神の国が近づく“時”

2021/10/10 三位一体後第十九主日礼拝   

 

   「神の国が近づく(マルコによる福音書1章 1415)

 

山道龍馬

  ◆説教壇に立つ決意  私がこの信徒伝道日に説教壇に立つことを初めて提案されたのは、今から2年以上前のことでした。本来なら昨年のこの日にこの場に立つはずだったのですが、昨年はまだ自分自身機が熟していないという思いがあったところに、ちょうど東静分区信徒大会の講師であった浦安教会の大野寿子姉との交流があったこともあり、渡りに船とばかりに大野姉にお願いしてみたところ、大変喜んで引き受けてくださったため、神様から1年の猶予期間をいただいた形になりました。

 今日この場に立つことを指名されながらも、なぜ私のような者がという思いは常々抱いていました。なぜなら、私よりもこの教会での信仰生活が長く、人生経験も豊かな素晴らしい先輩たちがこの伊東教会にはいらっしゃるからです。しかし、昨年の今日、ここ伊東教会でその大野姉を通して語られた神の言葉によって力を与えられ、その言葉に背中を押され、ついに私もこの場に立つことを決意したのでした。

 その言葉とは、次のようなものでした。「信徒の伝道は、それぞれの人生において主イエスがどのように働き、愛して下さり、恵みを与えて下さったかを、自分の言葉で話すこと」これは、大野姉を伊東教会に派遣して下さった浦安教会の牧師の言葉であったといいます。また、その日の午後に開かれた懇親会の中で大野姉はさらに、次のようなことも話して下さいました。「私たちは誰でも主を証しすることができる。ある人は特別だから証しができて、他の人は証しができないということは全くない。主の御心ならば誰でも証しをすることができる。是非、皆さんもそれぞれの信仰の証しをして伝道をしてほしい。福音の中に生きる喜びを多くの人に伝えてほしい」そのようにおっしゃって、私たちを勇気づけて下さいました。  聖書にもこのような言葉があります。『私たちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています』(Ⅱコリントの信徒への手紙 45) 神の国に招かれ、その福音の中で生きる者とされた私たちを、主はその御国を証しする者として用いて下さいます。福音を伝えるのに資格などは要らないのです。私たち人間の都合とは全く関係なく、信仰を持った私たち全ての者に、その福音を証しすることによって伝道する使命を主はお与えになっているのです。

 

         

 

伊東教会との関わり

私がこの伊東教会に現在のように本格的に連なるようになったのは、今から約4年前の父の葬儀がきっかけでした。両親がこの伊東教会の信徒だった私は、小さい頃からこの教会に何度となく出入りし、古くは大野牧師から、吉田牧師、濵田牧師、内田牧師などの伊東教会の歴代の牧師との交わりもありました。しかし、学生時代を通じて、そして働き始めてから何年か経っても、残念ながら信徒としてこの教会の中に入ることはないままに人生を送ってきました。                

31 歳のときには、当時の伊東教会内田牧師の司式により、この礼拝堂で結婚式も挙げさせていただきました。それを機に、その後内田牧師の悩みであった運動不足解消のパートナーとして、一緒にキャッチボールをしたり野球をしたりするようになりました。内田牧師と私は、野球が趣味という共通点がありました。牧師は巨人ファン、私は横浜ファンという非常に大きな隔たりこそありましたが、毎週のように藤の広場や市民グラウンドで共に汗を流しました。

そんな交わりが続くなか、あるとき私の妻の母が病に倒れ、それを機に私は妻とともに礼拝にも出席するようになりました。数か月して妻の母は亡くなりましたが、その頃から洗礼を受けるための準備をしようかという話にもなり、12 回ほど受洗準備会らしきものを行っていただいたようなあやふやな記憶があります。あやふやなと言いますのは、大変不思議なことに、最も印象に残っているべきであろうはずのその時期の記憶が、今どんなに思い出そうとしてもよく思い出せないのです。そして、なんと、教会に入る準備がそこまで進んでいたように思えたその頃から、なぜか私は教会からまた遠ざかるようになるのでした。思えばその頃、内田牧師も東海教区の仕事で多忙になり、お互いすれ違いが増え、次第に疎遠になっていったような記憶がおぼろげながらあります。『何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある』(コヘレトの言葉 31) これは旧約聖書の言葉ですが、まさにこのコヘレトの言葉通りとしか言いようのない不思議な時の流れにより、私はそれからまた9年もの新たな歳月を教会から離れて過ごすことになるのでした。

 

