喜べ

2021/11/28 待降節第二主日礼拝 ルカによる福音書12638 「喜べ」

                                          牧師 上田文

 

二年ほど前の事です。娘が聖句カードをプレゼントされました。そのカードには、跪いて祈るマリアの絵と、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」という聖句が書かれていました。この文章だけを読んだ時、娘を育てている母として、私はこの言葉にとても葛藤を覚えました。なぜなら、この言葉には従属的に生きる事を強いられた古い女性観が混じっているように思えたからです。そして、その言葉が書かれた聖句カードをプレゼントされるということは、そのように生きる事を願っている人がいるという風にも思えたからでした。しかし、この聖句の前後を読めばそうではない事が分かります。今日の聖書箇所は、神さまは決してマリアに従属的に生きる事を強いていない事を教えてくれます。むしろ、彼女は神さまのみ言葉を正面から受け止め、真っすぐに信仰を言い表し、身も心も捧げる事が出来た力強い女性として描かれています。アドベントの第二週に入りました。私たちは、この力強いマリアの姿を通して、イエスさまのご誕生をどのようにお待ちし、お迎えすることが出来るのかを共に考えたいと思います。

 

 本日の箇所はイエスさまの母となったマリアに、天使が「あなたは救い主の母になる」と告げた、「受胎告知」の場面です。聖書には「六か月目に」とあります。これは、今日の聖書箇所の少しまえ24節に「エリザベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた」とありますので、その次の六か月目ということです。エリザベトは洗礼者ヨハネの母です。洗礼者ヨハネの父は祭司であるザカリアでした。この祭司ザカリアにも、マリアと同じように、今日の聖書箇所に出てくる天使ガブリエルがヨハネの誕生を告げたと記されています。イエスさまの誕生とヨハネの誕生は、このガブリエルによって繋がれています。イエスさまがお生まれになる前から、ヨハネの出来事がイエスさまの出来事の備えとしてあったという事を天使ガブリエルが表しています。だからでしょうか、天使のお告げを聞いた、ザカリアとマリアの反応もとても良く似ています。天使は、ザカリアにもマリアにも「恐れることはない」と声をかけ、そして子供の誕生を告げます。そしてそれに対して、ザカリアは「何によって、わたしはそれを知ることができるでしょうか」と語り、またマリアは「どうして、そのようなことがありえましょう」と聞くのです。天使はそれに対して「神の御心は、実現する。神に出来ない事は何もない」と言います。聖書は、このように二つの物語で同じ言葉を重ねることによって、神さまが着々とその救いのご計画を実現していかれた事を語るのです。

 

 マリアは、イエスさまを生む母として神さまに選ばれました。彼女は、ヨセフという人のいいなずけであったと言います。当時の女性は、だいたい14歳くらいで、親の意志によって婚約をしたと言います。マリアは、今日でいうとまだ中学2年生くらいの少女です。また、彼女はナザレというガリラヤの田舎町に住んでいたともあります。マリアは何の変哲もない、家柄がいいわけでもない、どこにでもいるような娘でした。しかし、神さまは、この何も特別な所がない普通の娘を、救い主であるイエスさまの母としてお選びになり、用いられたのでした。神さまのご計画は、人間の思いや常識を超えた仕方で実現されていくことが分ります。このことは、私は神さまとは関係がないだとか、神さまと結ばれた私は安定した暮らしが出来るといった、人間の思いとは全く関係のないところで、神さまは、私たち全ての人間をそのご計画に巻き込んで、進んでいかれるという事を教えてくれます。

 

