心の貧しい人たちは幸いである

2021/12/19() 降誕祭主日聖餐礼拝

「心の貧しい人たちは幸いである」(マタイ5章) 牧師 上田彰

 *「幸い」という呼びかけ

 誰でも、幸福になることを願います。しかし、何を幸福と感じるかは、人次第です。先ほどお読みした聖書箇所で、イエス様が様々な者に向かって「幸いである」と語っておられます。「心の清い者たち」「柔和な者たち」…。それらの人々が「幸いである」というのはある意味で分かりやすいと思われます。しかしその中で、一見すると最も難しいのが、「貧しい者」に向かって「幸いである」と呼びかけておられるところです。もしも「心の清さ」「柔和さ」といったものを、個人の努力によって得ることの出来るものとしてとらえるならば、「貧しさ」はそれには含まれません。つまり、主が「貧しい者たちよ」と呼びかけるとき、その者たちが祝福される。今日の箇所で、主は祝福される新たな階層を作りだし、生み出しているということが出来るでしょう。

 その時以来、教会は様々な形で貧しさと幸いとを結びつけて参りました。

 

 ドイツの話を二つさせていただきたいのですが、まず一つは、クリスマスを迎えたドイツの町に、子どもたちの隊列が出来るという話です。聖書の中に、三人の博士と俗に呼ばれるクリスマスのお話が出て参ります。それにちなんで、子どもたちが博士に扮して町を練り歩き、家の扉に新しい年の祝福として新しい年号とメッセージをチョークで記していくのです。その際子どもたちはちょっとしたおひねりを受け取るのだそうです。この「博士」と訳されている言葉は聖書の元の言葉では「マギー」となっていて、「魔法使い」「星占いの学者」「博士」などとも訳せますが、ドイツ語ではこれをKoenige、つまり「王様Kings」と訳すことになっています。イエス様の誕生のしらせを知って、方々の国からやってくる王様がいる、という訳です。王様ですから、本来は最も貧しさから無縁の人物達です。しかしこの王様はいくつもの捧げ物、黄金・乳香・没薬を献げることによって、豊かな者たちから貧しい者たちへの仲間入りをした者たちです。同じように子どもたちもまた王達に真似て、貧しい者となることを覚えるために家々を訪問し、祝福をし、一種の物乞いとなるのです。くだんの行事はSternsinger(Starsinger)、「星の歌い手」と呼ばれます。「歌い手」とは漂流者ということですから、言い得て妙です。貧しき者の流浪の旅の行き先が、赤子のところなのです。

 

 *「貧しさ」について

 少し文献をひもときますと、日本の物乞いにも色々いて、いわゆる托鉢をして回る物乞いと、道の傍らで物乞いをするのとは元々区別されるのだそうです。物乞いのカテゴリーの一つとして、「祝う人」と書いて「ほかひ」、つまり「祝福をする物乞い」というものがあります。これは、家の戸口に立ってその家の健康を祈り祝福の言葉を宣べる。すると家の人が出てきてなにがしかのものを手渡す。それを繰り返すことによって生計を成り立たせるというのです。この場合に分かるのは、「施す人」と「施される人」というのは両方とも役割を果たしているという自覚があるということです。「ほかひ人」に施しを差し出すという伝統がないところでこんなことをしても意味が無いことは明らかです。

 

 もう一つ、少し複雑なドイツの教会事情についてお話をします。

 ドイツにいましたときに、いつも試されているように思えたのが、礼拝後のひとときでした。礼拝を終えて教会を後にする際、教会の門の所に何人かの物乞いが座っているのです。視線が合うのを避けながら彼らの間を通り過ぎて家路に向かうときに、いつも思わされることがありました。ああ、自分が資本主義根性にどっぷり浸かっているところから抜け出て、施しの精神に浸ることが出来たら、それはそれで面白いかも知れない、でも私はここでは外国人だ、という思いです。

 少し解説をします。まず、礼拝の後の時間帯を狙って物乞いが教会の前に並ぶのは、一種の年中行事です。そして分け前にありつける物乞いというものに出会ったことは留学中一度も見かけたことがありません。ですから皆が無視して通り過ぎているのです。(大体の場合は友人や家族で話ながら歩いているので気がつく余裕が無いというふりをするパターンが多いと思います。私は一人で帰るので、少し気まずいわけです。)施しに与ることがまずもって期待できないことは、彼らも分かっているはずです。分かっていながらそれでも物乞いが列をなすのはなぜなのでしょうか。恐らく、彼らの中に、礼拝後の時間帯に教会の前に並ぶのは自分たちの役割だという言い伝えがあるのではないかと思うのです。

