平和への開け

2022/07/31 三位一体後第七主日 

使徒言行録説教第29回 92331 「平和への開け」

                                                                          牧師 上田彰

 

 今日の箇所の最後に「平和」という言葉が出てきます。次回からは久しぶりにペトロが登場します。今日の箇所は、大きな区切りを迎える所で、使徒言行録第一部の終わりとも言いうる所です。使徒言行録は、平和という言葉によって休止符を打つわけですが、今日の箇所の冒頭を見ますと、パウロに対する殺害計画が記されています。つまり今日の箇所は、殺意で始まり平和で終わるのです。

 平和。私たちが常日頃口にし、また願っていることです。同時に、「誰から見た平和」であるかが重要です。例えば、ウクライナ戦争にしても、最近の破壊的カルト(統一協会)問題にしても、ある人から見て「何の問題もない」状態が、他の人から見て「不幸以外の何ものでも無い」、あるいは「今は何も悪いことはなく、幸せそのものであるが、将来起こる禍根を全て引き受ける用意は無い」状態は、本来は「平和」の名前には値しません。いわゆる、「何も起きていない状態」が平和というのではなく、皆が望んでその状態にあることを幸福と思う、そういう意味での「平和」が望ましいことはいうまでもありません。少なくとも、誰かが不幸であることを知っていながら、知らないふりをするということは、政治家に戒めなければならないことであると同時に、私たちもそのような態度を取ってはいないかと自戒するべきことだと思わされます。

 恐らく今日の箇所に出て参ります平和という言葉は、誰の目にも明らかな平和がついに実現した、今風にいうならば「平和が可視化して見える化した」ということをいっているわけではないようです。平和の実現はなお課題であり続けています。むしろ、使徒言行録の中で何度か話題に登場し、また今後も鍵言葉となり続ける「幻」という言葉で考えておきたいと思います。この平和は「幻」です。古い時代であれば、預言者だけが目にすることの出来る、信仰的な真実です。まだ実現していませんから、すべての人が目撃しているわけではありません。しかしその幻を見ることができた人は、幻を人々に伝える務めを負います。信仰者が目にする平和の兆しは、実にささやかです。あるときには鳩が一匹オリーブの葉を加えて飛んでくるのを見て洪水の後の下船を決断したり(創世記8)、戦争が終わるまでは決して手を出してはならないといわれる土地の購入に踏み切ったり(エレミヤ32)と、傍目からするとやや無理筋な「兆し」を、「平和の幻」として心から願っている平和を、まだそれが実現していないにもかかわらず口にして、また実現していないにもかかわらず実現している前提で実行してしまう、そんな人間的には愚かなことを、しかし神様の前では喜んで行ってしまう、それが「平和を実現する神の子」(マタイ6)なのではないでしょうか。

 現代の私たちもまた、この意味で「神の子」であることを引き継いでいます。今日でも信仰者の間で用いる挨拶を思い出しましょう。時折聞くのではないでしょうか、シャロームという言葉を。あるいは主の平和という挨拶を。口癖のように使う人もいます。感覚で申しますと、握手をするように「主の平和」と言うのです。

 今日はまず使徒言行録の著者ルカによる第一部締めくくりの31節の言葉を正確に理解し、ルカの教会において理解されていた平和というものについて分かっておきたいと思います。というのは、私たちは私たちなりの平和の理解があって、例えば今のウクライナには平和がないとか、日本は平和だというように、思い込みによって本当の状況が見えなくなっている可能性があるからです。もしかするとウクライナの人々は、毎日戦火にさらされているにもかかわらず、主にある平和を経験しているかも知れないし、日本の私たちは明日自分の家が爆撃される怖れがないことをもって平和であると思っていますが、同時にそれが主にある平和でもあるかどうかは、私たちの課題です。

 

 31節ですが、もう一度読みますと、

こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。

 いくつかのルカの特徴が現れています。一つは、教会が一致結束して伝道をすると信仰者の数が増える。だから信仰者の数が増えることによって一致の証しが目に見える、という主張です。そのような理解の元で、新共同訳の翻訳者はかなり大胆に後半部分を意訳しました。「基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった」というのは原文にはない、完全な意訳です。元の言葉を追いますと、「何かが固められ何かが増えた」ことまではルカの言葉として確認できますが、何が増えたのかについては黙想の中で自由に考えて良い箇所です。様々な機会に、聖書黙想の機会を教会として持っています。個人のお宅でお一人でも十分に可能です。聖書を読みながら、自由に想像することで御言葉の豊かさを実感することが出来ます。(今日の教会報に出てくる「幅をつける」という表現がこれにあたります。)ここでいえば、「建てられ、増し加えられていった」のは何か。教会が信仰的に鍛えられて多くの人を受け入れられるようになり、自然と教会に来る人が多くなったということなのか、これが新共同訳の翻訳者の理解です。それとも「平和が固められて大きくなった」という方がいいのか。大体こんな風にして問いかけるときは、必ず三番目の答えがあります。「建てられ、増し加えられた」のは「教会」であり同時に「平和」そのものではないのか。「教会が建てられ、増し加えられる」ことが<<<同時に>>>「平和が建てられ、増し加えられる」。何を言っているかを完全に説明することは私の力量では不可能です。しかし何かとてつもなく素晴らしいことが今日の31節で語られていることだけは、なんとなく想像していただけると思います。この箇所を通じて、平和が固められて大きくなったということは結局教会が固められて大きくなったということなのだなあ、そのように黙想の幅を広げることが、信仰に幅をつけることにもなります。教会が広がることによって平和が広がった。銃弾が飛び交う戦場においても、「主にある平和」と挨拶することを申し合わせてきた教会が、真の平和へとたどり着く筋道が、ここに示されています。

