大きな喜びを告げられて

伊東教会説教     「大きな喜びを告げられて」     20211226

 ルカによる福音書28-20節 説教者 須田拓先生(東神大、橋本教会)

 

「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」

天の大軍の讃美の歌がある夜響き渡りました。天使が羊飼いのもとを訪れて、主イエスがお生まれになったことを告げました。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(10-11)。恐らく羊飼いたちがその突然の知らせにあっけにとられていると、そこに天の大軍が加わって歌ったというのです。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」

この天使たちの歌は、その後、教会の歌ともなりました。この後讃美します讃美歌98番でもその冒頭で歌われます。「あめには栄え、み神にあれや、つちには安き、人にあれやと」。また、今日は歌いませんが、讃美歌106番をはじめとしてクリスマスの讃美歌ではよく歌われていますし、また、聖公会の教会ではグロリアといって、毎週の礼拝で歌われます。天の大軍ならぬ、大勢の会衆がこれを歌います。それは、この歌にこそ、クリスマスに起きたことの意味がよく表れているからです。この歌こそ、クリスマスに起きたことを的確に表した讃美だとして、聖書はこの歌をここに書き記すのです。

しかし、あの日、天に栄光などあったでしょうか。地に平和などあったでしょうか。

主イエス・キリストがお生まれになったその日、天に栄光などあっただろうかと思わされます。ある神学者は、天の神の許には大きな痛みがあったはずだと主張します。主は天から来られました。神の御子であるお方が人として降って来た、それが主イエス・キリストです。このお方は、やがて十字架で死なれるためにこそこの地上に来られました。そうであるとすれば、父なる神の許には、愛する子を犠牲にする、失うその痛みがあるというのです。

地に平和などあったでしょうか。人は、この神がお送りくださったお方を受け容れるどころか、やがて十字架へと追いやってしまいました。そこには平和どころか、人間の憎しみや妬み、そして暴力といったものがあったのではないでしょうか。そのどこが平和であると言えるでしょうか。

 

II

ところで、この出来事は、羊飼いたちに起こりました。天使はまず、羊飼いのところに向かい、主がお生まれになったことを告げました。そして、ルカによれば、羊飼いたちこそ、主が確かにお生まれになったことの最初の目撃者になりました。

何故羊飼いなのでしょうか。何故他の人々のところではなく、羊飼いなのでしょうか。

聖書はそれをはっきりと語ってはいません。しかしいろいろなことが想像されてきました。

よく指摘されるのは、羊飼いというのは、この当時、人々から蔑まれ、見向きもされない者たちであったということです。羊飼いの仕事は苛酷でした。羊の世話は手を抜けません。羊が確かに牧草を食べて生きて行くためには、羊飼いは常に牧草のある土地を求めて羊を導き、旅をして行かなければなりません。夜も、野獣が襲ってきて羊を傷つけてしまわないように、絶えず見張りをしていなければなりませんでした。当然羊飼いの仕事に休みなどありません。だから皆が嫌がる仕事でした。しかも、休めませんので、ユダヤ人たちが守っていた、土曜日の安息日も守ることができません。そうなれば、安息日を守れという神の戒めを守ることもできない。だから、神の求めるように生きようとしない者たちとして、軽蔑され、蔑まれていたのです。

しかし、まずそういう者のところに天使は向かいました。そして、主イエスというお方の誕生を伝えました。そして、羊飼いたちをこそその主の許へと向かわせました。それは、主イエスというお方の許には、そうやって神から遠くにいるように思われる者たちが招かれているのだということを表すためではないでしょうか。

 

 以前、横浜のとある教会をお訪ねした際に、駅からその教会まで徒歩6-7分ほど歩く間、じっくりとその道沿いの建物を観察してみたことがあります。そして、駅から教会まで、あれだけたくさんの建物があるのに、入ることができる建物というのはほとんどないのだということに気づかされました。

道の途中のビルは、ほとんどがオフィスビルでした。いろいろな会社のオフィスがそこにある。そういう建物は、たいてい入り口に守衛さんがいて、その会社の社員証がないと中に入れてくれません。かろうじて入れそうなのは、喫茶店や雑貨屋さんなどのお店でした。しかし、そういうところも、「いらっしゃいませ」と迎えてはくれますが、ずっと居るわけにいきませんし、喫茶店など、お金がなければ入ることができません。大体、店の人たちの「いらっしゃいませ」というのは、お金を使ってくれるのではないかという下心があります。そうやって、実は自由に入ることのできる建物というのはほとんどないことに気づかされたのです。

