私たちの献身と宗教改革

2021/10/31() 終末前々主日(宗教改革記念日・神学校日)

私たちの献身と宗教改革 

使徒言行録2113 使徒言行録説教第四回 説教者 牧師 上田彰

 

*教会の三大祭の起源、クリスマスの場合

 かつてクリスマスは、異教の祭りでした。少し語弊のある言い方かも知れません。正確にいうならば、1225日は、ローマではミトラ教という、太陽を崇拝する宗教の祭りの日だったのです。冬の、最も太陽が射さない冬至の時期に、人々の心が最も塞ぎ込む時期に、太陽の神様を祝う祭りをしていたようなのです。そこへ、4世紀になってそれまでは秘密の地下宗教であったキリスト教が、つまりそれまでは自分が信者だと公に分かると捕まってしまうという地下組織であったキリスト教が、堂々と信仰してよい宗教へと変わりました。ローマ社会の中で大きな潮目の変化があったのです。

 その際に、今までどうしても明らかにしきっていなかった事柄をいくつか、会議の中で決めることになりました。その時に、意外なことにまだクリスマスの日付が決まっていなかったので、決めることになりました。聖書を見ると、羊飼いが原っぱで野宿をしているという話が出て参りますから、本来真冬ということはあまり考えにくいのです。しかし、最終的に、1225日がクリスマスだというのが最も自然だという結論に落ち着きました。つまり、心に太陽が必要な時期に、キリスト教は主イエスが生まれたのだ、と考えるわけです。そうして、ミトラ教という別の宗教の祭りを換骨奪胎し、悪い言葉でいえば乗っ取ってしまって、1225日はキリスト教の救い主の誕生日として祝われるようになったのです。その後さらにキリスト教は、ゲルマン宗教というさらに別の宗教が祝いのために用いていたモミの木を自分たちの祝いのために用いるようになりました。

 こういった、別々の宗教の祭りの日付、そしてシンボルを用いるようになるのは、時間がかかることですし慎重でなければなりません。安易に地元の宗教をキリスト教が祝って乗っ取ったつもりになっていると、あるいはそこまで言わなくてもその宗教に学びあやかろうとキリスト教の名の下に祝おうとすると、簡単に足下をすくわれる怖れがあります。私は、現在進行形でこの関係で起こっているのが、実は今日祝われているハロウィーンがキリスト教に浸食するのではないかという怖れです。しかしそれは今日の主題ではありません。とにかく、4世紀頃の盛んな力のあるキリスト教は、ミトラ教やゲルマン宗教を取り込むだけの十分な力があり、そしてそのことによって彼らが知らなかった1225日やモミの木の宗教的意味合いの再発見を成し遂げることが出来るようになりました。人々が最も心塞ぐときに心の太陽となるべきお方はイエス・キリストであるし、モミの木は命の力を意味している、だからツリーに使うのにふさわしいとキリスト教は考えており、それらの指し示すところは私たちの救い主だ、ということです。

 日本にも色々な宗教的シンボルがあります。もしも私たちがそれらの身近な宗教的シンボルを借用し、そしてその真の意味をキリスト教的に再発見する力を持っているとしたら、本来は素晴らしいことです。最終的には「日本の再発見」さえ可能かも知れません。そういう実例について心当たりがないわけではないのですが、残念ながらその紹介をしていたら話が全く前に進まないので、そろそろ1225日のキリスト教的再発見の話はおしまいにします。

 

