なぜ福音を伝えるのか

 2022/04/17 復活主日聖餐礼拝     マルコによる福音書16918

  説教「なぜ福音を伝えるのか」                                                牧師 上田文

 

今日は、復活主日です。教会学校では、娘の友だちが来てくれてピニャータというくす玉を割りました。教会学校に来てくれた友だちは、幼稚園の友だちでした。幼稚園は、カトリックの幼稚園でしたので、娘も私もとても自然に教会にお友だちを誘う事が出来たように思います。しかし、4月になり娘は小学校に入学しました。6月のペンテコステや12月のクリスマスには、新しい友だちが来てくれれば良いなと期待と不安が入り乱れています。それと同時に、いつもの事なのですが、伝道の難しさを感じずにはいられません。日本には、会話の中で政治と宗教の話はご法度という仕来りのようなものがあります。なぜそうなのかという調査をした人がいますが、相手を傷つけないため、会話が出来なくなるためと答えた人が多くいたようです。なぜ、政治と宗教の話は、会話が出来なくなるのでしょうか。ひょっとすると、政治や宗教は、「こうしなければならない」「これをしない人は仲間ではない」といった、間違った集団作りに繋がる可能性があるからかもしれません。それを聞いている相手に恐怖を与えてしまうからかもしれません。

しかし、今日の聖書箇所でイエスさまは、イエスさまに繋がるというのは、恐怖の中で無理やり繋がるものではない。むしろ、恐怖から解き放たれ、喜びを持って、イエスさまに繋がり、そのことによって自由に新しい言葉を語る者とされる。相手を支配するのではなく、相手がイエスさまによって救われ、喜びをもって神の国に入る者とされるような言葉を語れるようになるのだと教えてくれます。

 

 今日の話は、イエスさまが十字架に架けられて死なれ、埋葬され、墓の中で復活された後の話です。イエスさまは、一人の女性のもとに姿を現されます。それは、マグダラのマリアと呼ばれる女性でした。聖書は、このマグダラのマリアについて「七つの悪霊を追い出していただいた婦人である」と説明しています。七つの悪霊とは、何なのか分かりません。しかし、彼女が何か大きな良くない力に縛られていたと想像する事が出来ます。私たちにとって、どのような事が自分を縛り付ける力になるでしょうか。病気かもしれません。家族や人間関係かもしれません。また、世間体やお金の問題という人がいるかもしれません。さまざまな不安や恐怖が、心の中に居座り続ける事を感じる時があります。不安やモヤモヤが心を縛りつけるのです。マグダラのマリアを縛り付けていた悪霊が何か具体的には分かりませんが、イエスさまは、それを追い出して解き放ってくださったのでした。

 しかし、イエスさまが死なれた後、マリアはどのように過ごしていたでしょうか。今日の聖書箇所の少し前には、婦人たちは、墓を出て逃げ去った。震えあがって、正気を失った。恐ろしかったからであるとあります。ずっとお慕いし、神の子と信じていた方が十字架上で無残な姿で死なれ、葬られたのです。そのような状況の中で、若者である天使はイエスさまの復活を、彼女たちに告げます。しかし、彼女たちは、悲しみと絶望の中で、天使の言う事が全く理解できなかったのでした。それは、婦人たちの一人である、マグダラのマリアも同じでした。マリアは、イエスさまに悪霊を追い出して頂いたにも関わらず、再び、不安に縛られてしまっていたのでした。しかし、イエスさまはそんな彼女の所に姿を現してくださいました。そして、マリアの絶望や悲しみ、不安を再び追い払ってくださったのでした。「わたしはここにいる」と、彼女を解き放ってくださったのでした。

 再び悪霊は追い出して頂いたマリアは、早速弟子たちの所に行き、そのことを知らせます。私は今、弟子たちと言いましたが、聖書は弟子たちの事を「イエスと一緒にいた人々」と書き、彼らは「泣き悲しんでいた」と記しています。「かつてはイエスさまと一緒にいて」「今は泣き悲しんでいる人々」と記すのです。復活されたイエスさまに出会っていない人をこのように示したのかもしれません。マグタラのマリアも、かつてイエスさまに七つの悪霊を追い出してもらい平安の中で生きていました。しかし、そのイエスさまが死なれ、復活されたイエスさまに出会うまでは、「泣き悲しんでいる人」でした。弟子たちも同じです。彼らは、イエスさまを通して、新しい世界を夢見ていたように思います。「あなたと一緒なら牢にも入るし、死んだってかまわない」と言っていた人たちです。かつてはイエスさまと一緒にいて、イエスさまから、沢山の教えを頂き、恵みを頂き、幸せな日々を過ごしていた人たちです。しかし今は、イエスさまの死によってそれが完全に破壊され、ただ泣き悲しんでいました。夢を破壊したのは自分自身であったかもしれません。彼らは、イエスさまが捕まった時に、一緒に牢に入るどころか「あの人のことは知らない」と言って逃げてしまったのです。彼らの悲しみには、自らへの失望も混じっていたように思います。自らへの失望、それは私たちにもあるように思います。どうしてあのように理解してしまったのだろう。どうして、あんなことを言ってしまったのだろう。自分は、弟子たちと同じように「あの人のことは知らない」と逃げてしまうような人間だと思うことがあります。過去の事さえ、失望の材料になってしまうのです。

