視界良好――目を覚ますドルカスと教会の旅

2022/08/07 三位一体後第八主日聖餐礼拝 

使徒言行録説教第30回 93240 

「視界良好――目を覚ますドルカスと教会の旅」 牧師 上田彰


*視界良好

 パラグライダーのサイトを見ておりますと、時々出てくるのが「視界良好」という言葉です。空を飛ぶことを思い出しながらこの言葉を綴る体験者は、どのような思いで「視界良好」と発進するのだろう。先日の聖書箇所から今日の聖書箇所への橋渡しを考えながら、ふと思いついたのが、そんな問いです。

 31節は、使徒言行録全体の第一部の終わりです。そして第二部への橋渡しでもあります。ここで使徒言行録としては初めて「平和」という言葉が出てくるのです。教会の伝道が広がっていく様子をパラグライダーに乗って眺めるならば、それまではエルサレムとその周辺、すなわちユダヤ地方に留まっていた神様の御言葉が、伸びやかに広がっていく様子を想像することが出来るかも知れません。8章においては、特に当時の教会が願っていたサマリア伝道がついに実現した様が記されていました。北東のサマリア地方へと御言葉が広がり始めたのです。そして地図上でさらに北へと線を延ばしていくと、ガリラヤに突き当たります。ガリラヤといえば、イエス様とその弟子たちが活動した場所です。ここ-かしこに、伝道の広がりを確認できる足跡が広がっていく。そんな様子を、「視界良好」と口にしながらパラグライダーに乗って眺めている。

 「視界良好」という言葉を辞書で調べると、こうあります。「視界良好な」と使う場合は「障害物などがなく、よく見える」状態のことで、「視界良好となる」だと「それまでより遠くのものがハッキリと見える」ことだ、とあります。少し詩的な言葉で言い換えると、こうなるかと思います。視界良好には、地図で分かる視界の広がりと、時計やカレンダーで分かるような視界の広がりがある、と。地図で分かる視界良好とは、今までの伝道の蓄積を振り返り、私たちの教会の言葉が広がってきた様子を示す、実績から来る「視界良好」です。時計やカレンダーで分かる視界良好とは、「これから私たちの教会はさらに広がるだろう」という、期待を込めた「視界良好」です。実際にこの第一部は、サウロ、すなわち後のパウロの登場を示唆する所で終わります。教会はこの偉大な伝道者を得て、大きな転換期を迎えている。「平和」という言葉は出てきましたが、実態が十分伴っているわけではありません。全てのキリスト教弾圧や迫害、無理解が取り去られ、順調に伝道が進んでいる、という訳ではありません。しかしにもかかわらず、「これから」のことを考えると大きな期待に胸が膨らむ。使徒言行録第一部の終わりに当たって、パラグライダーに乗ったつもりで想像したときに、おもわず「視界良好」と口にしてしまう心境です。


*再び、地上へ

 パラグライダーから見た地上というのはどういう光景なのでしょうか。高さ500メートルまで上ると、地上はどのように見えるかと言えば、人は小さなごま粒のように見えるはずです。特に精力的に動いている一粒のごま粒に注目することから、使徒言行録第二部は開始します。

 そのごま粒のような伝道者の名前はシモン・バルヨナ、あるいはケファといいます。ケファというのはヘブライ語・アラム語の言葉で、「岩」という意味です。むしろギリシャ語の呼び名である「ペトロ」の方が有名かも知れません。

 パラグライダーから見ているだけでは、御言葉が地上において広がっていく様子をきちんと把えることは出来ません。一旦地上に立ち、この一人の伝道者の足跡を追っていきましょう。

 ペトロは今、リダ(現在のロード、最後のページに地図あり)に着きました。これはサマリアの中にある村の一つです。8章の段階からはかなり時間が経っているように思います。元々ユダヤ人とサマリア人は仲が良くありませんでした。村に入っていくペトロは、片方の陣営のメンバーとしてではなく、キリスト者として入っていきます。そして今日の箇所で、35節と42節と続けて、「主」という言葉が出て参りますので、サマリア人を、旧約聖書の信仰に生きる人と理解した上で、彼らがユダヤ人とかサマリア人といった区別なく、キリスト教へと目覚めさせる役割を教会が果たす際、このペトロが大きな役割を演じたことがわかります。