 また、マリアのいいなずけであるヨセフは「ダビデ家」の人であったとあります。そのために、この話の後で彼らは住民登録をするために、ダビデ王が生まれたユダヤのベツレヘムに旅をする事になるのです。マリアがダビデ家のヨセフのいいなずけであるというのは、とても大切な事として聖書に記録されています。天使ガブリエルは、このように告げました。「神である主は、生まれてくる子に父ダビデの王座をくださる」(32)。また、ザカリアもイエスさまの誕生を預言する賛美の中で「主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」と言います。そして、羊飼いにあらわれた天使は、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げるのです。これは、救い主がダビデの子孫に生まれるという預言が旧約聖書にあるからです。この約束された祝福の源として、イエスさまが「アブラハムの子孫」であり、「ダビデの子」として生まれてくださいました。ヨセフがダビデの子孫であるという事は、マリアがこの預言の成就のために神さまに選ばれ、世界を大きく変えるような出来事に関わりを持たされるようになった事を表しています。そのこともまた、神さまのご計画の一つでした。神さまは、マリアが選ばれるもう何年も前から、この恵みのご計画を進めておられ、そのご計画の中で、マリアが選ばれたのでした。これは、私たちにも同じことが言えます。私たちは、何か特別な事があるわけではなく、至って平凡な人間です。しかし、神さまが私たちの知るよりももっと前から、私たちの事を知っていてくださり、そのご計画の中で招いてくださり、私たちはこの教会に集められました。それは、神さまがご自身のご計画をこの世で表すため、私たちが用いられ実現させるためです。

 

 マリアの受胎告知へと話を進めたいと思います。天使はマリアのところに来て「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と語りかけたとあります。有名な「アヴェ・マリア」という歌がありますが、この「アヴェ・マリア」というのは「おめでとう、マリア」という意味です。つまり、天使のお告げの言葉を表しているのです。また、この「おめでとう」は「喜べ」とも訳すことが出来ます。しかし、突然「おめでとう」と言われたマリアは、何の事か分かりません。マリアは「この言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」(29)とあります。この「戸惑った」という言葉は、「不安になった」「恐れた」と言い換える事ができます。聖書の前の方12節には、祭司ザカリアが主の天使を見て「不安になり、恐怖の念に襲われた」(12)とあります。これと同じ不安と恐れがマリアにあったのです。さらに、マリアは「考え込んだ」ともあります。じっくり考えたという事ではありません。むしろ、考えもしないような大きな波が打ち寄せ、もがき苦しみ、頭がクラクラして立っても居られないような状態であったのです。神さまや、そのみ使いに直面する時、私たちはこのような状態になるのです。今まで、ずっと私たちを見て下さっていた神さまの存在に気づくからかも知れません。いきなり、自分の全てを知っている人が表れるからかも知れません。突然、丸裸にされ、今までの人生を一瞬にして知られるような恥ずかしさがあるからかも知れません。このように、私たちが神さまに出会う時、考えもしなかった、自らの思いや弱さを自覚し、居ても立ってもいられなくなるなるのです。「戸惑い」「不安になる」のです。しかし、神さまは、この場面では神さまのみ使いである天使は、「恐れることはない」と言ってくださいます。神さまは、あなたを恵みの救いの中に招いてくださっているのだ。神さまの救いのご計画の中に入れようとしてくださっているのだ。だから恐れる事はないと、語りかけてくださいます。このように言われなければ、私たちは神さまの御前に立って、み言葉を聞く事はとても出来ないのです。

 

 天使は戸惑い、考え込んでいるマリアにさらにこのように伝えます。「あなたは身ごもって男の子を生むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人となり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」。生まれてくる子は、「いと高き神の子」である。また、彼には、父ダビデの王座が与えられる。つまり、おなかの子こそ、旧約聖書で約束されたダビデ王の子孫として生まれる救い主であるというのです。また、「永遠にヤコブの家を治める」というのは、「ヤコブの家」とは、神の民イスラエルのことです。イエスさまに治められるヤコブの家とは、イエスさまの救いにあずかる者たちの群れである教会のことです。つまり、天使は、イエスさまは教会を永遠に治め、その民に永遠の命を与えてくださる。この救い主が、生まれてくると告げたのでした。私たちは、イエスさまの事を聖書を通してある程度知っています。しかし、マリアは平凡なユダヤの家庭で育った娘です。イエスさまの事は、まだ何もしりません。そのようなマリアにとって、天使の言葉は理解の範疇を超える言葉であったことと思います。

 

