神の肖像

 2022/01/16(公現後第二主日礼拝 

マルコによる福音書121317節「神の肖像」  牧師 上田文

 

ディアコニッセというドイツのキリスト教奉仕女の群れがあります。彼女たちは、日本に来て、老人のための施設である十字の園を設立しました。浜松の遠州栄光教会の近くには、ディアコニッセたちが共同生活をしていた家が残されています。その家は「母の家」といいます。この「母の家」での生活には、規則があったそうですが、その中には、母の家の中では、会話をしないという規則があったそうです。私はこの事を知ったとき、どうして、生活をする場で沈黙が規則となっていたのかと不思議に思いました。なぜなら、生活をする場では、何よりもリラックスすることが大切だと考えたからでした。そして、リラックスするには、会話が必要だと思ったのでした。けれども、自分が経験した神学校の寮での生活を思いだすと、彼女たちが沈黙を大切にした理由が少し分かるような気がしました。神学校の寮には、一日の授業や奉仕を終えて、クタクタに疲れた学生たちが帰ってきます。そこで、大変だった事や、困った事を口にすると、たちまち互いに疲れてしまうのです。それは、疲れていて相手の事を受け入れる余裕がないからかもしれません。それだけでは、ありません。自分より、良くできたり、自分よりパワフルな学生がいると、焦りや戸惑いを感じてしまうのです。そのため、寮で生活する学生は、仲が悪くなったり、互いに距離を取ったりするようになりました。また、このような事もありました。寮の中で自分こそが一番正しいのだと主張する人が必ず出てきました。そして、床に落ちている、髪の毛一本で、掃除当番は誰だと犯人捜しを始めるのです。神学校で、聖書と祈りの学びをしている学生たちの寮が、泥沼化していくのです。疲れていて相手の事が受け入れられない、また、自分こそ一番正しいのであると主張することは、自分の事ばかりを考えて、神さまの事を見ていないという事なのかもしれません。寮で暮らしていた私たちは、神さまにお仕えする時間と、神さまの事を見ない時間を使い分けてしまっていたのでした。このように考えると、ディアコニッセたちの、母の家での沈黙は、いつも神さまにお仕えし、神さまと共に生きるための一つの方法であったように思うのです。沈黙していれば、落ちている髪の毛を見ても、掃除していないと言って相手を攻撃することは出来ません。それよりも、一本の髪の毛を拾うか拾わないかを通して神さまとの交わりを深めるのです。髪の毛を拾ったらひょっとすると、イエスさまが人を愛した心に気づけるかもしれません。拾いながら、腹を立てるのであれば、人を攻撃しようとする自分の心に気づけるかもしれません。拾わなくても何かそこで動かされる自分の心に気づけるように思います。母の家に住むディアコニッセたちは、このようにして、神さまからひと時も目を外さないような生活を作ろうとしたのでした。今日の聖書箇所は、神さまに目を向ける時と、そうでない時を作ってしまう私たちに、イエスさまがいつも私の下にいなさいと招いてくださる話です。

 

 今日の話には、ファリサイ派とヘロデ派の人が出てきます。彼らは、イエスさまを陥れようとして、やってきました。しかし、ファリサイ派とヘロデ派の事を知っている人はおかしな事が起こるものだと思ったはずです。彼らは、もともと敵対する関係にあったため、共に行動する事はなかったのでした。ファリサイ派は、宗教的に熱心なグループでした。彼らは、旧約聖書の律法を厳格に守ることにより、神の民としてのイスラエルの誇りを守り、またイスラエルの人々を指導していました。しかし、当時、イスラエルはローマ帝国によって支配されていました。そのため、彼らは、神の民であるはずの自分たちが、異邦人であるローマ人に支配される事をとても苦々しく思っていたのです。彼らは、ローマに税金を納めることも嫌だったはずです。しかし、彼らは現実的な対応として、税を支払っていました。他方ヘロデ派というのは、宗教的なグループではなく、政治的なグループで、当時のイスラエル地方の領主であったヘロデ・アンティパスを支持する人たちです。ヘロデは、ローマ帝国から雇われた領主でした。ヘロデ派の人々は、ヘロデの権力やローマの力を上手く受け入れて、イスラエル地方が安定する事を願った人たちでした。彼らは、ローマから援助を得られるのであれば、ローマに対して税金を払うのは当然の事と考えていました。つまり、ファリサイ派とヘロデ派の人々は、互いに反する考えを持った人たちです。しかし、彼らは、イエスさまを陥れるために一致したのでした。

