神は民から離れない

2022/04/24 復活節第一主日 
「神は民を離れない」(使徒言行録19回) 7:1~16 牧師 上田彰

*主が教会に住んでくださる

 「あなたは主イエス・キリストを頭とし、使徒と預言者とを土台として、あなたの教会を地上に建て、その中に住んで下さることを約束されました」。『日本基督教団式文』は、牧会祈祷のための祈りの文章を提示しています。その中で、変えて良い部分と変えてはならない部分があり、私自身は、この部分は変える必要を感じず、そのままいつも用いています。週ごとにこの祈りを捧げる中で感じるのです。あなたは地上に教会を建て、その中に住んでくださることを約束されました、と。主イエス・キリストご自身が住んでくださる場所、そこが教会である、というわけです。
 ですから思うのです。教会に来た外部の方が、礼拝の後に立ち上がって、こう叫んだとしたら、本当に残念だろうなあ、「皆さん、ここには神様など本当はおられません」と叫ぶ人がいたら。ステファノはそういう事をしたのです。神殿に神さまがいて下さる。これは、神殿には神さまがいて下さるといいなあ、というのとは違います。神殿に神さまがいて下さる、これは神様が下さった約束なのだ、だからそこで「ここには神さまはいない」と叫ぶ者がいるとしたら、単に不調法だというだけでなく、神様からの約束を愚弄したことになる。神殿冒涜罪というのは、イエス様にも向けられた嫌疑ですが、こういった経緯があるのです。さて、ステファノを取り囲む敵意というものに思いを向けたら、次はステファノの言い分を聞きたいと思います。

*旅をする教会――自縄自縛からの解放

 今日から何回かに分けて、ステファノの殉教に際しての説教を共に聞きたいと願っています。少しここまでの流れを確認しておきます。
 ペンテコステの出来事から始まった教会は、使徒ペトロを中心に急速に調えられつつありました。彼の説教は神殿や、最高法院でなされたものが伝わっています。その説教を見てみますと気がつくのは、使徒達が「十字架と復活」を中心に語っているということです。何を当たり前のことを、と思われるかも知れませんが、十字架と復活について語ることが、彼らに突き刺さるのです。十字架、それはあなた方ユダヤ人がイエス様を十字架にかけたということだ、復活、それはあなた方に示された、私たちからの証言なのだ。これは、よく考えてみると、ペトロ達使徒は、ユダヤ人批判をしているわけではありません。これを批判と受け止めたのはユダヤ人達です。攻撃しているわけではないのに攻撃されていると思い込む。現代で言えば、戦争の悲劇にもつながるような思い込みが、自分たち自身を追い込んでいく。
 実は同じような、自分で自分を縛ること、自縄自縛と言えるような聞き方を教会の周囲の者たちがしてしまうことで、教会への迫害は最初のピークを迎えてしまいます。殉教です。使徒ではなく、執事が犠牲になりました。一体彼らユダヤ人達は、ステファノの説教のどこにとがったものを聞き取ったのでしょうか。ステファノは、十字架については語らない代わりに、旧約聖書の出来事を語りました。恐らく一回限り、最高法院でユダヤ人達の前で語ったということではないと考えられます。もしそうなら、これだけ長い説教が語り継がれて残ることはありません。ステファノはパンの配給係、つまり教会のお世話係でありながら、教会で何度も説教をしていたようです。そこで教会は、この説教が向こう側に漏れて、とがめられた。偽の証言者が仕立てられてイエス様さながらに有罪に塗り固められていった、と6章の最後にありますが、恐らく今日から何度かに分けてみることになる説教自身が、ユダヤ人を愚弄するか神殿を冒涜するものだと見なされたに違いありません。しかしながらステファノにそういう意図は全くありません。よく読むと分かりますが、7章全体のステファノの説教の中で、一番最後のちょっと以外は、現在のユダヤ人を直接名指しで攻撃する物言いではないのです。また、ステファノは自分が捕まえられたにもかかわらず、無罪を説明するような演説にも、よく考えたらなっていません。彼はただひたすら説教をしているのです。ユダヤ人が悪いのでも、自分が無罪というか、正しいというのでもない。ひたすら神様の恵みについて語るのです。その言葉はある人にはステファノの自己弁護に聞こえたのかも知れません。ある人にはユダヤ人批判に、神殿批判に聞こえたのかも知れません。
 自縄自縛からの解放。それは教会の周りの者たちが、偏見を持つことなく教会の語る宣教の言葉に耳を傾けるということを意味すると同時に、教会自身が何かに縛られていないか、ということを考える必要もあることを意味しています。そのために、教会は先ほどの「神様が住んでくださる宮としての教会」ということ以外に、「神の御国へと旅をする教会」ということも重んじて参りました。一つの場所にいて、あるいは一つの政治思想やイデオロギーに凝り固まることによって、じっと動かないというのではなく、旅をするのです。
 