 ドイツの礼拝後の様子を観察する限りでは、ドイツもだんだん資本主義根性が板についてきて、ホームレスで生活をする人は努力が足りないからだと思う人が増えてきたのかも知れません。あるいは、「ホームレスの状態で生活をしなければならない人がいなくなるに越したことはないが、ここで自分が施しをしてしまうと味を占めてホームレスから抜け出ることが出来なくなってしまうかも知れない。心を鬼にしてポケットにある10セント硬貨(10円玉)をこの人にあげることはやめよう」。あるいは同じことですが、「貧困を撲滅するのは国家の仕事であって、私の仕事ではない。そのために高い税金を払っているのだから、ここはあえて今は無視をしよう。」

 このようにして、施す人と施される人によって成り立っていた古き良き時代は過ぎ去っていく。

 

 *アッシジの聖フランチェスコ

 今日はそんな中で、あえてこの「古き良き時代」に思いを向けてみたいと思います。

 時は十三世紀の初め、場所はイタリア中部、ローマから100kmほど北に上ったところにアッシジという町があります。ここに、まだ二十代後半のフランチェスコという若者がおりました。聞けば、二十歳前後の時には町同士の勢力争いが戦争のようになってしまって、戦いに駆り出されていたフランチェスコは敵方の町に捕らえられてしまい、一年間ほど捕虜としての生活をしたのちに父親が身代金を支払ってくれて解放されてアッシジに戻ってきて、その時の生活が元で爾来病弱であったようです。そのわずか四十年余りの人生の中で、彼の後半生は世界史の教科書に登場するような大きな出来事を引き起こしていきます。

 その発端であったのは、修道士として当時方々にあった礼拝堂、今でいえばあちこちに祈祷所があって、そのうちの一つである聖ダミアーノと呼ばれる小さい礼拝堂に入り、祈っていたときに神様からの啓示を受けてしまったという事態です。神様の声はこう告げていました。「私の壊れた家を建て直しなさい」。彼はそこで、聖ダミアーノ礼拝堂の再建のために街角で献金を呼びかけ、そして彼の、後に「聖人」として列せられることになる歩みが始まります。フランチェスコは、何人かの仲間と共にボルチュンコラと呼ばれる山のふもとにある礼拝堂を拠点として、新しい修道院を設立します。その修道会の名は「小さき者たち」としました。ちょうど、かつてフランチェスコが巻き込まれた隣の町との抗争は十年以上の泥沼の戦いをようやく終えて新しい機運が生まれるタイミングでした。実はこの戦いを終えるきっかけを作ったのは、フランチェスコ達の托鉢運動であったともいいます。といっても、フランチェスコは政治的な動きを全くしない人物です。彼がやっていたのはただひたすら托鉢でした。町から町へと汚い格好をした宗教者が巡り歩くのです。その姿が、争いに明け暮れていた人々、あるいは争いに疲れた人々の心に何かを訴えたのでしょう。

 平和が訪れたイタリア中部を中心に、托鉢運動は大きなうねりを見せるほどになりました。しかし、修道院の実質的な指導者であるフランチェスコの姿勢は変わりません。ボルチュンコラの修道院を、ある人は「これは礼拝堂と呼ぶよりは小屋である。いや、泥と枝で出来たものを小屋と呼ぶのは差し障りがある。フランチェスコたちが本拠地としたのは、祈りの建物というよりは、単なる祈りの場に近い」と言いました。

 修道院がヨーロッパの各地に出来はじめるのは6世紀頃です。その時以来、修道院を名乗るからには掲げなければならないモットーがいくつか共通でありました。「清貧」というのはその一つでした。その意味で、全ての修道院は清貧を重んじていると言えます。しかし「小さき者たち」の修道院は、「清貧」だけを掲げているという点で異色でした。よく誤解をされるのですが、「貧しい者たちは幸いである」とイエス様が(ルカ福音書に記されているような仕方で)おっしゃったとき、それは「貧しい者になれば幸いになれる」という意味でおっしゃったのではないか、という誤解がされます。そうではありません。貧しい者が幸いである、とおっしゃったのです。貧しさを幸福になるための「手段」として用いるのではなく、貧しさそのものがゴールである、幸いな状態であると信じる、というのが本来はどの修道院でも共通の理解でした。しかし素朴な信仰の思いから始まった修道院の多くが、人々を集めてまたパトロンを見つけて安定経営を始めると、清貧が名前だけになって、立派な建物を作っていく中で、フランチェスコは生涯、清貧を貫き通しました。かつて「教会を建て直しなさい」というお告げの声を聞いた人は、ただ教会の建物を建て直したのみならず、教会を支える精神そのものを建て直したのです。