 31節を改めて見てみますと、丸ごと説明が抜けている表現があります。それは、「主を怖れ、聖霊の慰めを受ける」というところです。これもルカ教会において特有の表現で、「主を恐れる」ことを通じて教会は信仰の深みを経験し、「聖霊の慰めを受ける」ことを通じてその信仰をいろいろな人と共有しています。「怖れ」という言葉と「聖霊」という言葉、さらに「慰め」という言葉をキーワードにしてルカ福音書と使徒言行録を読み直してみますと、色々な発見が出来ると思います。この箇所に関して申し上げておかないとならないのは、この箇所をもっと正確に訳すなら、「主に対する怖れと、聖霊の慰めによって満たされる」、という風になるということです。「怖れ」とか「慰め」が私たちに降り注いでくる様子です。私たちはただ受け身になって、怖れとか聖霊による慰めを経験する。要するに、平和というものが、あるいは教会の成長というものが、「作り出す」ものではなく「受け取る」ものであることを示しています。平和とは勝ち取るものではなく、平和が切り開かれていく、平和への開けを経験するものなのです。「教会は平和を経験した。固められ、増えていくことを通じて怖れと慰めに満たされた」。私たちはそのような経験をするべく、開かれています。

 

 「慰め」という言葉をルカがここで使うときに欠かすことが出来ない一人の人物に思いを向けたいと思います。また同時にこの人は、平和のために奔走した信仰者でもあります。それは「バルナバ」です。その名の意味は「慰めの子」、です。

 まず最初に申し上げますと、本当に実際の歴史の中で、バルナバが教会同士の、正確にいえばサウロと教会とをつなぐ役割を誰の目にも明らかなレベルで行い、平和が実現した、ということはどうやら言えないようです。実際に今日の聖書箇所の出来事をパウロ自身が書簡の中で記していますが(第二コリント11章、ガラテヤ1章)、そこにはバルナバの名前は出てきません。要するに見方によってはこの文脈で名前を挙げるまでもない人の名前バルナバを、ルカは平和のために大きな働きをした人物として挙げているのです。

 ルカはこの名前を強調するために、いくつかの重要な歴史的事実を割愛しています。例えば、サウロはダマスコを出発して、すぐにエルサレムに着いたという風に読めますが、実はダマスコからアラビア地方に三年引きこもり、それからエルサレムに入ったとパウロは証言しているのです(ガラテヤ1)。ただ、その場合にはバルナバが活躍しなくても、エルサレムでは三年前に例の弾圧者サウロが立場を大幅に変えたらしい、という噂が立つはずですから、バルナバが尽力してサウロをペトロ達に引き合わせる必要は無くなってしまいます。従って、ここはいくつか想像が必要で、例えばアラビア地方に引きこもる前に、一度サウロはエルサレムに上ったが、バルナバの努力むなしく誰にも会ってもらえずに街を出た、そういう想像も可能かも知れません。ルカがその時に強調したいのが、仲介のためにバルナバが尽力した、この一事です。

 サウロは後に大きな働きをするようになりますが、この時点ではそのような活躍の場は与えられていません。むしろ無視され歴史からあぶくのように消え去ってしまう流れに置かれています。そこで流れに棹さして、サウロを救ってくれたのがバルナバです。今日はこのような形で、歴史の表舞台に再登場するまでの間、サウロを救ってくれた人が何人もいるということを証言しています。

 

 今日は一番最後から話を始めていますから順番をどんどん遡りする形になりますが、今日の話の最初に出てくるサウロを救い平和を教会にもたらしたのは、ダマスコ教会のメンバーでした。少し歴史的な事実も踏まえておきましょう。サウロはダマスコに行く途中において、主の光に照らされ、回心へと向かうのです。回心が始まったのは光が照らされたとき、というので一応いいと思うのですが、どの時点で回心が完成したか、成立したか、というのは難しい問いです。最初の三日間、彼は目が見えない状態でした。アナニアが彼の頭に手を置いて、目からうろこが落ちることによって見えるようになりました。それから先ほど少し触れました、アラビア地方に三年間引きこもっていたのも大事な時期でした。その期間もまた、パウロが回心をゆっくりと遂げるために必要な期間だったようです。つまり、光の中で出会ったイエス様のお姿とお声を思い起こしながら、ゆっくりとその出会いの体験を自分のものとするためには、三日とか、場合によっては三年といった期間が必要でした。祈りをもってその体験を受け止めてから、サウロは説教者として用いられるようになるのです。このことも「平和」について考える際に覚えておきたい事柄です。

