与えられた言葉

2021/09/19 三位一体後第十六主日礼拝 

「与えられた言葉」 マルコによる福音書82730   牧師 上田文

 

最近、信仰告白はなぜ「告白」という言葉を使うのだろうかと疑問に思いました。なぜなら、「告白」というと、秘密にしていたり、心の中で思っていたことを打ち明けて、その思いを実らせるイメージがあるからです。歌の歌詞や、テレビドラマなどで「告白」というと、好きな相手に自分の気持ちを打ち明けるという事が想像できるでしょう。そして、そのことを通して二人は結ばれるのです。結ばれなかったとしても、そのことを通して、告白した人は教訓や知恵を得るのです。このように考えると、「信仰告白」も、自分の主観的な気持ちを打ち明け、何かを成就するための手段として告白しているかのように考えていまいます。確かに、今日の聖書箇所を呼んでも、ペトロがイエスさまに告白し、救いを与えられたというふうに読むことが出来るかもしれません。しかし、日本基督教団信仰には、一番はじめに「我は信じ、かつ告白す」と書かれています。これは、私はイエスさまの救われている事を信じ、これを救いの証拠としますという事です。信仰の告白とは何かを成就するための手段ではなく、すでに与えられた救いの恵みの証拠であるという事です。そして、救いの証拠として、あの長い長い内容が続くのです。あの、長い長い内容を全て理解したから救われるのではありません。救われたので、あの長い長い内容が自分の信仰とされていくのです。この信仰告白の土台となっているのが、今日の聖書箇所である「ペトロの信仰告白」です。この信仰告白が私たちの教会の土台となっています。なぜペトロの信仰告白が教会の土台となるのか。その恵みを共に味わいたいと思います。

 

27節には「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった」とあります。イエスさまは、エルサレムに向かって旅をされていましたが、その途中にフィリポ・カイサリアに行かれました。しかし、聖書の後ろにある「新約時代のパレスチナの地図」を見ますと、フィリポ・カイサリアは、エルサレムと反対の方向にあることが分かります。イエスさまは、あえて遠回りの長旅をされたのでした。けれども、聖書には、この地でみ言葉を語られたり、奇跡を行われたりした話は出てきません。イエスさまがこの地に行かれたのは、イエスさまの祈りに対する神さまのお答えを待っておられたからでした。イエスさまは、長い旅をしながら父である神さまに問い続け、祈り、神さまのみ言葉を待っておられたのでした。そして、フィリポ・カイサリアまでお出かけになった頃、問いかけと祈りに対する神さまの答えを与えられ、エルサレムに向かう準備を始められるのです。イエスさまは、この地で人々の救いのために苦難を背負う覚悟を確かな物にされました。そして、弟子たちがイエスさまの真の弟子として生きるための準備も始められたのでした。

 

そこで、イエスさまは、フィリポ・カイサリアに向かう道の途中で弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているのか」と問いかけられました。弟子たちは、使徒と名付けられ、イエスさまがそばに置き(3:14)、神の国の奥儀(4:10)と汚れた霊に対する権能を与えられて実際に宣教(3:14)に派遣された者たちでした。それだけに、イエスさまは、人々のイエスさまへの評価を弟子たち自身がどのように理解しているかを問われたのでした。しかし、弟子たちの答えは、すでに誰の耳にも入っていた人々の噂の繰り返しです。世間の人々がイエスさまのことをどう言っているのかというのは、弟子たちの関心事であったのです。弟子たちは、イエスさまを信じて、今までやってきた仕事を放り出して、イエスさまに従ったのです。そのイエスさまが、世間の人々にどのように見られているかを知る事は、自分たちが世間の人々にどう見られているかを知る事に繋がります。このことは、私たちにおいても同じことだと言えるかもしれません。キリスト教人口が0.3%に満たない日本において、イエス・キリストという方が、あるいは教会が世間にどのように見られているかによって、イエスさまを信じる私たちに対する世間の目がどのようなものであるのかが分かってくるように思います。そのため、弟子たちは、人々の噂を熱心に聞いていたのでした。そして、直ぐに答えることが出来ました。28節には「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます」と弟子たちは答えたとあります。

当時の人々は、イエスさまをこのように見ていたのでした。洗礼者ヨハネは、悔い改めと罪の赦しを述べ伝えた、当時の宗教界のスターです。彼は「正しい聖なる人」として人々に慕われていました。しかし、へロデ王によって殺されました。人々は、イエスさまが、この洗礼者ヨハネの再来だと言っていたのでした。また、預言者エリヤは、世の終わりに神さまがご自身の国を完成なさる前に来ると言われていた預言者です。この預言者が来たのだと人々は考えていたという事です。また、「『預言者の一人だ』」と言っている人もいました。これは、昔、イスラエルの民に神さまのみ言葉を伝えた預言者たちと同じような方としてイエスさまの事を捉える人もいたという事です。人々は、自分の生活を良くしてくれる優れたリーダーを捜していたのです。そして、イエスさまがこのリーダーかもしれないと考え、尊敬や恐れを抱いていたことが分かります。世間の人々は、さまざまな教えや御業を行われるイエスさまを、神さまから遣わされた優れた教師として見ていたのでした。

