ダマスコ途上を生きる

2022/07/24 三位一体後第六主日礼拝 

ダマスコ途上を生きる 使徒言行録説教第28回(91022

牧師 上田彰


*信仰的ドラマとしての出来事

 「ドラマ」という言葉があります。普通に考えれば、テレビをつけるとやっている番組のジャンルの一つです。言葉の元の意味で申しますと、「起伏のあるもの」というような意味合いがあるようです。

 人生をドラマにたとえる言い回しは、聞いたことがある方も多いと思います。考えてみれば、信仰生活もまたドラマと呼べるでしょう。そこで、ドラマということの信仰的意味合いを考えてみるために、ここではまず、ウクライナで起こっている戦争を例に取ってみましょう。どうやら今回のドラマは、なかなか終わりそうにありません。兵器を用いての領土争いは、あちらからの攻撃がある程度まで行くと今度は反転攻勢といって、逆襲があるという感じです。まるでサッカーにおける「カウンター」の応酬のようです。こういったことは、軍事的なレベルだけでなく、政治的なレベルにおいても起こります。これはメディア報道の常なのかも知れませんが、ある人やある部署についての報道が右往左往しているのが分かります。悪くいえば、ぶれるのです。やれあの人はロシアの中でも戦争に反対しているのではという報道がなされたかと思えば、その当事者から大変に好戦的なメッセージが流れる、といった具合です。人物像がぶれるのです。「ぶれる」というのは、ビデオカメラで撮影するときに致命的です。きちんと対象を捉えていないことになるからです。

 もう一つビデオカメラのたとえで申しますと、致命的なミスというのが、ズームに関する失敗です。手元を取らないといけないのに引いて(ズームアウトして)全体を撮ったり、全体を見せないといけないのにズームインが戻っていなかったりすると、何を見せたらいいかが分からず、見ている人が困ってしまいます。そして気づかされるのは、少し広い視点で(カメラでいうとズームインしていたのを、少し引いてズームアウトする)映しだしたときのドラマと、ズームをかけてアップにしたときの視点で見えるドラマとで、見え方が全く違うということがある、ということです。

 例えば戦争が始まった直後のウクライナの大統領は、完全に戦争が生み出したカリスマ的指導者といった体裁でした。最近はそこまでは持ち上げられることはウクライナ世論でも少なくなったようです。しかしそのことは、決して大統領が支持されていないというのではなくて、一時期の加熱したブームが過ぎたということで、国民は必要な一致団結をして戦いに備えているという見方もあるようです。見方、切り取り方、その時間的尺度をどう取るかによって、ドラマの見え方は全く違ってきます。

 こういうのを、雨降って地固まるというのでしょうか。あるいは人間万事塞翁が馬というのでしょうか。ある所だけを切り取って眺めることで悲観的になる必要は無いし、少し広めにフレームを取って楽観的になればいいというものでもありません。

*ドラマ全体を見る

 本当はここで、日本の話をしたい所です。元首相が公衆の面前で狙撃されるという大事件は、しかしまだ事件の全貌が解明されているとは言いがたい状況です。特に、犯人の動機をどのように位置づけたらいいか、どの距離までを画面に収めれば、動機を説明できるのかがまだよく分かりません。少なくとも、組織的な犯罪ではないことは確かです。ただ、統一協会という、特定の宗教団体への恨みが犯行につながっているようです。意外なことに、久しぶりにこの宗教団体のなりふり構わない集金体勢への注目が集まりました。四半世紀以上この問題を追いかけてきて、大学でも関係する授業を5年以上持ち、細々と情報交換をしてきた者として、この問題に尽力をして来た関係者のご労苦が少しは報われる状況になったことを、現時点ではうれしく思っています。

 ただこういうのも、カウンターというか、次の展開を注意してみておく必要があると考えています。簡単に言いますと、ここから二つのシナリオが生まれるように思います。まず一つが、余りに統一協会に関する報道がおどろおどろしくなってしまい、現在統一協会に入ってしまっている末端の信徒が、脱会することが出来ない状況が生まれてしまうという可能性です。実際、現在の報道のいくつかは、完全に内部の実態とはずれたものとなっており、中の人が意固地になってしまいやすい状況になりつつあります。もう一つが、今回の犯人が実は元々は狙撃した相手である安倍首相の思想に共鳴した、(ネット)右翼のシンパであったという可能性が取り沙汰されています。もしこれが正しいとすれば、自分が撒いた餌に食いついた魚が、勢い余って餌を与えた人にまで襲いかかったという話になります。現時点では信憑性ははっきりしない、あくまで噂程度の話ということにしておきたいと思います。

 何を言いたいかといえば、ある部分だけを取りだしても真実がはっきりしない、それでどこまで近づけば、あるいは遠ざかれば全体が見えるのか、現実のドラマというものは、なかなか結論が出ないものだ、ということです。これがテレビ番組の中のドラマであれば、二時間経てば必ず結末に至ることになっています。現実の方はそれほど簡単ではない、ということです。