*「あなたは離れなさい」

 今日はアブラハムとヨセフ、創世記に出てくる話の部分までで区切りたいと思います。来週はモーセが出てくる出エジプト記を扱います。
 このアブラハムとヨセフの物語をステファノが語り直すのを見る際、実際の聖書の箇所と見比べながらステファノの語りを検証することで、ステファノの説教の意図が分かると言えます。細かい話は省きますが(例えば、今日の7節「この場所で私を礼拝する」と出エジプト記3:12の「この山で私を礼拝する」を比較すると)、ステファノはエルサレムというこの町で礼拝をしながら生活をする、礼拝中心の生活をするということそのものを重んじていることが分かります。
 エルサレムで礼拝中心の生活を持つ。これ自身は、言ってみれば毒にも薬にもならない、ごく当たり前のことのように聞こえます。しかし自縄自縛に陥っていた当時のユダヤ人達には別様に聞こえたのではないかと思います。つまり、ステファノ自身は、神殿にだけ神さまはいて、そこ以外にはいないというように考えるのではなく、信仰者としての生き様そのものに神様が伴ってくださる、ということを強調しているのですが、自縄自縛に陥って教会の言うことに偏見を持ってステファノの言葉に耳を傾けると、「神殿はなくてもいい」という、神殿廃止論を唱えているように聞こえなくもない。それは悲しいことです。神様の祝福が神殿の中でしか受けられないと思い込むことも悲しいことだし、またそう思い込んで別の見方をする者を抹殺してしまうことも悲しいことです。
 しかし一方で、冷静に指摘しておかないとならないのは、冒頭で紹介した牧会祈祷式文にあるような、「神様は教会に住んでくださる」という約束と、「教会は旅をする」というイメージとは、私たちには食い違って聞こえる、ということです。

 そこでステファノ自身は信仰者は「一つの所に留まって住む」ものなのか、「旅をする」ものなのかという、そのどちらで考えているのかについて、今日の箇所で確認をしてみます。すると気づくのは、「離れる」というキーワードをステファノが使っているということです。今日の箇所の中で「離れる」という言葉が二回出て参ります。3節と9節です。それぞれを解説します。
 3節ではこう出て参ります。神様がアブラハムに現れて命令するのです。「あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け」。創世記12章に出てくる命令です。伝説によればアブラハムの父親の名前はテラといいます。アブラハムはテラの守り、庇護の元にあり、また親戚一族によって守られる地元から離れ、神様が示す土地に行くことを命じられるのです。離れなければずっとそのまま安泰なのです。冒険をする必要は無い、というか地元を離れて行く場所は、決してもっと実り豊かな、冒険をする甲斐とリスクを取る価値のある場所というわけではないのです。むしろ、新しい場所に神様の命令通りに行っても、何一つ土地も財産も与えられない。にもかかわらず主はこう命じられるのです。「古い価値観から離れて、新しい約束を信じて生きなさい」ということです。
 人間は古い価値観にいつも縛られます。アブラハムはかつてアブラムだった時代、地縁と血縁に取り囲まれた中で生きていました。出エジプトの民は、カナンに向かう旅路の途中で、エジプトで奴隷生活をしていた方が良かった、ここには自由はあるが肉と鍋がない、といってエジプト時代の古い奴隷生活に軍配を上げようとします。同じように、イスラエルに定住した約束の民は、「御国へと旅をする」ことを忘れて、約束の地に着いたのだからもう旅をする必要は無いと考えます。神様はアブラハムの元いた場所、モーセ達が元いたエジプト、ユダヤ人達が今いるイスラエルから「離れる」ことを求めているのです。「離れる」というのは「場所の移動をする」ということではなく、「古い価値観」から離れるということだと気づかされます。国と国との間でいつの間にか価値観がずれてしまい、大きな悲劇が生じることもあります。一国の指導者が古い価値観に囚われてしまい、自国民と隣の国全体が大きな悲劇に巻き込まれる時、この「離れなさい」という命令は、指導者にだけ当てはめて考えるのではなく、関係するすべての人が胸に手を置いて考え直さなければならないのではないかとも思います。

