直線通りからの景色






2022/07/10 三位一体後第四主日礼拝 

使徒言行録説教第27回 9:10~19 

「直線通り」からの景色  牧師 上田彰

 *回心は雷に打たれない

 どんな人にも、あるいはどんな教会にも、「信仰にいたる道のり」というようなストーリーがあります。例えば、ある教会では、信仰生活に入る際に、「◯◯さんとの付き合いによって教会に来るようになった」、という風に、人とのつながりが強調される証しがよく聞かれるということが多かったり、逆に、そういった人間的なつながりが誤った信仰に導かれてしまうことを警戒して、「聖書を読むことが教会に来るきっかけだった」、ということを強調するということがあったりします。

「回心はパウロのように劇的でないと」「いや、私はそういうのはないのですが」というような極端な二極化が起こりうる

 恐らくその背景にあって私たちが戸惑うのが、今日の箇所にある「パウロの回心」をどう扱うか、ということで迷うからです。使徒言行録では合計三回、この「ダマスコ途上の出来事」について証言されています。大変に重要だという扱いがされているのは明らかです。ここで起こっていることは、信仰の方向の、いわゆるめざましい転換(コンバージョン)です。しかし、余りにめざましいために、「ああ、パウロというえらい人の信仰転換のストーリーなのだから、本当はそのようでなければならない、しかしそれはどうやら無理らしいから、むしろそのストーリーを担うのは誰かえらい信仰者に任せることにして、私たちはもっと身の丈に合った証しの話をお互いにすることにしましょう」、という風に、使徒言行録9章については見て見ぬふりをして、その人なりの証しの話を作る傾向もあるのではないでしょうか。そこで、もう少し使徒言行録9章にあるパウロの回心が、私たちにも学ぶべきところがないかということについて、前回から見ています。前回は、「パウロの回心というのは、今までと全く違う、たとえていうなら180度違うのではなくて、違うのはせいぜい1度だけなのではないか」、ということを読み解きました。少し複雑かつ微妙な話なので、まとめてみます。

 ・人間の力によって救われる、という考え方から神様の力によって救われる、という信仰への転換だということなら、確かに180度の転換と言えるかもしれません。

 ・しかし、サウロ時代のパウロが、律法から「自力救済」の考え方のみを読み取っていたと考えるのは極端です。

 ・その一方で、「律法(旧約)も福音(新約)も神様からの賜物だから大差は無い」という意味で「1度」ということを考えてしまうのは好ましくありません。

 ・ここで「1度」とあえて見なす理由は、「信仰とは、生まれてから一度も考えたこともない(福音的な)信仰理解が突然空から降ってきて、強制的にキリスト者とさせられる」という考え方を9章から読み取ってしまうことが、「回心」についての理解をゆがめてしまう可能性があり、それを避けるためです。


 やはり複雑かつ微妙ですね。ここでは、「雷に打たれた」というような形で信仰に入る、というのは出来れば避けた方がいい、やはり私たちの内側に聖霊が入り込む際に、私たちは祈りをもって受け入れるべきであって、必要な備えをするのがふさわしい、ということだけ踏まえておきたいと思います。

 先週はある詩集の紹介をしました。それは「深呼吸の必要」という書名がついています。サウロという、手に縄を持って鼻息荒く弾圧の相手を探していた人に渡してあげたい名前の詩集です。詩人は語ります。「言葉を深呼吸する。あるいは、言葉で深呼吸する」。肺で呼吸をする時に、二酸化炭素と酸素を交換します。信仰の深呼吸をする時に、自分の中にある昔からの思いと、それを言い表す言葉とを交換します。色々な言葉を探すことで、自分の中の思いを深め、時に新たな発見をしながら、自分の信仰的な思いをぴったり表現できる証しの言葉を探すことになります。言葉によって深呼吸をしながら、私たちは信仰を深めていくのです。

 今日の箇所は、深呼吸をするようにして信仰を深めていくにあたって、何を考えたら良いのかということについて、私たちにとても良いヒントを与えてくれる箇所だと思います。そのことに思いを向けるために、「直線通り」という地名を巡る思い出についてまずお話を致します。

