喜びの内にある悔い改め

2021/12/05 待降節第三主日聖餐礼拝 喜びの内にある悔い改め (使徒言行録第六回 2:22~32)                                 牧師 上田彰

 

 秋晴れが続く中、三階牧師館の窓から見える山並みの景色があります。湯川から円山にかけての山並みが、遅めの紅葉を迎えています。土曜の朝に、娘が言うのです。ほら、お魚が見えるよ。お魚が墓地をパクッと食べているよ。

 色々説明をしないとなりません。まず紅葉が魚の形をしている、というのが娘の主張です。これは見立ての問題になってしまいます。次に、パクッと食べられている墓地のことですが、実は教会墓地が牧師館からは見えるのです。そのことを一年ほど前に教えてくれたのも、実は娘でした。普段見ている景色が、急に教会墓地を思う気持ちと結びついたのです。そして娘が今回言うには、魚が口を開いて、墓地が食べられるところだという訳です。

 子どもの戯言だと思って片付ければそれでも済む話です。ただ、考え始めれば色々深い話でもあります。今日の聖書箇所と結びつけていくつかお話しします。

 

 *救いの出来事へとピントを合わせる(1

 今日の箇所で、ペトロはダビデを預言者と見なし、詩編に収められているダビデの言葉があることを伝えようとしていると促しています。ダビデが伝えようとしたのは、神様と私たちとの約束を思いだしてほしいということだ、そこにピンと来てほしい、ということだったのではないか、と力説しています。預言者の役割を「ピンと来てもらうための神様からの使い」と考えるべきだというのです。

 カメラを私たちが使うときに、オートフォーカスという機能があります。プロのカメラマンに言わせると、オートフォーカスは邪道なのだそうです。プロであればこの機能はあえて使わずに撮影をするというのです。使わないと、ピントを合わせるのに一苦労します。あった方が楽なのは間違いありません。しかし、その機能さえ使えばなにもしなくても現実がピンボケせずに見えてくるというオートフォーカスのような機能は、救いの出来事を仰ぎ見る信仰の世界には存在しないようです。そこで、既に広げられている救いの出来事の絵図を、フォーカスを合わせながら見て参りたいと思います。

 

 一人の信仰者であるダビデは、ある時点まではピンボケでしか現実を見ていませんでした。突然あるときに彼は、ピントの合った現実直視を始めます。そのきっかけが預言者ナタンの登場でした。ダビデは、当時絶世を究めた、強い力を持つ王でした。人生の絶頂期であったばかりでなく、ユダヤの王国の絶頂期であったといっても過言ではありません。やる戦争やる戦争すべてに勝利を収め、小国イスラエルが最も大きな領土を手にしていた時期です。

 人生の、いえ王国の絶頂期において、ダビデは大きな過ちを犯しました。王とはとても思えないふるまいをしてしまうのです。それが、不倫を犯した上で、相手女性バテシバの夫ウリヤを、かれはダビデの忠実な部下であったのですが、ウリヤを計画的に死に追いやり、彼の妻であったバテシバを無理矢理めとってしまう、というスキャンダルです(第二サムエル記12章、詩編51編)。国民皆が首を横に振る出来事でした。何よりも神様はこのふるまいを受け入れることはありませんでした。

 そこで王座に腰掛けるダビデの前に姿を現したのが、預言者ナタンでした。諫言をし、神様の思いを伝えに来たのです。ナタンはダビデに対して、ある例え話をしました。その例え話の内容は、強い権力を持っている男が弱い男からものを取り上げて自分のものにしてしまうという話です。するとダビデは、ナタンが自分のことを当てつけていることに全く気づかないままでナタンの話に出てきた登場人物について批評を始めるのです。ダビデは、弱い者いじめをした男を非難します。そこでナタンがダビデに対して、短くこう伝えるのです。その男はあなただ、と。

 預言者の仕事というのは、ピント合わせのようなものです。私たちがピンと来ていない事柄をピンとくるように仕向ける。もちろん預言がいつも受け入れられるわけではありません。伝えた相手がピントが合わせることが出来ずに終わってしまうこともあります。そのようなとき、現実がきちんと見えていない人々はこう言うのです。預言者というのは、少し気が触れた人のことだから、気にしない方がいい、と。実際に預言者は今でいう心の病気を抱えた人が多かったのは事実かもしれません。しかし聖書の宗教の伝統では、宮仕えをする祭司という、正気の世界に住む人たちと、直接神に仕える預言者という、狂気の世界に住む人たちの両方を信仰的に尊敬していました。預言者の言葉を文字通り丸ごと受け止めてしまうのは、預言者の領域に完全に足を踏み入れて戻って来られないことになってしまいます。信仰の世界には預言者の領域と祭司の領域の両方がありますから、祭司の世界に足を一旦踏み入れ、預言者の世界にも足を踏み入れ、そうやって信仰のピントを合わせ直していくのです。ダビデはこの時、「その男はあなただ」という短い言葉によって、ピント合わせを行いました。