 このようにして、「小さな者たち修道会」の存在は、人々の心をとらえていきました。

 尤も、小さき者たちの修道院へ入りたいと門をたたく人々はどんどん増え続け、やがて修道院の中にも二つのグループが生まれ、一つは修道院も人が増えてきたので、どこまでが清貧でどこからが贅沢なのかを規則で決めた方がいい、というふうにして実質的な運営を重んじる穏健派と、いやいやフランチェスコの精神は、そんな規則に縛られるはずがないという真正派というか過激派に分かれかけました。ここでもフランチェスコは政治的に振る舞うことなく、修道院の運営を仲間の一人に委ねて自分は托鉢に励みました。彼の運動はさらに支持者を広げていきます。彼の死後、遺体を「祈りの場所」であった愛するボルチュンコラではなく、アッシジの町中のしっかりした礼拝堂の地下の墓に納めなければならなかったのは、フランチェスコ自身の思いに反するものでした。しかしやむを得ない側面もあります。当時、有名な信仰者が亡くなると、その遺体と一緒であった、例えばペンダントや愛用のしおりなどを持ち帰ってしまうのみならず、遺体の髪の毛とか、あるいはもっとひどいのになると体そのものを引き裂いて持って行ってしまう人などが続出したため、遺体を守るために大きくてしっかりしたところに納める必要がありました。つまり彼は、自分自身が最も避けようとしていた、栄光のために巨額の富を使うという、清貧の対極とも言える姿勢に巻き込まれていきます。良くいえば、民衆の情熱が大きくなっていき、通常は数百年かかる大聖堂の建立が、わずか二十五年でなされてしまったのです。これは皮肉です。彼の清貧の精神は、本来何百年もかけて地道に受け継がれなければならなかったのに、わずか二十五年という短い期間に全く違う形で実現してしまったということです。

 実際私も、今回アッシジのフランチェスコについて調べたいと思って伊東図書館に行き、見つかった資料はこれ(講談社 『アッシジの修道院 世界の聖域14』)でした。フランチェスコの生涯についての説明と並んで、現代に残るアッシジの立派な修道院の数々が収められています。つまり、立派さ故に現代の公立図書館で簡単に手に入るような形で本が残っている、そのためにフランチェスコが知られることは、うれしい反面、そこに収められている写真の修道院の立派さからは、なにか戸惑いを感じるのです。

 その戸惑いをきちんと受け止め、本に解説を付け加えている下村寅太郎という哲学者は次のように書いています。「この聖者は、貧しく何も持たない生活をすることでキリストを真似ぶことを一生の課題とした人であったはずなのに、また道で自分よりも貧しい人に出会うと、自分が泥棒のようだといって恥じた人物であったのに、また最後は裸で道ばたに倒れて死ぬことを望んだ人であったのに、このアッシジに建てられた大聖堂の壮大さは一体何であろうか。今アッシジで、<<この>>フランチェスコの面影をどこかで見出すことが出来るものなのだろうか」。

 一人の哲学者が直観的に問題にしているのは、貧しさだけを志した一人の信仰者の生涯を前にして、なぜ私たちは「貧しさそのもの」を受け止めることが出来ないのか、という問題です。

 

