キリストの証人としてのさなぎ

2021/09/26 三位一体後第17主日 

「キリストの証人としてのさなぎ」(ルカ24、使徒言行録1                                                              牧師 上田彰

 *「はらぺこあおむし」の話

 子育てをしている中で時折、していなければ決して出会うことがなかったであろう出来事に出会います。絵本との出会いはその一つでしょう。今日ご紹介する絵本は、「はらぺこあおむし」。アメリカの絵本作家エリック・カールの作品です。実はこの作品が後に世界中で有名になる、その先鞭をつけたのが日本の出版社だったようです。あおむしが食べたところが実際に本の中でも穴が開いているなど、当時珍しかった「仕掛け絵本」ですが、日本の出版社が出版を手がけ、成功したことから、やがて世界中に広まり、息の長いベストセラーになりました。ちょっと気を付けて見てみると、はらぺこあおむしのTシャツやマグカップなどが身の回りにあるかもしれません。歌が有名です。

 

                はらぺこあおむし 歌詞

                                       歌詞/ エリック・カール  訳/ もりひさし

                                       作曲・歌/ 新沢としひこ 編曲/ 中村暢之

 

「おや はっぱのうえに ちいちゃな たまご」 おつきさまが そらからみて いいました

 

おひさまが のぼって あたたかい にちようびの あさ ぽんと たまごから あおむしが うまれました ちっぽけな あおむし あおむしは おなかが ぺこぺこ

あおむしは たべるものを さがしはじめました

 

げつようび りんごを 1つ たべました それでもやっぱり おなかは ぺっこぺこ

 

かようび なしを 2つ たべました それでもやっぱり おなかは ぺっこぺこ

(中略)

どようび あおむしの たべたものは なんでしょう

 

チョコレイトケーキと アイスクリームと ピクルスと チーズと サラミと ペロペロキャンディーと さくらんぼパイ ソーセージ カップケーキ それから スイカですって!

 

そのばん あおむしは おなかがいたくて なきました

 

つぎのひは また にちようび あおむしは みどりの はっぱを たべました

とても おいしい はっぱでした おなかの ぐあいも すっかり よくなりました

 

もう あおむしは はらぺこじゃ なくなりました 

ちっぽけだった あおむしが こんなに おおきく ふとっちょに

 

まもなく あおむしは さなぎに なって なんにちも ねむりました

それから さなぎの かわを ぬいで でてくるのです

 

「あっ ちょうちょ!」 あおむしが きれいな ちょうちょに なりました!

 

何が子どもたちを、いえ私たちを引き付けるのでしょうか。思うに、「あおむし」のころのやんちゃぶりと、そこから蝶への変身という、転換の鮮やかさではないかと思います。子どもは、たくさんの食べ物を食べるところで喜び、おなかが痛くなるところで同情し、はっぱを食べるところで何かを学びます。そしてさなぎの時期を経て、蝶になる。あおむし、つまり幼虫の時期と、蝶、つまり成虫の時期があり、その中間にさなぎの時期が存在します。

 そして考えてみると、私たちの人生にも幼虫の時期と、さなぎの時期と、成虫の時期があるのかもしれません。幼虫の時には無邪気に遊び、しかし成虫になることへのあこがれと恐れがあり、さなぎのように一つの場所にとどまっている時期があり、成虫になっても、幼虫の時の思い出を、ささやかなノスタルジーとともに思い起こす。

 

 *信仰の「幼虫」と「成虫」の時代について

 少し平行移動して今度は信仰について考えてみます。パウロは旧約の時代を「乳飲み子の時代」、新約の使徒の時代を「成人の時代」とガラテヤ書で呼んでいます。わかる気がします。教会学校でイエス様のお話に夢中になり、教会にたくさんの友達が集まって一緒に遊んでいた時代があります。信仰の熱い思いに燃える時期までを乳飲み子の時代と呼んでもよいのかもしれません。

