天を見上げる

021/10/03 三位一体後第18主日聖餐礼拝 「天を見上げる」

使徒言行録説教第二回 1:1~11                牧師 上田彰

 *先人の足跡を追う

 ドイツという国に何年か住んで実感したのは、この国の人たちが、歴史というものを重んじる人たちだ、ということです。よく知られる町並みはいずれも、数百年にわたって維持され続けています。建物一つとっても、取り壊して立て直せば安く済むものを、同じ外見を保つために却って高いお金をかけて維持するのです。聞けば、教会などに関しては、一から建て直しをする、いわゆるスクラップアンドビルドをする場合はもちろん教会が全額自己負担をするのですが、もし建て直しを一からするのではなく、外見を維持しつつの補修を決断するということであれば、実はその方が費用はかかるのですが、かかる費用の半額を行政が負担するのだそうです。そうやって、観光客が喜んで写真に収める町の風景はヨーロッパ全体で維持され続けています。数百年の規模で、町並みが変わらないのです。もちろんこれは単なる観光資源の問題、外貨稼ぎの手段ではありません。自分たちの祖先の足跡がここにある、だから外見を変えることは、自分たちの祖先に傷をつけることだ、そしてひいては自分や自分の子孫たちをも傷つけることだ、というわけです。聞けば、ドイツ人は引っ越しというものをしない人たちなのだそうです。するとしても同じ町の中を引っ越しをする。そのくらい、自分が生まれた町を愛しているということになります。

 歴史を重んじるという話の関係で、少し笑い話があります。テュービンゲンで観光とくれば必ず訪れる本屋があり、聞けば作家ヘルダーリンが実際に働いていた本屋だというのです。広場の反対側には町で一番大きな教会があります。近くの建物の二階に小さな看板がぶら下がっていることに気づいた観光客がいます。そこにはこうあります。「ここで、ゲーテが吐いた」。そこで観光客は観光ガイドにこれは本当かとかしこまって尋ねます。すると笑って、「あれは嘘です」と答えるのです。実はそういう、旅行客をからかう嘘というものがわざと混ぜられています。歴史的な遺物であると聞くと急に改まって襟を正す、そんな姿勢を取り現地の歴史的遺産に敬意を示そうとする観光客に対して、いやそれは冗談なんです、と打ち明けるのです。

 他に私が知っているのはハイデルベルクの城です。足下が石畳になっているテラスがあります。比較的最近補修をしたらしく、そこそこ新しい石畳です。その中に、補修されていない、少し色が古びた石があるのです。そこに人が靴で踏んだ跡が残っているのです。コンクリのようなものを流したときに残った足跡、という風情です。そして次のような小さな看板がつけられています。「この足形は、さる高貴な王族の一人の足形である」。もうこちらも要領を心得ています。観光ガイドに尋ねてみますと、やはりこれも嘘、伝説なのだ、と言われました。

 時々嘘とか伝説が含まれているようですが、ドイツ人が、いえ教会の伝統に親しむ者が「足跡」を重んじるのは本当のようです。これまたドイツの話で恐縮なのですが、教会には時折礼拝堂の地下にかつての修道士の遺体が埋められていることがあり、RIPの目印や看板がつけられていることがあります。つまりそこで礼拝を守る人は皆、自分たちの足下に信仰の先達の足跡があることを意識することになるのです。

 

 *聖霊の足跡を追う

 主イエスは、ルカ福音書においては十字架にかかるときに次のように叫ばれました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(23:46)。主イエスが、自分の足跡を追うことを委ねる相手は、まず第一に、そして本質的に、父なる神であった、というのです。実は、これはルカ福音書において主イエスが語る、最も重要な「聖霊」理解であると言えます。

