狭い場所からあえて出発する ――『ノンタンいたいのいたいのとんでけ~』の精神で行こう

2021/10/24 三位一体後第24主日礼拝 使徒言行録説教第三回 

                                   第一章後半 牧師 上田彰

「狭い場所からあえて出発する

              ――『ノンタンいたいのいたいのとんでけ~』の精神で行こう」

 

 *「捨てたいものがある」話

 原発事故が起こったのは今からおよそ10年前のことでした。当時ドイツにいた者として、気が気では無い思いをしていたことを思い出します。あの時から私たち人類は進歩をし、その時に持っていた心配は本当にもう持たなくて良いものになったのか、今日の聖書箇所を読みながら改めて考えさせられました。それは、核のゴミと言われる、高レベル放射性廃棄物は、本当に私たちにとって手に負えるものなのか、処分しきれるものなのか、という問題です。近づけば人間が20秒で死んでしまうというような高レベルの放射能を含む物質を、ガラスで固めて地下200kmに貯蔵する。そういった核のゴミをどこかにためておくことが出来るのか。政府は、自分たちのところで蓄えても良いと名乗りを上げる自治体を探し始めています。

 捨てるに捨てきれないゴミを人間が出し続けている。安全なレベルに落ち着くのに10万年かかるものを、どこかが預からなければならない。これは実は放射性廃棄物のことには留まりません。端的にそのことを示す例を、聖書の「銀貨30枚を巡るエピソード」からまずはご紹介してみたいと思います。

 

 *マタイ福音書から思い起こす「銀貨30枚」の行方

 マタイ福音書の証言です。十字架に主がかかる直前の時期に、弟子の一人であったイスカリオテのユダは、大祭司の館に入り込みます。その館の中には、イエス憎しの憎悪が渦巻いていることを承知の上で、乗り込んでいくのです。ただ銀貨三十枚ごときがほしくて裏切りを申し出たのではなく、それなりの理屈があったようですが、その理屈についてはここでは触れません。はっきり分かるのは、薄明かりの明け方にイエス様を捕まえに行く者たちがいる。そこで、誰がイエス様か分かるように、口づけをして示すというのがユダの役割とされたということです。そしてそのために銀貨30枚の代金が支払われるという約束がなされました。

 イエス様はこうして捕らえられ、裁かれ、十字架につけられます。イエス様が死刑判決を受けたことを知ったユダは後悔をします。そしてお金を祭司長・律法学者たちのもとに持参して、お金を返したいと申し出ます。しかし彼らはそのお金を受け取ろうとしません。そこでユダは、そのお金を神殿に投げ込んだ上で立ち去り、首をつって死にます。このあたりの話は、福音書記者が後から様々な取材をして分かったことのようです。祭司長たちは、銀貨三十枚の対応について話し合ったようなのです。まあ今でいえば、神社のお賽銭箱に人殺しの報酬が入っていたようなものです。しかもその報酬は元々は、神社ならぬ神殿の祭司達の懐から出たものでした。

 神殿祭司達は、このお金は神殿の収入には出来ないという判断を下します。それで、そのお金でエルサレム市内にある、陶器職人の畑と呼ばれていた場所を買い、そこに外国人向けの墓地を建てたのです。実はその場所は、かつて預言者エレミヤが人々に対して悔い改めを促すために壺を投げ割った場所でした。その場所は、新たに血の畑と呼ばれるようになって、今日に至ると言います。

 つまりこれはどういうことかというと、普通エルサレムに出稼ぎに来ていた外国人も、病気になり死ぬかも知れないという段階になれば、自分の故郷に帰ります。遺体となってでもいいから故郷に帰るというのが今も昔も変わらない風習です。ところが、何らかの事情でエルサレムで葬りをあげなければならない状況があるとしたら、それは故郷を持たず身寄りの無い外国人だということです。彼らのために墓を建ててあげよう、というのが血にまみれた銀貨30枚を手元に置いていた祭司達のアイディアなのです。これは今風にいえば、自分のために使うわけにはいかない曰く付きのお金を、恵まれない国の恵まれない子どものために使おう、という話です。

 注目したいのは、銀貨30枚の扱いです。神殿の祭司達は、この銀貨の扱いに困ってしまった。そこで、どこかにいる誰か困っている人のためになることを何かしよう、では外国人向けの墓地はどうか、と言い出したというわけです。