*ドラマは広がる

 使徒言行録9章は、教会が大きな転換点を迎える重要な箇所です。俗に「パウロの回心」の箇所と言われています。この呼び方は、9章というドラマの中でハイライトは1節から9節くらいであって、今日の所はハイライトから外れているということになります。ただ、9章の出来事を、サウロからパウロへの転換がダマスコ途上で起こったということで終わらせてしまうと、この出来事が私たちの教会とどうつながっているかが理解出来ないことになってしまいます。それはあたかも、大きな事件が起こったときに、犯人の生い立ちとか事件が起こった当時の状況についておどろおどろしく報道して、それで知った気になってしまうのと似ています。サウロの回心の出来事について、おどろおどろしいという言い方はふさわしくないとも考えることが出来ます。何より、サウロからパウロへの回心は、私たちの出来事でもあるはずだからです。私たちもまたサウロと同じように、神様に敵対するものであり、そしてパウロと同じように、イエス・キリストの福音を宣べ伝えるものであるはずだからです。しかし一方で私たちはサウロのように激烈な形で神に敵対しているつもりも、またパウロのように精力的に伝道をしているわけでもない、という風に考えてしまいがちなのではないでしょうか。これこそ、せっかく使徒言行録に9章が設けられているのに、その一部分だけをゆがんだ形で切り取ってしまって、サウロからパウロへの回心の出来事におどろおどろしいものだけを読み込んでしまう誤りだといわざるを得ません。

 実は今日の箇所をよく読むと、アナニアも同じような誤りに引きずり込まれそうになっていることに気づきます。アナニアが幻の中で神様と話すやりとりが14節にありますが、こう言っています。「(サウロという男は)御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています」。これは、祭司長たちという、神殿づとめをする人たちにカメラの焦点を合わせれば、この出来事を理解出来るに違いないという、アナニアの最初の理解が現れています。それに対して神様の反論はこうです。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」。要するに、カメラの焦点を人間に合わせるのではなく、神様にあわせなさい、ということです。そうでないとドラマがピンボケになったり、全く違うメッセージになってしまったりする、という訳です。確かに私たちはしばしば使徒言行録9章を見て、サウロからパウロへの回心に目がいきすぎて、パウロを受け入れる教会の姿に目がいっていないことがあるように思います。私たちは一方でサウロ即ちパウロと自分を重ね合わせることで9章のドラマの中に身を置くことが出来ますが、そしてそこにはサウロと神様とのやりとりも出てきますから、それをもって信仰的ドラマとして完結している、それ以上に別の何かを映すことなくドラマとして見ることが出来る、と考えがちなのですが、ここで聖書の語りかけに素直に耳を傾け、ここに出てくるのはサウロばかりではなく神様とやりとりをするアナニアもいることに気づき、そしてサウロとアナニアたちとのやりとりもあることに気づかされます。アナニアたちダマスコの信仰者と自分とを重ね合わせることで、より立体的に9章のドラマを体験することが出来るのではないでしょうか。

 私たちはサウロないしパウロの立場に自らを重ね合わせるのでは十分ではなく、アナニアの立場に身を置かなければならない理由は他にもあります。それは、このアナニアがサウロの頭に手を置かない限り、サウロはパウロになれない、そういう意味でこのドラマに欠かすことの出来ない登場人物としてアナニアは描かれている、ということです。言い方を変えますと、ここでサウロが回心したら話は完結するわけではなく、もともとアナニア達が登場しない限り、話としても完結することはないのです。サウロは祈りながら、アナニアが自分の頭の上に手を置いてくれるのを待っています。

 例えばクリスマスの出来事と関連して、洗礼者ヨハネが生まれるとき、その父親であるザカリヤは、天使のお告げを信じなかった罰として口がきけなくなりました。ただしゃべれなかった、というだけではなく、言葉そのものが分からない状態に陥っていたようです。それが、息子の名前を天使に命じられた通りヨハネと示したことをきっかけに再び言葉が分かるようになります。このドラマにおいて「ヨハネという名前」が大きな役割を果たしたように、光が見えなくなったサウロに必要なのは、アナニアによる祝福だったのです。言い方を変えますと、ルカ福音書1章は、ザカリヤが口がきけなくなるというドラマではありません。一旦は口がきけなくなったザカリヤが、神様がお定めになったシナリオに立ち戻り、新しく生まれる子どもの名前を示すことによって、ただ話せるようになるというだけでなく、神さまを讃美することが出来るようになるというドラマです。今日の箇所も、サウロの目が見えなくなってしまうドラマではなく、アナニアが元迫害者を受け入れてその人の頭に手を置く、さらにはそのことによって目からうろこのようなものが落ち、再びサウロは目が見えるようになり、そしてダマスコの信仰者達との信仰的なやりとりが始まる、という所までを見ないと、ドラマとしては成立していないことになります。