父の逝去

その後、内田牧師も伊東教会を離れて大阪に移り、田中牧師、そして現在の上田牧師に伊東教会は引き継がれてきました。そんな中、4年前の 11 月に父が病に倒れ、私は父の入院している順天堂大学静岡病院に見舞いに通う日々が続きました。父は若き頃、牧師を目指して東京神学大学へ進み、そこで上田彰牧師のお父様の上田光正牧師と同級生でもあったわけですが、大学時代に体を壊したため大学を中退して伊東に戻り、今から 58 年前にこの伊東の地で小さな塾を開きました。私はその父の跡を継ぎ、二代目として父と共にこの塾の存続に日々懸命に取り組んできました。年をとりながらもまだ現役として共に働いていた 77 歳の父が突然倒れたこの冬の時期というのは、何と言っても受験生にとっては最も大事な時期で、人生をかけて入試に向かって猛勉強する受験生を何人も抱えながら、朝早くから順天堂病院まで行き、昼に伊東に戻ってはすぐにそのまま夜遅くまで生徒を指導するという毎日は厳しいものでした。

そして、そのような日々が 2 か月ほど続き、大学受験生の最大の山場であるセンター試験を無事に終えたその2日後の1月の火曜日の夕方、父が危篤状態となったと授業中に妻から連絡が入りました。入試を目前に控えた受験生を置いたまま塾を離れるのは大変ためらわれたのですが、さすがにそのときだけはどうしようもなく、その場にいた生徒たちには事情を説明し謝罪した上で病院に向かいました。前日に別れたときにはまだ普通に会話ができていた父が、病院に着いてみるとひどく呼吸に苦しんでいて、別人のようになっていました。ベッドの後方には 1.51.6m ほどもある大きな酸素ボンベが2本立てられ、もう会話ができる状態ではなくなっていました。しばらく付き添っていたものの状況に変化がなかったので、その晩は病院に任せて一旦帰宅しました。しかし、その数時間後の翌朝 5 時に枕元の携帯電話が鳴り、看護師さんから父が息を引き取ったと連絡が入りました。

 

罪が増したところに満ちあふれる恵み

父が塾を始めた当時、伊東には有力な塾がありました。そこは、実は塾長が学歴を詐称して多数の生徒を集めていた塾でした。そのような理由もあって伊東で生徒を集めるのに苦労した父は、伊豆半島各地から神奈川県にまで多くの小さな教室を出し、毎日のようにそれらの教室へ出向いて教えていました。私の母もそれらの教室へ教えに行くことがあり、私も小さい頃から父や母に付いて各地の教室へと行った思い出があります。その頃は帰りの電車の中で父といろいろ話をしたものでしたが、私が大きくなるにつれ、様々な点で父との考え方の違いが生まれてくることになりました。父の目指す塾の姿と私の思い描くそれが、次第にかみ合わなくなっていったのでした。特に父よりも私の方が主たる教師となってからは、私は父との距離を置くようになっていきました。父が行く場所には私は行かないようになり、父が親しく交わっている人たちとは私は距離を置くようになりました。それはすなわち、父が教会に行って牧師先生や教会員の方々と交流をすればするほど、それだけより一層私が教会から遠ざかることを意味していました。当時の私は、まるで教会が東にあるのなら自分は西の端にいると思えるほどに教会から遠く離れてしまったような生き方をしていたと思います。

以前、主の祈りについて書かれた本を読んでいたとき、「我らの罪をも赦したまえ」という祈りの部分について、このような説明がなされていました。

(以下引用)

人間は本来永遠の神によって創造されているにもかかわらず、常にそこから「離れる」(これが「罪」の語源)のです。そして「悔い改め」によってまた主なる神に「立ち返る」のです。永遠である神と、限りある命の私たちの間には、橋渡しできない隔たりがあります。しかし、同時にそこには豊かな霊的交わり・神からの祝福があります。「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ話」に出てくる徴税人が、神殿から遠く離れて立ち、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら『神様、罪びとの私を憐れんで下さい』と祈るのと同じように、「我らの罪」とは根本的には、永遠の神の前にあって、そこからかけ離れている自分を発見することに他ならないのです。ですから、人間は、いつも、神の前にあって「義人であると同時に罪びと」であり、それは、たとえどれほど長い信仰生活を続けている信徒であっても、また牧師であっても同じなのです。

(引用はここまで)

この説明にあてはめて考えてみれば、神から限りなく離れていたこの当時の私は、これ以上ない罪びとであったと言えるかもしれません。しかしながらまた一方で、聖書にはこのような言葉もあります。『しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました』(ローマの信徒への手紙 520)

