「回廊前での説教――信仰に生かされる教会」

2022/01/23 公現後第三主日礼拝 使徒言行録説教第9回(三章後半)

「回廊前での説教――信仰に生かされる教会」 牧師 上田 彰

 *祝福の言葉によって新しく生まれる

 美しの門での出来事。生まれつき足が不自由で、物乞いをするしか生きる価値がないと思われていた人の前に立ったのは、ペトロとヨハネでした。私を見なさい、この言葉によって教会は命を得ました。この言葉は一人の人の人生を新たに切り開いただけではありません。この言葉を通じて教会は教会になり得た、と言ってよいのです。この日の出来事を捉え直すペトロの説教をこれから聞くわけですが、ペトロ自身はこの出来事を一人の人が人生をやり直すきっかけとしたというような、言ってみれば小さな出来事とはとらえていません。そこにいる全ての人々、出来事の目撃者や使徒自身までもが「新たに生まれる」ことになる、そんなきっかけとなった出来事ととらえています。私たち教会が新しく生まれる、そんな説教を、祝福の言葉を味わってみましょう。

 

 *「私を見なさい」――新しく生まれた使徒達

 先日は「私を見なさい」という言葉が、その言葉を発した使徒自身にどのような意味を持っていたか、どういう経緯でこの言葉を発するようになっていたのかということについてお話をいたしました。あまりしてこなかったことですが、先日の説教原稿だけは普段おもちかえりにならない方も持って帰ってほしい、そして折りある時にまた見てほしいとお伝えしました。いつもよりかなり多めに刷ったのですが、なくなっておりましたので、また増やしておきました。

 そこで語ったことは、要するに、「私を見なさい」という言葉は、使徒たちが自信過剰になって語った暴走気味の言葉などではなく、ある確信があったということです。それは、自分たちが見てほしいのは自分たちの外見とか振る舞い、その長所とか短所などではなく、自分たちを見たときにキリストを見いだしてくれる、という確信です。

 立派だから自分の中にキリストを見いだしてくれるはずだ、ということではありません。使徒達は、自分たちが立派だという判断を自分に対して下しているのでしょうか。もし万が一そうであれば、私は立派でないから見ないでほしいという理屈も成り立ってしまいます。立派であるか立派でないかを自分で判断して名乗ったり名乗らなかったりする、もしそんなことが起こっているとしたら、実はすでに傲慢なのではないか――そんなことを、ここで私たちは学ばされている気がします。

 とにかく、使徒たちは、「キリストを見なさい」と口にすべき場面で「私を見なさい」と口にした。これは教会のつとめとは何かということを考える際に、重要なことです。私たちはしばしば、これができていないのかもしれないと思わされます。私を見なさいというべき場面で私を見なくてよいですと言ってみたり、私を見なさいと言うべきではない場面で言ってみたりしているように思います。

 

 *「私たちを見なさい」――新しく生まれた男性

 さて、今日の話はこの同じ「私を見なさい」を巡る、言われた側の変化についての話です。私を見なさいと言われ、何かもらえると思って目を上げた、するとこう告げる声を耳にしたのです。「私には金銀はない、しかし持っている物をあげよう」。こういう風に聞かされたら、普通どういう風に考えるでしょうか。おそらく、金と銀はないが銅とは言わないが、何かその類のものがあるのではないか、という風に、何か売ればお金になり腹の足しになる物を何かくれるのではないか、そんなことをいろいろ想像するのではないかと思います。しかし、ペトロはこう続けるのです。ナザレの主キリストの名によって歩きなさい、と命じるのです。言ってみれば、金銀の代わりに銅ではなく命令を与えるのです。

 この場面、いかがお考えになるでしょうか。わかることがあるように思います。

 まず、この命令が新しい命への招きになっている、ということです。かつてこの男性はこう考えていました。自分の前に立つ人がいれば、その人は自分に施しをくれる人だ。後はその施しが、言ってみればもらうに値するものかどうか、値踏みをすればよい。金銀という皆がほしがる物が手元になくても、別の売れる物があればよい。それを手元に置いておくのではなく、なるべく早く、そしてなるべく高く売って今日の出来高がどれだけであったかを知りたい。

 伯母がさきのオリンピックの記念硬貨(500円玉)を数枚入手してあったらしく、最近になって6歳児である娘にプレゼントとして渡したい、と言います。そこで相談して、この子がこの硬貨の価値がわかるようになってからにしよう、それは小学校三年生ぐらいじゃないかなあ、という話になりました。今日の箇所にでて参ります男性なら、かつてはこう叫んだことでしょう。「500円は500円だ!」。こう叫ぶ男性の姿を想像したときに、私はおもわず説教準備のために向かっていたパソコンの画面から離れて考え込んでしまいました。500円玉を見てその価値は500円だと叫ぶのは、21世紀の私たち自身の叫びなのではないか、と。

