待つという楽しみ

2021/11/21 待降節第一主日礼拝 黙示録31422 

待つという楽しみ(到来と再臨を覚える)                  牧師 上田彰

 

 *待つという楽しみ

 待つということは楽しいことです。待つというからには、現時点では手元には楽しみがまだない、ということです。楽しみが既に実現しているわけではないのです。しかし、そうであるにも関わらず、待つということそのものが楽しい。信仰者である私たちは、いつかどこかで、そんな経験をしています。

 コロナの騒ぎが始まってから、牧師達の間で様々なレベルの情報交換がなされるようになりました。衛生対策は一体どこまで徹底したらいいのか。外国の教会の感染対策を翻訳している人はいないのか。礼拝を続けた場合に行政から指導が入る法的な根拠は存在するのか。聖餐は。

 そのような情報交換は、いつしか意見交換となりました。ある仲間の牧師が言います。聖餐式を行えないということは、危機的だ。もちろん、聖餐をしないからといって即座に教会が教会でなくなるとか、聖餐式をしなかった翌月から信仰が一瞬にして失われるとか、そんなことはない。なぜなら聖餐に対する「憧れ」はそんなに簡単に消えたりはしないからだ。しかし聖餐をしないままで憧れだけでやっていくというのは難しい。しないことに皆が慣れてしまいマンネリになったら、本当に信仰の危機になる。

 情報交換で始まった牧師達のやりとりは、いつしか意見交換となり、そしていつしか祈りとなっていきました。それらのやりとりの中で印象深いのが、「憧れ」という言葉です。今手元にない、実現していない楽しみが、しかし憧れという形で心の内に宿る。先の見えない不安に陥っていないといえば嘘になります。ましてや私たちは礼拝と聖餐をぎりぎりまでやめないという決断をしました。そのことがどんな展開を生むのか、最初の時点では誰にも分からなかったのです。しかし、かの牧師が言った、「礼拝と聖餐への憧れ」というのは、暗闇の中にぽつんと見える一筋の光のように感じました。私たちの教会は聖餐を結局やめることなく行い続けました。一時やめるという決断をせざるを得なかった教会とは異なると考えることも出来るかも知れません。しかしその一方で、同じ点もあります。それは、聖餐とはそもそもイエス様が再び地上においでになったときに、また同じように食卓を囲むことになるだろうという、終わりの日における再会の希望をかたどったものであり、そうである以上、聖餐を守り続けた私たちもまた、主イエスキリストにお会いできるという期待、そして憧れを持ち続ける立場にある、ということなのです。

 

 *待降節第一主日の主題の意味

 待降節、アドヴェント第一主日を迎えました。アドヴェントとは、到来するということです。イエス様がこの世に到来するということです。イエス様が赤子としておいでになった二〇〇〇年前を思い起こし、そしてイエス様が再びこの世においでになる終わりの日を期待するのが、今日与えられた主題、「到来と再臨を覚える」ということです。この主題は、アドヴェントは四回ありますが、それぞれに対して割り振られている主題です。過ぐる主日は教会の暦では年の終わりである「終末主日」でした。この日私たちは特別伝道礼拝を守りました。準備をよく行いました。いわゆる成果という意味では、満足は出来なかったかも知れません。しかし、求道者が与えられるようにという祈りや願いを持つ機会が必要だということに気づかされたことは、大きな収穫であったと思います。毎年秋に行う伝道礼拝に求道者がいなくても驚きや悔い改めも持たなくなっていた時期はないでしょうか。求道者が与えられるという期待を持つことの意味と意義を感じたという意味で、この特別伝道礼拝を教会の歴史の中でターニングポイント、転換点と呼ぶことが出来るのではないかと思います。終末主日に、変化への期待を覚えることが出来ることは、幸いなことです。

 到来と再臨を覚えるという主題と共に与えられている聖書箇所は、黙示録です。終わりの時に向かって歩む教会がどのようなものでなければならないのか、ラオディキア教会の信仰者達の実情と、そしてヨハネを通じてイエス様がなさったアドヴァイスに耳を傾けてみたいと思います。

 

 *ラオディキア教会、豊かだけれども貧しい教会

 ラオディキアというのは、私たちの聖書の巻末にある地図で言いますと、8番の地図にあるいくつかの地名と関係しています。エフェソとかティアティラの近くにある町です。黙示録の記者であるヨハネは、今でいうトルコあたりの、小アジアの諸教会に関係していました。今でいうと地区長のような存在です。関係していた教会は7つで、その内の一つがラオディキア教会です。ラオディキア自身は商売や商業の重要な拠点地で、今でいう銀行があったことと、羊毛の産地でした。因みに「黒い羊毛」というので有名だったそうです。そして医者になるための医学校がありました。火山が近くにあり、降り注ぎ、降り積もる灰を使って調合される目薬もまた有名でした。