 

 *「イエスについて歌った」ダビデ

 今日の箇所でペトロが語る説教によれば、ダビデ自身がもしかするとあのナタンの預言をきっかけにして預言者となっていく、そのダビデが次のように詩編の中で歌い、祈る言葉を思い起こすときに、私たちの目の前にある救いの絵図を見るピントが合うのではないか、というのです。どういう詩編かというのを、ペトロの引用通りにご紹介します。

『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』

これは詩編16編の言葉です。少しだけ解説しますと、この詩編はダビデ自身が違う宗教へと関心を向けてしまい、そのことの故に命の危機に陥ってしまったときのことを思い出して祈った歌、歌った祈りであると考えられています。そのような信仰的、そして生命の危機に陥ったときに、正しい道に導いて下さったのは力ある神様の御手であった、という内容です。ダビデは、自分自身の力によってではなく神様の力によって命の世界へと舞い戻ることが出来た、そういって自らの救いを喜ぶのが詩編16編です。

 ペトロは、ある言葉をこの詩編16編に付け加えることで、私たちの信仰のピント合わせを促します。それは25節のこういう言葉です。「ダビデは、イエスについてこう言っています」、です。ダビデが神様から離れて死にそうになっているところを神様によって命の世界へと引き戻されるという話は、実はイエス様が神様から引き離されて死へと一旦引き渡されたところを、神様ご自身が命の世界へと引き戻して下さったのだ、詩編16編はもともとそういう歌なのだと気づきなさいとペトロは私たちに促すのです。

 

 *気づきの連鎖

 ナタンによって気づかされた信仰者ダビデが、気づかせる信仰者として歌った祈りを紹介するペトロ。ここには気づきの連鎖、預言の連鎖と言うべき出来事が起こっています。

 幼い子どもが教えてくれた、窓の外の景色から話はずいぶん遠くまで来てしまいました。窓の外の山が織りなす紅葉がお魚に見える。そしてそのお魚が教会墓地を食べようとしていると言われて、そうかあのいつも見ていた景色には教会墓地が含まれていて、そして鮮やかな紅葉が魚のように教会墓地を際立たせている。

 娘の話はあくまで偶然なのですが、しかし今日の聖書箇所の中には救いの話と必然的に結びつく仕方で、墓地の話が出てきます。こうです。29節から。「兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、/『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』/と語りました」。再びペトロは詩編16編を引用する際に、同時にイエスはダビデの子孫であるという、家系図の話を持ち出すのです。言っていることはこういうことです。ダビデの墓を見ればダビデを思い出す。恐らく彼の生まれ故郷であるベツレヘムに、誰もがお参りの出来るような仕方でダビデの墓があったのでしょう。そしてダビデの墓を見た者は、死んだダビデを思い出して生きておられる復活の主イエスを思い出すべくピント合わせが行われる、というのです。詩編16編でダビデが自分自身死から生へと引き戻される証しをするのですが、その話を主イエスキリストの復活に結びつけることができるというのは、ペトロの勝手な解釈ではなくて、必然的な解釈である、なぜならダビデが主イエスの祖先であるからだ、とペトロは言っているのです。

 このようにペトロが説教をして以来、今日お読みした詩編の箇所は、復活節のときに読む箇所として教会で親しまれるようになりました。預言者によってピンとこさせられた者たちが連なる仕方で、教会は今に至るまで、救いの出来事の中心が主イエス・キリストであるということを私たちが覚え続けているようにとピント合わせを促すのです。

 