 不正によって得たお金と放射性廃棄物とは、少し性格が違います。しかし扱いに困ってしまうという点では同じです。そして銀貨30枚の方については、外国人としてエルサレムで亡くなる方のための墓地購入代金として用いようと神殿祭司達は考えました。今でいえば外国人の人権はどうなるのだというような話しになるかも知れません。しかし2000年前のエルサレム在住の異邦人には、人権などはほとんどありませんでした。むしろ祭司達の思いやりの方が彼らにはありがたかったのかも知れません。しかしだからといって、祭司達が外国人を低く見ていることには変わりはありません。銀貨30枚をできるだけ遠くにもっていきたかった彼らは、よその国まで持っていかなくても、自分たちの町の中で処分できることに気がついた。だからそうしたというだけのことです。

 

 *ノンタン いたいのいたいのとんでけ~

 そのことで思い出した絵本があります。前回は突然でしたが今回は説教題に入れておきましたので、皆さん多少期待もされていることでしょう。早く絵本の話にならないのだろうか、と。余り引っ張らずに、そろそろ紹介をしたいと思います。

 

 ノンタン いたいのいたいのとんでけ~

 ノンタン タータン あそびましょ

 いっしょにあそぼ みんなであそぼ あそびましょ

 あっ!

 これ ぼくの あかいじどうしゃ。

 タータンは のっちゃ だめ!

 あ、あ、あ!

 あーん あーん タータン ひざこぞうがいたい!

 ふん、こんなのへっちゃらさ。なでなでなで…

 いたいの いたいの タータンのいたいの

 あっちの おやまに とんでけー

 ぺちゃっ!いたっ!ガガガ…

 だれだ?いたいの とばした やつは!

 ガガガガオーン たべてやる!

 ごめんなさい、ごめんなさい!タータンをたべないで!

 なでなでなで いたいの いたいの タータンのいたいの

 あっちのうみへ とんでけー

 やったー! タータンのいたいの とんでった!

 ぺちゃっ いでっ!

 こらあーだれだっ!いたいの とばしたやつは!

 ドドドドドッブーン たべてやる

 ごめんなさい、ごめんなさい タータンをたべないで

 なでなでなで…

 いたいの いたいの タータンのいたいの

 えーと…えーと あっちのおそらの…

 えーと…えーと あっちのおそらの

 いたいのかいじゅうに とんでけー

 やったー、タータンのいたいの とんでったあ!

 ほっ、あーよかった。で、で、でも…

 いたいのかいじゅうがきたらどうしよう

 く、く、くるかな…

 しーん

 こないよ…こないね…うん!

 いたいのかいじゅう こなかった!わーい!

 あそぼ、あそぼ、あそびましょ

 ノンタンもいっしょ、タータンもいっしょ、

 みんなもいっしょ、あそびましょ!

 タータン、さっきはごめんね。もういたくない?だいじょうぶ?

 

 あっちのおそらの いたいの いたいの いたいのかいじゅう。

 ぱっくん! もぐもぐ タータンのいたいの ああ おいしい。

 ごちそうさま。

 

 心理的には、先ほどの神殿祭司と似た部分もあります。とにかく「いたいのいたいの」を遠くに投げやりたいという心境はそっくりです。そしてその遠くに投げやったはずのものが帰ってこないかどうか心配をするのも、似ているかも知れません。

 しかし、全く違うところもあります。それは、いたいのいたいのが生まれた理由について、ノンタンは逃げることなくまっすぐ向き合って考えようとしていることです。最後のところでノンタンはタータンに謝ります。元はといえば小さなタータンを突き飛ばしたところからこの出来事は始まっているのです。ノンタンには一度生まれた「いたいのいたいの」を消してしまうことは出来ません。この点は、物好きの怪獣に処理してもらうしかありません。しかし怪獣が「いたいのいたいの」を処分してくれて、少し落ち着いた後で、タータンに謝ることが出来るのです。「いたいのいたいの」が生まれた元々の理由が自分にあることについて自覚をするのです。神殿祭司はそれに対して、ああ外国人にいいことが出来た、といって元はといえば自分たちが裏切りの報酬としてユダに渡した銀貨30枚が自分たちの所に戻ってきたときに、それをよけてしまった。自分たちの罪について考える機会を永遠に失ってしまうのか、悔い改めることが出来るのか、というのは大きな違いと言えます。

 