 今日から本格的に使徒言行録、使徒の「歴史」の書に入ります。その際に私たちが心得ておかなければならないのは、私たちが本当に追いかけるのは、実は使徒の足跡ではなく、聖霊の足跡なのだ、ということです。聖霊は霊だから足などないのではないか、いやいや日本のお化けには足はないけれども、西洋の幽霊には足がある、だから足跡もあるのではないか、等という話ではもちろんありません。そういう意味でいえば、聖霊の足跡とは、主イエスキリストの足跡でもあります。

 足跡というのは、一体なんでしょうか。教会で役員会を開催します。その時に重要なのは、現在ここにいる皆がどう考えるかではなく、主イエス・キリストがどう考えるかなのだ、と常々申し上げています。それは、家でいえば家に長く伝わる習慣や家風、教会で言えば伝統、さらには建物や伝統芸能、そういったものの一つ一つを残すべきか、残すことを諦めるべきか、いつも色々な局面で選択を積み重ねています。微妙な局面になったときには、その判断を10年前も出来たか、10年後も出来るだろうか、と考えて決めていくことがあります。歴史というのは、そのようにして取捨選択が織りなす歩みそのものです。取捨選択というのは、人間がしている選択のようでありながら、神様がなさっている選択です。聖霊が人間を通じて促している選択であるといってもよい。

 ですから、今自分たちがしている選択は、今の時点では自分たちが決めたことだとしか考えられないとしても、5年とか10年とか積み重ねていくことによって、なるほどこれは神様のなさった選択なのだと分かる、そのような役員会を目指したいと、集う皆が願っています。また教会員一人一人がそのような祈りをして下さっていると役員会のメンバーは信じています。

 これは結局、私たちの教会は聖霊の足跡を追いかけ続けることによって、教会であり続ける、ということでもあります。

 例えば今日の箇所には、イエス様が使徒たちを選ぶ、ということが出てきます。見た目には、使徒、つまり人間がイエス様を選んでいるのです。イエス様についていくかどうかを決めているのです。しかしその本質は、イエス様が使徒を選ぶ歴史であった、これがルカの見たキリスト教の歴史の本質だというのです。

 1節から2節の、短い所の中で、記者ルカは、自らが記した福音書を振り返り、重要なキーワードを用いています。含ませている、と言ってもいいかもしれません。それは「聖霊を通して」という言葉です。私自身、ある段階まではこの言葉を見落としていました。ここはただの総督テオフィロへの挨拶の部分だろう、そう思っていたのです。しかしここに出てくる、聖霊という言葉がよく考えてみるとルカ福音書のキーワードであり、また使徒言行録のキーワードであると予告しているのだ、と気がつきました。

 

 *別れの場面が告げること

 少し前にお話ししたことがあってまた紹介するのは恐縮ですが、昔電車の中で見たつり革広告の一文です。

「アザラシの親子の時間は約1週間。あっという間にやってくる親離れの時、大切なことが別れによって伝えられる。母の姿を求めることをやめるとき、子どもは厳しい自然を生きることを覚え始める。」

 ルカ福音書の最後で、弟子たちと主イエスとの時間はもう少し長くて、40日間です。それでもあっという間に離別の時はやって来ます。その場面で教えられる事柄について、今日の聖書箇所は、聖霊が教えているのだ、とわざわざ解説を加えています。もう一回1節から2節に目を通してみます。ルカは以前に自分が記した福音書では何が描かれていたかといえば要するに…、ということを第二ルカ文書である使徒言行録の冒頭で復習するのです。

 (1)まずイエス様が奇跡のわざと説教をなさった日々(複数形)があることを示しています。

 (2)そしてもう一つが、最後の日(単数形)に使徒たちに聖霊を通して指示を行った、そのことが書かれている、要するにこの二つにまとめられる、という訳です。

 一つ目については理解出来ます。イエス様は確かに不思議なわざと説教を行いました。そしてそのことによって多くの人が一旦は集まり、そしてその大部分の人たちはまた離れました。残った者たちは使徒と呼ばれます。主イエスが選んだ者たちです。

