神様の秘められた計画

2022/03/06() 受難節第一主日聖餐礼拝 

使徒言行録説教第14回 51218 神様の秘められた計画 

                                                                                                                牧師 上田彰

 あるときに主は目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられました。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、こうおっしゃったのです。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」(ルカ21章)。

 よく知られる、レプタ銅貨を献げるやもめの志を受け止めるイエス様の物語です。ずっと以前の時代の説教をみておりますと、「五銭玉二枚で救われる」というタイトルの説教が残っています。

 その後の教会は、このイエス様の説教をよく覚えていて、ことあるごとに思い出していました。イスラエルに帰ってこようという、世界各地に散らされていたユダヤの民即ちディアスポラに対する呼びかけに、ペトロ達使徒のグループも参加していました。そして実際にグループの中に、遠く離れた故郷の家を手放して、教会の宿舎に入るという者が現れ始めました。例えば4章の最後に出てくる、バルナバと呼ばれたヨセフは、キプロス島育ちのユダヤ人でした。そして家を売って得た財産を全て教会に献げました。その額はその後に出てくるアナニアとサッフィラの場合に比べて、必ずしも多かったわけではなかったかもしれません。しかしアナニア夫婦が教会から忘れ去られるのに比べて、バルナバのヨセフは教会の記憶にとどめられ続けました。それは、イエス様がおっしゃった、「この貧しいやもめは誰よりも沢山入れた」という言葉に倣って、「この男は誰よりも沢山入れた」という風に互いに言い合ったのではないかと思います。イエス様のふるまいに教会が吸い寄せられていき、教会もまたイエス様に倣う者となる。

 

 さて、「この人は誰よりも沢山入れた」という言葉を発するようになった教会が、さらに主イエスに似せられていく様子が、今日の箇所にも出て参ります。15節。

「人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった」。これです。町の人々はペトロ達使徒のグループに、ほとんど神がかっているものを感じ取っていました。通り過ぎる際に影がかかるだけで、病気が癒されるのではないか。実は、病人を外に連れ出すことは、たとえ横たえた状態であっても、本来は余り勧められるものではなかったのです。しかし人々の、使徒達に対する信頼は絶大なものがありました。もはや律法の定めなど忘れたかのように、人々は自分の身内の病人を使徒達のそばまで連れて行ったのです。この姿もまた福音書において知られているイエス様の姿と重なります。今度はマルコの証言を引用します。

「村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた」(6章)。気がつかされます。使徒言行録の編纂に携わったルカは、イエス様の姿と教会の姿を重ね合わせることを自然だと感じた、ということに。因みにこのイエス様のところに病人を連れて行ってそばに横たえたという記事は、ルカ福音書には出て参りません。恐らく、他の福音書記者が記したこの記事を意図的に外した理由は、イエス様ではなく教会こそが、病人を集めるところであると考え、同じ一人の人が福音書と言行録を編集したうちで、この出来事を使徒言行録の中にだけ収めたのです。

 イエス様の宣教も、使徒言行録に収められている教会の宣教も、初期においてある程度の成功を収めたと言うことが出来るでしょう。

 

 しかしご存じのように、イエス様の宣教はその後大きな曲がり角を迎えます。敵対者が現れるのです。いえすさまのまえにたちはだかったのは、ファリサイ派のものたちでした。ファリサイ派は律法、つまり巻物を読むことが出来るところは全国あちこちにいました。そしてイエス様の振るまいの中に、安息日であるにも関わらず弟子たちが麦を手に取り、籾殻を外して口に含んだのを目撃してしまった。そこで、イエス様に嫉妬の念を覚え、イエス様との論争へと発展していくのです。これをイエス様の宣教第二期と呼ぶことが出来るでしょう。つまり、病人をいやしたという記事でもって順調であった宣教第一期が終わり、周囲にいたユダヤ人に嫉妬の念を呼び覚ましてしまった、というのが第二期の始まり、つまり十字架の道への伏線になっているのですが、教会もまた病人をいやしたという記事でもって第一期が終わり、周囲にいたユダヤ人に嫉妬の念を呼び覚ましてしまうのです。