*「私はあなたを離れない」

 ではユダヤ人達を自縄自縛にした古い価値観から離れるということはどのようにして起こるのでしょうか。そこでもう一回「離れる」という言葉が出てくる9節に目をやってみます。まずは9節の前半から見ますと、ヨセフが族長達、つまり自分の兄たちによってエジプトに売り飛ばされてしまったという出来事が記されています。つまり、「無理矢理離されてしまう」という事件も起こりうるということです。ヨセフは兄たちのことが好きでした。兄にいじめられても慕っていました。しかしいじめてもついてくる弟を、ついに兄たちはエジプトの奴隷商人に売り飛ばしてしまうのです。ヨセフの、兄たちを慕い続ける態度はその後も揺らぐことはありません。にもかかわらず神様は、「元いた場所を離れなさい」という命令をなさる。それを受けて、9節後半の言葉が語られるのです。神様は「私はあなたを離れない」と約束なさる、というのです。「あなたが元いた場所から離れても、私は離れない」のです。この約束だけを信じてヨセフは、この「離れなさい」という命令を受け入れ続けたのだと思います。

 そしてこの命令の意味が、自分が地上で生きている間に理解出来るようになる時が来るとは、ヨセフ自身も思っていなかったに違いありません。エジプトに売り飛ばされたヨセフは、文字通り異例の出世を遂げ、ついにエジプトの首相になってしまうのです。そしておりからの飢饉で食料を求める族長達とその父、つまり自分の父親や、そしてあの兄たちとエジプトで再会するのです。ヨセフがあの時に「離れて」いなかったとするならば、一族はつてもないまま飢え死にをしていたかも知れません。しかし「離れなさい」という命令に従うことによって、活路が開かれたのです。
 離れるということは、旅をするということです。神様とともにある旅をする際に、神様以外のものから離れることで、本当に必要なものは与えられるようになるのです。
 「古いものから離れなさい。しかし私はあなたを離れない」。この約束はアブラハムからヤコブ、ヨセフ、そして来週以降に扱いますモーセやダビデと、ちゃくちゃくと受け継がれていきます。イスラエル民族とは、血のつながりによって成り立つ血族ではなく、この約束を信じ続けることによって成り立つ神の民なのです。

*旅をしながらここに留まる教会として

 今日は教会総会を持つことになっています。私たちの教会は、有り体にいえば地方の小さな教会に過ぎません。数代前の牧師の時代、教会役員会では、隣接地を取得しよう、それが出来なければ移転をしなければ教会は生き延びることは出来ない、という話をしたと伝え聞いています。私たちは隣接地を取得しました。私たちは普通の意味でいえば、引越をすることを計画することは向こう数十年にかけておそらくないと思います。この地で伝道をしていくということに意味と意義を皆が感じていますし、手応えもあります。しかしそのことは、「離れなさい」という神様の命令を聞かなくて良いという意味ではないのだと思います。
 実際、私たちは様々なものから離れなければならないのではないでしょうか。今までの実績や思い込み、成功体験に縛られることなく、伝統を現代に生かすやり方を創意工夫することも、「離れる」ことではないかと思います。そして神様の約束があることだけを手がかりに歩む、だからこそ「今いるところから離れなさい」という命令は「私はあなたを離れない」という約束と結びついているのです。私たちは教会移転の計画を立てなくても、旅をし続けられるのです。