 *貧しさによって受け入れられる

 この問いを私自身が考え始めたときに、思い出す一つの出会いがあります。今から四年前のことになりますが、近隣の牧師達と共に、鎌倉の「黙想の家」と呼ばれる修道院に向かっていました。イグナティウス・ロヨラが創立した、フランチェスコから三百年下って宗教改革の時期のカトリック教会内部の暦的刷新運動の一つ、イエズス会の創始者の精神を受け継ぐ修道院です。イグナティウス・ロヨラの主著である『霊操the Spiritual Excercise』という本に興味を持ちました。元々この伊東の地に来るまでは、彼のことは名前だけ知っていた状態でした。しかしあるときに、地元のカトリックの司祭とやりとりをしていたときに、次のようにおっしゃったのが印象的でした。あちこちで書いたりしゃべったりしていますから何度もお聞きの方もおられると思いますがご容赦下さい。「最近、あちこちの教会で高齢化を問題にしていますが、高齢化って問題でしょうか。確かに乗り越えなければならない課題はありますが、しかし高齢化は恵みだと思いますよ」。それを聞いて、日本基督教団でとりわけ声高に「高齢化という問題」について耳にするのはなぜだろうか、と思いました。もしかすると私たち日本のプロテスタント教会は、高齢化してしまうと弱くなってしまうような教会形成しかしてこなかったのではないだろうか。

 高齢化著しいという意味ではドイツ教会もまた例に漏れません。しかしある意味で、いつも高齢化しているのがドイツ教会です。教会というのはいつだって高齢になって人生の晩年になり、真剣に人生のまとめ方について考える人が主な出席者です。そしてそのような高齢者の群れが絶えることなく続いてきたのです。それに対して日本では、ある時期まではキリスト教は若者の宗教でした。その時には年を取ればまた「もとの宗教、自分の家の宗教」に戻るものとして教会で青春を謳歌したものでした。しかしあるときから(かれこれ五十年ほど前?)、「キリスト教で死ねる」ということに教会が気づき、キリスト教的な死生観が論じられるようになりました。つまり、死ということを考えることで生を考えることが出来る、という訳です。肉体が弱められる年齢になってから、生かされていることの幸いを理解し、老いた人にも若い人にも自分の信仰を証する、これが高齢化した教会の強みです。そのように、高齢化に動揺する教会ではなく、高齢化を強みとし、自らに対して、そして地域に対して高齢化を誇りとする教会になりきるために、何が必要なのだろう、そういう問いを伊東に来てから地域の教職との交わりで与えられました。そして「体操」、つまり体を動かし、何かをして充実感を味わう教会から、「霊操」、つまり御言葉に聞き、聖書自身が私たちに語りかけることを通じて生かされる教会への転換を目指したイグナティウス・ロヨラの姿勢に学ぶことはないかと考えたのです。

 

 鎌倉の修道院で、一人の司祭と修道女、それに聖書黙想のためにこの修道院に来る人たちに対応する信徒の方がお二人、私たちをもてなして下さいました。その時に、どうしてもこれだけは聞いておきたいと思った『霊操』の中の一節があります。それはこのような印象的な言葉です。

 

「まず第一に、心の完全な貧しさに受け入れられるように。また主なる神が私を選び受け入れることをあなたが望むなら、本当の貧しさもまたあなたを受け入れてくれるので、それによって受け入れられるように。」

 

 貧しさが、私を受け入れてくれるようにと願え、というのです。これは不思議な表現です。逆ならわかります。私が貧しさを受け入れることが出来るように、と願うことはまだ想像が出来ます。しかし貧しさが私を受け入れてくれるように、とはどういうことなのでしょうか。

 私は霊操を読んだときに印象深く感じた箇所について、直接聞いてみることにしました。「貧しさによって受け入れられるように、とはどういうことなのでしょうか。これは、まるで私たちが神様によって受け入れられるように、というような意味で書かれているではないですか。もしかして、貧しさによって受け入れられるように、とは神様によって受け入れられるように、という意味なのでしょうか。」重ねて私は尋ねます。「もしそうなら、イエス様が貧しい者としてこの地上に来て下さったということと関係しているのでしょうか。第二コリント八章とか、フィリピ書簡の二章が関係しているのでしょうか。」このスペイン人の神父は、ほぼ即座に、「おそらくそうだと思います」、と答えました。第二コリント八章とは、次のような箇所です。

「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(第二コリント)

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(フィリピ)

 

 私ども福音主義教会、つまりプロテスタント教会とローマ教会、彼らが自分自身でカトリック教会と呼んでいるところの教会とは、未だにいろいろな違いも多くあります。すべての点において共同歩調が取れているという訳ではありません。にもかかわらず、貧しさによって受け入れられるようにというイグナティウス・ロヨラの言葉を、それぞれ異なる立脚点から出発してはいても、共通の理解に到達できたとき、ああ今日は来て良かったな、ああこの地上において福音主義教会とローマ教会は別々の道を歩んでいるけれども、同じ信仰を持っているんだな、と思うことが出来ました。

 

