一つとなるための試練

2022/02/13 受難節前第三主日礼拝 

使徒言行録43237(12回) 「一つとなるために」

                                                                                                                牧師 上田彰

 *古き良き信仰者像から

 時折私たちは、自分たちが持ち合わせていないものを他人が持っていることについて、うらやましく感じる、正確に言えばまぶしく感じてしまうことがあります。自分が一生かけてもたどり着かないかも知れないと思っている地点があったとして、その地点から出発する人がいるとしたら、まぶしく感じても不思議はありません。しかしそのような場合でも、まぶしくて目を向けられないその人とかもの、あるいは集団をじっくり観察することで、何かを取り入れることが出来るかも知れません。

 

 過ぐる週ですが、使徒言行録4章の前半を扱った際に、ペトロが取ったふるまいを一種まぶしく感じました。神殿での説教によって捕まったペトロとヨハネは、釈放されるとすぐに仲間達の所に行き、証しとも言える説教を始めました。その中でペトロは詩編第二編を引用したのです。『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、/諸国の民はむなしいことを企てるのか。地上の王たちはこぞって立ち上がり、/指導者たちは団結して、/主とそのメシアに逆らう』。これは、自分たちを不当に捕まえた祭司長や神殿衛兵達に対する当てつけの言葉であることは一方で間違いありません。しかし他方でこの詩編は、異邦人を呪うことを目的に歌われた歌ではないのです。この詩編第二編は次のような言葉で終わります。「いかに幸いなことか/主を避けどころとする人はすべて」。ペトロが意図しているのは、呪いの言葉ではなく、あるいは表面的には自分を貶めた真の神を知らない者たちへの呪いの言葉であったとしても、本当のところは、そのような苦難をかいくぐって神様が守ってくださった、そのことへの感謝こそあれ、祭司長達への恨みの言葉などではありません。時期的に見ても、彼らはユダヤ教イエス派、またはユダヤ教ナザレ派として忠実に神殿での礼拝を献げる敬虔なユダヤ教徒なのです。ですから、詩編第二編を引用したペトロの意図は呪いではなく感謝であった。そして恐らくその場にいる者たちは皆、そのペトロの意図を詩編第二編を引用したときに正確に理解したことでありましょう。つまり、1世紀エルサレムの信仰者達は、詩編のある部分を誰かが暗誦し始めたら、その続きがどうなるかを皆が思い起こすことが出来た。そしてその詩編を暗唱する人が今どのような思いで一つ一つの節を暗誦しているかを理解することが出来る。日本でいえば和歌・短歌に通じるごく少数の者たちの間でだけ可能であった、文学的な感情表現が、エルサレムに住むごく一般の市井の者たちにも詩編の共有という形で可能だったのです。

 同じことを、今日は余り深くは立ち入りませんが、イエス様が十字架上で叫んだ叫び、エリ・エリ・レマ・サバクタニ、すなわち「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになるのか」という叫びを叫ぶお方と、それを直接聞いた恐らくイエス様の付き人であった女性達、その女性の証言を元に福音書を記した編集者、さらにそれを聞く教会の者たちの関係にも見出すことが出来ます。ローマの兵士達は、ああ預言者エリヤをこの男は呼んでいるに違いないとしか考えませんでした。しかし聖書に親しむ信仰者達は、この叫びが詩編22編の最初であることを知っていたのです。そしてその詩編は、神様に嘆きを訴える始まりであるものの、最後には神さまを讃美する言葉で終わるのです。イエス様が苦しんでいるようでありながら実は賛美をしていたのではないか、長く教会は詩編22編を唱えるイエス様という主題で十字架上の出来事を思い起こしてきました。言い換えれば、イエス様、付き人であった女性達、その証言を後から聞く弟子たち、書き留める福音書記者、その説教を聞く教会という大きな信仰者の群れが詩編を暗唱する共同体として私たちの目の前に現れてくるのです。