 嫉妬の念。なぜユダヤ人達は、宣教がうまく行っている者たちに対して、嫉妬の念を覚えるのでしょうか。

 今日の箇所のお読みした最後の所などは、教会の宣教がうまく行っているから嫉妬の念を覚えた、という風に読むのが普通かと思います。しかし、神様の権威によって病人を癒す力を持っている者が、病人を実際にいやしていくというのは、嫉妬を買ってしまうものなのです。嫉妬とは、人間が人間である以上かならず持ってしまうもので、言ってみればその正体は決して、「つい他人と比較してしまう病的な性質」などではなく、むしろ「つい神様を憎んでしまう病的な性質」と言った方がよいのだと思います。

 

 地上からは争いが絶えません。つい最近も私たちの気を揉むのが国際情勢です。コロナのことへの関心が薄れてしまうほどにウクライナのことが心配になってしまいます。武器を手に取ることを推奨することは決して出来ません。しかしこのまま無抵抗に国を明け渡してしまうことは出来ないと立ち上がる現地の人たちを止めることは出来るでしょうか。観測筋は、ロシアまたはウクライナなど国家首脳部の体制転覆やチェチェンなど別の区域の武装蜂起などの大きな出来事が起こるか、より深刻な戦禍でウクライナの街が焦土になってしまうか、あるいは原発の事故や核兵器の使用など、悲劇的なことが起こるのではないかと予想しています。

 湾岸戦争以降、戦争に対する私たちの受け止めは変わってきたと言われます。遠いところで戦火が交わされていることには違いはありません。しかしその様子が手に取るように分かるのです。湾岸戦争の時に起こったのは、爆撃されている場所が上空の飛行機から撮影されて、人が死ぬ様子は分からないけれども建物が壊される様子が、あたかもゲームセンターなどでの撃ち合いゲームのように体験できてしまうという現象です。そのことを、加害者側からではなく被害者側から用いているのが今回のウクライナです。ウクライナの大統領が亡命したというロシア側からの噂が流れてきた直後に、首都キエフから国家首脳達と映っている動画を流す。それをスマートフォンを使って全世界で受信するのです。インターネットと電気の回線は今や国家の存亡にかかわるインフラになりました。

 そして、戦地の様子を私たちは居ながらにして知ることが出来るのです。もしもそのような動画の普及が何らかの形で暴力を抑止する方向に働けばと願わずにはおれません。特に、丸腰で原子力発電所へ進駐してくるロシア軍に抵抗してバリケードを築く様子などは、胸が詰まります。明らかにウクライナは、このメディアの使い方を知っています。ロシア側の兵士をウクライナがとらえて捕虜にする。捕虜に対する扱いが紳士的で、決して残虐な扱いをしません。思わず涙を流してしまうロシア兵士の様子までを動画にしたり、ロシアの息子を兵士として戦地に送っている親のために、捕虜となったロシア兵士の消息を検索することが出来るサイトを立ち上げたりしています。さらには様々な報道機関が現地に入り、家族が別れ別れになって妻や子どもたちがポーランド行きの列車に乗って出発をする様子を撮影します。考えてみれば近代戦争にはつきものの別れのシーンなのですが、今回はほぼリアルタイムで見ることが出来ます。

 一方で、今までは一生懸命文章で流れるニュースを探していたのが、今回は動画で流れるニュースを探している自分に気がつきました。私たちにとって想像力とは何であろうかということを感じずにはおれません。私たちが茶の間で眺めている間に、私たちを消費者に仕立て上げてしまうのがメディアの力であることに、良し悪しは別として注目をしておく必要がありそうです。

 

 そんな中で考えさせられるのが、ロシア軍を、そして幾分かはウクライナの人々を支配し、また私たちをも支配している一つの力、憎しみの力とも言えますし、今日の聖書の言葉で言えば嫉妬と言われるものの正体についてです。サドカイ派の人たちの嫉妬は、人間に向けられているようでいながら、神様に向けられています。しかし今日のような映像全盛期において、神様に向けた嫉妬というのがより見えなくなっていて、全ての嫉妬が人間に向けられているような錯覚に陥ってしまうのです。そのことが今日の聖書箇所においても、サドカイ派の人たちの嫉妬の意味を誤解させてしまうように思うのです。