 

このような事は、どこにでもあるように思います。私たちは、コロナの感染が早く落ち着く事を願っています。そして、国の経済の回復を願っています。一人ひとりが豊かに生きる事の出来る平和な社会を求めています。その中にあって、次の総理大臣が誰になるのか、いくつかの名前が飛び交っています。そして、その一人ひとりの情報が、新聞やインターネットで知らされています。私たちもまた、自分が尊敬できる優れた教師を待ち望んでいるのかも知れません。この教師のいう事を私たちが実践することによって、私たちの生活を良くしようと考えているのです。しかし、イエスさまは、このような私たちの見習うべき、尊敬すべき教師として、この世に来られたのではありません。イエスさまは、罪の力により何も出来なくなってしまった私たちを救うために、神の子としてこの世に来てくださったのです。

 

そのことを、弟子たちに知らせるために、イエスさまはこのように続けられました。「それではあなたがたはわたしを何者だと言うのか」(29)。「あなた方にとってわたしは何者なのか」。突然のことに驚いて、弟子たちは一瞬、何も答えられなかったのだと思います。そこで、ペトロが代表してこう答えました。「あなたは、メシアです」(29)。メシアというのは、「神さまによって油を注がれたもの」という意味です。旧約聖書では、神さまによって特別な任務に任命されるとき、例えば王として立てられる時に油を注ぐ儀式が行われました。ペトロは、イエスさまは、私たちを導くために神さまが立てらえた王であるという意味を込めて「あなたは、メシアです」と答えたのでした。このペトロの思いをもう少し深めてみると、次のような事が考えられます。イスラエルの歴史において最も偉大な王として、神さまに選ばれ油を注がれたのはダビデでした。神さまはこのダビデに祝福を与えて下さり、彼の下でイスラエルは繁栄したのです。しかし、ダビデの死後、イスラエルは敵に攻め滅ぼされ、ダビデの時代の繁栄は跡形もなくなります。ダビデの子らは、罪のために神さまの祝福は取り去られ、イスラエルは滅ぼされてしまったのです。このような歴史の中で、イスラエルの人々は、国の復興を望むようになりました。人々は、神さまに、どうかあなたがダビデに油を注いで王として立ててくださった時の約束を思い出してください。「ダビデを裏切ることは決してない、と。彼の子孫はとこしえに続き、彼の王座はわたしの前に太陽のように、雲の彼方の確かな証である月のようにとこしえに立つであろう」(詩89:36-38)と約束してくださった、あの約束を思い出してくださいと願うようになりました。このような願いが、いつの日にかまた「油を注がれた者」が再び立てられ、遣わされて、罪によって神さまの祝福を失ってしまったイスラエルを再び救い、復興するという信仰として人々の間に根付いていったのでした。ペトロの「あなたはメシアです」という言葉は、このメシアの到来を待ち望むイスラエルの信仰が、彼の背景にあったことを表しています。ペトロは、イエスさまこそ救い主であられ、罪によって失われてしまった神さまの祝福を回復してくださり、イスラエルの国を復興してくださる方であるという信仰を告白したのでした。この告白は、決して完全なものではありませんでした。イエスさまは、イスラエルの復興でなく、全ての民を神の国に入れられる者とするために来てくださった方です。そのために、イエスさまは十字架に架かり死なれ復活してくださったのです。ペトロの告白は、また世間の人々のものとは違っていました。世間の人々は、イエスさまを預言者や教師として、自分たちのやりたいことを手助けしてくれる、都合の良い方だと見ていました。つまり、人々は、自分たちの罪のことを大きな問題としては考えていないのでした。それに対して、ペトロは、イスラエルの民である自分たちは罪があるため、自分の力では何も出来ない事を知っていました。そのため、イエスさまは、罪がを赦し、神さまの祝福を回復してくださる救い主だと言ったのでした。

 

イエスさまは、このペトロの答え、「あなたは、メシア」という言葉を、正しい答えとして受け入れてくださいました。この答えに二重丸をつけてくださったのでした。この言葉に二重丸をつけてくださったという事が、生涯ペトロを生かし続ける恵みとなります。