 

時が満ちて

父が亡くなった 117 日水曜日の朝、病院にいた私たち家族のもとに、伊東教会から上田彰牧師が来てくださいました。ベッドに横たわる亡くなったばかりの父と対面した先生は、まずわっと泣き出されました。私はこのとき、二つの衝撃に襲われていました。まず一つ目は牧師のその身体の大きさでした。内田牧師が小柄でやせ型だったこともあり、自分の中での牧師のイメージがそのようなものとして自然に出来上がっていたのだと思います。私は野球のほかにプロレスも好きなのですが、その私の眼にはまるで一人のプロレスラーが早朝から突如病院に駆け込んできたというふうにも見え、病室が一気に狭く見えたという印象でした。牧師にもこのようなタイプの方がいたのだということにまずは結構な衝撃を受けました。

二つ目は、激しくとまでは言えないまでも私の想像を超えたレベルで先生が突然泣き出されたことです。大変失礼なことを覚悟の上で率直に言わせていただければ、もしかしたら牧師というのはこういう場面で泣くということを慣れた演技のように上手にできるものなのか、とさえ思ってしまったほどでした。きっとこれまでに、この先生と父との間には様々な交流があって、父の死に接してこのように感情が自然とあふれ出たのであろうと後から考えればわかりますが、そうした交流について一切知らないその時の私には、それはずいぶん唐突な情景に感じられました。しかしながら、実はこれらの衝撃こそが、私がついにこの教会に信徒として連なる最後の道への入り口となっていったのでした。共に仕事をしていた父が亡くなったのは大きな出来事だったとはいえ、入試直前の受験生を抱える立場では1日たりとも授業を休むことなどできるはずもなく、わずかな時間を縫って葬儀の打ち合わせ、葬儀、火葬とあわただしくこなしていかねばなりませんでした。私にとっての父は、良くも悪くも大きな存在で、共に塾を支える戦友でありながらも、同時に自分がこれから作り上げていきたいと望んでいる塾への道筋において非常に足を引っ張る存在でもありました。非常に個性が強く、生命力にあふれ、それまでも大きな病に何度も倒れながらも奇跡的に生還してくるその強さに、私は彼が死ぬというイメージがどうしても持てませんでした。言うまでもなく、頭では、人間は誰しもいつかは必ず亡くなるとわかってはいます。しかし、どうしても彼がこの世からいなくなるということが想像しにくかったのです。もちろん、私の人生の中で、様々な人の死に遭遇はしてきました。しかしそれは、悲しみと衝撃は受けながらも、突き詰めて考えれば一種の他人事だったのかもしれません。父の死に接したとき初めて、私は心の底から「ああ、人間っていうのは本当に死ぬんだ」と身をもって味わったのでした。同時にそのとき、何か人間の力を超えたところに大きな力の存在があるのをも間違いなく感じたのでした。そして、それまで私と父を隔てていた壁は取り払われ、その向こう側に待っていて下さったのは上田牧師夫妻や伊東教会の教会員でした。神様がそれを通して私を導いてくださった決定打と言って間違いのない素晴らしい葬儀説教や、多くの教会員に温かく迎えられ、私は葬儀の翌日の礼拝から、ついに導かれるべき場所に戻ってきました。このわずかな期間に、私はこれまでのどんな力も成し得なかった強力な力で、自分がある方向へと導かれているような気がしました。おそらくこの時こそが、神様がその御計画のうちに用意されていた時なのだろうと感じました。

『ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えてこう言われた。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」』(マルコによる福音書 11415) ここで言われている「時」とは、自然に流れている時とは異なり、特別な意味を持つ「時」です。それによって、歴史が変わり、私たちの生き方が変えられるような「時」です。ここでも、「ヨハネが捕らえられた後」とあるように、洗礼者ヨハネがガリラヤの領主ヘロデ王に捕らえられ、殺されるという出来事の起きた時です。人々が自分の都合の良いように生きるために人殺しさえ行っても平気な、とてもじゃないけれど福音など宣べ伝えられないような状況下で、「時は満ち、神の国は近づいた」と主イエスは言われるのです。私たちが自分自身の考えや思いに支配され神様の教えに従えないとき、また私たちが神様から遠く離れて心鈍く生きているとき、そんなときこそが実は主イエスが「時が満ちた」と言って下さり、これほどにまで神様からかけ離れてしまった私たちを神の国に招いて下さるときだったのです。「悔い改めなさい」という言葉により、私たちが向いている方向を変えるようにとおっしゃって下さいます。自分自身に目を向けるのではなく神様の国に目を向けるようにと、反省や努力で良い人間になろうとするのではなく、私たちのその醜さや弱さをかかえたまま神様の招きに応えなさいと、主イエスはおっしゃって下さいます。