 しかし気が付いてみると、子どもがひとりでに教会に集まる時期ではなくなっています。一人ひとりが自分の信仰を自分の口で説明することを通じて、一人、また一人と自ら教会に誘うことを通じて教会は、そして私たちは、大人へと姿を変える時となっていきます。

 

 *「さなぎ」の時代

 私たちは、昆虫にはさなぎの時期があることも知っています。おそらくすべての昆虫がさなぎの時期を経るわけではないと思います。しかし人生や信仰、そして教会が経由するような「さなぎの時期」について、少し考えてみる必要があるのではないか、と考えた信仰者がいます。その人は、福音書と使徒言行録という二つの文書を書き起こした人で、ちょうど今日お読みした二つの箇所がちょうど二つの文書で重ね合わさっているわけですけれども、その箇所を「さなぎ」に位置づけようとした、そう考えることが出来ます。つまり、先ほどの、旧約聖書を幼虫と考え、新約聖書を成虫と考える大きなとらえ方とは別に、新約聖書の中の福音書の部分を幼虫と考え、使徒が伝道にまい進する時代を成虫と考えることで、「さなぎ」に当たる時期の意味について考えることができるというわけです。

 

 ルカ福音書の大部分が幼虫で、今日の部分がさなぎ、次回からの使徒言行録が成虫というわけです。これを小さな視点と呼んでみます。それに対して先に申し上げたような、大きく聖書全体を幼虫とさなぎと成虫に分けることも出来ます。聖書全体を一匹の大きな虫と捉えるか、ルカの書いたものを一回り小さな虫と捉えるか。そんなことを考えていたら、少しだけ愉快になりました。今日は便宜上、小さな方の虫スケッチを私たちに示している、ルカの話をします。

 幼虫の時代を人はこう名付けます。「キリストの時」です。それに対して、成虫の部分は「教会の時」です。ルカは二つの「時」を見据えながら、今日の箇所を中間期の、「変化の時」として記しています。この「変化の時」を設定することで、マタイやマルコ福音書には出てこない視点が出てきます。

 それは、復活した主に出会った後、弟子たちはどうなるのか、という視点です。復活というのが「懐かしい人との再会」という意味で捉えられてしまうと、弟子たちは成長する必要がなくなってしまいます。「幼虫の時代」だけを描くのではなく、「成虫の時代」をも描くということがなければ、キリスト教は現代にまでつながる宗教ではなくなっていたかもしれません。

 そしてこの、「成虫の時代」にいたる前に「さなぎの時代」が必要だというのは、どういうことでしょうか。簡単にいえば、さなぎのように動かず、じっとする期間が必要だということです。そしてその期間を過ごす場所はエルサレムであった、これがルカの見解です。

 少しマタイとは視点が違うことに気がつきます。マタイ福音書においては、主が復活した後、天使が主との再会場所を弟子たちに思い起こさせます。イエス様と弟子たちとはガリラヤで再会しよう約束したではないか、ということが強調されています。「キリストの時」だけを見るマタイやマルコにとって、イエス様と弟子たちが、自らが慣れ親しんだガリラヤで主の復活後に再会するというのは自然な流れなのです。

 それに対して、ルカでは福音書の最後は、エルサレムがホームグラウンドだということの強調で終わっているのです。復活した弟子がイエス様と過ごしていた40日間は、エルサレムであった。ルカも、復活の主が弟子たちとガリラヤで出会った風景を完全に無視することは出来なかったようで、ルカ福音書にも実はガリラヤ湖畔でのイエス様と弟子とのやり取りと思しきものがあったりします。彼らが主の復活後にエルサレム近辺から一歩も遠くには行かなかった、というわけではない。しかしルカはここでエルサレムに留まる、エルサレムこそが彼らの本拠地、ホームグラウンドだということを強調したいようです。それが今日の箇所の前後にも出てくる「留まる」という言葉の意味です。