 「貧しい者たちは幸いである」という、ルカ福音書にあるイエス様の言葉を、マタイ教会はお読みしたように一言付け加えた上でイエス様の言葉として記憶し続けています。「心の貧しい者たちは幸いである」。これは、心が貧困で卑しい性格を持った人は幸いである、という意味ではありません。恐らく、「貧しい者たち」に対する憧れを、より信仰的な形で持ち続けるために、すべての人がこの憧れを持つことが出来るのだということをはっきりさせるために、「心の」と付け加えたのでしょう。

 「貧しい人々」というのは、「主によって貧しくされた人々」ということです。現代の私たちが誤ってしばしばそう考えてしまうように、「努力が足りなければいつでも『そちら側』に落ちるような、ダークサイドにいる人々」という意味ではありません。経済的に豊かな者になるということが、文字通り選ばれた人々でなければならないのと同じように、実は貧しい者となることもまた選ばれた者だという理解が背景にあります。そして、お金を持っている人は、自分に与えられている環境は神様によって与えられたということを受け入れ、自らに与えられたお金を教会や恵まれない人々に施して信仰生活を送っていました。そしてお金を持たない人もまた、神様によって選ばれて貧しい生活をしている。財産を持つ人と持たない人の違いは、施しをする役割か受ける役割かの違いしかない、どちらの立場の人も教会では欠かすことが出来なかったのです。お金を持っていない人々、つまり貧しい人々というのは、それ自身で何か神々しい存在であった、と言っても言いすぎではありません。それゆえに、福音書を記したマタイは、「心の貧しい者たちは幸いである」と自信を持って記したのです。皆が貧しい者にさせられているのではないか、皆が貧しさによって受け入れられる存在になっているのではないか。

 

 

 *貧しさとしてやってきて下さったお方

 ドイツの教会の礼拝後を思い出します。あの物乞い達の群れは、私たちが施し、施される関係に戻ることを促しているのではないか。信仰的に言えばまさにそうだと言えます。では、積極的に「それなら」といって施しに応じるべきでしょうか。「私は施す側に今回は立つことにしました。あなた方は施される側。古き良き時代に戻りましょう」。そんなに簡単には行かないことを知っています。私がかの地で牧師をしたとして、一生かけてなんとかその域に達するかどうか、というような境地です。今施しを差し出すことには、まだ躊躇があります。同様に、子どもたちが行列をなして作る例の博士達のふるまいも、実は今議論があるようです。私が見た文章のタイトルは、「星の歌い手という慣習は、決して物乞いではない」というものです。どういう議論がされているかは十分想像がつくでしょう。要するに、子どもたちが「歌い手」となっておひねりをもらうような習慣は、「物乞い」を教えることになってはいないかといって、教育的な観点から是正を求める声が出ているわけです。「ほかひ」の伝統を知る文化、祝福を押しつけるために訪問してくる物乞いも、今は日本中探しても見つけることは出来ないのではないかと思います。「貧しい者たち」を支えることを誇りとし、生きがいとしてきた文化は忘れ去られようとしているのかも知れません。

 

 <<だからこそ、>>私たちは主イエス・キリストが貧しいお方としてやって来たことを忘れることはあってはなりません。

 

 少し視野を広げてみますと、「貧しい」というのはお金があるかどうかということだけはありません。貧しさとは何かといえば、たとえば何かの能力に欠けているということもまた、貧しさです。どのような方であっても、自分の中の何らかの意味の貧しさに絶望した経験、あるいは貧しさを克服することをあきらめた経験をお持ちではないかと思います。

 しかし今日の箇所は、貧しさに絶望しきったり、あるいは貧しさから脱却しようともがき続け疲れ切ってしまう必要はない、ということを私どもに告げています。なぜなら主がご自身で貧しくなられたからです。お金の点で貧しくなられたというのではなく、ありとあらゆる意味で貧しくなられた。能力の点でも、経済的な観点でも。だから神の独り子は、人間になられたのです。私たちが弱い存在であることをいつも覚えることが出来るように。私たちが寛容さに欠けた、自己中心の存在であることをいつも忘れることがないように。

 もう一度第二コリント八章九節の言葉をお読みします。

「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」

 

 貧しい者と共に主がいて下さる。主ご自身が貧しい者となって下さって、そして私どもを本当の意味で豊かにするためにともにいて下さる。このクリスマスの幸いを感謝したいと思います。