心の目を開かれる

2021/09/12 三位一体後第15主日 

「心の目を開かれる」(ルカ2433以下)                   牧師 上田彰

 *「平和」について今日考える

 昨晩フェイスブック、つまりインターネット上で意見や情報のやりとりをするサイトを見ていたときに、一人のドイツ人の牧師が次のようなことを書いていました。「(ドイツの)世間では、公共の場所(例えばレストラン)に入るときにはワクチンの接種が終了し、抗原検査をしていることが求められています。しかし宗教施設に関して行政からのそのような規制はないということになっていて、教会ごとに判断をすることになっています。そういう規制を自分たちの判断で積極的に取り入れたいという教会と、自分たちとしてはそうしたくないと決めている教会、それに迷っている多くの教会があります。私たちの教会もそうです。教会というところが、ある特定の人を排除するということについて迷いがあるのです。同僚の牧師の皆さんはどう考えますか?」というような内容でした。色々な意味でドイツらしい問いであると思いました。ウィルスとの戦いということに関しても思うところがありますが、「排除するのは教会らしくない」という発言が特に印象的です。

 聖餐式の讃美歌を歌いました。ドイツで与っていた聖餐式の様子を思い起こします。式の中でパンと杯が配られる直前、牧師が「それでは皆さん、平和の挨拶をいたしましょう」と言います。すると、それまで聖餐式の司式の文章を牧師が語るのを立って聞いていた教会員皆が、近くにいる人と握手をし合い、「あなたに平和がありますように」と挨拶を交わすのです。自分だけは神様に向かい、一人で聖餐に与りますという姿勢を打ち消すかのように、互いに手を差し出すのです。

 恐らくそのような体験があるからこそ、感染対策という極めて微妙な問いを前にして、「排除は教会らしくないのではないか」という迷いを持っているのです。私自身色々考えがあります。感染対策といっても時期や状況によって、変化せざるを得ないからです。対策の必要性が微妙に変わってくる中で、いつの間にか教会らしさを失ってしまうとするならば、本末転倒であるのはいうまでもありません。ですから、自分のことやドイツのことを離れて言うならば、教会らしさとは何かとうことについて考え続ける、そのことは、大変に重要なことだと思います。感染対策という非常に重要な案件を前にして、なお教会らしさについて考え続ける、という態度です。そしてその際に、「どんな人をも排除しない」という思いはどこから来るのか、考える必要があります。自分だけはかかりたくないという思いが、まだ一度もワクチンを打っていない国や地域が沢山あるにも関わらず、三回目の接種のためにワクチンの備蓄に励む国や地域が出てきている現在、見えない戦いが始まっています。そしてだからこそ、見えてくるのが余計難しい平和ということに思いを向けざるを得ないのです。

 

 *消えてしまうことがある「あなた方に平和があるように」

 今日の聖書箇所の中で、教会らしさを巡る一つの問いがあります。それは、36節の後半に関する問いです。

 

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

 

このうちで、「あなた方に平和があるように」という部分を省略している翻訳が、実はあるのです。以前の翻訳(口語訳)では括弧に入っていました。聖書が印刷されるようになるよりはるか以前、聖書は手書きで写されていました。その当時、写す際に解釈が加わることがあるのです。弟子たちの隠れ家に突然現れたイエス様は、「あなた方に平和があるように」と挨拶をしたのかどうか、ある写本では「していない」と判断し、ある写本は「している」と判断をしました。した場合の挨拶の言葉は恐らくシャローム、つまりあなた方に平和があるように、という言葉以外にはあり得ません。シャロームというのはイエス様が日常使っておられたアラム語の言葉で、直訳するならば「あなた方に平和があるように」としか訳しようがないのです。エルサレムを旅行するならば、「シャローム」という挨拶が互いに交わされるのを経験します。その意味は「あなたに平和がありますように」なのです。このシャロームについて、つまりこれは結局の所ただの挨拶だから、今日の聖書箇所でも「イエス様は、やあと挨拶をした」と訳せるはずだ、という考えも成り立たないわけではありません。そういう翻訳も英語の聖書ではあったはずです。そして、挨拶したという一文そのものを切り落としても良い、とも考えられなくはありません。

 しかしそれで良いか、とも思うのです。「やあこんにちは」と挨拶をしたという事実は切り落としても良いことなのでしょうか。シャローム、あなたに平安がありますようにという祈りは、余りに日常的であるが故に省略できる事柄なのでしょうか。

 今日の聖書箇所を、平安がありますようにというイエス様の祈りが必要な弟子たちについて記す聖書箇所だと考えて読むことが可能なのではないかと思います。

 

 *エマオ途上の出来事を振り返る

 最初に平和が必要なのは、エルサレムを出て、エマオに向かう道半ばの二人の弟子でした。彼らの心を占めていたのは一体何だったかと思います。不安と言えばいいのでしょうか。むしろ消化不良とでも言った方がいいのではないかとも思います。頭では分かっているのです。イエス様は一年ほど前でしょうか、ガリラヤにおられたときにこうおっしゃいました。「私は十字架につけられ、三日後によみがえる」、と。そして十字架につけられた。弟子たちは皆逃げ出しました。