 

そのような彼らがイエスさまを捕らえるために考え出した質問が、ローマ皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているかというものでした。税は、ローマの総督がユダヤに置かれた時から、ユダヤ人全員に義務づけられていました。そして、このローマへの納税の義務は、ユダヤ人にとって経済的な問題であると同時に、宗教的な問題にもなりました。なぜなら、ローマ皇帝が、神格化され始めていたからでした。神格化されたローマ皇帝に税を支払う事は、ユダヤ人にとってイスラエルの神への背信を意味する事になりました。このような状況の中で、彼らはわざと納税の問題を質問したのです。イエスさまが税金を納めるならば、ユダヤ人であるイスラエルの人々から信頼を得る事が出来なくなります。逆に、税金を納めないならばヘロデ派の出番です。彼らは、ローマの総督に訴えて、イエスさまを反逆者として捉える事が出来ます。イエスさまを捕らえたい、陥れたいと思う人にとって納税の問題は格好の罠だったのです。

 

このような罠を考えた彼らを、イエスさまは下心のある者として見られたとあります。下心という言葉は、「偽善者」と訳すことの出来る言葉です。偽善とは、本心を隠して、見せかけの外見を繕う態度の事を言います。しかし、聖書で言われる偽善とは、人の根底にある神さまを否定する心の事を指します。つまり、口先だけで神さまを敬い、実際には神さまの方に見向きもしない、神さまを無視する人間の事を表します。ファリサイ派やヘロデ派の人々は、イエスさまの事を「真理にもとづいて神の道を教えておられる先生」と呼びましたが、実際には、イエスさまの事も神さまの事も考えておらず、自分の財産や身分の事ばかりを考えている偽善者であるとイエスさまは見ておられたのでした。しかし、表面だけ神さまを敬い、実際には神さまを見ていないという事は、私たちにもあるかもしれません。私たちは、日曜日になると教会に集まって、神さまを礼拝します。しかし、会堂の外に出ると、神さまとは関係のない生活を始めてしまう。社会生活や私生活と信仰生活は別の事として考えてしまうことがあるように思います。私たちの信仰もまた偽善的になっている事があるという事です。

このような信仰生活をおくる私たちに、そして彼らに、イエスさまは、あなたたちの行いは、神さまのみ旨によって定められた行為ではない、いつも神さまと共に生活しなさいと警告されたのでした。そして、イエスさまは、納税のために使われるデナリオン銀貨を通して、神さまのみ旨によって生きる生き方を教えてくださったのでした。

 

デナリオン銀貨は、ローマ皇帝が発行している銀貨です。そして、イスラエルの地方でも日常生活の中でこの銀貨が使われていました。イエスさまはこの銀貨を示しながら、「これはだれの肖像と銘か」と問われました。銀貨には当時のローマ皇帝の肖像と銘が記されていました。銘は「ディベリウス・カエサル・神聖なるアウグストゥスの子」と記されています。カエサルは人の名ですが「皇帝」を表す言葉として用いられていました。つまり、銀貨には、「ディベリウス皇帝は神であるアウグストゥスの子」つまり、「ディベリウス皇帝は神の子」であると記されているのです。そのため「この銀貨に彫られているのは誰か」と聞かれれば誰でも「ディベリウス皇帝です」と答える事になります。その言葉を聞いて主イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われました。これが、イエスさまの教えてくださる神のみ旨によって生きることでした。

 