そして、このペトロの告白がイエス・キリストを信じる教会の基盤となっていきます。「イエス・キリスト」ということばは、イエスこそキリスト、つまり救い主メシアであるという信仰を言い表しています。この言葉の基盤となっているのは「あなたは、キリスト、メシア」と言ったペトロの言葉です。

 

けれども、このように考えることも出来ます。イエスさまは、ペトロがどのように答えたとしても、それを正しい告白の言葉として受けて止めてくださったのではないか。そのことは、イエスさまの問いかけからも分かります。29節には「そこでイエスがお尋ねになった」とあります。これは一見何の変哲もない文章ですが、ギリシャ語に忠実に読むと、「イエスさまが」というところが強調されています。つまり、イエスさまが、弟子たちのために全身全霊をかけて、弟子たちを救うために「あなたがたは、私を何者だと言うのか」と問いかけて下さったという事になります。弟子たちは、一瞬ドキッとしたのではないでしょうか。だから、言葉に詰まったかもしれません。この言葉は、イエスさまの質問の意味を捉えきれない弟子たちを責めるための質問ではありません。厳しく問いただす言葉でもありませんでした。その問いかけは、イエスさまが十字架へと向かう歩みによって成し遂げてくださる救いへの招きの言葉なのでした。イエスさまが全身全霊を傾けて、私たちを救おうとしてくださる恵みあふれた言葉なのでした。そのため、ペトロも知らないうちに、彼の答えは、すでに救いに入れられた者の言葉となっていたのでした。

ペトロの信仰告白とそこにおいて与えられたイエスさまの救いと交わりが、ペトロの信仰深さによって与えられたことでない事は、彼のその後の歩みを見れば分かります。ペトロはイエスさまがご自分の受難を予告された時、イエスさまを連れ出して、いさめたとあります。そして、イエスさまに「サタン、引き下がれ」と厳しく叱られてたのでした。ペトロは、イエスさまがどのような仕方で救い主となられるのかを理解してはいなかったのです。しかし、このようなペトロをイエスさまが、命をかけた質問により招いて下さり、イエスさまが与えて下さる救いにあずかり、イエスさまに従って生きる交わりへ入れてくださったのでした。イエスさまが、何も理解していないペトロを、まず救ってくださり、そして、ペトロの言葉を、救われた者の証しの言葉として聞いて下さったのです。これが、ペトロの信仰告白の恵みです。

 

また、イエスさまに「あなたはメシア」と告白することは、その度に、イエスさまの救いの恵みを確認する事にも繋がります。私たちは、世間の人々の言葉に耳を傾ける時、イエスさまの事を見失いかけてしまいます。権威や権力によって、良い事や悪い事が決められてしまう社会にあって、イエスさまへの信仰は無視され、踏みにじられていきます。このような世の中で、イエスさまへの信仰に生きることは、多くの戦いを伴います。もし、イエスさまを唯一の救い主として信仰していなければ、社会に合うイエスさまのみ言葉や、自分が良いと思うキリスト教的な考えのみを選び取り、後は切り捨ててしまえば良いのです。しかし、私たちは、人間の力が無力であることを、イエスさまを三度も裏切ったペトロによって知っています。そして、イエスさまのみが、十字架による救いと復活によって、私たちに命を与えてくれることを、生涯、信仰を告白し続け、殉教の死を遂げたペトロを通じて教えられています。ペトロの支えとなったもの。それは、イエスさまに導かれた「あなたはメシア、救い主」という証しの言葉でした。私たちを本当に支配して導くのは、人間の権力ではなくイエスさまであるということを、ペトロはこの短い告白の言葉と、彼の生涯を通して私たちに証してくれるのです。

 

私たちは、相変わらず、イエスさまの事を正しく理解できていないように思います。そのような私たちは、正しく信仰を告白することなど出来ないのではないかと心配になります。しかし、イエスさまが、まず私たちを救うために「あなたはわたしを何者だと言うのか」と問いかけてくださっているのです。この問いかけは、私たちに二重丸を与え、神の国に入れる者とすることを前提としてくださっている問いかけです。わたしたちは、ペトロによって証明された、イエスさまの救いを、感謝を持って、言い表せば良いのです。イエスさまは、この告白を喜んで受け止めてくださり、更なる救いへと導いてくださいます。私たちが、真に「あなたこそ救い主です」証する者に、日々変えてくださるのです。私たちの信仰の歩みは、この告白に支えられて歩く道のりです。いつも救いの恵みへと導かれ、真にイエスさまを証しする者へと変えられて行く歩みです。

私たちは、告白する事によって、躓いても転んでも、再び立ち上がり、イエスさまと一緒に歩んでいくことが出来ます。この事を感謝し、イエスさまと共に、真実の命を生き続けたいと願います。