 *イースターの場合

 クリスマスの日付が4世紀まで定かでなかったというのに比べると、イースターの日付はもっと早い時期に確定しています。聖書の中で過越の祭の日が主の十字架の聖金曜日と重なります。(現在の暦でいえば)西暦の3X年の春という風に、計算が可能です。そして実はイースターに欠かせないシンボルの中で、例えば卵などはゲルマン宗教からの借用物なのですが、その話ではなく、過越の祭そのものに少し目を向けてみたいと思います。過越とは、主がエジプトの民に災いを下す際に、イスラエルの民だけはその災いから過ぎ越すことが出来るように、羊を殺してその血を自宅の玄関に塗ったという話から来る祭りです。この祭りはエジプトから脱出した後も、イスラエルの民は大変に重要な出来事を記憶するために祝い続けました。イスラエルの民の家族における信仰の継承の核心は、子どもと共にこの祝いを持つことにありました。意味もわからないままで子どもは目撃するのです。親が羊を屠り、立ったまま食事をし、そして祈りを捧げるのを。やがて成長した子どもたちは自分で親に尋ねるのです。この儀式には一体何の意味があるのですか、と。聖書には、このように子どもたちが聞くようになるまで、一切意味は説明してはならない、と記されています。聞かれたときに初めて親はこの儀式の意味を説明するのです。この儀式は、私たちイスラエルの民族がすんでのところで絶滅するところだったのを神様によって守られて今あるを得ている、その歴史的転換点を記憶し続けるためのものなのだ、それは…というように。このようにして、過越を祝う親の信仰は、子どもたちへと引き継がれていくのです。実に強烈ともいえる形でユダヤ教は、親から子へと信仰の継承を力強く続けて現代に至っています。

 さて、その核心にある過越の祭ですが、新しく登場したキリスト教によって、ユダヤ教内部から発生したキリスト教が、新しい意味を見出そうとしている、これが1世紀の出来事です。最も人がエルサレムに集まる過越の祭の時に、ゴルゴタの丘で十字架にかかった、ナザレのイエスとかいう男を救い主キリストだと信じるのが、一世紀に生まれた通称ユダヤ教ナザレ派の一派です。彼らはもはやユダヤ教の枠組みに留まることは出来ないほどに宗教的生命力にあふれた信仰生活を展開するようになった。そのため、本来ユダヤ教の礼拝の日であった安息日、土曜日から、主の復活の曜日である日曜日に礼拝の曜日を移動させたグループはユダヤ教ではないといって、ユダヤ教の側から街中にあった礼拝堂(シナゴーグ)に立ち入ることを禁止したのでした。そのことをきっかけにユダヤ教ナザレ派は、キリスト教となります。

 その際、過越の意味はキリスト教的に再発見されることになりました。再発見の中心にあるのは、屠られる羊とは誰か、という問いです。パウロは過越に屠られる小羊とは、イエス・キリストのことだと明言し(第一コリント5)、この小羊が血を流すことによって私たちは救われたのだと説くのです。このようにして、過越祭はイースターとして再発見され、再出発することになりました。

 

 *ペンテコステの場合

 さて主はよみがえられてから、40日の間弟子たちと共におられ、そして天に昇られました。弟子たちは使徒という名を以て自らを呼ぶこととし、12番目の使徒も決まりました。では彼らでこれからの伝道戦略を立てて意気揚々と伝道に出かけた、という風になるかと思ったら、すぐにそうはならず、まだ内に閉じこもる期間が必要でした。ただじっとひっそりしていた、という訳ではありません。ある意味では、その時まで失敗続きのおっちょこちょいたちの集まりであった弟子たちは、この十日間くらいの間にある出来事を通じて目に見えない仕方で大きく成長するのです。それは、祈ることでした。エルサレムに構えていた、彼らの根城の二階の部屋で祈り続けたのです。祈るということは、待つということです。なにかが起こるために待ち構え続けること、それはたやすいことではありません。何かが起きると分かって待つのではありません。何かが起きるかも知れないといって待つのです。何も起きないかも知れないけれども待つというわけです。それなら待たない方がましだ、何かしていた方が良いだろうと考えるのが普通かも知れません。しかし彼らは祈っていた。

 私たちは物語を後から知りますから、その待機期間は十日間であり、十日待てば、あの50日目の祭の日に、何かが起きることは分かっていたのではないかと思いたくなります。しかしそうではないのでしょう。いつか、きっと、なにかが起こる。それを祈って待ち続ける。

 

 50日目の祭りの日というのは、過越から数えて50日目、ということです。ちょうどこの時期に、小麦の初穂が取れるのです。言ってみれば春の収穫祭といったところでしょうか。人々は断食をしてこの日を祝う習慣がありました。特別な日であることには違いありません。しかしお気づきのように、この祭りは必ずしも聖書の宗教独特のものとは言えません。他の宗教でも同じ日に祝うことが出来てしまいます。そこで、純粋に春の収穫感謝祭であった祭りを、聖書の宗教(ここではユダヤ教)が換骨奪胎し、言葉は悪いのですが乗っ取ってしまう出来事が起こる必要があります。それがモーセの律法が人々に伝えられる日でした。過越の祭をもってエジプトを脱出したイスラエルの民は、50日後のこの時期にシナイの荒れ野に到着、ここでモーセを通じて律法を神様から受け取るのです。