 産業が豊かであることは、普通に考えて悪いことではありません。しかしその一方で、世の中お金が全てという誤解に陥りやすいことも事実です。そのような誤解に陥るのがもしも教会であるとしたら、その教会はどうなってしまうのでしょうか。

 世の中お金が全てというのは、誤解です。なぜならば、お金が持っている力には限りがあって、お金によって動かすことの出来ないものも世の中には沢山あるのですが、お金が全てと考える誤解に陥ってしまうと、お金で動かないものが目に入らなくなってしまうのです。全ての価値をお金に置き換える生活が味気ないものであることは、言うまでもありません。何よりも、お金は、あると守りに入ってしまいます。まだ手に入っていないものに対する憧れを失い、マンネリ化してしまうことが信仰にまで及んでしまったら、教会は危機に陥ります。

 まさにそのような意味で今日の15節では次のように書かれているのです。「あなたは(つまりラオディキア教会は)、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたし(つまりイエス様)はあなたを口から吐き出そうとしている」。恐らく実際にこの教会は裕福な教会だったのでしょう。何の疑いもなく次のように言ってのけていたのです。「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」、と。もしかすると、今でいういわゆる「成功を重んじるタイプ」のキリスト教に陥っていたのかも知れません。祈って信じれば神様の祝福を受けてお金持ちになることが出来る、という風に説くタイプのキリスト教というものがあるのです。ラオディキア教会は実際に多くのお金を与えられていたために、成功を強調するタイプの信仰から抜け出すことが出来なかった。お金があって満ち足りている現状を疑う余地が無かったのです。

 かつてイエス様の元に、永遠の命を手に入れるすべを尋ねに来た青年がいます。若くして議員になった有力者で、律法をよく守るこの人に対してイエス様はじっと視線を送った上でこうおっしゃいました。「今ある財産を全て貧しい人に施して、私に従いなさい」。彼は悲しみながら立ち去ります。財産を多く持っていたからです。それを貧しい人に施すことは、あたかもお金を捨ててしまうことだという錯覚から、どうしても抜けきることが出来ず、そのためにイエス様の命令に結果として従えなかったのです。

 そのような男性を思い出させるのがラオディキア教会です。彼らに対して向けられる言葉はこうです。「あなたは自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」。裕福な者に対して、裕福な教会に対して、「惨めで哀れで貧しくて目が見えない裸の者」と言葉を向けるのです。福音書の事例も、今日の事例も、考えてみると一つの点が共通しています。それは、イエス様がそうおっしゃっている、ということです。客観的に見て誰から見ても青年議員やラオディキア教会が貧しかったわけではありません。しかし心の貧しさを見てとったお方がおられたのです。金持ちに対して「貧しい者よ」と言い切って呼びかけ、断言して愛のまなざしを送ることは、ただイエス様によってだけ、可能なのかも知れません。

 

 *貧しさへの憧れの系譜、その対立

 憧れを持つことは、心を豊かにします。何かを待つことによって、人は豊かに生きることが出来るようになるのです。このことをどのように徹底することが出来るか、初期・古代のキリスト教は考えました。そして得た一つの結論があります。それは、街の中の人が集まりやすいところに教会を建てるのと同時に、山の奥の人が集まらないところに修道院を建てる、というものです。お金によって回る社会、つまり人間が生活を営む町を完全に否定することはありませんが、しかしお金によって回る社会以外の価値観が重要だと考え、お金を使わずに生きる修道院を建てたのです。自給自足で生きる素朴な共同体を通じて、貧しさを経験し、貧しさの中で主イエスへの憧れを強くした者だけが司祭として町にある教会に送り出されるという仕組みが出来上がったのです。

 今日の箇所は、そのような修道院生活を彷彿とさせるような言葉遣いが見出されます。18節によると、火で精錬された金、白い衣、目薬をイエス様から買うべきだと勧められています。ラオディキアには大きな銀行、羊毛産業、それに目薬屋があったわけですが、裕福になるためにはイエス様から金を買うべきだと言われます。よく読むと味わいのある言い方です。ある解釈者が指摘しています。いわく、「これは、金を買うと値上がりするとか、そういう話ではない。お金がないと金は買えないが、お金があったからと言って金を買っても金持ちになるわけではない。これは、『私から』、つまりイエス・キリストから買う、ということだけを言いたい文章である」。そこで気づかされるのです。白い衣を買うというのも、やはり買う相手はイエス様です。ラオディキア名産の羊毛は黒いことで有名でした。デナリオン銀貨を出して買うことが出来る服は、黒いのです。しかし信仰によって買うことが出来る服は、白いというのです。そして目薬を買う目的は何か。はっきりと見てとらなければならないものがあるのです。それはお金で買えない現実があるという事実であり、そして何よりイエスキリストを見るために、目が開いていないとならないのです。