 キリストの時だけを切り離して見るならば、福音書におけるイエス様の活躍の主な場所はガリラヤです。特にマタイ福音書ではエルサレムにいたのは十字架にかかる直前の一週間だけでした。エルサレムが中心地ではありません。それに対して教会の時、つまり使徒言行録において使徒たちがホームグラウンド、本拠地とするのはエルサレムです。これは偶然ではありません。エルサレムが大事だと考えているのです。

 ユダヤ人以外への伝道がなされ、キリスト教がユダヤ人の宗教から世界の宗教となって羽ばたいていくようになります。しかしその本拠地となる場所はあくまでユダヤ教の首都でもあるエルサレムです。異邦人伝道の開始はエルサレムで決められますし、エルサレム教会が経済的に困窮していると聞けば異邦人教会がお金を集めてエルサレムに持っていく。たとえ人と文化、経済や軍事の中心地であるのがローマでも、そこに教会の本部を移転しようという話は出てきません。(もっとも、四世紀末のローマ市民が全員洗礼を受けるにいたって、キリスト教の本部はあのペトロが殉教を遂げたローマに移転したと言えるかもしれません。しかしそれはまた別の話でしょう。)

 

 *待つこと、祈ること

 今日のさなぎの箇所は、弟子たちがエルサレムにじっとしていることによって、つまりガリラヤとエルサレムという離れた場所を頻繁に行き来していたのではなく、次の成虫としての活躍に備えてエルサレムにとどまっていた、ということを記す箇所です。

 さなぎは一つの場所を決めたら、そこから動くことなくじっと自分の体に起こる変化を待ち続けます。昆虫の場合は自然にその変化は起こる、そういえるのかもしれませんが、教会においてはその変化は祈りによって起こります。祈るということは待つということでもあります。

 思えば弟子たちはガリラヤにいる時代はやんちゃもしていました。安息日に麦をとって食べたことでファリサイ派の人たちに攻撃の口実を与えてしまいイエス様を窮地に追い込みかねない事態を招いたなどというのはまだかわいい方で、仲間であるはずの洗礼者ヨハネの弟子たちと比較され、彼らは断食をして宗教的修行をきちんとしているように見えるが、なぜあなたの弟子たちは何もしていないのかなどと聞かれてしまう始末です。イエス様と一緒にいたときにはあれほどあらぶっていた、いえそれどころか道を外れていたようにも見えたあの弟子たちが、ペンテコステを経て教会の時になって聖霊によって変えられてからはなぜあれほどに伝道に貢献する集団になっていったか。ひょっとするとイエス様の力よりも聖霊の力の方が強いのではないかなどという間違った解釈に飛びついてしまいそうです。

 しかし考えてみると、幼虫の時にどんなに良い環境に置かれていても、あおむしは空を舞うことはできません。さなぎの時を経て、はじめて蝶は飛び立つことができるのです。なぜさなぎの時が必要なのでしょうか。今日の直前の箇所の言葉でいえば、なぜ弟子たちはこう命令されたのかという問いとつながります。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 

 さなぎは約束されているのです。この時は決していつまでも続くものではない。高いところからの力に覆われた時に、大きく羽ばたくことになる、と。

 使徒言行録の冒頭も確認をいたしますと、同じことをイエス様が弟子たちにいうくだりがありました。今日お読みした最後の箇所で、彼らはこうイエス様に尋ねています。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」。弟子の中にも、血気盛んでいつでも暴れだそうという輩もいたようです。「国」というのはローマ帝国のことだと考えられますから、今あるローマ皇帝が支配して成り立っている秩序は覆されるべきだ。エルサレムが中心になっているような秩序が実現されるべきだ。自分たちの力によって世界は変わる。イエス様がその先頭に立ってくださるならいつでもお手伝いをする用意がある。普通に考えれば力強い申し出だということになるかもしれません。

 それに対するイエス様のお答えはこうです。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」。つまり、エルサレムを中心にした世界の秩序は、いずれ実現する。その秩序の中を蝶が飛び回るときも来るに違いない。しかしその実現のためにあなた方が立ち上がるというのではないのだ。権威はあなた方にあるのではなく、父なる神にある。そういってイエス様は祈って備えることを弟子たちに求めるのです。