 つまりこうです。それまで春の収穫感謝祭は、その祭りの始まりの時期がいつであるかをはっきり示すことなど出来ない、いわば歴史以前から営まれてきた祭りでした。しかしモーセの律法授与は、最も素朴な聖書の記述によれば紀元前1485年(列王記上61、ただしこれは不正確で、歴史的に実際の出エジプト=律法授与は紀元前1230年頃と言われている)となります。年表に祭りが祝われ始める年を記入することが出来ないまま祝い続けていた収穫感謝祭が、モーセを通じて律法が与えられた年から、祝われ直すようになったのです。この時に、「自然」という、名もなき宗教を「ユダヤ教」という名の、聖書の歴史を生きる宗教が換骨奪胎したと言えるかもしれません。

 従って、今日の記事の聖霊降臨の出来事の前身に当たるのは律法を受け取ったことを祝う意味での五旬節の祝いであったということが言えます。このこと自身が、既に何か大事なことを示唆しているのではないでしょうか。旧約聖書の宗教において、決定的な歴史の転換は紀元前1485年(しつこいですが、これは歴史的には正しくない年号です。あくまで現在のユダヤ教徒が公式には信じている年号。ちょうどイエス様の誕生年が2021年前ではないのと同じ)の過越の日です。世界創造の始めから示されていた神様の御心が、年表に刻まれ、律法に刻まれる仕方で明らかになる。よく分からないまま名前も分からない神様を拝むのではなく、私たちの神様はユダヤ教の、正確にいえばヤーウェという名の聖書の神様であり、この神様を拝むことによって私たちの宗教は成り立っているのだ、そのお方が私たちを歴史へと送り出している。これが今から3000年以上前に祝われるようになった、新しい五旬節の祭の意味です。

 そしてそれから1000年経って、新しい五旬節の祭と呼ばれた日は、もう一度決定的な仕方で新しくされるのです。私たちをこの歴史へと送り出してくださった父なる神様が、聖霊なる神様を通じて私たちをお使わし続けて下さる。ただ年表に刻まれ、ただ律法に刻まれる仕方で私たちの宗教は歴史的であるのではなく、心に刻まれる仕方で、しかも聖霊が心に刻む仕方で地上に確かな足跡を残す宗教となるのです。聖霊が弟子たちを派遣し、使わされた者、使徒として下さる。

 

 五旬祭(ペンテコステ)はこのようにして、旧約において一回、新約において決定的な仕方でもう一回新たにされ、福音が新たな仕方で私たちの心に刻まれました。この日使徒たちが語る言葉は、今までとはまるで異なる、人々の心に届くものになったのです。この日使徒たちが語っている言葉を言語学の専門家に分析してもらったとしても、そこで語られているガリラヤなまりのアラム語は、相変わらずガリラヤなまりのままであると判断することでしょう。しかしその言葉は、パルティア出身の人には自分の故郷の言葉のように、メソポタミア出身の人にもまたメソポタミアの言葉で語られているかのように、生き生きと伝わってきたのです。もしペンテコステの現場に私たちが居合わせたとしたら、静岡なまりの言葉で福音が私たちの心に響いてくる、そんなことを想像するのは少し楽しいと思いませんか。

 ある牧師に聞きました。「福音ぼけ」という言葉があるのだそうです。神様の愛は世界の始まりからずっと私たちに降り注ぎ続けています。私たちは余りにもそれが当たり前すぎて、感謝のしようが無いほどです。しかしあるときにその愛に気づいたときに、その時までは他人事として聞いていた言葉が、自分に向けて語られていることに気づく。福音に目覚めるのです。それがペンテコステの出来事だ、というのです。人によって目覚める経緯も違えば目覚めるタイミングも異なるでしょう。しかし、西暦3x年の5月の何日、今でも訪れようとすれば訪れることが出来る、エルサレムの片隅の二階の大広間でという形で、使徒とその周りの者が福音に目覚める日付を具体的に覚えることが出来ることは、意味があるのだと思います。私たちは、クリスマスをあることをきっかけに具体的に日付込みで覚えて祝うようになり、過越祭ならぬイースターを具体的に祝い、ペンテコステを聖霊降臨日という形で再度具体化して祝います。私たちの福音は具体的だからです。