*私たちの「直線通り」

 先日の教会役員会で、目立たないけれども大事な話し合いを致しました。それは、11月に予定しております特別伝道礼拝の主題に関する話し合いです。ずっと以前は有名な説教者を呼んでくることになっていました。来年は久しぶりにそういう事も計画したいと思っていますが、毎年というわけにはいきません。また、伊東教会の牧師が伊東教会での特別伝道礼拝の説教をするということにも意義と意味があります。こちらの教会に参りましてから当初は、一人でテーマを決めて準備に取りかかっておりました。しかし最近は、テーマ決めをする所から皆さんに相談をするようになりました。従って、今回の聖書箇所を扱った、5年前の青年伝道礼拝の時のように、主題を決めるのもチラシを作成するのも牧師の側から、というようなことは今はなくなりました。そしてだんだん、テーマを決める時期が早くなっています。早くなるほどじっくり準備できるということになります。(今年の特別伝道礼拝の主題は、「コロナを通じて私たちが学んだもの」ということで考え始めています。)

 5年前に文先生がこの箇所で説教をするということになった時、それに合わせてポスターを作りました。そうだ、教会前の県道12号線を「直線通り」と呼ぼう。ということでにわか作りでポスターが作られました。ポスターに写り込んでいる電線を一生懸命パソコンのソフトで消していたのを記憶しています。


 ただ、どうひっくり返っても、12号線は「直線通り」ではありません。元々の「直線通り」とは、ダマスコに古代からある、長さ1570メートル、幅26メートルの大通りのことを指します(説教の最後に100年ほど前の「直線通り」の写真があります)。両方の端が門になっていて、それぞれの門から、反対側の門が見えたのだそうです。今では通りの眺めを遮るようにして市場が建ち並んでいます。要するにダマスコを代表する通り、ということです。元々は、「ロンドンのリージェント通り」(左の写真)というのと同じように、一度もロンドンに行ったことのない人でさえ、なんとなくどこかで見たことがあるような有名な、そして印象的な町並みを示すのが、ダマスコにおける「直線通り」の由来だということになります。

 それならば、「伊東の目抜き通り」として県道12号線があってその通り沿いに伊東教会がある、そしてそれはちょうど、直線通りに住んでいたユダという人の家にサウロが逗留しているということに似ていると思うのです。


 そこで教会の前に立ち、右と左を眺めます。右の方は、郵便局の辺りまで眺めることが出来ます。左については、大川橋の交差点のところで景色が途切れます。何年かしたら区画整理がなされて、そこから海までが一覧できると聞いています。そう言われながらなかなか進んでいませんが、しかし伊東教会の前に立って、左に大川橋で途切れている景色を越えて海をのぞみ、右に郵便局ではなく、さらにそこから修善寺まで通じる道がある、という風に想像することは許されるでしょう。神様からの幻というのには、そういう類いの想像を含むと思います。

 道筋はひらがなの「く」の字のように曲がっています。教会はちょうどその曲がり角に建っています。つまり、教会の前に立った時にだけ、この道は左右に広がりを見せるのです。ある場所に立った時に、その町の様子が分かるようになる。そんな場所に立ってみたいと願い、5年前にポスターを作りました。その時の願いを思い起こします。こういうことではなかったかと思います。「私たちは教会という、最も良い位置で神様から新たな幻を示されたい」。ここで神様の幻を見たいと願うのです。

 因みにポスターはその時には、まったく評判になりませんでした。無理もありません。ポスター自身、やはり素人が作ったという感は否めません。もう一つは、牧師達が勝手に作ったという感じがあって、その伝道礼拝の準備に教会員が入り込む余地が無かった、それはポスターを貼るといった最終段階の準備にコミットしなかったという意味ではなく、伝道礼拝の準備全体に教会員が参与する余地が生み出されていなかった、ということです。私たちが皆でこの場所から神様の幻を見たいと願えるようになるには、時間がかかります。あれから5年経ちました。色々なことが大きく変わりました。今私たちは、ここに来たら景色がよく見える、そんな場所として教会を見なすことが出来るようになっているでしょうか。教会に来たら物事の見え方がしっくりくる、そんな場所として教会をとらえられるようになりたいと願います。