 恐らく、エルサレムの町から外には逃げ出さなかったようです。エルサレムは城下町で、壁で囲まれています。出入りはいくつかの門を通らなければなりません。そこを出るところを待ち構えられては、捕まってしまいます。彼らは以前は自分たちも十字架にかかると意気込んでいたのでした。しかし今や、十字架から逃げ出し、そして追っ手にも捕まらないようにとエルサレムの町の片隅に身を潜めているのです。自分たちが捕まらないようにと、ある意味では祈りつつ逃げ、そして隠れる。「祈り」という言葉を使ってはみたものの、その祈りは実は聖書が語る「平和」とは正反対の出来事です。

 しかし弟子たちには四の五の正論を言っている余裕は無くなっています。まずは身の安全が大事だ。エルサレムに平和を祈るよりも、まずは自分の身の安全を確保しよう。ちょうど現代のドイツや日本にいる私たちが、ワクチンを打って抗原検査をした人だけがレストランに入れるように、教会もそうしたら良いだろう、三回目のワクチンを今年中に打つことをWHOはやめてほしいと言っている、でも打ちたい。確かにそれは排除の論理かも知れないけれども、まずは身の安全を確保した上でその論理の是非を話し合おう、と言っているとしたら、少しだけ2000年前の様子に似ているのかも、知れません。

 

 主が葬られた場所にやって来たのが誰かと思い出すと、十字架に主がかかるときにも逃げ出さなかった仲間であり、主が葬られた墓に行って葬り直しのわざをしたいと願っていた人たち、マグダラのマリアたち女性でした。自分たちは女性だから、イエス様との関係を指摘されても捕まって死刑になることはないと強気に出たのでしょうか。それにしても葬り直しのために香油と包帯を持って墓に向かうというのは強い覚悟が必要だったはずです。しかしその覚悟は裏切られました。イエス様のご遺体が見あたらないのです。その代わりに御使いたちが告げるのです。復活するという約束を思い出しなさい。約束の通りになったのだ、と。そこで弟子たちの隠れ家に急いで駆け込みます。いくら説明をしても、いくらあの約束を思いだしてほしいと説得しても、怪訝な顔つきをする弟子たちの中で、ペトロだけこっそり墓に向かいます。そして墓が空であることを確認し、引き返してきます。

 恐らく彼は隠れ家に戻り、残っていた仲間の弟子に対して、確かにイエス様の墓は空だった、本当に復活したんじゃないか、と言い始めていて、それをクレオパたちも聞いていたのでしょう。しかしクレオパを含む他の弟子たちは、納得しませんでした。気勢も上がらないので、クレオパたち二人の弟子は、その隠れ家から抜け出し、そしてエルサレムの門をくぐって西に向かうのです。東に向かうのならガリラヤへ行くのですが、彼らが向かったのは西でした。どんな顔をしてエルサレムの門をくぐったのか、それよりもどんな思いをしてエマオに向かったのか、想像します。

 不安と言えばいいのでしょうか。むしろ消化不良とでも言った方がいいのではないかとも思います。頭では分かっているのです。イエス様はご自身の約束通り、復活された、のかも知れない。しかし、心では納得していない。腑に落ちないのです。

 

 *目が開ける

 そんな彼らのために、心を砕いて語りかけて下さったのは、イエス様ご自身でした。そして彼らはエマオに留まるようにと無理に引き留め、食事を共にするのです。パンを取り、祝福し、そしてパンを割いて渡す。その時の様子を先ほど讃美歌を通じて共に思い起こしました。聖餐式の讃美歌を歌えば思い出すことがある。それは、その聖餐式の場所に、イエス様がいて下さるということです。エマオの宿での食事の席でも、彼らは思い出すのです。この食卓の場所に、イエス様がいて下さるということを。その時頭の中で分かっていた復活の約束が、心の中でも納得できるのです。

 この食卓でも、イエス様はこう挨拶をなさったのではないでしょうか。あなた方に平和があるように、と。その意味は、頭でわかっていることと、心で納得することが結びつきますように、という祈りでもあります。

 私たちは平和というと、喧嘩しているあの人とあの人が仲良くなることが平和なのだ、そう考え、喧嘩していなければ平和だと考えてしまいがちです。しかし、喧嘩することが平和を妨げているとは、必ずしも言えないと思います。かつてマザーテレサは、愛の反対は憎しみではなく無関心だと言いました。人と人との間で、愛が失われたとき、つまりシャロームが失われたときに、残るのは無関心です。

 そして今現に起こっているのは、人と人との間ではなく、一人の人の中で起こっている平和です。弟子たちは頭では復活の約束をイエス様がして下さったことは分かっていた。しかし心で信じることが出来ていなかった。しかし主にある平和によって、頭と心がつながりあうことが出来るようになった。それを聖書は「目が開けた」と表現しているのです。

 心の目が開いたときに、イエス様がそこにおられることが分かった。最近は「腹落ちした」という言い方が流行っているようです。心から納得する様子です。心の目が開いたときに、肉体の目で見ていることはどうなるのでしょうか。彼らの肉体の目からはイエス様が消え失せてしまったと聖書は証言します。その代わりに、心の目でイエス様のことをはっきりと見ることが出来るようになった、というわけです。