 *使徒たちに残された「ユダとの記憶」という課題

 ユダを巡る「いたいのいたいの」は、銀貨30枚の扱いだけが問題になるのではありません。結局の所ユダ自身はどうなってしまうのか、弟子たちはユダについてどう考えたら良いのかということについて、今日の箇所は扱っています。

 

 そしてそのユダについて、弟子、いえ使徒の一人であったペトロが次のように今日の箇所で祈りの中で見解を示しています。「ユダは自分の行くべき所に行くために離れてしまいました」。この祈りの中には、ペトロのユダに対する思いの揺れを見出すことが出来ます。恐らくペトロ自身、そして使徒たち皆が、あのユダという元仲間についてどう考えれば良いか、まとめあぐねていたのでしょう。事実としては恐らく先ほど紹介した、マタイ福音書の証言の方が神殿側の、つまりイエス様を処刑した側の証言も時間をかけて取り入れていますのでまとまっており、事実に近いのだと思います。しかし、使徒たちのグループが出来た直後の内部の見解を代表するのが、恐らくペトロの今日の発言なのだと思います。そして今日のペトロの発言は、使徒たちの内部の説明と、神様に対する祈りによって成り立っていますが、この二つが微妙に違っているように感じます。

 まず使徒や仲間たちに対する説明によれば、こうです。ユダはずっと前から財布を管理する役割を与えられていて、みんなのお金を少しずつちょろまかしていた。決定的だったのが、イエス様を裏切ることによって得た銀貨30枚の報酬である。そしてそれらのお金でエルサレムの町の中に土地を買ったのだが、その土地に足を踏み入れたところで彼は不幸な事故で死んでしまった、それ以来その場所は血の畑と呼ばれている。これが説明です。ずいぶん容赦の無い、ユダに対する同情の余地など全く存在しない説明だと思います。おそらくこの厳しい説明は、使徒たち自身の思いと結びついているのでしょう。何しろ、ユダは裏切りましたが、ペトロだって「あの男のことは知らない」と証言したことがあるのです。ユダを切り捨ててよいかという迷いは、同時に他の使徒たち自身の中にもかつてイエス様を裏切る思いがあったということと結びついているのです。ペトロたちには、他人を裁く資格はありません。しかし12番目の席は埋めなければならない。迷いながら行き着いたのが、ペトロ自身が祈る次のような言葉です。

 次のようにいっています。「行き着くべき所に行き着いた。それで私たちの弟子のグループから離れた。だから改めて使徒のグループになるに当たって、12番目の席を誰かが埋めなければならない」。行き着くべき所に行き着いた、これが祈りの中で導き出した一つの結論です。

 先ほどのノンタンのお話しの中で、「いたいのいたいの」は、自分の手元にあってはならない、どこか遠くへと飛ばしてしまいたい何か、です。神殿祭司は、悔い改める余地のない形で、銀貨30枚を闇に葬ってしまいました。それに対して使徒たちは、ユダについての記憶そのものをどう処遇をつけるか、という大きな課題を突きつけられたのです。はっきりしているのは、彼のことをもはや自分たちの仲間とは呼べない、ということです。いつまでも12番目の席を空席にしておくわけにも行きません。では、彼はどこへ行ったのか。その行く先は、よく分からないどこか遠く、というのではまずいと考えたのでしょう。そこで、アケルダマで彼は死んだのではないか、と考えました。言ってみれば、絵本の中でいう「いたいのいたいの怪獣」にあたるのがアケルダマだというわけです。しかし同時にこういう風にも言えると思います。痛みの原因である罪を引き受けて下さるのは天に昇られたイエス・キリストなのではないか、あの罪人の罪の行方について、そしてあの罪人自身の行方について、最後まで面倒を見てくださるのはあのお方なのではないか。そしてあのお方は喜んでユダとユダの罪のことを引き受けて下さるのではないか。

 祈りを以てユダを送り出す、そんな様子が思い起こされます。このような祈りにおいて重要なのが、悔い改めることで赦されるという信頼です。もしペトロが悔い改めることなくただユダを裁いているのであれば、あのような祈りの言葉は出てこなかったと思います。

 