マルコによる福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉で始まっています。そして、この神の子は、十字架につけられて息を引き取られるのです。この十字架に架かられたイエスさまの姿を見て、ローマ皇帝こそ神の子であるとしていた皇帝の兵隊、ユダヤ人から見れば神に捨てられた異邦人が「本当に、この人こそ神の子だった」と言いました。つまり、イエスさまこそ、神の子である。銀貨に彫られる神の子の銘はイエスさまであると証言したのでした。このイエスさまは、誰にも何にも支配される方ではありませんでした。身分も名誉も、財産にもそして人にも支配されない方でした。だからこそ、イエスさまは心の底から、私たちの事を愛してくださり、罪の中で死ぬしかない私たちを憐れみ悲しんでくださいました。そして、自分のことを陥れる敵をも愛し、人間の罪が赦されるために十字架に架かって死なれるのです。誰にも支配されない自由な方が、わざわざ人間になってくださり、私たちのために「わが神、わが神なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んでくださったのでした。私たちのために人となってくださった神の子イエスさま、この方こそ神さまに返されるべき神のものです。神さまは、人となってこの地にお生まれになり、十字架につけられて死んだ神の子を、復活させて、天に上げられ、神の右の座に着かされました。このことにより、私たちは、今も罪が赦され、永遠の命を与えられ、神の国に生きるものとされているのです。神のみ旨に従って生きること、それは、この福音の中に生きることと言えます。

 

また、偽善ではなく、神さまのみ旨にしたがって生きるとは、神のものを神にかえして生きる事であると言えます。神のものとは、私たち人間のことでもあります。私たち人間はすべて神さまにかたどって、神さまに似せて作られました。つまり、私たちは神さまに創られた神さまのものなのです。しかし、私たちは神さまに背く者となりました。そして、神さまのものとは程遠いものとなってしましました。私たちは、口先だけで神さまを敬い、実際には神さまを見ていないような偽善者です。この偽善者をイエスさまは、自らが十字架に架かる事により、神さまの者として神さまの下に返してくださいました。偽善者ぶり、イエスさまの事を十字架につけた私たちを、その十字架の死と復活により赦してくださったイエスさまが、私たちに悔い改めによる新しい命を生きる者になる道を示してくださいました。イエスさまが、私たちを神のものとして回復してくださったのです。イエス様は、神さまから離れてしまった人間を、神さまの下に返してくださったのでした。

 

このように考えるとき、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」との言葉は、信仰への招きの言葉のように聞こえてきます。信仰をもって生きる、それは、神さまのものを神さまのものとして認め、それを神さまに返して生きる者となることです。神さまのもとは、神さまが創造された全てのものです。ここに生えている草木も、そして、皇帝が作った貨幣も全てです。その一つ一つのものを大切にして生きるのです。ものだけではありません。人間もそうです。全ての人間は、神さまの者なのですから、互いに大切にしあって生きるのです。イエスさまは、そのことを何よりも私たちに示してくださいました。私たちのことを誰よりも大切にしてくださり、私たち一人一人が神さまに愛されるために働いてくださいました。そのことによって、私たちは神さまを信じ神のものとされました。イエスさまによって神さまのものとされた私たちは、イエスさまのようにはいきませんが、他者が神さまに愛されるために働く者として、新しい命と使命を与えられています。しかし、私たちは、相変わらず自分でも知らない間に、神さまに仕えると言いながら、神さまの方を見ないで、自分のために生きてしまいます。神さまから離れてしまうのです。しかし、このような私たちも、そして、この世も神さまが支配してくださっています。そのことを覚えて、神さまから目を離さず、イエスさま示してくださった、神さまの愛と赦しの中を生きる者になりたいと思います。そして、全ての人が神の国に生きる、神のものとされる日を待ち望みたいと思います。

 

神学校を卒業して、いま牧師とされ分かるようになったことがあります。それは、神の前で沈黙するという事です。神学生であった時の、私たちは無駄なおしゃべりによって、神さまのみ言葉が聞こえなくなっていたように思います。けれども、神の御前で沈黙し、無駄なおしゃべりをやめる時、私たちは、真の神の御心を聞く事がゆるされ、その福音を喜びを持って語るようにされます。これは、牧師である私たちだけの事ではありません。イエスさまは、神さまに救われた全ての人に言われました。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(1615)。私たちは、神の御前で沈黙することによって、生きて働かれる神の福音を語るものとされています。このみ言葉に従いたいのです。