 

 ◆信仰の継承

私の母は私が小さい頃から教会やキリスト教のこと、神様のことをことあるごとに私に話してくれました。私の誕生日には毎年、聖書の言葉を日本語と英語で書き、それに自分の文章を添えたバースデーカードをくれました。しかしながら、父は生きている間おそらく直接には一言も、私とキリスト教関係の話はしたことがなかったと思います。それは非常に対照的な姿でした。それでも、私は彼がいつも机に座っては何か国語かで聖書を書き写していたこと、大変厳しい手術を受けた後で「これは信仰の力がなければ耐えられるものではなかった」とふと漏らしていたこと、病床でも最後の最後まで聖書を離さずに読んでいたこと そのような彼の生きざまの一つ一つがこの世を去った後に自分に強い影響力をもって迫ってきています。父が生きている間は、共に教会の礼拝に同席したことは2~3度しかなかったように思いますが、今私が神様に導かれ、このように毎週教会に来て役員までしている姿を、父は天の国からどのような思いで見ているのだろうかと、ときにふと思うことがあります。

私には現在大学 1 年の娘と、高校 2 年の息子がいますが、二人ともそれぞれに大変多忙な毎日を送っていることや、私の妻の家系が寺院であることから、その強い影響もあり、子供たちを教会に向かわせることは非常に困難です。しかしながら、創造主である主なる神からの、そして復活の主である御子からの限りない恵みに感謝するのであれば、与えられたその福音を子供たちにも告げ知らせ、その信仰を継承していかなければならない使命を私は担っています。

 

とこしえの主の慈しみの中で

このように私は、幼少期から教会に縁がありながらも、かなり遠回りをしながら遅れて教会に連なることを許されました。聖書に出てくるブドウ園の話で言えば、私は少なくとも昼はとうに過ぎて午後 2 時か 3 時頃になってブドウ園で働き始めた労働者なのでしょう。朝 8 時や昼 12 時から働いていた人たちに比べれば、もう日没までに働ける残された時間はわずかです。しかし、神様が父の死と引きかえに私をこの教会に入れて下さったと考えるならば、私は自分の全身全霊を捧げて父の分まで神とこの教会に仕えなければならないという思いは強く持っています。今、私は教会役員としてこの教会に仕えています。様々な奉仕をしていく中で、「多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」(ルカによる福音書 1248)という御言葉や、「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい」(マタイによる福音書 2311)などの御言葉を心に留めて奉仕に当たってきましたが、今一つ腑に落ちないまま過ごしてきた面もあります。しかし、今夏 7/31 に行われた役員会において、「私たち役員は、他の信徒より信仰が弱い人間であるから、教会から離れていかないように神様が人より多く奉仕の業を与えて教会につなぎとめてくださっている」という新しい考え方を学び、これまでの心のモヤモヤが一気に晴れたような気がしました。自分では先ほど述べたような強い覚悟を与えられてこの教会に連なったつもりではいても、実は神様から見れば私は神様から離れていく度合いが他の兄弟姉妹より強い、だから神様は多くの奉仕を与えることにより私が教会から離れていかないように守って下さっている この考え方は実に納得のいくものでした。

これまで、毎週の説教を聴いたり、聖書を読んだり、受洗準備会をはじめとする様々な学びの機会を与えられる中で、心に染み入る聖句もいろいろと変遷してきました。最後に、今私が一番支えにして生きている聖句を紹介させていただきながら、今日の話を閉じたいと思います。

「人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風がその上に吹けば、消え失せ、生えていた所を知る者もなくなる。しかし、主の慈しみは世々とこしえに続く」(詩編 103) この言葉を読むたびに、私たちの本籍は天にありこの世での人生は寄留者としての生活でしかないこと、主の前においては私たちがいかにちっぽけなものでしかないかということを感じさせられます。この世における私たちの足跡などは、風が吹けば消え失せてしまうほどのものでしかないのかもしれません。しかし、世々に続くわれらが復活の主のとこしえの慈しみの中で、これからも主から賜ったこの地上での人生を、ここにいる愛する兄弟姉妹とともに、そして今は天にいるこの教会の先達、また今はまだ見ぬ将来の伊東教会員とともに、生かされていきたいと願います。