しかし、教会はそうではありません。教会は誰もが入ることのできる場所としてそこにあります。教会は「公の礼拝」を守ります。「公の」というのは、誰でも来てよいということです。確かに教会も、敷居が高くて、心理的に入りにくいということはあるかもしれません。しかし、教会、そして礼拝は、誰もが入ってよいところです。むしろ、ここに来なさいと呼びかけられているところです。

何故誰でも入ってよいのでしょうか。それは、そこに十字架が掲げられているからではないでしょうか。十字架は、誰でも来て良いことのしるしです。「あなたは何故来たのか」と、排除されることはないということのしるしです。

 

 実はルカもまた同じようなことをここで念頭において、この場面を描いていると言う人があります。ルカが12節で「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」と言う時の「寝ている」という言葉と、16節の「寝かせてある」という言葉は、いずれも同じギリシャ語を語源としている言葉ですが、その言葉は福音書では他には、この主がやがて十字架で死なれ、墓に葬られる場面、「墓の中に納められる」というように用いられるだけなのです。そこから、ルカはここで、このお方がやがて十字架で死なれて墓に葬られることを思い浮かべながら、敢えてそれと同じ言葉を使って、このお方が飼い葉桶の中に寝かされていると記している、十字架でやがて死なれることを意識しながらここを書いていると言うのです。

ルカが本当にどこまで意識したのかはわかりません。しかし確かにこのお方はやがて十字架で死なれました。私たちの罪を負って十字架で死なれた。それは、私たちが神から排除されないためではなかったでしょうか。私たちが神から咎められ、捨て去られてしまうことがないようにです。だからあのお方は十字架の上で叫ばれました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。まさに自分が何をしているのかわかっていない私たちが捨て去られないようにです。

 

 羊飼いがまず真っ先に招かれました。誰からも見放されていて、神からも見放されていると思われていた羊飼いが招かれた。それは、まさに誰もがこのお方の許に招かれていることを示すためです。あの者たちですら招かれる。そうやって、主がまさに全ての者を招いておられることを示すためです。

本当に誰もが招かれている。誰もがこのお方の許に来て良い。それは、このお方がやがて十字架で死なれるところに表れている。このお方がやがて十字架に掛かられるお方だということがそれを保証している。それが聖書のメッセージなのです。

 

私たちはひょっとすると、あの羊飼いたちよりももっと神から遠く離れて生きているのではないでしょうか。ただ、安息日を守れないというのではない。神に近づけないというのではない。自ら、神から遠く離れて生きていないでしょうか。神が招いておられると聞いていても、どれほど神に心を近づけて生きているでしょうか。日々、主よと祈り、主をまさに近く感じて生きているでしょうか。どんなことでも神の恵みとしてどれほど神に感謝しているでしょうか。

そのくせ、自分の心をどこに向けて良いのか分からない。どこに向かって歩んでいったら良いのかわからない。そういって日々嘆いていないでしょうか。まるで群れから離れてしまった羊のように、私たちは日々さまよい歩いていないでしょうか。どこかに心を寄せたい、何かに頼りたい、けれどもどこに行ってよいのかわからない。

ここに、あなたの来て良いところがある。いや、来なさいと言ってくださっているお方がある。それがクリスマスの知らせだということです。自分が来て良いのか、と心配しなくてよい。こんな自分でよいのかと恐れなくてよい。そのあなたを待っているお方がある。「あなたではダメだ」と追い返されることのないところがここにある。だから心配せずに来なさい。あなたの全てを私に任せなさい。それがこのお方に刻まれた十字架のしるしです。

そこに平和がないでしょうか。私がここにあってよいという平和がないでしょうか。

私を受け入れてくださっているお方がある平和が、あの神が私を受け入れてくださっているという平和がないでしょうか。

 

 私たちにもし平和がないとしたら、私たちは疑い深いということかもしれません。なかなか、誰かを本当に信用するということがないのかもしれません。

先日ある方と、イギリスやアメリカの寄附の文化について話していました。私がイギリスにおりました時、寄附の文化が根付いていることを思わされました。子どもたちの通う村の小学校で、遊具が欲しいということになれば、今度子どもたちが学校の校庭を何周もぐるぐると走る、だから、1周走ったらいくらかくださいと、近所の人々にお願いに行って、そのサインをもらってきてくれという。まさかと思い、近くの方や知っている方々のところを廻ってみると、皆、喜んでサインしてくれるのです。子どもたちが何十周か校庭を走った後、そのサインをしてくれた人たちのところに行って、何周したので、いくらくださいと言ってお金を集め、それを皆で学校に持ち寄って、遊具を買う。

