打ち砕かれる

2022/03/20 受難節第三主日     マルコによる福音書146672

「打ち砕かれる」                       説教 牧師 上田文

 

 

韓国に住んでいた頃、私の支えになっていた讃美歌があります。너는 시냇가에 심은 나무라というですこの讃美歌は詩編1篇3節を中心として歌詞が作られている讃美歌です。詩編1篇3節は、このように書かれています。「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」。一度、その讃美歌を聞いてください。とてもゆったりとした、神さまにもたれかかって、神さまに守られながら、お昼寝をするような曲に感じます。私は、昔、この詩編全体を読まないで、この讃美歌だけを聞き、このように誤解をしていました。イエスさまに繋がれている私は、流れのほとりに植えられた木。だから、自分は、何もしなくても、イエスさまが水も栄養も与えてくださる。神さまに従うとは、イエスさまに全てをお任せして、水や栄養を頂いて生きることだ。

イエスさまと共に旅をしていた弟子たちもまた、イエスさまの事をこのように理解していたのかもしれません。イエスさまの近くでお仕えして、共に旅をしている自分たちは、幸せに生きていける。イエスさまのお近くにいたら、イエスさまが、衣食住も信仰も全て与えてくださると考えていたと思います。実際に、イエスさまは様々な仕方で弟子たちを助け、彼らの幸せを願ってくださっていました。パンを分け、お腹も満たしてくださいました。しかし、イエスさまは捕らえられる前の夜に弟子たちの前で言われるのです。「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。弟子たちは、どうしてよいのか分からなくなったと思います。自分たちは、誰よりもイエスさまの近くにいてお仕えし、イエスさまに従っていると考えているのに、あなたたちは裏切ると言われてしまうのです。このイエスさまの言葉は、教会に集められた私たちにも向けられた言葉です。私たちも、またイエスさまに従って生きていると考えています。しかし、イエスさまは、私たちにむかっても「あなたたちは裏切る」と言われるのです。イエスさまにこのように言われてしまうと、私たちもまた、どうしてよいのか分からなくなってしまいます。しかし、この言葉は、私たちが真にイエスさまに従うための、恵みの導きの言葉であることを今日の聖書箇所は教えてくれます。今日の聖書の主人公はペトロです。このペトロは、後に「人間に従うよりも神に従わなくてはなりません」と教えた人です。この言葉は、伊東教会の年間聖句でもあります。人に従うのではなく、神に従うという事がどのようなことなのか、ペトロを通して聖書に聞いてみたいと思います。

 

今日の聖書箇所の少し前で、イエスさまは捕らえられて、大祭司の家で裁判が行われ始めました。その裁判が行われている家の中庭にペトロが座っていました。そのため、聖書には「ペトロが下の中庭にいたとき」とあります。このペトロに、イエスさまは、このように言われていました。「今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことをしらないと言うだろう」。それに対して、ペトロは答えました。「例え、死ななければならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは言わない」。きっと、この答えに嘘はなかったと思います。ペトロをはじめとした弟子たち皆が、イエスさまと一緒にいる事が出来るのならば、例えイエスさまと一緒に捕らえられて殺されても構わないと思っていたのでした。それほど、イエスさまと一緒にいる事は幸せなのでした。まさか自分たちがイエスさまを「知らない」と言うなんて考えることも出来なかったと思います。しかし結局、イエスさまが捕らえられるときに、ペトロをはじめとした弟子たちは皆、蜘蛛の子を散らすように逃げてしまいました。そして、イエスさまは一人で捕らえられて、死刑がはじめから決まっている裁判にかけられるのです。その出来事が起こった後、54節にはペトロが「遠く離れてイエスに従い大祭司の屋敷の中庭まで入って」とあります。今日の聖書箇所はこの続きの話が書かれています。弟子たちは皆逃げてしまいました。しかしペトロは、気を取り直してイエスさまの近くに行こうとしたのかもしれません。聖書にも「イエスに従い」と書かれています。ペトロは確かにイエスさまに気を掛けていました。しかし、これは従ったことになるのでしょうか。聖書をよく読むと、彼は「遠く離れて」イエスさまに従ったとあります。つまり、遠く離れた所から、イエスさまがどうなるのか見ていたとも言えます。自分自身に影響が及ばない範囲で、この裁判を外側から眺めていたのでした。「自分自身に影響が及ばない範囲で」です。このペトロの姿は、私たちの姿であると言えます。私たちは、イエスさまに従うと言いながら、仕事や家族といった自分の生活に影響が及ばない範囲で遠くからイエスさまを眺めているという事があるように思います。また、自分は上手に祈れないから、上手に聖書が読めないから、上手に奉仕が出来ないからと自分の都合を優先してし、イエスさまを遠ざけてしまう事もあるように思います。ペトロと同じように「遠く離れてイエスさまに従うのです」。しかし、このように遠く離れてイエスさまに従う時、私たちは自分がどこにいるのか、分からなくなってしまうのです。イエスさまに従っているのか、イエスさまから遠く離れている人々に従っているのか分からなくなってしまうのです。