 ちなみにここで「神を信じた」「神に立ち帰った」という風になっていたら、旧約聖書を知らない異邦人の民が聖書の神を知るようになった、という意味になります。「神を信じた」、というのではなく「主を信じた」、という風になっているので、元から聖書に記された神様のことについて知ってはいた人たちが、主なる神キリストを通じて父なる神を知るようになった、視界良好となっていった様子について記す、二つのエピソードが今日の記事です。


 いくつかのことが視界良好となっていく、その関連で、次のことにも触れておきたいと思います。このエピソードに出て参ります二人の人物、アイネアとドルカスは、二人ともギリシャ語の呼び名です。ケファではなくてペトロと呼ばれるのと同じように、タビタはドルカスとルカによって呼ばれるのです。そのことの意味は、ギリシャ語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人との間に横たわっていた溝が伝道によって埋められていったということを意味しています。

 今日の直前の箇所でも、サウロの伝道を妨害したのはギリシャ語を話すユダヤ人でした。使徒言行録の記者ルカは、所々パウロよりもペトロをえこひいきしているように見える所がありますが、サウロが困難を覚えていた、いわゆる異邦人出身のユダヤ人とのやりとりについて、ペトロがここで問題を乗り越えている、ペトロはユダヤ出身の生粋のユダヤ人相手だけでなく、異邦人出身のユダヤ人への伝道においても大きな役割を果たしている、ということを強調したいようです。ここサマリアという伝道の不毛の地と言われた所において、主なる神へと人々が立ち帰ることを得させたのはペトロなのだ、という主張が含まれているように感じています。ペトロの伝道、視界良好です。


 さて今日のエピソード――エピソードというのは「脇道の話」という意味ですが――、二つとも「よみがえり」について記します。ある事件が起こっています。愛されていた人が亡くなりました。一方は長く8年も中風で床についている者、そして他方はつい先日までの元気な頃は多くの友達を持っていた者です。二人の対照的な人物に公平に訪れるのが「死」です。

 私たちは、人間の生き死にということについては、とても重大なことだと認識しています。それはもちろんその通りです。しかし今日の箇所で、扱いが違うことに気づかされます。二人の死者がよみがえったという出来事より、神様を主なる神として崇めるようになったということについて、より強調しているのです。私たちが「生きている状態」から「息を引き取った、死んでいる状態」への移行が「戻ってくることの出来ない高い壁」であると思っているのに対して、ペトロが伝える主の御言葉は、そのような障害物を軽々と乗り越えているのです。死人のよみがえりを、いえ生きた者が息を引き取ることを、一つのエピソードにしてしまう。これが御言葉の力です。

*ドルカスについて

 ある方が、週報に載せられた説教題を先日ご覧になって、ドルカスについて触れるということをご存じになって、次のようなお話をして下さいました。昔おられた秋田の教会の近くで、教会員が洋服仕立屋を営んでおられたのだそうですが、そのお店の名前が「ドルカス」といったのだそうです。聖書に出て参ります一人の女性「ドルカス」は、洋服仕立てを通じて多くの親しい友人がいたと聖書は記します。今でいえば、料理が得意で仕立てが出来る女性の周りに親しい友人が多く集まる様子は想像できます。「着ること」と「食べること」は人間が生きていくために欠かすことが出来ないのですが、人間はただ着て、ただ食べるのではなく、着ることを通じて豊かにされ、食べることを通じて豊かにされるような生き方をすることによって、他の動物と区別されます。人間だけが美しく装い、食べることを通じて交わりを持つことが可能です。そしてそれをもっと深めれば、キリスト者として生きるということも、ただ生きるというだけでなく、豊かに、美しく、良い生き方をするということです。贅沢をするという話ではありません。豊かで美しく良い生き方をすることこそが神様から命を委ねられた者の生きる目的なのだ、主なる神に命を委ねられていることに目覚めた者をキリスト者と呼ぶ、ということになるかもしれません。私たちの前を行くドルカスは、その意味で、以前には美しく装う仕方を会得した人物として親しまれてきましたが、よみがえったドルカスは、主とともにある幸福な生き方を示した、私たちに新たな視界の広がりを経験させてくれる女性です。