 

 そこで、先週の礼拝後にも少し紹介をした、「種を手渡す女性」の話をもう一度したいと思います。もう一度報道の動画を見ました。ロシア軍の兵士が街に入ってきている、その前に立ちはだかった女性が、あなたたちは侵略者だ、早く立ち去れと言っています。丸腰で兵士に対して罵りの言葉を吐くことは、ある意味では勇気があることだし、決して丸腰の女性に銃を向けないはずだという信頼を見出すことも出来、それこそ動画として見応えがあることも事実です。しかしそれ以上に、その女性が、ひまわりの種をかざし、あなたがそこで死んでも花が咲くようにと言って渡そうとする場面が胸を打ちます。動画全体としては、口汚く罵っているという印象が強いのです。そしてそうであるが故に、この女性が種を渡そうとする、その一種のユーモア精神と申しましょうか、次の時代への希望を意味する種を小道具とするところに、女性の意図以上の何かのメッセージを感じずにはおれません。一方では侵略されている国の大統領はこう語ります。同士よ、もうすぐ我が国には平和が再び訪れる、と。しかし思うのです。他方でこの国を本当の意味で平和にするのは、この一粒の種なのではないだろうか、と。しかも、皮肉として渡される種ということではなく、その皮肉以上に意味を持つ、希望としての種というものが、全ての関係者の心の中に撒かれたら、ということを願わずにはおれません。

 

 そしてそこまで考えたときに、気づかされるような気がするのです。種を手渡そうとしている当の女性でさえ気がついていないような仕方で、種が渡されることには大きな意味がある、ということを。種は希望です。しかし目には見えません。ペトロ達の所に病人を連れて来てそばに横たえた人たちも、ペトロ達に期待をしているのではなく、神様に期待をしているのです。目に見えるものに期待をしている箇所のように読んでしまうと、今日の箇所が分からなくなってしまうのです。人々は神様に期待をし、サドカイ派はそのことに対して危機感を感じ、そして神様に対して嫉妬をした。

 人々よりももっと敏感な仕方でサドカイ派が起こっている事柄の本質に気づいたとも言えます。つまり、嫉妬としかいいようがない思いをサドカイ派の者たちは心に抱いたのはなぜか。それはイエス様を見たファリサイ派が殺意を抱いたのと同じ思いを抱いたのと同じではないかと思うのです。イエス様についていき、教会についていく者たちの心に、希望の種が蒔かれていくことに気づいたからではないでしょうか。神殿を守れば希望があるのではない。律法を守れば希望があるのでもない。心に種が蒔かれる時に、本当の希望が生じる。

 

 まだまだペトロ達教会の伝道は始まったばかりです。これから幾多の混乱に出会います。しかし、ちょうどウクライナがこれから被るであろう混乱を克服し、乗り越えるような仕方で種から芽が出るのと同じように、使徒達の教会が撒く希望の種も、花開くものとなることでしょう。

 今日の箇所で、人々は自分の身内の病人を使徒達のそばに横たえました。使徒達が治してくれるのを待ちました。同じように私たちも、主がご用意下さる食卓の席が整えられることを待ち望みたいと思います。主の食卓は、希望の食卓です。ルカ22章に伝えられている地上での最後の晩餐の姿を思い起こしてみましょう。

 

 時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」

 

 主イエスは約束されるのです。やがて必ず神の国で過越が成し遂げられる。次に会うときは平和の中で抱き合うことが出来るはずだといって別れの抱擁をする家族達の動画を見る私たちが、しかし本当の意味で安堵するのは、主イエスがして下さる、次に会うのは御国の平安のうちにだよという約束の言葉を聞くときなのではないでしょうか。

 

 私たち地上にいる者全てに主の平安がありますようにと祈らざるを得ません。