 

 *宗教改革の場合

 私たちの教会は、あるときに決定的な仕方で新しく、そして具体化された教会です。15171031日になってそれ以前には存在していなかった福音主義教会、プロテスタント教会が突然その日生まれた、というわけではありません。やはりそれ以前から目には見えない仕方で存在し続けていたと言った方が良いのでしょう。私たち福音主義教会は、2000年の歴史を持つ教会なのです。しかし15171031日という日付をもって、カレンダーに刻まれる仕方で、そして心に刻まれる仕方で私たちの教会は新しく礼拝を祝う教会となりました。

 因みに、1031日というのは少しだけ過越の祭に似ているかも知れません。111日が今でいう召天者記念礼拝を全国的に行う日で、皆が帰省をするからです。ルターは意図的にこの111日の前日を狙って宗教改革を始めました。具体的に言えばその日にウィッテンベルクの城の教会にいくつかの主張を書いたポスターを貼りだしたのです。それらの主張の冒頭(いわゆる95箇条のテーゼの一つ目)は次のようなものです。

「われわれの主であり、師であるイエス・キリストが、『悔い改めよ』と言われたとき、主は信じる者の全生涯が悔い改めの生涯であることを望みたもうたのである」。

この言葉によって、キリスト教は新しくされたのです。悔い改め、新しくされることを主は望んでおられるのではないかというのが、ルターの、いえ福音からの問いかけです。

 気がつかされることがあります。それは、「悔い改め」というのは献身を伴うということです。私たちが具体的に教会の信仰に生きるときに、私たちはもはや今までと同じ、ありのままの自分が良いのだと開き直ることが出来なくなるからです。漠然と収穫感謝祭としてのペンテコステを祝っていた私たちが、これは律法が与えられエジプト脱出が許されたことを感謝する祭りだと3000年前に気づき、そして2000年前にペンテコステとは結局、福音に具体的に生きることなのだと気づかされる。これを献身と呼ばずに、何を献身と呼ぶことが出来るのでしょうか。

 

 *私たちの教会の場合

 私たちの教会は、現在転換期にあります。今手元に百周年誌がありますが、その年表のページを見ますと、もし今この年表を書き足すとしたら、2019年あたりからの出来事は多すぎて、スペースが足りないほどだと思いました。そのうちのどれか一つを取り上げて、そこが転換点だというのが難しいのではないかと思えるほどです。しかし大事なことが一つあります。それは、私たちはどんな時代においても、自らを誇るのではなく、御言葉を通じて悔い改め続ける教会である、ということです。悔い改めるということは、福音に生きるということはこういうことかと気づかされるということです。聖霊が私たちをこの世に送り出してくださって、私たちはこの世に生きるということがこういうことかということに気づく。気づく前にも生きているのです。しかし、気づいたときに改めて、ああ生きるというのはこういうことかと実感し直す。そんな時がペンテコステの新しい意味だというのです。

 

 その小さな体験を、今日の聖書箇所の最後の所からもう一度確認しておきたいと思います。ペンテコステの出来事を見た多くの人は、驚き、神様の業はこれほど偉大なのかと思ったようです。しかしわずかな人は、驚く代わりに怪しみました。そしてあざけってこう言ったというのです。彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ、と。傍目から見ると酔っ払っているようにしか見えないではないか、という話です。考えようによっては、酔っ払い集団だという悪口ですから、聖書記者はそんな悪口は無視してもよいと思うのです。しかしあえて残しました。それは、この悪口をいう人をもペンテコステの出来事にやがて巻き込むことができるという、聖書記者の確信があったのではないかと思うのです。

 

 考えてみますと、私たちはペンテコステの出来事が起こる前の時点で、なんとなく生きているつもりでいます。その様子は、福音によって目覚めた者からすると、酒に酔っているようなものではないでしょうか。現象として、酒に酔っている者からすると、しらふな者が酒に酔っているように見えるのかも知れません。そして現実という名の酒に酔ってしまっている人に対して福音を語り、福音によって目覚めることを祈り願う。これが伝道のためにこの世に使わされている私たちの使命です。