主はほめたたえられる

2021/12/12 待降節第四主日礼拝      「主はほめたたえられる」

   マルコによる福音書14章1~9節                              牧師 上田 文

 

 

野長瀬正夫という詩人がいます。野長瀬正夫さんは、『あの日の空は青かった』や『小さな愛の歌』という詩集を書いています。彼の詩の中に「うつくしきもの」という詩があります。「われはひさしく、うつくしきものをみず。われはひさしくうつくしものにふれず。わがこころ、うつくしきものにうえたり。うつくしものは、ほろびたるか。うつくしきものは、やけうせたるか。うつくしきものいでよ。きよく、やさしく、あわれふかき。うつくしきものよにいでよ。うつくしきものをおもひ、うつくしきものをこひ、なすことなくて、けふはくれたり」という詩です。うつくしいものが、探さなくてはならないほどに、なくなってしまった。うつくしいものが世に出て来てほしい。うつくしいものを見たいという思いが綴られた詩のように感じられます。

 

 「うつくしきものよにいでよ」、この思いは、イエスさまの思いかもしれません。今日の聖書箇所の1節には「過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた」とあります。過越祭と除酵祭というのは、2つ一緒に行われる祭です。そして、イエスさまは、この過越祭と除酵祭の最中に十字架により死なれました。ここに書かれている、「過越祭と除酵祭の二日前」というのは、イエスさまが律法学者や祭司長に引き渡され、殺される二日前という事になります。イエスさまは、なぜ祭司長や律法学者に殺されなければいけなかったのでしょうか。聖書には、イエスさまが、祭司長や律法学者に向かって、あなたたちのすることは人々の目に信仰深さを見せるための「見せかけ」であり、神殿は「強盗の巣」になってしまったと避難されたとあります。祭司長や律法学者は当時、律法と神殿の祭儀によって大きな権力を握っていました。そのため、「見せかけ」であり、「強盗の巣」になっているというイエスさまの非難は、ユダヤの民衆と社会を揺れ動かす根源となったのでした。そこで、彼らはイエスさまを殺す計画を立てたのです。けれども、まさか、祭の最中にイエスさまが十字架で死なれるとは検討もしていなかったようです。2節には「彼らは『民衆が騒ぎだすといけないから、祭の間はやめておこう』と言っていた」とあります。イエスさまが殺されると「民衆が騒ぎだす」。それほどに、民衆はイエスさまの言葉に惹かれていました。そのイエスさまが祭の最中に殺されたとなるとユダヤの社会は大騒ぎになり、激変するかもしれません。だから、彼らは民衆が知らない間に、イエスさまを殺してしまおうと計画したのでした。

 また、今読んでいる聖書箇所の次の所には、イスカリオテのユダが出てきます。「ユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところに出かけて行った」(10)とあります。ユダも、イエスさまに不満を持っていました。自分の思っていたような救い主ではないと感じたのかもしれません。彼は、「どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた」とあります。彼もまた、民衆の知らないところで折よくイエスさまを引き渡すことが出来る方法を考えていました。そして、それは祭司長たちが考えるように、祭の間ではなかったのでした。しかし、この彼らの計画を根底から崩すような形で、イエスさまは祭の最中に十字架におかかりになるのです。

 

祭の最中にイエスさまが十字架に架かられるのは、この死が祭司長や律法学者といった人間の計画ではなく、神さまのご計画として実現されるためです。神さまは、過越祭と除酵祭の最中にイエスさまが十字架によって死なれることを望まれたのでした。それは、イエスさまの十字架の死が、この祭で記念されている過越の小羊の死であることを明らかにするためでした。過越祭と除酵祭は、神さまがユダヤの人々、つまり旧約聖書でいうところのイスラエルの民をエジプトの奴隷生活から解放された事を記念する祭です。エジプトの奴隷とされていたイスラエルの民を守るために、神さまはエジプトに災いをもたらされました。その時、神さまは、イスラエルの民に、小羊を神さまへの犠牲の捧げものとし、その血を戸口に塗るように指示されました。これによって、神さまは小羊の血が塗られた戸口を過ぎ越され、イスラエルの民を神さまの災いから免れさせ、災い中にあるエジプトから、無事に脱出させて救われたのです。これを記念する過越祭と除酵祭の最中に、神さまは更なる救いを起こすことを計画されたのでした。その救いとは、イエスさまをキリストであると信じた者が、永遠の命にあずかり、神の国に入れられるというご計画です。そのご計画には、イエスさまの十字架による死と復活がありました。神さまの子である、イエスさまが人間となってこの世にきてくださり、私たち人間の罪を背負って十字架にかかり、犠牲となって血を流し死んでくださいました。この血潮により、私たちの罪は贖われました。また、イエスさまは死から復活してくださいました。そのことによって私たちは、永遠の命にあずかり、神の国に入れられる者とされたのです。神さまは、この救いと恵みの計画を進めるために、祭司長や律法学者、またイエスさまの弟子であったユダまでもを用いられたのでした。