 さてサウロがダマスコにおいて先週の段階から説教者として有名になってしまい、ダマスコから容易に出ることが出来なくなりました。かつてはユダヤ人側の過激派であったサウロは、今や元仲間であるユダヤ人から命を狙われる立場になったのです。ダマスコはエルサレムと同じように壁で囲まれた都市ですので、彼の命を狙う者は町の門の所で待ち構えていたら良いのです。聖書によりますと、サウロがここで死んではならないと考えるサウロの弟子たちによって、サウロは籠に入れられて、夜に壁を越えさせる作戦が採られたというのです。それほど簡単な話ではありません。壁は高さ5メートルは確実にありますから、地力で上ることは素人のサウロには無理でした。相当に慣れた救出部隊がいたことが想像されます。

 気づかされるのは、ここには「サウロを確実に救いたい」という、ダマスコ教会のメンバー達の篤い祈りがあるということです。聖書の元の言葉で「救う」というのは「金魚すくい」の「掬う」と同じ言葉でして、「引き上げる」という意味があります。ダマスコ教会の仲間達は、サウロを引き上げるときに、神様がサウロを救って下さるようにと願ったに違いありません。そしてこの祈りは、エルサレムに上ってからのバルナバの思いに通じる所があります。恐らくルカは、ダマスコを出てからアラビアにいた数年間を省いてでも、サウロを救いたいというダマスコの教会のメンバーの祈りと、エルサレムにおけるバルナバの思いとを結びつけて書き残しておきたいと思ったのではないでしょうか。

 

 慰めの子と呼ばれるバルナバにもう一度目を向けてみましょう。エルサレムにサウロが入ったとき、サウロはまだ命を狙われる立場にはありませんでした。注目されていなかったのです。にもかかわらずバルナバが尽力して少なくともペトロとヤコブに引き合わせることに成功して事情が変わりました。バルナバはサウロを救いうる立場にいたのです。バルナバはなぜ平和の使者としてなり得たのでしょうか。バルナバは特別な賜物を持っていたわけでも、お金持ちというわけでもありませんでした。ただ全てを教会に献げて、おそらくは今でいう修道院のような所に入ったようです。そしてステファノと違い、執事として説教者の才覚を伸ばしたというわけでもなく、最後まで教会員の一人として、教会の一角に留まり続けた人物です。言ってみれば、そのようなどこにでもいる一人が、サウロを救いたいという願いによって平和の使者となっていったことを、ルカは見逃さないのです。覚え続けるのです。誰もが、「小さな平和の使者」になれる。これがルカが言いたいことの一つではないでしょうか。

 そしてバルナバはサウロを救いました。サウロが無視されて埋没してしまうことからの救いです。サウロはかつてエルサレムでも知られているキリスト教の弾圧者でした。回心したと言っても簡単に受け入れられるわけではありません。使徒達は警戒したことでしょう。そして使徒達がサウロと接触しない限り、サウロの名誉は回復しないのです。エルサレム以外のどこの教会に行っても、サウロを受け入れる教会はないことでしょう。サウロの生殺与奪の権利はエルサレムの使徒達が握っているのです。そして使徒達は、この意味でサウロを殺しにかかりました。その中でサウロは、バルナバを通じて理解者を得ました。

 そしてサウロの理解者を得ることは同時に、サウロの敵対者をもエルサレムにおいて生みました。彼はエルサレムを出るときにも、ダマスコを出るときと同じように身を守るガードマンが必要になったのです。サウロの命を狙うのは、エルサレムにいたギリシャ語を話すユダヤ人たちでした。彼らからサウロを守るために、エルサレムの同志が護衛付きでエルサレムを脱出します。つまり、ここでバルナバのみならず、使徒以外の何人かがサウロのエルサレム脱出を助けてくれるのです。サウロを救いたいという願いによってまとめられるダマスコ教会、バルナバに彼らもまた加えられます。

 このような「サウロを救う」という、バルナバを筆頭とする仲間達の熱意はどこから来るのでしょうか。なぜそのことは「平和」と結びついているのでしょうか。

 

 見逃せないけれども私たちがいつも忘れがちな、そしてそれゆえにいつも心に刻み続けなければならないことがあります。それは、バルナバや、ダマスコ・エルサレムの同志達の「サウロを救う」という熱意の背後にあるのが「人々を救う」という平和の君、イエス・キリストの熱意だということです。言い換えれば、私たちが隣人を様々な形で救うべく立ち向かうとするならば、その背景にあるのは、平和の使者の長に立つイエス様が私たちを救うというだ、ということです。日本にいる私たちは、8月になると平和のことについて思いを向けます。しかし主なる神は、常に私たちのために救いのまなざしを向けて下さっている。救いは常に、私たちの前にあります。