湧く言葉のように思います。

 今日の聖書箇所には、アブラハムの話が書かれています。アブラハムもまた、何をやっても上手く行かない人でした。しかし、教会では、彼を「信仰の父」と呼んでいます。それは、彼が神さまの恵みと導きの中を歩き続けたからです。失敗だらけの、何をやっても上手く行かない彼を、神さまはどのように恵みに導かれたのでしょうか。どのように、声を掛けて「信仰の父」となるまでに育てられたのでしょうか。今日は、神さまが与えてくれる、恵みの導きについて、聖書に耳を傾けたいと思います。


聖書の冒頭には、「アブラムが99歳になったとき」とあります。アブラムが神さまの召しに答えて見知らぬ地に旅立ったのが75歳でした。そして、示されたカナンの地に着いた時、神さまはアブラムに「あなたの子孫にこの土地を与える」と約束してくださいました。それから、もう既に24年の月日が経っていたのです。やはり、自分たちには、子どもが与えられないのだろうか。頑張って、旅をしている割には何も出来ていないのではないか。自分は土地一つ持っていないではないか。自分は、何をやっているのだろう。何も残す事のないままに、年ばかりを重ねてしまうのだろうか。アブラムは、不安になったと思います。そのようなアブラムに神さまが現れてくださいました。そして、「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」と言われました。「全き者」というのは、「完全な者」という意味なので、神さまとの関係において、完全な者という事が出来ます。神さまとの関係において「完全な者」とはどのような事でしょうか。それは、この文章全体から読み取る事ができます。「全能の神」は、すべての事を知っており、全ての事が出来る神という事です。この神さまが、「わたしは全能の神である」と教えてくださるという事は、神さまがアブラムと私たちの全能の神となってくださるという事です。また、「わたしに従って歩き」とは、「私の顔の前を歩み」と訳すことが出来る言葉です。つまり、あなたの全てを知っており、あなたを祝福し、繁栄をもたらす事の出来る大いなる力を持つ神に繋がれているあなたは、神さまの前で、裏表のある生き方をする必要はないはずである。あなたの神である私を信頼して、神さまの前で裏表なく歩みなさいと言われているのです。


 アブラムは、この言葉を聞いてハッとしたと思います。彼には、心あたりがあったのです。この聖書箇所の前には、このように記されています。「ハガルがイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった」。アブラムは、将来に対する不安の中で、子孫の繁栄と土地の授与の約束をしてくださった神さまを疑い始めたのでした。そして、自分の力で子どもを作ったのでした。アブラム夫婦は、サライの女奴隷であるハガルに子どもを産ませました。神さまの計画ではなく、自分の思いを優先させてしまったのでした。アブラムは、「全き者となりなさい」、神の前で「裏表のない生き方をしなさい」という言葉を聞いて、神さまの約束を信じずに背き、神さまの御前を歩いていない事に気づかされたのでした。しかし、神さまは、疑ったり背いたりするアブラムを、見捨てたりはされません。神さまは、再び祝福と契約の言葉を与えてくださるのです。「わたしは、あなたとの間に私の契約を立て、あなたをますます増やすであろう」と言われるのです。アブラムはその恵みにひれ伏すしかありませんでした。

 

アブラムの疑いや背きは、私たちが犯す疑いや背きでもあるように思います。私たちにもまた、神さまは現れてくださり、名前を呼んで下さり、洗礼を授けてくださいました。神の国に生きる者としてくださり、永遠の命を与えてくださいました。そして、私たちは、その神さまと共に生きる者とされています。独り子を十字架につけられ、その死によって私たちの罪を赦し、復活を通じて、私たちに新しい命を与えてくださる神さまの約束を信じて、私たちは洗礼を受け、神さまと共に歩む者とされたのです。しかし、その神さまの約束を、私たちはいとも簡単に疑い、そして神さまに背くことがあります。自分の思いを優先させて、自らの力で教会から離れてしまいます。礼拝に出席し、見た目は正しい教会生活をしているように見えても、罪を犯す事があります。神さまに従っても、自分が思い描くような状況にはならないではないか。不安や苦難はなくならないではないか。神さまは、何をしておられるのだろう。神さまは約束をお忘れなのではないか。いや、神さまなんて本当はいないのではないか。そのように疑い始め、神さまの計画ではなく、自分の計画で現状を変えようとする事があるように思います。苦しい現実のなかで、神さまをそっちのけにして、別の手立てを考えてしまうのです。しかし、そのような私たちにイエスさまは、「あなたがたの天の父が完全であるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ548)と教えてくださいます。全能の神さまが、隠す事なく、全てを捧げてあなた方と共にいてくださるので、あなた方も、その神さまを信頼して、裏表なく、全てを捧げて神さまの御前を歩みなさい。神さまの救いに与っているあなたたちは、そうする他にないはずであると言われるのです。そして、疑い、不安の闇の中に引き込まれる私たちを、祝福の中に再び引き戻してくださるのです。私たちもまた、アブラムのように、この恵みにひれ伏すしかありません。