 さてこのドルカスですが、単に繁盛する仕立屋を経営していたというだけではありません。彼女は「たくさんの善い行いや施しをしていた」というのです。いわゆる慈善事業の支援をしていたということにもなります。今日の生き死にに関わる出来事より前の段階から、彼女は自分に委ねられた命の用い方について考える視界を持ち、そして実践してきた人だと気づかされます。

 さてこのドルカスが病気で亡くなり墓に葬るまでの間、風通しのよい二階の部屋に安置をすることになりました。そこでリダにいたペトロを、近くにいるからということで呼び寄せたというのです。近いとはいっても20キロはあるので、使いの人が行って、一緒に帰ってくるまで丸一日か、あるいは二日かかります。しかしこのドルカスがサマリア地方にある教会を支える人物であったからでしょうか、ペトロはすぐにヤッファ(現在のヨッパ)に向かいます。

 到着したペトロは、二階に上り、遺体と対面します。周りにいたのは、ドルカスを慕う人たちでした。そして彼女が作ってくれた衣服を色々ペトロに見せたというのです。ペトロは当然それらにも目を向けたと思いますが、ドルカスに注目しました。ここに、ペトロの死生観があるように思います。彼は、仕立屋としての彼女の作品、すなわちこれまでの業績に関心が無かったということではありません。そうではなく、信仰者としての彼女自身に関心を向けたのです。それは彼なりの仕方で良好な視界を持ち、このドルカスを起こすことが出来ると考えました。そして彼女を外に連れ出し、こう呼びかけたのです。「タビタ・クム」。

今日は時間がありませんので、今日の箇所の下敷きになっている聖書箇所について詳しく触れることは致しません。エリヤが(列王記上17章)、エリシャが(列王記下4章)、行った、「死人のよみがえり」。さらには過去のよみがえりの中で最も印象的なものとして主イエスがなさったよみがえらせがあります。それらを言い伝えの形でも聖書を読む形でも良く知っていたルカが、この出来事はそれらのよみがえらせに似ていると気づきながら出来事を描写しています。特にイエス様が少女をよみがえらせた時の言葉、「娘よ、起きなさい」とは主がお用いになっていた、ヘブライ語に近い言葉でアラム語というものがあり、それによれば「タリタ・クム」でした(マルコ5章)。ペトロはその現場にいましたから、直接その出来事を目撃しています。この言葉によって、タビタは目を覚ますのです。

 気づかされることがあります。ドルカス、いえタビタは、なぜ目を覚ましたのでしょうか。それはペトロに呼びかけられたからということなのでしょうか。実は今日の箇所は、ペトロが奇跡を起こした所だということで、そのペトロを創始者と謳うローマ・カトリック教会が重んじている聖書箇所です。つまり、ペトロ自身が祝福された人物であるからこういう奇跡が起こせるのであって、これはひいてはカトリック教会が祝福されているということなのだと、やや戯画化して申しますと、そういうわけです。

 しかし、これをペトロの呼びかけがきっかけだと言ってしまってよいのでしょうか。むしろ、ペトロが主のなさったわざを思い起こすような仕方で呼びかけたからだと考えることも出来るのではないでしょうか。ペトロの呼びかけをきっかけに主の呼びかけを思い起こした。思い起こさせるペトロは確かに素晴らしいけれども、そこで思い起こされたイエス・キリストの素晴らしさが大元にあることになるのではないでしょうか。

 この話で重要なのが、42節です。この出来事は街中に知られることになり、神様への信仰がより明確に主なるキリストへの信仰へと変えられていった、ヤッファの街の視界が良好になっていくきっかけになった、というのです。


 いずれにせよ、ドルカスは目覚めました。直接的にはペトロによって、そして究極的にはイエス・キリストによって目覚めさせられた一人の信仰者です。同時に、この女性は周りの人々がやはりイエス・キリストによって目覚める人となっていくのを手助けしたことにもなります。