しかし、そういう寄附は日本ではなかなか難しいだろうという話になりました。それは、寄附という善意の思いを利用して、騙してお金をせしめようとする人々が日本にはあって、皆、そういうことで既に傷ついて、すぐに疑いの目で見てしまうからだというのです。

確かにそうだと思います。私たちは、そうやって騙される経験をする。だから、どこかで人をすぐに疑って掛かってしまう。それはあらゆることにおいてそうではないでしょうか。どうぞここにお出でくださいと、受け止めてもらう経験をしても、そこに何か下心があるのではないかと疑ってしまう。いや、自分がそうやって下心をもって誰かに近づき、その人を利用しようとしてきたのかもしれません。あの人にこうしてもらおうと、その人に近づいて、その人の歓心を買うようなことを、良い顔をしてみる。だから、この知らせを聞いても、十字架のしるしを見ても、どこか心の中で疑ってかかる。誰でも来て良い、いつでも来て良いと言われても、その裏に何かがあるのではないかと疑ってしまう。あるいは、いいような顔をしていても、いつか急に変わって捨てられてしまうのではないか、裏切られてしまうのではないかと不安になる。そして、自分を明け渡してしまうことに躊躇する。

 

 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」

それは、そうではないということなのです。その心配はいらないということです。地には平和。あなたが本当に受け入れられるところがここにある。それが神の栄光でもあるというからです。あなたに平和があること、それが神の思いそのものでもある、というのです。だから、あなたは何の疑いもなく、何の心配もなくこのお方の許に来て良い。天には神の痛みがあったはずです。御子をこの世に送り、失う痛み。やがて十字架で犠牲にしなければならないその痛み。しかし、それが神の栄光だというのです。そのためにご自身の御子を犠牲にしてもよい。そうやって自らが傷んでもよい。つまり、そこまでしてでも、私はあなたをここに迎えたい。あなたをダメだと排除したくない。それほどに神は本気だということです。そのどこに下心などあるでしょうか。裏切られる可能性があるでしょうか。ここに、下心などなく、本当にあなたを招いておられるお方がある。

 

このお方の前では自分を取り繕う必要はありません。このお方の前では自分を実際以上によく見せようとする必要はありません。自分のあの嫌われるかもしれない部分を隠しておく必要もありません。そのあなたを受けとめることがこのお方の栄光だからです。独り子の命を犠牲にしてでも、あなたを御手の内に置きたい、それが神の栄光だからです。

だから、本当に心寄せて良いお方がある。裏切られるのではないかなど心配しなくてよい。このお方に身も心も委ねてしまってよい。この後、人生がどうなるか、この命がどうなってゆくか、それすらも預けてしまって良い。自分を預けてしまって間違いのないお方がある。

 

III

それがクリスマスです。それがクリスマスに告げ知らされた知らせです。この羊飼いたちの出来事は、やがて、世界で最初のクリスマスと呼ばれるようになりました。世界で最初のクリスマス。羊飼いたちは、天使たちの話を聞くと、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と言って、急いでその幼子を探しに出かけました。彼らは出かけました。不思議な話を聞いただけではない。幼子のところに出かけました。そこが重要です。それがなければクリスマスにはなりません。クリスマス、それは、英語でChristmass、キリストと礼拝という言葉を組み合わせて作られた言葉だからです。羊飼いたちが、話を聞いて、幼子のところに行き、礼拝する。それがなければクリスマスになりません。しかしそれが羊飼いたちにとっても重要であったのではないでしょうか。

 

私は両親ともキリスト者ではない家庭で育ちましたが、初めて教会に行ったのは高校1年の時です。そこにはいろいろな伏線があり、いろいろなきっかけがありますが、その一つになったのは、中学の終わりに、ある世界史の先生が病気で引退することになった。その全校生徒に向けた最後の挨拶でこう言ったのです。「皆さん、とにかく聖書を読んでください。ここには全てが詰まっています」。ここまで聖書ということを言う人がいる。しかし、今思うと、この勧めの言葉は一つ足りないと思います。皆さん、教会に行ってみてください、とどうして言わなかったのか。(もっとも、この先生は無教会のキリスト者でしたので、教会ではなく聖書と言ったのでしょう。)