 このような、弟子たちと私たちに、復活のイエスさまの姿を見たマグダラのマリアは伝えます。「イエスさまは、復活なさったのですよ。生きておられますよ」。でも、彼らは信じません。悲しみや絶望、失望の中にいたままでした。マリアのように解き放たれることはありませんでした。彼らは何故「イエスさまは生きておられる」という知らせを信じる事が出来なかったのでしょうか。それは、実は彼らの悲しみが、イエスさまと繋がっていなかったからかもしれません。彼らは、イエスさまが十字架に架かられたことよりも、自分たちに希望が無くなってしまったことを憐れんで泣いていたのではないでしょうか。イエスさまを信じて従ってきた努力は何もならなかった。それよりも、自分たちもまた、イエスさまのように捕らわれるのではないかという、祭司たちに対する恐れの涙であったかもしれません。また、「イエスさまに従う、死んでもかまわない」とまで言ったのに、それが出来なかった。そのことに対する罰が与えられるのではないかという、イエスさまに対する恐怖の涙であったかもしれません。どちらにしても、彼らは、恐怖の中で、前途に何の希望も見えず、どうしたらよいのか分からなくなっていました。そして、そういう、惨めな自分たちのことを嘆き悲しんでいたのです。弟子たちは、自分たちの惨めなプライドを保つ事で精一杯になり「イエスさまは生きておられる」という知らせを信じることが出来なくなっていたのでした。自分たちの思いの中で、心を閉ざしてしまったのでした。

それは、次の話でも共通しています。「イエスさまが別の姿でご自身を現された」と田舎に向かいかけていた二人の弟子から聞かされても「信じなかった」とあります。悲しみと、恐怖の中で、彼らもまた、神の恵みのみ言葉に対して心を閉ざしてしまっていたのでした。

 

 そのように心の扉を固く閉ざしてしまっている弟子たちのところに、ついにイエスさまが現れてくださいました。そして、彼らの前にたち、「その不信仰とかたくなな心をおとがめになった」とあります。イエスさまがおとがめになったのは、イエスさまに従わなかった事でも、逃げてしまった事でもありませんでした。イエスさまは、彼らの「不信仰とかたくなな心」つまり、「復活されたイエスさまを見たという人々の言う事を信じなかった」事をとがめられました。

イエスさまは、私たちに対しても同じようにおとがめになるかもしれません。復活されたイエスさまを信じないという問題は、今も昔も教会の中にある問題ではないかと思います。私たちは、イエスさまの事を「死んで死者の中から復活された凄い人で、私たちの生活を良くしてくれる望みのある人」と思っている事があるように思います。弟子たちと同じように、この人について行けば、自分の生活に望みが出てくると思っている事が多いように思います。しかし、イエスさまの事をそのように理解していると、「イエスさまが、復活なさった」という事と、自分との繋がりが良く分からなくなってしまいます。それは、弟子たちが、苦しみ、不安、脅えの中で、「イエスさまを見たという人々」の言う事を聞かなくなる事と似ています。自分の生活を守るのに必死になって、死んだイエスさまのことはどうでも良くなってしまうのです。しかし、イエスさまの十字架の死と復活は、イエスさまの凄さを見せつけるためのものではありません。十字架と復活の御業は、自分の事しか考えられないで、神さまの事をそっちのけにしてしまう私たちの罪を、赦して、罪人を良い者として新たに生かしてくださる神さまの御業です。そのため、「イエスさまが、復活なさった」事と自分の事を繋げる事が出来ない私たちは、弟子たちと同じように、復活されたイエスさまを信じていない事になります。私たちも、イエスさまに、おとがめを受けるのです。しかし、イエスさまは、とがめる事によって、私たちを厳しく罰するのではなく、私たちのかたくなな心の扉を開こうとしてくださっています。

 

 イエスさまは、かたくなな心を持つ弟子たちと私たちに大きな使命をお与えになりました。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と言われます。不信仰でかたくなな心を持つ私たちが、どのようにして福音を宣べ伝えることができるのだろうか。福音を宣べ伝える事などとてもできないと思います。しかし、イエスさまは、私たちがこの使命を果たす事で、イエスさまが本当に生きて働いておられること、復活なさってここにいてくださることを教えようとしてくださっているのです。何かを教えた事がある人は、分かるかもしれませんが、教えるという事は、自らの理解を深める事に繋がります。つまり、私たちは福音を語る事で、福音を深く知る事が出来るのです。つまり、不信仰で、かたくなな心は、イエスさまの福音を語る使命を果たしていく事で、打ち砕かれていくのです。そして、このような不信仰な弟子たちと私たちが語る言葉を神さまが神の言葉にしてくださり、信仰を広めてくださるのです。