 そして彼らは復活された主イエスと共に最後の40日間をエルサレムで過ごした。そしてその場所に留まって、神様の力に覆われるまで待つようにと命じられた。これがルカの最終章に書かれていることです。そこには、繰り返し読んでも、聖霊などという言葉は一つも見つかりません。ヨハネ福音書であれば、主イエスが弟子たちに息を吹きかけた、というそれっぽい表現が出てきます。皆さんがご存じの使徒言行録二章の降臨してくる聖霊のような、激しい現象はルカ24章には全く出てこなかったのです。ただ淡々と、食卓の交わりと、そして神様の力に覆われるまで待ちなさいという教えだけが語られているのです。

 しかしその中に、聖霊による指示がある、聖霊が多くのことを使徒たちに伝えている現場なのだ、というのです。

 私たちがもし思い込みをしていて、使徒言行録2章に出てくるような激しい降臨だけが聖霊の現れ方なのだ、だから私たちキリスト者はそのように激しい信仰を持たねばならないのだという風に思い込んでいるとするなら、少しそのような思い込みを脇に置いて、今日の箇所を虚心坦懐に読み直してみたいと思います。淡々となされる食卓の交わりの中で、非常に重要なことが聖霊によって使徒たちに教えられている、というのです。一体それは何でしょうか。

 

 *貫禄

 ちょうどこの説教の準備をしているときに、ある同世代の牧師とメールのやりとりをしました。その牧師は、自分より二世代上の、自分の親ぐらいの世代の牧師がちょうど隠退を迎えつつあるのを間近に見ていて、考えさせられるものがあるようです。というのは、牧師というのは自分の引き際を自分で考える必要があります。誰かが勧告して隠退するというのは、よほどの信頼関係が無いと無理です。勧告できるような人を見つけられないままで年老いていく、自分を育ててくれた尊敬すべき先輩の姿を見せつけられて、ずいぶん複雑な心境のようでした。しかしある意味で、そのような先輩牧師が、多少考えの細かいところではつじつまが合わなくなりつつあるけれども、それでも貫禄で説教をし、また様々な発言をする様子に心動かされているようでもありました。

 ここで思わず使った「貫禄」という言葉ですが、これはキリスト教プロパーの言葉ではありません。私自身、これをドイツの牧師に説明するなら、なんと言えるだろうと考えました。あえて言うならば、「その人の霊」と言えるのではないかと思いました。

 ルカ24章で、弟子たちは「主イエスキリストの霊」と共にいるのではないでしょうか。主イエスキリストの貫禄が、その場にいるすべての弟子たちの心を捉えてしまう。先輩牧師ではありませんが、やがてこのお方は天に昇られるのです。地上からは不在になった後も、弟子たちの心の中にぽっかり穴を開けて、その開いている穴故に思い続けるような存在。それが聖なるキリストの霊としての聖霊です。

 そう考えますと、主イエスの聖なる霊、短く言えば聖霊は、その時に既に働き始めています。主イエスの体は天に挙げられても、自分たちには主イエスの霊が共にいる。聖霊降臨の出来事は、ペンテコステの日、つまり2章において初めて起こったのではありません。主イエスと共にいた日々から始まっています。そのことに弟子たち自身が気づいた、天に挙げられる日に、心の目を開かれることによって、使徒たちは気づくのです。主イエスはかつて、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と十字架上でおっしゃった。それは結局、主イエスがご自分の霊を教会に委ねることでもあるのではないか。ご自分の貫禄のようなものを弟子たちに残し、弟子たちは使徒とされ、その貫禄を持って救い主の名前をあちこちで告げ知らせる役割を委ねられようとしています。

 ですから、40日間の最後の主イエスといっしょの期間に使徒たちが聖霊を通じて受け取ったものは何か。それは何かの教えではなくて、主イエスの貫禄としかいいようがないもの、つまりは聖霊自身を受け取った、ということです。

 