*ダマスコ教会のドラマの開始

 このドラマにおいて、サウロが再び見えるようになるというのは、どのような意味があるのでしょうか。突き放していえば、実は見えないままでもよかったのかもしれません。3世紀の信仰者で、盲目のディドモスという人がいます。目が見えなかったのですが、彼の所に人がやって来ては聖書や様々な本(巻物)を読み聞かせます。それを片っ端から覚えたディドモスは、夜にその本の中身を思い返すことで深い思索を行い、優れた説教をすることで有名でした。盲目であったディドモスのあだ名はこうです。「見える」ディドモス。このように呼ぶ教会の人たちは、ディドモスには、自分たちには見えていないものが見えていたことを自ずから察知していたことになります。同じように、サウロはアナニアが来るまでの間、目にうろこのようなものがついていて、外からの光を目にすることはありませんでした。しかし、何も見えていなかった、何も見ていなかったということではないのだと思います。そこで真理と深く対話をする時間が与えられていたのでしょう。目が開いてからのサウロは、そのことについてダマスコの信仰者達とやりとりをしたに違いありません。サウロはダマスコに数日留まりました。そしてさらに、人々に向かって、「イエスこそ神の子」と宣べ伝え、ダマスコの地のユダヤ人達を戸惑わせたといいます。このドラマは不思議な展開を示します。教会は、ただサウロという反対者を身内として取り込んだということでは完結せず、そのサウロが伝道を始めるというドラマを経験するのです。

 先ほども申しましたが、このドラマを追っていくときに、神様との関わりに焦点を当てないと理解は難しくなります。ただ光がサウロを圧倒しただけとか、ただアナニアが来てサウロの目を開けたという所だけをカメラでとらえても、何のことだか分からなくなってしまいます。このドラマの中で重要なのは、今日の最後の部分で、登場人物たちが福音を宣べ伝えている、ということです。どんな言葉で福音を宣べ伝えたのでしょうか。「イエス・キリストは神の子」。そういうシンプルな言い方がなされていたのでしょう。少しもじって翻案してみたいと思います。サウロが次のように宣べ伝えた所を想像してみて下さい。「救い主イエスは、神の子」。「す」「い」「か」となります。合言葉はスイカ、という訳です。実はこのような合言葉は本当にその時代にありました。教会はこの後弾圧の波にさらされまして、信徒の家庭を教会として用いる家の教会から、地下の墓場を礼拝堂として用いるカタコンベの教会へと変わっていきます。2世紀から3世紀の出来事です。その時に秘密の合言葉が開発されたのです。それは、どのカタコンベで礼拝を行っているかを示す、信仰者にだけ分かる印が必要なことから生まれた知恵でした。ご存じの方も多いと思いますが、魚の印でした。魚というのはギリシャ語ではイクトゥースといいまして、「イエス・キリストは神の子、救い主」という信仰告白を短くしたものでした。それで、「救い主イエスは神の子」を短くして「スイカ」を印にする様子を想像しました。


 さて、重要なことは、このスイカを合言葉とする伝道が、あるいは信仰の告白が、サウロが一人で思いついたように行ったのではない、ということです。ダマスコで弟子たちとやりとりをしている中で、彼らが行っていた信仰告白の一節を取りだして、サウロはユダヤ人達への伝道を始めたのです。このドラマで重要なのは、信仰告白をし、伝道をするのはダマスコ教会全体だ、ということです。サウロは重要なきっかけを作りましたが、皆がここで心を合わせて伝道をする様が分かります。




*私たちの教会のドラマの開始

 私たちは過ぐる週に、一人の姉妹を天に送りました。その際の葬儀説教を準備する中で、私自身学ばされたことを次のように説教で言い表しました。「私自身を含めて、信仰者であっても、「どのように生き、どのように地上の生涯を歩むか」ということに関心を持っているというケースがほとんどだと思います。しかしこの方は、「地上の生涯を<<終えた>>後も、どのように主の道を歩み続けるか」ということに関心を持ち続けたのだ、と」。

 中国のことわざに、「蓋棺事定」、その人の評価は、死んでその棺に蓋をしてから決まる、というものがあります。しかし信仰者のドラマは、地上で息絶えることで終わるものではありません。実際、死んでから人の評価が二転三転することなど、私たちはよく見聞きします。ですからこう言えると思うのです。主の御許への歩みはなお続く、そして神様と出会うことによって、本当の意味で人生というドラマは完結をする、と。

 サウロからパウロへの歩みは、彼が個人的に神様とつながれば完結するようなスケールの小さなドラマではありません。サウロがアナニアとつながり、そしてダマスコ教会とつながることによって、大きな神様のドラマとなっていくのです。これは私たちみんなのドラマです。