 

ペトロは、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って火にあたっていました(54)。つまり、イエスさまから遠い人々、世間の人々、ここではイエスさまを殺そうとしている人々に紛れ込んで、イエスさまの弟子である自分を隠そうとしたのです。そのような、ペトロの姿を見つけた大祭司に仕える女中が、ペトロをじっと見つめて言います。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」。原文を読むと、この言葉は、確信を持った言葉ではなく、何でもない軽口を交わす、ジョークのような言葉であることが分かります。「おまえ、あのナザレ派のイエスとかいう奴と一緒にいたろ?」ぐらいのものです。しかし、この言葉にペトロは完全に動揺してしまうのです。彼は、しどろもどろになりながら「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言うのです。ペトロは、答えをはぐらかしてしまいました。「そうだ」とも「違う」とも言わないのです。しらばっくれるのです。「そうだ」とか「違う」というの言葉は、自分の意志を表す言葉、主体的な言葉であると言えます。しかし、「何のことか分からない」というのは、自分は何もしないで、逃げる言葉です。ペトロもまた、大祭司の家の中庭に集まる人々と同じように、イエスさまがどうなるのか関心がありました。しかし、彼は、関心があるだけで、自分には何かの影響を与えられたくない。関心はあるけれども、自分は何もしたくない。イエスさまを助けに行く勇気もないし、イエスさまと同じように捕らえらる事も嫌だ。自分はじっとしておこうと思っていたのでした。そして、イエスさまと自分は関係ないと、しらばっくれ、イエスさまを遠のけてしまうのです。イエスさまを知らないという事は、もう既にここから始まっていたのでした。

このような事は私たちもあると思います。クリスチャン人口の少ない世の中で、主体的に信仰者として生きる事が難しいように感じることがあります。信仰を持っていない仲間の中で、イエスさまのみ言葉に生きるよりも、むしろ、はぐらかしてばかりいるような気がします。先ほど、韓国の話をしましたが、日本との違いを感じる中の一つに、リビングや職場の机に聖書を置いている人がとても少ないように思います。それほど、個人が信じるものを大切にされない環境が日本にはあるのかもしれません。私たちは、そのような環境の中で、イエスさまに関心は持っているけれども、それが自分の事となると逃げてしまうのです。隠してしまうのです。私たちもまた、ペトロと同じようにイエスさまの事を「知らない」と言い始めているのではないでしょうか。

 