 *伝道

 初心に帰って、伝道のわざに励みたいと思います。私たちは、かの老牧師ではなくても、私たちめいめいの貫禄のようなものを身に帯びています。しかし伝道のわざに励む際、一人一人が自分の貫禄を脱ぎ捨てて、キリストの貫禄を身に覆って救い主の名前を告げ広める必要があります。これが伝道なのです。

 今日の聖書箇所は、私たちがそのような伝道に携わる者となるための姿について記しています。丁寧に言い直すならば、自分の貫禄などというものに頼るのではなく、キリストの貫禄にのみより頼むような仕方で、救い主キリストとはナザレのイエスのことである、ということを地の果てに至るまで告げ広める、そのために必要なことは何かということについて、書いているところです。

 今日の9節以下です。主イエスは、エルサレムに留まっていること、また聖霊によって満たされたときには地の果てにまで伝道をしなさい、その二つの指示を弟子たちに下してから、天に挙げられます。かつて旧約聖書に出てくる信仰的指導者であったエリヤもまた同じような挙げられ方をしました。多くの人は、地上で床に伏し、横になって最後の息を吐くような仕方で召されます。しかし突出した人物は、天に引き上げられるような仕方で人々に別れを告げる。かつてエリヤがしたのと同じようなやり方で、今主イエスは使徒たちの前で天に挙げられようとしています。

 恐らくその引き上げられる様子はとてもゆっくりで、使徒たちはずっとその姿勢でいたのでしょう。雲で見えなくなってからも同じ姿勢を取り続けていた。すると、自分たちの脇の方から声がするのです。白い衣服を着た二人の人が近づいてきます。彼らは、主イエスの復活を墓の前で告げた二人の天使です。二人は、今天を仰いでいる11人たちがガリラヤから来た者達であることを知っています。そして尋ねるのです。「なぜ天を見上げて立っているのか」。文字通り訳しますと「天を見上げて何を見ているのか」。この問いは、11人たちが天を見上げ続ける姿勢を取っていることを、けなしたり叱ったりする言い方ではありません。むしろ、その姿勢を取り続けなさいと言っているようです。

 天に挙げられた主を仰ぐ姿勢。その姿勢をある説教者は「祈りの姿勢」だと言い表しました。確かに言われてみるとそうです。私たちの祈りの姿勢は、いつであっても、どこであっても、天を仰ぐ姿勢につながるのではないでしょうか。

 そのことを次のように言い換えてみたいと思います。天を仰ぐ姿勢とは、自分の貫禄を脱ぎ捨てて、キリストの貫禄を身に帯びる備えをしている姿勢なのだ、と。

 二体の天使はこう続けます。「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」結局の所、キリストの貫禄を身に受けるために祈りの姿勢を取る使徒たちは、その姿勢のままに主がおいでになるのを見ることになる、というのです。

 

 考えてみますと、私たちは先輩や年輩の牧師、あるいはもう少し広く取るならば、人間の貫禄によって振り回されることもまた多くあるのではないでしょうか。そのようなときに私たちが気づかされるのは、私たちが人間の足跡をたどる際に、下を向いてしまっている、ということです。下を向くクセがつききっていると言ってもいいかもしれません。ですから私たちにもまた人間の貫禄に右往左往させられるのではなく、貫禄あるキリストにだけ視線を向けることが出来るように、キリストがおられる方角を向く必要があるのです。そしてその方角を向いて、天使の言葉を聞きながら祈る必要があるのです。

 今日から本格的に始まる使徒言行録、使徒の歴史の書です。私たちが着目するのは、使徒の足跡ばかりではありません。それではなお十分ではありません。使徒が仰いだ方角を向いて共に祈るときに、使徒たちの歴史を、いえ聖霊の歴史を、私たちは捉えたことになると思います。

 

 讃美歌の中から、昇天、つまり主が天に昇るということを主題としているものを二つ選びました。昇天。ただ主が天に昇るのではありません。私たちがその主を見上げる姿勢が大事なのです。その時に私たちが何を祈り、何を期待し、何をすることが出来るようになるのか。聖霊の導きに委ねる幸いを共に味わいたいと思います。