しかし、やはり私たちは、自分の恐怖も人々の悩みや悲しみも解決できないような気がします。実際に、いくら福音を語っても自分の目の前から人は去ってしまったという経験を何度もしているのではないでしょうか。イエスさまは、だからこそ、このような私たちに向かって「すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と言って下さるのです。全ての人にではなく、「すべての造られたものに」と言われます。イエスさまは、人間は勿論この世界の全ての物は、主なる神さまによって造られたものである。神さまが支配してくださっているのであると私たちに知らせてくださるのです。それは、神さまは全てをご存じでいてくださる。私たちの不信仰も、福音を語る事がうまく出来ない私たちの現状も、そして、福音を語っても上手く行かない、つらい経験も全てご存じでいてくださる。けれども、そのような私たちの言葉を神さまは必要としてくださるのです。すべての造られたものを再び「神の国」に招き入れるために、神さまが私たちを必要としてくださり、私たちを通して働いていてくださる。このことを、イエスさまは教えてくださるのです。

そして、そのしるしが17節、18節に語られる「彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」という言葉に表れています。このことは、後の弟子たちの活動を見ると良く分かります。使徒言行録には、復活されたイエスさまに出会った後の弟子たちの活動が記されています。彼らは、悪霊のように、心をかたくなにさせ、イエスさまを信じることが出来なくさせる力から、人々を自由にしました。また、蛇のように人々を誘惑する力から、人々を助けました。手を置いて病人を癒しました。私たちには、このような事は出来ないと思うかもしれません。しかし、これを行われるのは、私たちを通して働いて下さるイエスさまであり神さまです。ひょっとすると、イエスさまが私たちに見せてくださるしるしは、弟子たちの時代のものとは違うかもしれません。しかし、イエスさまが、復活して生きて働かれ、共にいてくださること、また神さまがこの世を支配しておられる事をしるしを通して示してくださる事は、今も昔も変わりがありません。神さまは、私たちのつたない言葉を通して、少しずつですが教会に繋がる者を生み出してくださいました。今も洗礼を受けてイエスさまの体である教会の一部とされる者が生まれています。私たちの教会は、そのようにして建てられきました。ここに教会がある。そのこと自体が、神さまが私たち人間を大切にしてくださり、復活したイエスさまを今も私たちと共に生かしてくださっているしるしであると言えます。

 

 

 私たちは、これから聖餐の席に着きます。聖餐もまた、イエスさまが私たちに与えてくださったしるしです。私たちは、聖餐を受けた後、このように祈ります。「折を得ても得なくても、御言葉を述べ伝えることが出来ますように」。私たちは、イエスさまの福音、つまり、主イエス・キリストが私たちの罪を背負って十字架に架かって死んでくださった。神さまは、そのことによって私たちの罪を赦して下さり、イエスさまの復活の命にあずからせて神の子として神の国に生きるものとしてくださる。このイエスさまが今も私たちと共にいて生きて働いていてくださるという救いの恵みを述べ伝えるのです。私たちは、イエスさまの福音を述べ伝えるときに、福音への確信が深められます。その言葉が真実であるとはっきり示されるのです。イエスさまの復活を信じる事が出来ず、震えあがり、墓を飛び出したマリアも、そして、絶望と失望の中でイエスさまの復活を信じられなかった弟子たちも、福音を述べ伝える事によって、再び、復活されたイエスさまと共に歩み始める事が出来たのです。私たちも、マグダラのマリアや弟子たちと同じです。過去に出会ったイエスさまへの思いだけでは、信仰は続けられません。イエスさまと一緒にいた人々は、泣き悲しんでいたのです。過去に出会ったイエスさまの記憶だけでは、私たちは泣き悲しむ者となってしまうのです。私たちは、「折を得ても得なくても、御言葉を述べ伝える」事によってのみ、今も生きて働いて下さるイエスさまに出会う事ができます。そして、いつもイエスさまに出会い続け、信仰を与えられ続けるのです。いつも新しい信仰を与えられる私たちは「新しい言葉」を語る者とされます。私たちがいつも神さまに向かって歩むことが出来るように、イエスさまが十字架の上で血を流してくださった。そして神さまはイエスさまを復活させてくださった。このイエスさまが世の終わりまで、私たちと共にいてくださる。いつも私たちの為に働いて下さっていると、絶えず新しく出会ってくださるイエスさまの事を告白する者にされるのです。そして、このことによって、信じて洗礼を受け、救いに与り、神の国に入れられる者が、次々とおこされるのだとマルコの福音書は結ぶのです。私たちは、生きて働かれるイエスさまと共に、マラナタ(主の御国がきますように)と祈り、新しい言葉を語り、この弟子たちに続く、今の教会を立てる者とされているのです。この恵みに応え続けたいのです。