 *私たちにとっての祈りと悔い改めの課題

 私たちもまた、つまり、福音に生かされているはずの私たちもまた、心のバリアに縛られていることはないでしょうか。明日、若い牧師の集まりがあり、これからの教団のあり方について話し合うことになっています。ある牧師が事前の打ち合わせで、次のように提案しました。自分が前の教会を辞めなければならなかった理由は、あるモンスター信徒の存在だった。その人が教会を混乱させたため、やむを得ず辞任をした。そのような存在によって教会が疲弊するという話は、かなり聞く。しかし教会はこのままでは立ちゆかなくなるだろう。だからモンスター信徒にどう対応したらいいかということは話し合っておく必要があるのではないか。その提案を受けてある別の牧師が発言しました。それは、自分の教会の場合は、伝道師がモンスターだった。教会はずいぶん混乱した。モンスター信徒だけではなくモンスター伝道師も問題なのではないか。

 明日持たれる会では、私は次のように話をしようと思っています。モンスター信徒とかモンスター伝道師と言っているけれども、それならモンスター牧師もいるはずで、それも問題になるのではないか。確かにそれだけモンスターがそろったら日本の教会の将来は絶望的だと言えるかもしれない。しかし、私たちはそれにもかかわらず将来を希望を持って見据えなければならない。その際重要なのは、誰か特定のモンスターが教会を疲弊させているという発想から脱却することではないか、ということです。そのような考え方を、私自身はマタイ福音書を四年間かけて説教準備を通じて読み進めることで、また説教の言葉を伊東教会で真剣に向き合って下さる兄弟姉妹と分かち合うことで、神様から与えられたように思っています。あるときにイエス様はおっしゃいました。もしあなた方の中で、兄弟と喧嘩をして、和解をしないままで神殿での礼拝を献げようとしている者がいるなら、礼拝をする前にその兄弟のところに行き、和解をしてから礼拝を献げなさい、と(5:24)。またこうもおっしゃいました。もし教会の中で暴走をする信仰者がいるなら、まずはその信仰者が信頼を置くもう一人と共に、出来れば三人ぐらいで会い、そして信仰的真心を持って忠告をしなさい。二人または三人が私の名前によって集まるときに、私もまたそこにいる(18:20)。

 ですから、モンスターと呼ばれる人は、その一人だけで問題を起こすのではなく、その問題行動について諭す人がいないことが実は問題なのだ、ある人が教会からいなくなれば問題はすっきりなくなるなどという幻想を捨てない限り、教会は繰り返し問題を抱え続けるだろう、という訳です。問題を実際に起こしている中心的人物がいなくなれば問題は解決する。これは密かな裁きです。悔い改めの否定です。

 では結局、ユダとの交わりの思い出は、忘れた方がいいのか、覚えていた方がいいのか。これは放射性廃棄物や銀貨30枚よりも、もっと難しい問題です。

 

 *あえて狭いところから出発する

 ペトロたち、使徒の集まりは、ユダに関する一切合切の記憶をどうすればいいのでしょうか。ユダなどという人物は元々いなかったことにしてしまえばいいのか、本当にいいのか、彼らは迷っていました。

 実は、本当の答えは今日の所には全て収められていないように思います。聖霊降臨について書かれている2章をみますと、主イエスキリストの血の責任がどこにあるのかということについて、ペトロが説教をする中で明らかにしています。従って、今日の箇所ではその前提になっている小さなことにだけ言及しておきたいと思います。

 それは、彼らが献げていた祈りの場所についてです。場所はオリーブ畑といいます。オリーブ畑は、エルサレムの町にあった彼らの住居から徒歩15分以内、安息日に歩いて良い距離の所にありました。彼らは迷うときに、祈りました。説明の言葉は裁きの言葉になることがありますが、祈りの言葉は赦しの言葉になる。そのような体験を、あのオリーブ畑でイエス様と共に行った祈りを思い出すときに、再び取り戻すのです。徒歩15分以内の場所に、つまり律法で許された距離に祈りの場所があることは幸いでした。彼らは律法を守りながら、イエス様との交わりをなお続けることが許されたのです。思い出に生きることは、狭いことかも知れません。しかしあえてそこから出発することで、彼らは確実な第一歩を踏みしめることが出来ます。使徒言行録はその彼らの第二歩、第三歩の様子を収めています。しかしあえてこの第一歩が、オリーブ畑であったことを思い出すことは悪いことではありません。

 

 私たちにもまた、オリーブ畑があります。それは教会です。教会において主の御名によって祈るときに、私たちもまた捨てて良いものかどうか迷う様々な記憶について、もう一度考えることが出来ます。私たち自身が判断して良いものと良くないものについて、主イエスに委ねることが出来る。私たちには、主とともに祈る幸いが与えられています。