 祈るということは、何もしないということではありません。むしろ、祈っている間になにかが起こることを期待している者にだけ許されるふるまいが祈りであると言って良いでしょう。さなぎのような姿勢でじっと祈る者の姿を、今日の箇所は二重の仕方で言い表しています。

 まず先に、使徒言行録に出てくる、祈る者の姿について見てみましょう。イエス様は地上に留まっておられた40日間の間になされた、弟子たちとの食事の時に、このようにおっしゃいました。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」幼虫から成虫に変わる際に、決定的に重要なのが聖霊を受けるということです。聖霊というのは、肉体を伴ったイエス様が弟子たちとともにいなくなった後にも、霊として留まって下さる、ということです。

 聖霊による洗礼とはなんでしょうか。教会は、水による洗礼と聖霊による洗礼ということを次のように考え、洗礼式という形で整えることとしました。そして今に至るまで、同じ形を保ち続けています。それは、洗礼式の時、水を用意すると同時に、三位一体の神の御名が必要だと考えることです。父と、子と、聖霊によって洗礼を授ける、という決まり文句があるのです。ただ三位一体の神の御名があればよいというわけではありません。水だけ用意しても、やはり足りないのです。目に見える水と、目に見えない神の御名の両方が結びついたときに洗礼が本当の意味で洗礼になる。これは幼虫から成虫への変化が、外からは見えない心の成長と、外から見える体の変化の両方によって成り立っているのと似ているかも知れません。

 

 *別れが喜びになるときとは

 この、聖霊を受ける、祈るさなぎの姿について、福音書の最後に出てくる証言と重ね合わせてみることで、私たちは考えさせられてしまうことがあります。イエス様が弟子たちを祝福しながら天に上る、そしてそれを見送った弟子たちは大喜びをする、というのです。平たく言うならば、弟子たちは、イエス様と別れるにもかかわらず、喜んでいるというわけです。

 人間的に言えば悲しくないはずがありません。しかしそれにまさる喜びが弟子たちの心を占めていた。それは、この祝福を通じて自分の中の何かが変わるという予感と結びついています。期待と結びつく形での喜びです。自分たちがどう変わるのか。

 あおむしがさなぎの形に変わるときに、その先にある、羽ばたく蝶の姿になる自分をあおむしは知っているのかどうか、と考えてみました。もしかすると私たちはそろそろ、はらぺこあおむしの話と私たち自身の話を重ね合わせるのをやめないとならないのかも知れません。正確に言えば、あおむしが、自分が蝶になるためにさなぎの時期に入る際に、静かで深い喜びをもって自分の将来の姿を知っているのかどうか、私たちには確認するすべはありません。その一方で今日の箇所にもあるように、さなぎの時期を過ごす弟子たちは、喜びながら主とともにある40日間を過ごします。

 イエス様は「祝福」をなさいます。弟子たちは「賛美」をします。エマオでパンを弟子たちに分け与えるあの男性の仕草でそれが最後の晩餐を共にするイエス様と同じであることに気づくときに、パンを掲げた人は「祝福」をすると同時に「賛美」をしています。両方とも聖書の中では同じ言葉、「良い言葉を発する」ということです。

 一方で弟子たちは祈る姿になって、祝福を受けます。他方でその姿は、賛美をする姿でもあるのです。キリストの時をゆっくりと終えて教会の時に移り変わろうとしている時に、自分たちの身に起こる変化について、弟子たちは「良い言葉」を耳にし、口にするのです。そうやって40日を過ごします。そして気がつくのです。実は幼虫から成虫の時期に至るまで、あらゆる時に必要だ、ということに。

 

 

 さなぎとして祈りのために目を閉じた信仰者が、次に目を開くときにどのような者として目を開くことが許されるのか。どのような世界が目の前に開けているのか。このことを喜びと期待を持って待つ者とされたいと願います。