 因みにこういうことは、近代においてもある時期までは起こっていて、例えば「エレファント・マン」という20世紀の映画の中で、醜い外見の主人公が、知的テストの意味がわからず危うく白痴扱いされそうになるところを、詩編23編を自然に暗誦してみせて疑惑を払拭する、というシーンがあります。周りの人は、詩編を暗唱する主人公を見て、単に知的レベルがどうのこうのということ以上に、その人の信仰の片鱗を感じ取るのです。ここにもまた、詩編を暗唱する者たちによって出来ている共同体があることになります。

 

 まぶしいです。しかしまぶしいからといって目を閉じていたら、その共同体の姿をきちんと捉えることが出来ず、結果的に私たちはそこに足を踏み入れることが出来なくなってしまうかも知れません。

 

 *「信じる」

 「信じた人々の群れは心も思いも一つにし」という言葉で今日の聖書箇所は始まります。ここに出てくる共同体は、まぶしすぎて私たちは目を向けることも出来ない模範的な共同体なのでしょうか。少し目をこらしてよく見ると、そこにいるのは普通の人たちです。ペトロは詩編第二編を引用しました。その意図をよく考えてみますと、やはりそこでペトロは、自分を捕まえた人たちに対する複雑な感情は捨て切れていないように思います。しかしそのような感情をただ人間的にぶつけることには意味が無いとなんとかこらえていて、そうだ、あの詩編第二編を思い出そう、そこには最後に感謝に至る筋道があるではないか。そういって、恨みを正直捨て切れていない自分を直視した上で、宥めるように詩編を歌い始めた。そう考えると、少し私たちにも身近になってきます。

 

 今日の所に出てくる「信じる共同体」は決して模範的な共同体があって、私たちはがんばってそこに少しでも近づかなければならない、そんなわけではないように思います。信じるというのは、一方で信じ切れない私がいて、そして信じる私もいる。正直にいってその二つが心の中でぶつかり合っている。そしてゆっくりとその葛藤から抜け出して信じる方に傾いていく。いえ祈りによって神様が私の中の色々な「私」を整えてくださるのを感じるようになる。これが「信じる群れ」、正確にいえば「心と思いを一つにする、信じる群れ」ということなのでしょう。

 

 *あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして…申命記の共同体

 ここでまた聖書の引用をしたいのですが、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」、これは申命記6章に出てくる聖句です。エルサレム旅行に行った方が、この聖句が街中のあちこちにあって、そのペンダントをお土産にといってくれた物が手元にあります。それこそ詩編よりも有名な聖句であるといえるかもしれません。申命記はモーセの名前で書かれた書物です。出エジプトという大きな経験をしたユダヤ人の共同体が、イスラエルに腰を据えて信仰の基盤を作るより前の、流浪の状態での神様から与えられた説教、律法をどのように守るかということについて書かれた書物です。

 私たちもまたシェマー・イスラエル(イスラエルよ、聞け)というモーセの命令を聞いたつもりになって、今日の旧約聖書の言葉に耳を傾けてみたいと思います。

 

 気がつかされるのは、使徒言行録における「貧しい者は一人もいなかった」というのは申命記15章における説教と重ね合わさっているということです。貧しい者がいなかった、というのはユダヤ人共同体の外には、貧富の格差が多くあり、流浪の期間を過ごしている間にそういった異邦人の価値観がユダヤ人達の間にも入り込んでいた、ということを示唆しています。がんばれば金持ちになり、がんばらなければ貧乏になる。あなたもがんばらないと貧乏人になるよ、というような物言いをこどもに向けることは不幸になります。しかし現代に至るまで、そういう教育が幅をきかせている現状があります。この申命記の箇所における格差是正の方法も、荒っぽい気がしなくはありません。ここで提案されている格差是正の方法とは、借金が七年に一度棒引きにされる、という慣習を作ることで、貧しい者がより貧しくなることを防ぐ、という仕組みです。5年目とか6年目になると貸し渋りが起こるので、それを戒めています。