疑い背いてしまうアブラムに「全き者となりなさい」「あなたは、疑う必要などないはずである」と声をかけ、神さまの前に引き戻してくださる方は、さらにアブラムに名前を変えるように命じられました。4,5節には、「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである」とあります。アブラムもアブラハムも「高められた父」という意味があります。しかし新しい名には一文字が加わり、これからはアブラハムとなる。それは、「諸国民の父」となるのだと神さまは言われます。「ハーム」には、もろもろの民という意味があるので、アブラハムは「諸国民の父」となるのでしょう。しかし、名前を変える事に何か意味があるのだろうかと考え込んでしまいます。神さまでなくても、名前を変えることは、どこでも行われることです。占いの世界では、よくある事と聞きます。ここで、大切なのは、名前を変えるという事ではなくて、神さまがアブラムにアブラハムという名前を与えてくださったという事です。以前、名前というのは、その対象と関係を持つために必要であるという話をしました。人が、動物にどのような名前を付けるのかを神さまは見ておられた。それは、人が動物とどのような関係を持つかを見ておられたからであるという話であったと思います。この名前を付けるという行為を、今回は、人ではなく神さまがしてくださったのです。神さまが、アブラムとさらに深い関係を持とう、アブラムが、いつも神さまと共に生きる者になれるようにしようとしてくださったのでした。

神さまが名前を呼んで下さるという事について、もう少し考えてみたいと思います。もし、神さまが、私たちの名を呼んでくださらなければ、どのような事がおこるでしょうか。私たちは、世の中を生きています。また、私たちはどうしたって、この世的な考えしか出来ません。神さまが、私たちに呼びかけてくださらなかったら、私たちは、永遠に神さまを知る事が出来ません。また、神さまが私たちの名を呼んでくださらないということは、神さまがこの世に生きる私たちと交わりを持とうとされていないという事になってしまうかもしれません。神さまは、ご自分一人だけでも十分満たされる事が出来る方なので、そのような事も出来たと思います。しかし、神さまは私たちの名を呼んでくださいました。そして、あえて「私たちの神さま」になってくださったのです。この全能の神さまが「私たちの神さま」になってくださったということは、私たちが生きて、感じて、経験する世界に、神さまが入って来て下さり、この世界の根源的な力になってくださったということです。神さま自らが、世界のすべてを救う方となってくださったということです。しかし、私たちは、神さまに呼ばれないと、世界の根源的な力となってくださる神さまに出会う事が出来きません。そして、神さまの計画とは全く違う、的外れな生き方をしてしまいます。全てを知っておられる神さまから見れば、力一杯、危ない失敗の道に突入している事だってあるのかもしれません。けれども、この困窮と苦難に満ちた世界で、神さまが私たちの名前を呼んでくださるとき、そこに、神さまとの関係が開かれるのです。神さまは、私たちの名を呼んでくださることによって、何とも出来ない私たちの生活の場所に入り込んで来てくださり、私たちの生活の場所を神さまの歴史の中を歩む場所に変えてくださるのです。