イエスさまの弟子であることをはぐらかし始めたペトロは、イエスさまに従うという事もはぐらかし始めます。自分の身を守るために必死になり、イエスさまの裁判についての関心も無くし始めるのです。彼は、「出口の方へ出て行った」(68)のでした。イエスさまのことを「分からない、見当もつかない」とはぐらかしたのだから、彼はそこにそのまま座っていればよかったのでした。しかし、彼はその場から逃げ出したのでした。その行動を見て、女中は疑いを深めます。そして周りの人々に「この人は、あの人の仲間です」とまた言い出したのでした。「仲間です」という言葉は、「イエスさまの直ぐ近くに立っていた」という風に訳す事が出来る言葉です。この言葉は、弟子たちにとって名誉な言葉であるはずでした。イエスさまと共に旅をして、イエスさまに従っていると思っていた弟子たちです。イエスさまの直ぐ近くにいるのだから、イエスさまがきっと幸せにしてくださると思っていた弟子たちです。しかし、ペトロはその言葉を打ち消してしまうのでした。「あの人の仲間」つまり「イエスさまの近くに立っていた」ということを打ち消すのです。彼は、完全にイエスさまとの関係を否定してしまいました。しかし、彼がイエスさまとの関係を否定すればするほど、周りの人々はペトロに確信を持ち始めるのです。今度は居合わせた人々がペトロに言います。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから」。イエスさまは、ガリラヤ地方で育たれたので、ガリラヤの言葉を話されました。そして、ペトロも同じ地方から出て来た人でした。そのようなペトロは、慌てれば慌てるほどガリラヤ訛りが目立ったのでしょう。

大祭司に仕える女中も、居合わせた人々もペトロを見れば見るほど、自らの判断に間違いはないと確信をもったのでした。しかし、ペトロは全く違います。大祭司の家の中庭で、確信を持った行動を全くしていません。周りの言葉に振り回されて、ただひたすら逃げ隠れするのです。相手の言葉に動揺し続けるのです。

けれども、ペトロが意識的な行動をとる事が出来ないことは、今に始まったことではありません。イエスさまがゲツセマネで祈られた時も、眠たさに負けて彼は眠っていたのでした。また、エリヤがモーセと共に現れてイエスさまと語りあっている時に、感情のままに口をはさんだのもペトロでした。彼は、周りの状況に対してよく考えもせずに、反応してしまうという癖があったのでした。自ら考えたり、判断したりすることが苦手なペトロ。このペトロの特徴が、弟子としての生き方に良く表れていたのでした。彼は、イエスさまにもたれかかり、ぶらさがるようにして全く無責任にイエスさまの近くに立っていたのかもしれません。この無責任さが、大祭司の庭であらわにされるのです。ペトロは呪いの言葉さえ口にしながらとあります。この呪いの言葉というのは、ただ相手を否定するだけでなく、自分をも否定する言葉なのだそうです。聖書には、ペトロの呪いの言葉は書かれていません。しかし想像することが出来ます。「自分がガリラヤ出身でなければ、こんな事にはならなかったのに」「イエスさまの近くに立っていなければ疑われなかったのに」と言ったのかもしれません。自分の周りで起こる事柄に対して、責任を持って、主体的に反応するのではなく、相変わらず、全く無責任に、被害者意識ばかりを強めるのです。私たちもそのような思いを抱く事があるように思います。「教会に行っていなかったら、こんな面倒な事をしなくてよかったのに」「キリスト者でなかったならば、こんなことで悩む必要はなかったのに」また「こんな奉仕や仕事を引き受けていなかったら、気楽に礼拝を捧げられたのに」と感じることがあるように思います。教会だけではありません。「こんな会社に勤めていなければ、こんな複雑な人間関係がなかったら自分はもっと楽に生きることが出来たのに」と、愚痴や言い訳ばかりして、自分は無責任に何もしないという事があるように思います。このような、主体的でない無責任な言葉は、自分も相手も殺してしまいます。ペトロは、呪いの言葉を口にし、「イエスなんて知らない、関係ない」という事によって、イエスさまの近くに立っていた自分自身も、イエスさまをも否定して抹殺してしまったのでした。自分がいる状況に、主体的に反応しないで、はぐらかしたり逃げたりする信仰の歩みというのは、自分もイエスさまも否定してしまう。このことをペトロの姿は教えてくれるのです。