 このお告げに対するマリアの反応はこうでした。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。この言葉は、ザカリアの言葉と重なります。ザカリアは天使に言います「何によって、わたしはそれを知ることができるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。ザカリアは、自分も妻も年を取っているから子どもが生まれることなど、もうあり得ないと否定したのでした。また、マリアも自分はまだヨセフと一緒になってないから、その自分が身ごもって子を生むことなど有り得ないと否定しているように聞こえます。ザカリアもマリアも、神さまのお告げに対して「あり得ない」と思ったのでした。ところが、天使の反応は、ザカリアとマリアとでは少し違いがありました。ザカリアに対して天使は、神のみ言葉を信じなかったあなたは、その事が実現するまで口が利けなくなると告げ、マリアに対しては、彼女の疑問に答えて、彼女に何が起こるのかを説明したとあります。どうしてかと思います。二人は同じように、神さまの言葉に対して「あり得ない」と思ったのに、ザカリアは口を利けなくされ、マリアは優しく対応してもらったかのように考えてしまいます。しかし、ザカリアとマリアの答えは、違ったものであったようにも考えられます。ザカリアは、年をとった自分たちからは、子どもは生まれないという確信を持って「何によって、わたしはそれを知ることが出来るでしょうか」と問うたのです。つまり、「証拠をみせてみろ」と言ったことになります。そこで、天使は「信じなかった」と言い、ザカリアに証拠を与えるために口を利けなくしたと言えます。それに対して、マリアが言った「どうして、そのようなことがありえましょう。わたしは男を知りませんのに」という言葉には、男を知らない女から子どもが生まれるのは、どうしてですか。どのようにすれば可能になるのですかと、天使に男を知らない自分が身ごもる事が可能になる方法を問い返したと言ってもよいかもしれません。マリアは、激しい戸惑いの中で、聞いたこともない、新しい葡萄酒のような天使のみ言葉を、突き返したり、否定したりするのではなく、受け止めようとしたのでした。そして、新しい葡萄酒を革袋に入れるためには、どうしたらよいのか。どうしたら、この戸惑いを乗り越える事が出来るのかを、天使に聞いたのでした。

 

そのため、天使は、35節にあるように「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と、詳しく説明しました。聖霊がマリアに降り注ぎ、イエスさまがマリアに宿るのです。それは、マリア自身が聖霊に包まれ、神さまの物とされるという事を意味しています。マリアは、聖霊を受けて、今までとは違った、全く新しい命を生きる者とされるという事です。そして、マリアが聖霊に包まれ、神さまに頂いた新しい命を生きる者とされるとき、はじめてイエスさまの救いの計画が動き始めるのです。

  36節にもまた、神さまの力を具体的に教える天使の慈しみと思いやりの言葉を読み取る事ができます。「あなたの親類のエリザベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われたのに、もう六か月になっている」と天使は告げます。ここには、一つの言葉が隠されています。「見てごらん」という言葉です。エリザベトとマリアは親戚でした。そのため、エリザベトが子どもを授からないままに年をとっていることをマリアは知っていました。しかし、そのエリザベトが身ごもって、もう六か月になっている。神さまの計画は必ず実現するのだと、天使は、マリアに目に見える印を示しているのです。神さまは、マリアのために、そして救い主が生まれるというご計画を実現するために、すでに、エリザベトという存在を準備してくださっていたのでした。そして、5か月間も身を隠していたエリザベトは、マリアに神さまの力を教えるために既に用いられていたのでした。このような天使の説明を聞いたマリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(38)と答えます。ここにもまた「見よ!」という言葉が隠されています。マリアは、「見て下さい。ご覧ください。わたしは主のはしためとして生きて行きます。お言葉通りこの身になりますように」と言ったことになります。何故このような言葉が言えたかというと、マリアは自らが、神の計画に入れられている事を責任感を持って受け入れたからです。彼女は、「見よ」と言われた神さまのご計画を見つめ、天使の「神にできないことは何一つない」という言葉が真の言葉である事と信頼したのでした。それは、神さまを信じたら、あんな事をしてくれる、こんな事をしてくれるといったものではありません。また、神さまはこんなことが本当にできるのかと疑いながら、何かが実現される度に、少しずつ神さまを信じるようなものでもありません。マリアは、語られたみ言葉が必ず実現されるという事を信頼して、むしろ、その神さまのご計画のために選ばれた者として、力強く「そうなりますように」と答えたのでした。「お言葉通りこの身になりますように」というマリアの言葉は、天使が語った言葉を正面から受けて立つ信仰の意志表明であったとも言えます。神さまのご計画とは、生まれてくる子がイエスと名付けられ、救い主となり、神の救いにあずかる民を永遠に治めてくださるという恵みの計画です。しかし、この計画はマリアにとって、優しいものではありません。まだ結婚していない身でありながら、子を宿し、その子を家畜小屋で産み、せっかく育てた子を最後には、十字架で死なせることになるのです。けれども、天使は、この神さまのご計画が「喜びなさい」「おめでとう」というような出来事となると言います。マリアは、具体的にどのような事が起こるのかは、分かっていなかったと思います。しかし、この神さまのご計画は必ず喜びになる、マリアはそのことを信じて、自分の身体を神さまにゆだねていくという決断をしたのです。神さまのご計画の中に飛び込んで行ったのです。マリアの言葉には、悲壮感が感じられません。むしろ、神さまに身を委ねた安心感さえあるように思います。