 しかし同時にこうも言えることに気づくのです。2021オリンピック500円と書いてある硬貨に、500円以上の価値を見いだす世界について、私たちが知らないわけではない、とも。そのことに気づいたときに、私たちはこの男性とともに新しい命への招きに与ることができるのです。つまり、かつて500円玉の価値は500円以上でも以下でもないと考えていた人が、あるいはいやいや30年経って次のオリンピックが日本でされるときに価値が出ているかも知れないなどという程度の計算しかしていなかった人が、そうではなくてこのお金にはくれた人の思い出が込められている、そのことに気づき始めたときに、新しい世界の門をたたき始め、新しく生まれるための準備が始まっているのではないかと思います。

 同情するなら金をくれという、昔のテレビドラマのようなことを叫びかねない男性が、同情ならぬキリストの名前をもらう。そしてキリストの名前によって立ち上がれという命令をもらう。キリストの名前を掲げることで、新しい命が与えられるのです。

 今日出て参りますこの男性は、おそらくペトロたちと合わせて3人で礼拝を終えて再び美しの門をくぐって外に出てきた際に、二人から離れようとしなかったようです。生まれて初めて神殿の中で礼拝を捧げる経験をした男性は、きっと有頂天だったのでしょう。気持ちは分からないわけではありません。神殿の中での礼拝の時にも、そして今目の前で語られているペトロの説教の時にも、思わず心ここにあらずといった感じになってしまうのです。それだけではありません。この人がどれほどにペトロとヨハネに感謝しているかもよく分かるように思います。新しい命へと導いてくれた二人に感謝したに違いありません。

 しかし、新しい命を与えられた者が、すぐに一足飛びに自由自在になれるというわけではありません。使徒たちの目から見て新しい命を与えられた男性の様子に、心配なところもありました。それを聖書は「つきまとっている」という表現で言い表します。つまり、生まれたばかりの鳥の雛が目の前のものを親だと思ってついていってしまう、そういうのを刷り込み効果と呼ぶのだそうです。同じように、彼は今、本来は親ではないものに「つきまとう」ことをしているのです。教会で言えば、自分がキリストの名によって洗礼を授けられたということを誇りに思うのならともかく、私は誰々という牧師から洗礼を受けたとか、挙げ句の果てに私はこれこれというキリスト教の名門の家柄とか学校出身であるということを誇りに思う、というのと似ているかも知れません。まあ他のごろつきを親と思うよりは、ペトロやヨハネを親と思う方がまだ危険が少ない、まだこの雛のようによちよち歩きをしている生まれたばかりの、あるいは生まれ変わったばかりの男性に対して「あなたは人間にではなくてキリストにつきまとう人になりなさい」と叱るのは大人げない、と思うのも事実です。ペトロ達も、この男性に対してそのように直接言い含めている様子はありません。

 

 *「私たちを見なさい」――新しく生まれた会衆達

 しかし、つきまとう男性を見て驚いている人々が多くいたのもまた事実なのです。キリストに従うのではなく人間につきまとう人たちが多く生まれかけています。そこで、ペトロ達はつきまとうことで道を迷う者たちが出てこないようにと願いながら、説教をするのです。人間につきまとっても新しく生まれることは出来ないのです。キリストの名を掲げることによってしか、新しく生まれる道はない。私たちもペトロの説教に耳を傾けてみましょう。

 今日の説教は回廊前でなされるのですが、つまりペトロとヨハネは神殿の前庭を取り囲む壁の一角で説教を始めるのですが、ここでもまた二人の使徒はキリストの名を掲げます。そのことによって説教を聞く者が皆新しい生き方、新しい世界への招きを受けます。

 ペトロは、自分の説教の中でこの癒された男性に直接触れています。16節です。「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」。

 この箇所は、ある意図があって複雑な言い方がされています。本来は次のようにシンプルに言い表すことが出来るはずです。「この人は、イエス・キリストによって癒されました」。それだけのことなのです。福音書であれば、つまりイエス様ご自身がそばにおられるのであれば、そのようにシンプルな言い方がされるところです。

 福音書と使徒言行録には色々な違いがあります。既に見たところでは、福音書では「キリストを見よ」となっていたことが使徒言行録では「私を見なさい」と言われています。キリストに従う者という意味で「弟子」という福音書の言い方は、使わされる者という意味で使徒言行録では「使徒」と呼ばれています。同じようにここで、「キリストが癒した」というシンプルな言い方が「キリストの名による信仰によって癒された(「強められた」)」という、複雑な言い方になっています。既にイエス様は天に上られました。イエス様が自ら出ていって人々を信仰へと導くというわけにはいきません。その時には弟子たちはお客さんのようにただ見ていればいいのです。しかし主が天に上られた後、使徒達はイエス様が地上でなさっていたわざを継承するのです。キリストの名を掲げて自ら説教をする役割を引き受けるのです。

 

 *信心ではなく信仰によって

 この観点から今日の聖書箇所を読み直すと、色々な発見が出来ます。

 