しかし、律法学者や祭司長はこの事を全く理解していません。相変わらず、イエスさまに腹を立て、イエスさまを殺す計画を進めていました。イエスさまが、これからなぜ十字架につけられるのかという事を、彼らは何も知らなかったのでした。「うつくしきもの」の詩にあるように、清く、優しく、憐れみ深いうつくしさは、彼らが生きる所にはなかったのでした。しかし、イエスさまは、汚れのない犠牲の小羊としてこの世にきてくださいました。そして、このようなうつくしさのない場所で、うつくしきものとして生きてくださいました。また、ここで生きる私たちをうつくしきものに変えてくださったのでした。

 

けれども、律法学者たちは着々とイエスさまを殺すための計画を進めています。そのような時に、彼らとは全く違う一人の女性が出てきます。3節には、彼女は「純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた」とあります。ナルドの香油とは、インドや東アジアで取れるの香油で、大変高価なものでした。5節には、「これを売れば三百デナリオン以上になったはずだ」とあります。一デナリオンは、当時の労働者の一日の賃金でしたので、三百デナリオンはほぼ一年分の収入です。この香油はほぼ一年分の収入で買うことが出来るような、とても高価で特別な物であったのです。女性はこの特別な香油を、壺から数滴、イエスさまの頭にかけたのではありません。石膏の壺を壊して、全てをイエスさまに注いでしまったのです。そこにいた人々は、驚いたと思います。彼女はなぜこのようなことをしたのでしょうか。そのことは聖書に全く記されていません。しかし、ナルドの香油は旧約聖書にたびたび出てくる香油でもあります。そのため、聖書の時代の人はナルドの香油と聞くだけで、さまざまな事を想像できたのかもしれません。雅歌の1章2節~4節には、このように書かれています。「どうかあの方が、その口のくちづけをもって、わたしにくちづけしてくださるように。ぶどう酒にもましてあなたの愛は快く、あなたの香油、流れるその香油のように、あなたの名はかぐわしい。おとめたちはあなたを慕っています。おさそいください、わたしを。急ぎましょう、王様、わたしをお部屋に伴ってください」。雅歌というのは、独特な雰囲気を持っている書物です。とてもエロティックな男女の愛が語られています。しかし、雅歌は単なる男女の愛を歌っているのではありません。恋愛をする男女を、男は神さまに、女は人に譬えているのです。つまり、神さまと人間の愛がここに語られているのです。

ナルドの香油を注いだ女性は、どのような人であったのでしょうか。女性はきっと「ぶどう酒にもましてあなたの愛は快く、あなたの香油、流れるその香油のように、あなたの名はかぐわしい」と、このナルドの香油をすべて注いでしまうほどに、イエスさまを愛していたのだと想像できます。着々とイエスさまを殺す計画が進められている中で、イエスさまがおられた部屋だけはかぐわしい、愛の香りでいっぱいになったのでした。

 