 説教題は「目覚めるドルカス」としました。この題の意図は、「ここでいう目覚めは、ドルカスの目が覚めるのと同時に、彼女を通じて周りの人物の目が覚めることでもある」ということでもあります。もともとこの、二重の意味の説教題をつけることに気づいたときに、自分自身の問いでもあると気づかされ、考えました。ここでドルカスが目覚めるのと、ドルカスが目覚めさせるのの、どちらが自分にとってしっくりくるだろう。そしてどちらについて自分は考えることに疎かっただろうか、と。

 ドルカスが周りの人の目を覚まさせるという方を考えついた、という人もいると思います。平行移動して言うならば、周りの人の伝道に関心を持っている人です。ただし、自分の目がキリストによって覚まされるということに疎いということがあり得ます。

 逆に、ドルカスが自分自身の目を覚まさせられたということをこの説教題から連想した、という人もいると思います。自分の救いが与えられることに関心を持っている一方で、その救いを隣人に伝えることについて関心を持ちにくい、というケースです。

 「視界良好」には「視界良好になる」という言い方がある、ということを思います。私たちが、自分の目を覚ますドルカスと周りの人の目を覚まさせるドルカスのどちらに関心を持っているかで、持っていない方の側面に思いを向けられたときに、私たちの信仰はより視界良好になっていくのではないでしょうか。

絵の説明は説教末尾

 私たちにとって、聖餐の食卓は、まさに視界を広げるために備えられていると言って良いでしょう。エマオの宿屋で交わされた食卓でのパンと杯。その瞬間、主イエス・キリストの姿は見えなくなりました。今まで肉の力に頼って、主イエスを肉の目で見ることを二人の弟子にお許しになっていたよみがえりの主イエスは、今や彼らが信仰の力によって、信仰の目によってイエス・キリストを見ることが出来るようになったのを見て、現れ方を変えるのです。肉を伴って現れるのではなく聖霊によって現れる、という風に言ったら良いのでしょうか。肉で現れるよりも、聖霊によって現れる主イエスの方が、ずっと確かな形で弟子たちと共にいて下さるのです。食卓において、彼らの視界が良好になったのであれば、主イエスはもはや肉の目で見える必要が無くなった。その代わりに主なるお方は、聖霊を通じて弟子たちに現れ、伴い続けて下さいます。

 主が天におられる現在においても、聖霊を通じて現れる主イエス・キリストは私たちに伴い続けて下さいます。私たちが聖餐式において主イエスのお姿を見ることが出来ないことは、決してむなしいことではありません。むしろ、私たちはだからこそ聖霊を通じて私たちとともに居続けて下さる主イエス・キリストに向けて視界を調えられていくのです。ドルカスによって視界良好とされた人々と共に、私たちもまた視界良好とされたいと願います。


 *ペトロ、ヤッファに滞在することになる(ちょっとした付け足し)

 ところでこの記事は、次の出来事への伏線になっています。ペトロはこの海沿いの街ヤッファにしばらく滞在します。現地の皮なめし職人の家にしばらく滞在したというのです。よく分からない部分もあります。彼はリダにいて、急いでヤッファに呼ばれたのです。またリダに戻っても不思議はないのですが、そのままヤッファに留まり続けるのです。実は次回の出来事は、ヤッファと同じく海沿いの街であるカイサリアがを舞台として起こるのですが、その舞台から人がヤッファに送られ、ペトロがカイサリアへと向かうのです。つまりは次回の出来事の直前にこの出来事が起こった、ということが地名から分かるのです。

 ヤッファから飛び立つ一人の信仰者が、新しい舞台へと向かいます。カイサリアへの伝道は、地図の上でも、カレンダーの上でも、もうすぐ。まさに伝道する教会の旅路、視界良好です。


6ページの絵についての説明

これはヨハネ1913で「裁判席に着かせられるイエス」の場面。実はヨハネはここで一種の仕掛けを行っていて、「裁判席に着かせるイエス」とも理解出来る表現にしている。「目覚めるドルカス」にも「自らの目が覚めるドルカス」と「周りの目を覚めさせるドルカス」という二重性がある。