 例えばこうです。先ほどの16節では「信仰」という言葉が使われています。この言葉は、12節の「信心」という言葉と対比して使われています。つまり、「信心ではなく信仰によって」というわけです。鰯の頭も信心から、と申します。信心というのは熱心とほぼ同じ言葉です。思い込みのようなものです。思い込んだら足が癒されるというのは少し変な感じがするはずです。もし信心によって癒しが起きるとするならば、みんなで信心を持てばどんな病気も癒されることになります。みんなで信心を持てばどんな願いも叶う、それこそが宗教の世界なのだ、という誤解が、時々どんな宗教においても起こるようです。もしかすると事態を客観的に見ていたペトロとヨハネも、今回の癒しの出来事を通じて、信仰と信心が取り違えられてしまうことを懸念したのかも知れません。人間につきまとう人たちが大量に生まれてしまうかも知れない。しかしそのようなつきまといとは奇跡を求めるだけのことになってしまう。そうであれば、人々の熱心さ故に、信心故に使徒達に彼らがつきまとうことになってしまう。

 よく教会でも起こる誤解の中に、毎週礼拝に出席し、一生懸命献金を献げる人を指して、「あの人は信心深い」という、本来他の宗教でなされる言い方を無意識に教会の中で使ってしまうというものがあります。「熱心さによってそのような立派なふるまいが出来るのだ、とても私には続かない」となってしまいかねません。実際、その熱心さが続かなくなった故にずっと礼拝に出席してきた人が突然礼拝に出なくなってしまうということは聞かないわけではありません。熱心さがどこかで続かなくなったときにその人は使徒ではなくなるのでしょうか。私たちは信心深さ故に使徒なのではなく、キリストの名を掲げることによって信仰を与えられて、使徒となるのです。

 

 *預言者の子孫として

 使徒となった者がキリストの名を掲げることを、今日の聖書箇所では「預言者による祝福」といっています。特に今日の箇所の最後の二節が重要ですので、少しディフォルメしながら言い直してみます。

 「(私の説教を聞いている)あなた方は預言者の子孫です。『全ての人々は、預言者の子孫であるあなた方から祝福を受ける』と神様はアブラハムに言われたのです。そのために神様は御子キリストをあなた方の所に遣わされ、あなた方を祝福に与らせたのです。あなた方はそのことによって悪から離れることが出来るようになったのです。」

 ソロモンの回廊の前で説教がなされ、その場にいる者が、語る者も、聞く者も、癒される者も、皆が使徒とされようとしています。そこにおいてキリストの名が掲げられ、祝福されるのです。その場にいる者は皆預言者の子孫だ、と言われています。

 「預言者」という言葉には、色々な意味合いが含まれています。

 まず第一に、神様の名前を人々に告げる役割を果たす者たちのことです。

 第二に、預言者と祭司、つまり神殿を司る役割の人とが比較されているようです。祭司も神様の名前を掲げる役割であることは同じです。大体祭りとか礼拝の時に出てきて、神様の名前を掲げます。少し大胆に言うならば、めでたいときにこれは神様のおかげだよと告げるのが祭司の役割です。それに対して、預言者はめでたくないときにも登場しないといけない役割です。そしてこれは神様のおかげだよと告げることで反感を買う場面も考えられます。

 従って第三に、預言者は嫌われることが多く、人々に神様の名前を告げることで殺されそうになる預言者も現れます。イエス様もまた預言者の一人として殺されるのです。

 しかし今日の所で強調される第四のことは、どんなときにも神様の名前を掲げ続けることは、実は人々を祝福することだ、それが憎まれ役に回ることが多い預言者の本当の役割なのだ、だからあなた方は、いや私たちは、神様の名前を掲げることで人々を祝福し続けなければならない、そもそもそのために「イエス様は天から使わされ(、そして十字架につけられ)た」のです。

 

 *預言者として祝福し続ける

 神様の名前を掲げ続け、折りが良くても悪くても祝福し続けるのはなぜか。それは祝福を通じて祝福をする者も受ける者も新しく生まれるためです。そして最終的には万物が新しくなる、その時になればイエス様ご自身が再び地上においでになる、と今日の21節でペトロは語るのです。

 ここで確認しておきたいのは、いまペトロ達の説教を聞いている者たちは実態としては、イエス様を十字架にかけた当事者達なのです。ペトロ達自身も当事者と言ってもよい。ですから、ここで「あなた方、そして私たちは罪人なのです」と言っても良さそうなところです。しかし、「あなた方は罪人なのです」と告げる代わりに「あなた方は、いえ私たちも預言者の子孫なのです」と語っているのです。

 私たちは、キリストの名を掲げて祝福の言葉を語り続ける限りにおいて、預言者の子孫たり得る。私たちは預言者の一人でもあったイエス様を見殺しにした、しかしキリストの名を掲げて祝福の言葉を語り、万物が新しくなるための道具として用いられる。

 

 思うに、祝福の言葉を語るということには、新しく生まれるための力があると言えるのではないでしょうか。かつてイエス様は隠れ使徒であったニコデモと対話をする際、「新しく生まれることは聖霊によるのだ」とおっしゃっています(ヨハネ福音書3章)。キリストの名を掲げて祝福をすることには、祝福を授けられる者も、また授ける者も、新しく生まれることを経験するのです。

 

 

 美しの門での出来事。私たちは互いに祝福をすることによって、新たに生まれることが出来る。教会は新たに生まれることを通じて、世界が新たにされる希望を垣間見ることが出来ます。