ところが、そこにいた人たちの何人かが、彼女の行為を見て憤慨しました。彼女がイエスさまに注ぎ、献げた、ナルドの香油は、彼女が持っていた物の中で一番大切な物であったと思います。そのことに、ここにいた人たちも気付いていたのでしょう。だからこそ、この女性のイエスさまへの一途な愛と献身に、戸惑いを感じたのでした。彼らは言います。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」。当時は、祈りや断食と並んで、施しは信仰の証だと考えられていました。そのことは、イエスさまも大切にされていました。だから、彼らはイエスさまの前で正しい事を言ったのでした。この言葉によってイエスさまに褒められようとしたとも考えられます。しかしイエスさまはこのようにおっしゃいました。「するがままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」。そんなことを言って、この人を困らせるなと言われたのです。確かに、この人々がしているのは、この女性のしたことに対してケチをつけて困らせることでした。貧しい人への施しという大義名分を盾としていますが、それは口実に過ぎません。彼らは、律法学者や祭司長たちと同じ事をしているのです。律法学者や祭司長は、ジャラジャラと鳴る、重い賽銭箱をこれ見よがしに祭壇にささげ、見せかけの長い祈りをしていました。神殿は、捧げものという大義名分によって不正な商売がなされる強盗の巣となっていました。彼らは、自らの正しさや信仰深さ、また権威を主張するために、さまざまな見せかけの行いをしていました。そのため、イエスさまは、律法学者や祭司長を批判されました。このことは、正論によって見せかけの信仰を表し、女性の行いにケチをつける事と同じです。それに対して、イエスさまは、この女性は「良いことをした」「困らせるな」と女性を守ってくださいました。イエスさまは、女性の行いではなく、この女性の中にある、人々には見えない真の信仰を見ておられたのでした。 

 

イエスさまが言われた「わたしに良いことをしてくれたのだ」という言葉の「良いこと」とは、「うつくしいこと」と言い換えることが出来る言葉です。イエスさまは、女性が、み言葉を心に蓄えて、イエスさまに希望を抱いて、イエスさまに向かって一歩一歩を踏み出す姿を「うつくしい」と言ってくださったのでした。うつくしいものを探さなくては見られなくなってしまった世の中で、イエスさまは、女性が何を目指しているのか、女性の心の中の目線を「良いこと」「うつくしいこと」として探し出し、この世に示してくださったのでした。そして、続けてこのようにおっしゃいます。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない」。貧しい人々を助けることは、あなたがたがその気になりさえすれば、いつでも出来る。そのために全財産を投げ出すことだって出来るはずである、とイエスさまはおっしゃるのです。しかし、彼らにはそんな気はさらさらありません。彼らは、貧しい人のことを考えているのではなくて、女性のしたことを批判し、自分を高めたいだけなのです。イエスさまは、このような人々の心の中の目線も見ておられました。そして、「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる」とおっしゃり、それよりも、今わたしの方を見なければ、わたしは、去ってしまう。わたしの方を見なさい。わたしと繋がりなさいと教え、招いてくださいました。ここで使われている「良いこと」には「うつくしい」という言葉は使われていません。

人のしている事を見てケチをつけたくなるというのは、私たちにもよくあることではないでしょうか。私たちは、いかにも正しいことを語りながら、あるいは配慮をしているように言いながら、実際には相手のすることにケチをつけているという事があるように思います。そして、そういうケチや批判は大抵の場合に当たっています。正しいのです。人のあらさがしをしようと思えば、私たちはいくらでもできてしまうのです。完璧な人など、どこにもいないのです。だから、イエスさまはこの批判に対して「この人のやったことは完璧だ。批判の余地などなにもない」とは、おっしゃらなかったのです。それよりも、「なぜこの人を困らせるのか」と言われたのでした。それは、あなたたちは、自分の行為と人の行為を見比べて、それに対する評価ばかりを気にしている。しかし、見るべきものが違うのではないか。見るべきものが違うから、自分自身に対しても、相手に対しても困ってしまうのではないか。それよりも、うつくしいものを探しなさい。「うつくしきものをおもひ、うつくしきものをこう」そのような人になりなさいと言われるのです。真にうつくしきもの。それはイエスさまです。イエスさまは、汚れのないうつくしい捧げもの、犠牲の小羊として、私たちの罪を贖うためにこの世に来てくださったのです。だから、イエスさまは神の子であるイエスさまに希望を抱き、イエスさまに向かって歩いてきてほしい。イエスさまが私たち一人ひとりをに目を向け、愛してくださるように、私たちがイエスさまの方を見て、イエスさまのことを愛してほしいと願われたのでした。また、ケチをつけて、この女性や隣人を困らせるより、この人たちのイエスさまに対する思いを受け入れてほしい、この人のうつくしさを共に喜んで欲しいと思われたのでした。

 