 

また、この言葉は祈りの言葉のようにも聞こえます。神さまのみ言葉が自分の身に実現する事を祈るのです。「私にはまだわかりませんが、そのことが『喜ばしい計画』となるとおっしゃるあなたの言葉を信じます。そのご計画が実現しますようにと、祈るのです。マリアは、必ず実現される神さまのご計画とその御業を信じて、祈り、待っているのです。

マリアのこの祈りは、私たち信仰者の祈りでもあります。教会を立ててくださったイエスさまは、ペンテコステの出来事の前に使徒たちにこのように話されました。「私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」(使徒1:4,5)。また、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)。この神さまが約束されたもの、つまり聖霊を待ち望んで、使徒たちは祈っていました。聖霊が自分たちに与えられ、イエスさまの証人となるとおしゃった、その言葉が実現すると信じ、待ち望んで祈っていたのです。しかし、それは聖霊の力によらなければ自分たちはイエスさまの証人になれないという事を知っていたからだとも言えます。使徒たちには、イエスさまを見捨てて逃げてしまったという大きな挫折がありました。彼らは、自分の取り返しのつかない罪に完全に打ちのめされていました。しかし、そのような自分たちに力が与えられるのだというのです。イエスさまを知らないと言い、裏切った自分たちがイエスさまの証人とされるのだというのです。彼らはその事を信じて祈っていました。だからこそ、そこに聖霊が降り注いだのです。聖霊を待ち望むその群れに、まさに聖霊が降り注ぎ、イエスさまを証しする者の群れである教会が立てられました。私たちは、その教会に連なる者です。それは、マリアのように平凡で、使徒たちのように日々イエスさまの恵みのみ言葉を忘れ裏切り続けるような私たちが、聖霊によって証人とされているという事です。私たちは、教会で祈ることによって、今も聖霊の働きを祈っています。聖霊の働きによって、神さまの「喜ばしい計画」が、実現しますように。このような私たちですが、イエスさまの証人とされるその御心がなされますように、と祈りつづけているのです。

 

クリスマスの出来事。それは、イエスさまを身にも心にも迎え入れる最初の信仰者の誕生の出来事です。このことは、今まで作り上げてきた革袋を破られてしまうように、自分の全てをイエスさまに明け渡すという、とても苦しい出来事でもあります。自らの取り返しのつかない罪を知り、完全に打ちのめされる、そのような出来事です。しかし、この壮絶な出来事を起こされるイエスさまは、私たちの罪をすべて背負って十字架に架かって死なれ、復活してくださり、私たちに罪の赦しと永遠の命の希望を与えてくださいました。そして、「神にできないことは何一つない」と、恵みの救いの計画を実現しつづけてくださっています。私たちの信仰生活は、戸惑い、恐れ、考え込んでしまうような事の連続です。しかし、必ず聖霊が降り注ぎ新しくされる時が来ます。教会は、聖霊の働いて下さるところだからです。私たちは、聖霊が降り注がれ、それを受け入れるたびに「おめでとう。主が共におられる」という言葉を新たに聞く事ができます。古い革袋が裂かれ、常に新しい革袋とされるのです。そして、新しい葡萄酒が入れられるように、「できないことはない」とおっしゃる神さまのみ言葉が、いつも私たちに新しく与えられるのです。全てを治めてくださる神さまに対して、「ご覧ください。お言葉どおりこの身に成りますように」と、信仰を言い表し、お答えしたいのです。そして、神さまの恵みのみ言葉の実現のために、心も体も、人生もすべてを捧げる者になりたいのです。