また、「アブラハム」には「諸国民の父」という意味があると言いました。アブラハムには、まだ子孫も土地も与えられていません。しかし、神さまは「わたしはあなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする」と告げられました。説教の冒頭で、私は娘を「大好きちゃん」と呼ぶという話をしました。私は意識していませんでしたが、娘はこう呼ばれることで、「私がいるだけで、皆、喜んでくれる」「私は、ここにいていいんだ」と安心しているのかもしれません。そのことを神さまは知ってくださっていたのかもしれません。アブラハムは、これからも、迷い、思い悩むと思います。神さまに背いてしまう事もあると思います。このままで良いのだろうか。子どもも土地もないままで終わってしまうのではないだろうか。神さまは、自分の事を忘れてしまったのではないかと不安と心配の毎日を送ると思います。しかし、神さまがその度に「アブラハム」と呼び掛けてくださることは、アブラハムが「いつか神さまによって子孫の繁栄と土地の授与が行われる。苦しい毎日だけれども、神さまのご計画の中を、神さまと共に歩く救いの日々なのだ」と神さまの約束を思い出すことに繋がるのでした。アブラムの名前をアブラハムに変えなさいという神さまのご命令は、神さまを信じないアブラムに、いつも信じる道を与えるための、招きと恵みの導きなのでした。


このように、神さまに呼びかけられ、約束を与えられているのは、アブラハムだけではありません。私たちを救うために十字架に架かられ、復活してくださったイエスさまは、私たちにこのように言われました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ26:18-20)。神さまとイエスさまの前で、そのまなざしを意識しなければ、この言葉は理解出来ないように思います。人間の可能性や、力だけで考えると、イエスさまの約束は笑い飛ばすしかなくなります。家族の一人に対してすら神さまを伝える事が出来なくて悩んでいるのに、すべての民をイエスさまの弟子にする事なんて出来るのかと考えてしまします。神さまの目ではなく、人間の目を気にする時、私たちは、なかなか神さまの言葉を人に伝える事が出来ません。「世の終わり」なんて、変な新興宗教と間違えられるのではないかと気になって、信じることが出来なくなります。私たちは、神さまの目を意識して、神さまの目の前を歩むのではなく、人間の目を気にして、結局、神さまから離れ、悩み、落ち込み、神さまを疑い始めるのです。

しかし、新約聖書の最初のページを見て下さい。イエス・キリストの系図が書かれています。アブラハムから始まり、ダビデを通って、イエスさまにまで繋がっている事がわかります。神さまは、アブラハムの約束を、とても長い年月をかけて果たしてくださいました。この長い年月の中には、神さまとの約束を守る事が出来ない者もいました。しかし、それでも神さまは、約束を守れない者たちの前に現れてくださり、見捨てる事なく、約束を守り続けて下さったのでした。そして、この約束は、イエスさまによって引き継がれています。教会の頭であってくださるイエスさまは、世の終わりまで、永遠に、私たちと共にいてくださることを、全世界の主の民にむけて語ってくださいました。私たちは、このイエスさまに名前を呼ばれているのです。イエスさまが、私たちの生活に入り込んできてくださり、神さまの歴史の中を生きるものとしてくださったのです。イエスさまに繋がれた私たちは、神さまの約束へと導かれています。私たちは、どのような状況にあっても、神の国を目指す者とされているのです。イエスさまに名前を呼ばれる私たちは、もうすでに、神さまの前を歩く「全き者」とされているという事です。神さまが、もうすでに私たちを捉えてくださり、神さまの御前を歩く「全き者」としてくださっているのだから、わたしたちは、この愛を信じて「全き者」と変えられるのです。


最後に、私たちがいつも礼拝で聞く、神さまの招きの言葉を読みたいと思います。

「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。」「主がすべての災いを遠ざけて、あなたを見守り、あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出(い)で立つのも帰るもの、主が守ってくださるように。今も、そしてとこしえに」。私たちは、もうすでに神さまの御前を歩く恵みを頂いています。この事を疑うのではなく、信じる者とされ、神さまの祝福の中をあるくアブラハムの子孫とされています。この神さまの変わらない約束に感謝し、神さまの呼びかけに応えたいと思います。そして、いつも神さまに養われ、新しく変えられ、成長させて頂きながら、生き生きと喜んで歩んでいきたいと思います。