 色々と裏の仕掛けというものがありまして、実はこの7年に一度の借金棒引きというのは余り実行されなくなったようです。そこである時期には77倍したら49なので、50年に一度は本当に棒引きにしよう、という風なことが出てくる箇所があります。邪推になるかも知れませんが、格差是正がうまく行かなかったのではないか、という風にも考えられます。

 

 もう一つ、格差是正のために、共同体のメンバーの献金の目安というものが記されている箇所が旧約聖書には出てきます。有名なところでも3箇所ほどありますので、ある時代には実行されていたのでしょう。そのようにして集められた献金の一部は、貧しい者を支えるために用いられていました。今でいう福祉の仕組みがあったのです。尤も、お金持ちにとっての1割と貧しい者にとっての1割は痛みが違います。今でいえば累進課税というような仕組みがあるくらいです。また、いわゆる十分の一献金が教会に献げられるものか、それとも他の福祉団体への寄附なども含めての一割なのか、などいくつかの議論があるのはご存じの通りです。そして新約聖書の中には、十分の一献金という言葉は出てきません。ユダヤ人共同体のような、相当に大規模でお互いに顔と顔を見合わせたことのない人たちの間の貧富の格差問題と、新しく出来た教会のようにお互いによく知っているもの同士の貧富の格差問題とでは、解決の仕方が違います。

 

 *貧しい者は一人もなかった

 申命記に出てくる、貧しい者は一人もいなかったという共同体を、使徒言行録の今日の証言と、またパウロの書簡における勧めとを合わせて考えると、一つの献金のあり方が見えて参ります。それは、現代で言えば、献金の額は収入に対してどのくらい出したらいいものなのでしょうか、という問いへのヒントになると思います。簡単にいえば、「貧しい者が一人もいないように」というのが答えだという事になります。教会が礼拝を行い、貧しい者を支えることもまた行っていた時代において、貧しい者が一人もいないようにという意識で互いに支え合う、いえ献げ合うことが出来たのです。これはまぶしいことに留まってしまうでしょうか。私たちは祈りを持って互いに支え合い、献げ合う群れでありたいと願い続けています。祈り方には色々あることでしょう。支え方にも色々あることです。その一つとして今日の箇所には、献げる教会の姿が描かれている、ということです。

 特にこの場所に出てくる一人の名前があります。バルナバと呼ばれたキプロス出身のヨセフ。聞けば出身はレビ族だといいます。つまり、元々はユダヤ人の血筋で、様々な事情で離れた場所で生まれ育った人が、自分の信仰の故郷であるエルサレムに、いわば戻ってきて、生活をしていました。そしてペトロの説教を聞いて決心したのです。今こそ、この場所を自分の永遠のふるさとにしたい。そしてそこに住み続けたい。その時まで自分はいつかキプロスに戻るのではないかと思って、そこに持っていた自分の土地を手放さないでいました。しかし彼は、自分のふるさとがどこにあるかということをはっきりと見定めたのです。そしてイスラエルに住み続けるという決意を持って、キプロスの土地を売った。その代わりにイスラエルに土地を買ったとは書かれていません。全てを委ね、信じる共同体に身を置いたヨセフの家計が、どのようにして支えられたのかが聖書には書かれていないのです。いわゆる原始共同体のようなグループに身を投じたのか、それとも少し後の時代にはそうであったように、原始共同体を支えるパトロンのような役回りを果たしたのか。

 支える立場なのか支えられる立場なのかは現代の私たちには大きな違いのように思えます。しかし使徒言行録に登場する者たちにとっては余り大きな違いではなかったようです。一人の信じるものが、迷いを持ちながら信仰のふるさとにたどり着いたものが、全てを主に委ねる姿がここには描かれています。これこそ、貧しい者は一人もいなかったといわれる教会の姿です。

 私たちは、他人が持ち合わせていて自分は持ち合わせていないといって、うらやむ必要もまぶしく感じる必要も、もはやありません。ここには支え合い、献げ合う共同体が存在します。持ち合わせていないとか、持ち合わせているといった思いを超えて、全てを主に委ねていることの幸いに身を浸したいと思います。