私たちは、一人ひとり名前を呼ばれて救い出されました。洗礼式の時に、名前を呼ぶのはそのためです。私たちは、多くの人に紛れて、遠くから、誰にも気づかれずに救われることはないのです。そのため、信仰生活も遠くからついて行くことなど出来ないのです。私たちが、周りの状況を気にして、人々に紛れて身を隠すように信仰生活を行う時、それは名前を読んでくださっているイエスさまを否定する事になります。イエスさまが与えてくださる救いをうやむやにしてしまうのです。

 

ペトロが3度目に「そんな人は知らない」と誓った時、鶏が鳴きました。そのとき、ペトロは「『鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』というイエスさまの言葉を思い出し泣いた」とあります。ペトロは、この時初めて、主体的に自分の行いを振り返り、考え始めたのでした。3度もイエスさまを「知らない」と言い、イエスさまを否定したことに気づいたのでした。しかし、イエスさまは、ペトロが「知らない」と言うことまでご存じの上で、ペトロを弟子として、また家族として迎えてくださっていました。「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とおっしゃったイエスさまの言葉は、ペトロを否定する言葉ではありません。イエスさまは、「知らない」と言ってしまうペトロの手を握り続けてくださり、ペトロがいつか立ち上がり、自分の意志でイエスさまの御手を握りかえす事が出来るように祈ってくださっていたのでした。イエスさまの言葉は、ペトロに与えられた祈りの言葉です。この祈りは、私たち一人ひとりにも向けられています。ペトロの涙は、後悔や挫折の他に、逃げてしまう弱く情けない自分の事をイエスさまは、知っていてくださり、それでもその手を握り続けてくださっていたという、驚きの涙であり、イエスさまの赦しに対する感謝の涙であったと思います。

 

イエスさまは、この後も自分の足で十字架に進んで行かれます。神の子としての責任を果たされるのです。イエスさまは、神の子として十字架に架かり死ぬことによって救いへの御業をはたそうとされるのです。ペトロのことも、そして私たちのことも良く知ってくださっているイエスさまが、私たちの裏切りも弱さも罪も全てを背負って十字架に架かって死んでくださいました。そして、父なる神さまはこのイエスさまを復活させてくださったのです。そして、イエスさまの事を知らないと言い、否定し、また遠ざけてしまった関係をイエス様ご自身が修復してくださるのです。そこに、ペトロと私たちの救いがあります。

 

 

この、十字架による救いを知ったペトロが、聖霊によってこのように宣べ伝えるのです。「人間に従うよりも神に従わなくてはなりません」。周りの人や、世の中の状況により身勝手に自分の立場をごまかしたり、転向させたりしていたペトロ。最後には、自分を守るためにイエスさまのことを「知らない」とまで言ったペトロ。そのペトロが、「神に従いなさい」と説教するのです。何が変わったのでしょうか。ペトロが神さまの事を気楽に話せるような世の中になったのでしょうか。そのようなことはありません。今も昔も、相変わらず、イエスさまを十字架に架けるような伝道しにくい世の中が続いています。それよりも、ペトロが変えられたのです。イエスさまの事を「知らない」というような罪人を愛し、十字架に架かって、復活してくださったイエスさまが、ペトロと共に生きてくださり、彼に新しい命を与えてくださったのです。新しい命を頂いたペトロは、とても主体的に自らに責任をもってイエスさまに繋がれた手を握り返します。神さまに新しい命を頂いた者は、進んで神さまに向かって生きるものとされているのです。自分の意志で、喜びをもって神さまの望まれる愛と赦しと正義を生きる者となるのです。このペトロの中で生きてくださるイエスさまが、私たちと共に今生きてくださっています。私たちもまた、ペトロのように、イエスさまが繋ぎとめてくださるその手を握り返したいのです。イエスさまこそ、私の救い主であると、信仰を言い表し、讃美しつつ、一歩一歩力強く歩いて行きたいと願います。人にではなく、神に従うことを自らの意志で選び取って、新しく与えられた命に責任を持って生き続けたいのです。