 *悔い改め

 待降節も第三主日まで進みました。赤いろうそくに混じってともされる紫色のろうそくは、悔い改めを私たちに促す色です。悔い改めとは何か。以前に、悔い改めとは悪いことをしたと反省をするのとは区別される。悔い改めとは、反省ではなく、神様に心を向け直すということだというのを申し上げ、反省とか後悔をしたのがイエス様を裏切ったイスカリオテのユダであるのに対して、イエス様ご自身が宣教の開始の時に「悔い改めて福音を信じなさい」と宣言をなさるときの、心を神様に向ける悔い改めが違う言葉を用いているという説明をしたことがあります。少し回りくどい説明だったかも知れません。今このタイミングであればこう言えます。イエス様にピントを合わせなさい。それが悔い改めて福音を信じるということだ、と。救いの出来事の中心はなんと言っても主イエスキリストだからです。この教会に赴任して6年目、毎日見ていたはずの景色に、そしていつも葬儀を大事にしていますと言っていたはずの牧師が、娘に言われるまでその景色に墓地があるのに気づかなかった。ピントが合っていなかった。ペトロはさらにピント合わせを促すのです。もし私たちが墓地そのものを大事にしているなら、まだピントをもっと正確に合わせる余地がある。それは、墓地からよみがえった主イエスに思いを向けなさい、と。それが赤いろうそくに混じる形で紫色のろうそくが灯され、やがてこれらのろうそくが白いろうそくに取って代わることの意味だと気づかされるのです。

 

 *救いの出来事へとピントを合わせる(2

 さてこのようにして信仰の景色の中心に主イエスキリストを据えてピントを合わせた私たちは、少しずつ見える範囲を広げ、スコープを拡大することによって、その周辺にあるものもはっきりと見ることが出来るようになっていることに気づきます。実は預言者の働きというものはそもそも、いくつかの意味でのピント合わせなのです。まず第一に、神様の救いの約束の中心にあるのはイエス様だということです。そのことについては十分語りました。これが第一のことだとするならば、第二に、墓を見つめたときに山の景色が魚の様子をしていることに気づくような仕方で、主イエスのまわりにいる他の登場人物にも気づくのです。そしてその登場人物の群れの中に私たちも含まれていることに気づく、これが今日の箇所の冒頭で語られていることです。少しテキストに密着して22節と23節を確認しておきたいと思います。

 

・「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください」。ここでペトロがやっているのは、目の前にいる人たちに呼びかけることですが、それは結局、呼びかけによってピント合わせを促しているということです。呼びかけられることは、確かにピント合わせの第一歩と言えるかと思います。さらに続けて読んでみます。

 

・「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です」。これは、ピントを合わせる対象はイエス様だということです。さらに続けます。

 

・「神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです」。この「証明」というのは法律用語、法廷で使われる言葉ですが、関心を向ける、というような意味です。神様はイエス様に人々のピントが合うようにとイエス様が色々な奇跡を行うことでイエス様の方を振り向くようになった、という意味です。しかし、イエス様が不思議なわざを行う方だったからといって、人々の心のピントがイエス様に完全に合っているわけではありません。むしろ不思議なわざを行う人など探せばいくらでもいるわけで、ピントがぶれてしまう怖れがあります。しかし神様はピントがイエス様からぶれることがない仕方で救いの御計画を実行なさいます。それが23節です。

 

・「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです」。つまり、救いの出来事の主人公でありピントの中心の位置におられる方がまさにピントの中心に来るに至ったのは、私たち故である、というのです。平たく言いますと、私たちは主イエスを十字架にかけた張本人として救いの出来事のフレームの中に収められているというのです。

 

 先ほど告白した信仰告白によれば、御子イエス・キリストは私たち罪人のためにこの世においでになり、私たちの罪のために十字架にかかったと告白されています。一言でいうならば、十字架というのは他人事ではない。これがペトロが救いの出来事のピント合わせの第二の出来事です。イエス様に焦点を合わせたときに、私たちもまた罪人としてその景色に映り込んでいる。

 

 *救いの出来事へとピントを合わせる(3

 そしてペトロは、第三にこの悔い改めのピント合わせを完成させるには、景色の全体に目を向けるべきだ、私たちが主イエスの殺人に加担したというのはあくまで大きな絵の一部分に過ぎないといって、絵の全体を見ることを勧めるために24節を語り、そして25節でダビデの歌にもう一度言及したのです。そこには復活された主イエスのお姿があり、そして主イエスを通じて救いへと入れられたダビデの、いえ私たちの姿が描かれているのです。ピントを合わせたままでここまでスコープを広げた私たちここでは、もはや罪人としてではなく、罪赦された者として描かれていることに気づかされます。ペトロは、復活を喜ぶ姿がイエス様だけでなくダビデ自身の姿でもあり、そして私たちの姿でもあるといって、イエス様の復活と共に私たちが救いを喜ぶ姿が描かれていることを示すのです。

 喜びの中にある罪赦された私たち。この第三アドヴェント、悔い改めの主日に、私たちは喜びのただ中にいます。