イエスさまは続けてこのように言われます。「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」。これは、これからイエスさまが十字架につけられることを、この女性は知っていて、埋葬の準備をしてくれたということではありません。イエスさまが、彼女の行為をこのように、受け止めてくださったのです。私たち人間は、自らの力で神さまに繋がる事は出来ません。イエスさまが導いでくださらなければ、イエスさまの方向を向くことさえ出来ないのです。それは大祭司や預言者、また律法学者も同じことです。彼らは、もともと神さまと人の間をとりなす者として、神さまに立てられた人たちでした。しかし、彼はいつしか、人間の要求を満たすために神さまを利用するような者になていきました。彼らは、自分たちが、神さまの事ではなく、人間の事を考えるようになってしまっているということに気づくことができなかったのでした。そして、気づかないうちに「うつくしきもの」を探さなければいけないような社会を作りだしてしまいました。社会の中心的なものとなっていた神殿は、強盗の巣となっていたのです。けれども、これは仕方のない事のように思います。律法学者や祭司長の責任だけではありません。彼らを含めた人間すべてに罪があるのですから、こうなってしまうのです。私たちも同じです。「神さま、イエスさま」と言いながら、結局、自分の欲望を満たしてくれる、自分の好きな、自分好みのイエスさまを作り上げてしまう事があるように思います。  

このように、自らの罪から逃れることの出来ない私たちを救うために、神さまはこの世に、独り子であるイエスさまを送ってくださいました。そして、その独り子であるイエスさまが、私たち罪人を愛してくださり、私たちの救いのために、ご自分を低くして、仕えくださいました。イエスさまが、わたしたちへの愛と献身と奉仕に生き抜いてくださり、私たちがイエスさまに繋がる事が出来るように招き入れてくださいました。そして、わたしの方を見なさいと言ってくださったのです。

 

この真の救い主を、彼女は見ていたのでした。そして、その救い主の愛に応えて、イエスさまを愛し、その身を献げ、仕えたのでした。それがつたない、欠けの多い、不十分なものであることは、彼女自身が分かっていたはずです。しかし、彼女は、自分の出来る全てをイエスさまの前に投げだしたのでした。そして、そのことをイエスさまは「良い」「うつくしい」と受け止めてくださったのでした。結果として、それは死体に塗る防腐剤の油の役割を果たすことになりました。イエスさまが、「埋葬の準備をしてくれた」とおっしゃったのは、そういう意味です。イエスさまは、私たちの救い主「キリスト」であってくれます。どれほど、欠けの多い、不十分な人間であっても、イエスさまが十字架にかかって死んでくださることによって、私たちに救いを与えてくださいます。そして、私たちがイエスさまを愛しこの身を献げる時、それをご自分の救いの御業と結び付け、救いへの応答として喜んで受け止めてくださいます。

 

だからイエスさまはこのようにおっしゃいます。「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」。宣べ伝えられる福音とは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉です。この福音の言葉が宣べ伝えられる所で、彼女のしたことはセットとしてどこでも語られるということです。「うつくしきもの」が見えなくなった世の中では、ひょっとすると奉仕の出来、不出来が問題になるかもしれません。祈りの、長さや内容が問題になるかもしれません。しかし、イエスさまは、その人が献身の印として献金を献げているか、神さまに向かって、成せる全ての業を献げているかを見てくださっています。十字架の死に至るまで、私たちに仕えてくださったイエスさまは、私たちがその恵みに感謝して心からイエスさまに仕えていくことを喜んでくださいます。イエスさまが、「神の国」を完成させてくださるので、私たちはそれに用いられたいと思います。来週は、イエスさまが「うつくしきもの」が見えなくなったこの世に、希望の光となって来てくださったクリスマスです。「うつくしきもの」を見るための「うつくしい方」が与えられるのです。私たちは、この救い主である、イエスさまを愛し、薄暗い自らの罪を悔い改め、この身を全てお献げする時に、すべてを新たにされます。新しい永遠の命をいただき、神の国を目指すものとされます。私たちは、すべてを献げても、そんなに立派な者ではないかもしれません。しかし、ご自身の命までも私たちに与えてくださった、キリストであられるイエスさまが、私たち自身を主の恵みの記念としてくださいます。罪から逃れられない、うつくしくない私たちを、「うつくしきもの」として、福音の中に入れてくださるのです。ナルドの香油の女のように、このことを感謝し、賛美し、全てをお献げしたいのです。そして、このイエスさまを証し続ける教会となりたいのです。