 修道院の伝統に立つ教会は、そこでこう主張するのです:火で、つまり聖霊によって精錬された金をイエス様から買うために、またお店で買える黒い衣ではなくイエス様からしか受け取ることが出来ない白い衣を手に入れるために、そしてイエス・キリストの愛のまなざしを見逃さない目の健康を得るために、私たちカトリックは、修道院を建てるのだ。ところがプロテスタントには修道院がない。プロテスタントは、世俗のお金という価値観に余りに左右されてはいないだろうか。プロテスタントの牧師は、平信徒と同じように世俗的な生活を送り、なんと結婚している上に、自分名義の銀行口座やクレジットカードを持っているというではないか。聖職者でありながら家族がいて貯金までしているということは、なんと堕落した生活を送っていることなのか。家族がいる平信徒と、家族を持たない聖職者とは、信仰的なステータスが違うのだから、きちんと線を引いて私たちのように修道院を持ちなさい…。

 今日は本当はカトリックとプロテスタントの対立というか対話についてお話をするつもりは元々はなかったのです。そういう事は宗教改革記念日に十分説教でお話をしたつもりです。しかしあえて修道院の伝統、憧れを持つ貧しい生活に対するルター的な考え方を今ご紹介することには意味があるかも知れません。ルターの宗教改革の原則はご存じの通り、聖書のみ、信仰のみ、そして万人祭司、です。そのうち三つ目の万人祭司ということを、ルターはかなり大胆に実践します。それはカトリックの男子修道院に入っていたルターは、隣にあった女子修道院のメンバーであったカタリーナと結婚し、家庭を築くのです。その意味は、こうです:修道院の外の生活の場が修道院の中と同じように信仰的でなければならないのだ。考えてみれば、あなた方カトリックは修道院に入るときに、誓いを立てることになっているというが、つまり今後お金は持たないということと結婚はしないということを誓ってから修道院に入ることが許されるのだが、それはお金なしに、家庭なしに営むことが出来る生活空間を人工的に作っているだけではないか。それ以外の場所は信仰的でなくても良い、ただ修道院の中だけは清く正しいものにしようというのは、一種の欺瞞ではないか。そこで私ルターは、あるいはルター以来の伝統を受け継ぐ私たちは、修道院の外においても信仰的で聖なる生活を行い、イエス・キリストに対する憧れを持ち続けることが出来る、そう考えているのだ…。後に「世俗内禁欲」と呼ばれるようになるこの考え方によって、プロテスタントの私たちは、カトリックの彼らよりもより厳しい修行を自らに課していると言えるかもしれません。この世俗内禁欲に参加しているプロテスタントでは、牧師ばかりではなく、万人祭司の原則によって、全ての信仰者が修道院に入らないで貧しさを受け入れなければならないことになるからです。すべての人が、かつて金持ちの青年議員に対してイエス様がかけて下さった言葉をかけられることになるからです。

 

 *「戸口に立つイエス」

 20節には、19世紀のイギリスの画家、ウィリアム・ハントの絵によって有名になった構図が描かれています。「世の光」という作品名よりも、「戸口に立つイエス」、というタイトルで有名です。この絵は、外側にはドアの取っ手、ノブがありません。中から開けないとならないのです。つまりこの画家が強調したのは、イエス様が戸をたたいても、中から人が開けなければイエス様は中には入れないのだ、だから扉を開けましょうということです。それは間違ったメッセージではありません。しかし今日の聖書箇所が強調していることとの関連で申しますと、この絵のシーンで重要なのは、イエス様の側の戸に取っ手がないということではなくて、イエス様が戸をたたいて下さっている、ということなのです。イエス様はなぜ戸をたたくのでしょうか。それは、中にいる私たちとともに食事をして下さるためです。古来、ここでいう食事というのは聖餐のことであると考えられて参りました。主イエスが再び私たちの所においでになったときに、最後の晩餐と同じように食卓を囲む。その時がやがて来るのを憧れながら私たちは毎回の聖餐でパンと杯をいただいています。

 

 

 待つということは楽しいことです。主イエスがおいでになることを期待をし、憧れを持ち続けることは、心と生活を豊かにします。