 *もう一人の「見えなかった人」アナニア

 では、今日の箇所の中程に書かれているのは何でしょうか。そこには、もう一人の、「見えなかった者」が見えるようになったという物語です。アナニアは、祈っている中で幻を示されました。「サウロのことを助けてやってほしい」という神様からの促しです。アナニアは抵抗します。私はサウロという人物のことを知っている。私たちキリスト者を迫害する人物ではないか。なぜ彼のことを助けなければならないのか。目が見えないのなら放っておけば良いのではないか。ところが幻の中でイエス様はこうおっしゃるのです。

「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」

 大変にユニークなことをイエス様はおっしゃっています。ユニークでありながら、聖書の中心的な箇所であるとも言えます。イエス様はまずこうおっしゃいました。サウロという人は、私が選んだ伝道のための器である、というのです。これは少し意訳をするなら、サウロという人は、神様によって用いられるようになるまでは、空っぽの器のような存在である、ということです。アナニアは、「空っぽ」という言葉で言い表されたサウロとは一体誰か、について考えざるを得なくなるのです。アナニアはそれまでは、サウロというのはキリスト教に対する憎悪、あるいは十字架によって異邦人も救われるという福音に対する憎悪に満ちた人だと考えていました。しかし神様は、サウロは「器」だというのです。そこに何が盛られるかによって、器の役割は大きく変わります。サウロがどんな中身が盛られた器であるのかということについて、アナニアはもう一度考えざるを得なくなりました。

 もう一つが、サウロ、あるいはパウロは、これからは「キリスト故に苦しむことになる」、という預言です。今までサウロは、律法に忠実であるために苦しんできました。そのようにして鼻息荒く生きてきたのです。その彼が、律法のしもべではなくキリストのしもべとして生きるようになった時に、肩で息をするような生き方ではなく、お腹から深く呼吸をするような仕方で御言葉を語りながら生きるようになる。そんな様子を想像してほしいとアナニアに神様は幻を示すのです。

 考えてみますと、パウロにとって、異邦人に対して十字架の福音を伝える伝道をする生き方の方が、ファリサイ派として縄を持ってあちこちを練り歩くよりも自然な生き方だったのです。落ち着くのです。落ち着くというのは、自然に力を抜いて腰を下ろすべき所に下ろす様を指します。イエス様は幻を示します。「そういう、サウロにとって落ち着く場所がアナニア達の交わりの中にあるから、サウロをパウロとして受け入れてほしい」、それが神様からの促しです。

 「そこでアナニアは出かけていき」、と聖書は記します。幻から覚めたアナニアは、ここで目が開かれたのではないでしょうか。サウロをパウロとして受け入れることによって、アナニアやパウロ達の共同体である教会は、ますます自然な落ち着きを見出すことになる。来るべき人が来ることで、より教会らしくなる。最も異物であると思われていた人物を受け入れ、実際に教会は成長するのです。ここで目が開かれているのはサウロばかりでなく、アナニアもまた目が開かれるようになっているのではないでしょうか。そしてサウロとアナニアばかりではありません。立つべき所に立つことによって目が開かれるのは、全ての信仰者も同じです。信仰者の信仰体験は雷に打たれたように起こるものではありません。むしろ、立つべき所に立った時に、目には入っていたが本当の意味で見えなかったものが見えるようになる。180度である必要はありません。1度の方向転換で、すべてが変わるのです。


 直線通り。それはパウロとアナニアという、二人の信仰者達の目が開かれた場所として聖書で記憶されています。私たちにとっての直線通りは松川町5の6にあります。私たちもここにいる時に、視野が最も良く開かれる、そんな体験をするのではないでしょうか。