しかし、教会、ここに来なければわからないことがあるのではないでしょうか。あの羊飼いたちも、主の許を訪ねて、ああ、あの天使の知らせは本当だったと実感したはずです。そうでなければ、あの天使たちの話はただの不思議な話で、夢物語で終わってしまっていたでしょう。20節にわざわざ「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので」と記されています。あの天使の知らせは、ただ不思議な話で終わらなかった。それは、その幼子の許を訪れて、本当だとわかったからです。

私たちも教会に来てみた時にわかることがあります。キリストの許を訪ねて礼拝してみた時にわかることがあります。聖書が語っていることは本当だ。主キリストの許に本当に平和がある。このお方は信実だ。それはここに来てみなければわからないのではないでしょうか。ただ聖書を読んでいてもわからない。ここに来た時に本当にそうだとわかる。いや、わかるだけでない。ここで私たちは本当にキリストというお方に受け入れられます。このお方は、洗礼によって、私たちをご自身にしっかりと結んでくださいます。主のもの、神の子にしてくださいます。そして、一度結んだら、どんな時でももう決して手放さないと仰ってくださいます。どこにいる時にも、どんな時でも、あなたはもう神の子、神のものでなくなることはない。死を越えて終わりの日の神の国に至るまで決して手放さないと約束くださいます。それはここに来なければ起こり得ません。

 

IV

私たちは今日、そのような所に来たのです。しかし、礼拝はやがて終わります。クリスマスもやがて終わります。羊飼いたちがそうでした。羊飼いたちは帰って行ったというのです。

羊飼いたちは元の生活に戻って行きました。その生活はこれまでと何も変わらない生活です。あの休みのない、羊の世話をし続ける、苛酷な生活です。しかし、彼らは帰っていったのです。いや、帰って行くことができたのです。「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美しながら帰って行くことができたのです。それは、彼らの心を平和が支配していたからではないでしょうか。自分たちは誰からも排除され、見向きもされないのではない。自分たちを本当に受け入れてくださるお方がある。そのために生まれてきたお方がある。その喜びと平安とが彼らの心を満たしていたのではないでしょうか。その時、人は元の生活に戻って行くことができる。苛酷な世であっても、そこに戻って行くことができる。

私たちもこれからそれぞれの場所へと戻って行きます。もしかすると苛酷な歩みが待っているかもしれません。しかし、今朝ここに来た時と同じではなく、大きな喜びを胸にここから戻って行きたいと思うのです。私はこのお方に本当に受け止められている。私を何の下心もなく受け入れてくださっているお方がある。自分を犠牲にしてでも、心から受け止めてくださっているお方がある。私にはこの私のことを預けてしまってよいお方がある。いや、このお方はもう私を受け入れ、ご自身に結んでくださっている。私は今確かに主のものになっていて、このお方は私を決して手放さないでいてくださる。その知らせは本当だった。あの聖書の語っていることは本当だった。その喜びと平安とを心に満たして、私たちは戻って行きたいと思います。

 

しかし、クリスマスは今この季節で終わりません。16日を過ぎてもクリスマスは終わりません。クリスマスがキリストを礼拝することであるならば、私たちは何度でも繰り返しこのクリスマスの知らせを味わうことができるからです。あの知らせも、一度限りではありません。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」私のところに来なさい、ここに見に来なさい。その知らせを聞いて、羊飼いたちは主の許を訪れました。まだ自ら口にできない、あの日お生まれになったお方は、天使にそれを伝えさせました。しかし、やがて十字架にかかり復活されると、今度はそれを使徒たちに委ねました。そして今、教会がそれを伝えています。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」ここに大きな喜びがある。それを聞いて今日私たちもここに来ました。しかし教会はそれを語り続けます。人生の中に、時に苛酷かもしれない人生の中に、教会は繰り返し呼びかけます。だから私たちは何度でもここに来て、自分が神に受け容れられている、そのことを確かめに来ることができます。何度でもここに来て、ああ、確かにそうだった、聖書が語っていることは本当だ、と喜びを胸に、平安を胸に戻って行くことができます。

 

「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」

私たちも、ここでキリストを礼拝したら、この世の目に見えていることが全てではない。見えないけれども、神が私をとらえていてくださる。このような私を赦し、受け入れていてくださる。確かにそれがここで起き始めている、いやもうはっきりと起きていることを胸に、ここから出て行きたいと思います。「天には栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。私たちもそう歌いながら出て行きたいと思います。そしてその事実を、これからもここで何度でも確かめて行きたいと思います。

アーメン

 

Soli Deo Gloria