 ここでわざわざ福音書記者が、「その姿は見えなくなった」と書き記すことには、ある思い入れがあるように感じるのです。少し想像するのですが、このエマオへの道のりの最中同行して下さるイエス様の役割を、実はその後弟子たちが果たしたのではないか、と思います。まだ信じていない弟子たちがエルサレムに背を向けて歩いているのを後ろから声をかけ、そして彼らが不安に思い、納得していないことについて熱い思いを持って語る。あの方を思い出せ。あの方は約束して下さったではないか。そして信じ切れていない弟子たちの前でパンを取り、祝福し、割いて渡す。そして聖餐式の讃美歌を歌う。その時にそこにいた者たちは皆思い出すのです。主がここにおられる、と。2000年間繰り返し祝い続けられる聖餐式、その聖餐式の真ん中におられ、私たちによって思い出されることを待って下さっているのが、主イエス・キリストです。

 その時に肉体の目に映っているのが弟子とか牧師と言われる者であったとしても、そんなことは重要ではない。道々語って下さったあの方が、復活の約束について思い出せと説得して下さったあの方が、私たちの頭と心を結びつけて熱くして下さった、平和をもたらしてくださったではないか、と。そして二人の弟子たちは、小さなキリストとなって、次にエマオに向かう弟子たちに対して背後から話しかけるのです。「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」、と。この話しかけの最後は、やはり平和の食卓である聖餐で終わるのでしょう。

 そうやって平和を伝えなければならない者たちがたくさんいるということに気づいたクレオパともう一人の弟子は、エルサレムに戻ったのでした。

 当時のエルサレムはどういう状況だったのでしょうか。エルサレムには墓守をしていた番兵たちが急いで行って、守っていたはずの墓が空だったというものすごく恥ずかしい報告をしていました。それを聞いた祭司長たちは、「弟子が盗んだことにしておけ」といって、職務怠慢で罰すべき番兵たちにむしろ多額の金を渡し、嘘の噂を街中に流すことにしたのです。

 祭司長という位ですから、祭司です。神様と人間との和解を司るのが仕事です。しかし今彼らがしているのは、人を欺き、だますことを推し進める姿です。平和の使者とはとても言えない。

 心を騒がせているのは祭司ばかりではありません。エルサレムの住民全体が今や守りを固めなければならない状況になっていました。イエス様さえ十字架につければ平和が来る。そう当初思い込んでいた人々が、逆にややこしい事態に陥ってしまったと気づき始めています。エルサレムに向かって外からやってくる敵に備える必要が出てきたのです。この機に乗じてローマの軍隊がやってくるかも知れません。そのローマ軍に常に反対していた熱心党が結束して、皇帝と神殿が手を組んだと言って反乱を起こすかも知れません。そしてイエス様の弟子たちでガリラヤにいた者たちが再合流するためにエルサレムに結集するかも知れません。色々なことを考えると、エルサレムの町の中も外も守りを固めなければならないのです。平和がさらに遠くなっていきます。

 しかしエマオから戻ってきた二人の弟子は、あっさりエルサレムの町に入ることができ、弟子たちの隠れ家にたどり着いているのです。

 

 *姿を現して下さる主イエス

 隠れ家にたどり着いたクレオパたち二人の弟子は、仲間の弟子たちも少しずつ事態を理解し始めていることに気づきました。例のペトロは、引き続き力強く証言をしていました。それに同調するようにしてクレオパたちもまた証言をするのです。

 少しずつ弟子たちも頭の中に残っている主イエスの約束の言葉と、心の中の主イエスを愛する思いとが結びつき始めていました。彼らの、平和を伝えるという役割は、まがいなりにも果たされつつありました。

 ちょうどそのときに、主イエスが彼らの真ん中にお立ちになる、というのです。どうやって彼らの隠れ家を探し当て、どうやって入ってきたのでしょうか。いつ入ってきていたのでしょうか。クレオパたちがどうやってエルサレムの町に入るための門をくぐったのかを書き記さないのと同じように、福音書記者ルカは、関心を持つ必要が無いことを大胆に切り捨てて、ただ必要なことだけを書き伝えます。それは何かと言えば、次の事実です。

 「イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。」

 彼らの真ん中に立ち、というのは彼ら一人一人の中に立ち入って、とも訳すことが出来ます。彼らの中に入ってみると、皆心と頭がバラバラになっていた。その彼らのただ中に立って、平和を祈る。これがイエス様の姿です。

 しかしそういう風に言ってしまうと、少し誤解も生じます。何だイエス様とやらは、目に見えなくなったり、人間の中に入ったりして、それなら信じるというのは心の中の出来事だと考えればいいと言っているようなものではないか。そうか、信仰というのは、宗教というのは、心の中の出来事以上のものではないということか。そんな誤解を打ち消す形で、イエス様はこう弟子たちにおっしゃるのです。「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。」

 「体を具える」と書いて「具体的」と読みます。主イエスが私たちに示して下さった十字架の救いは、とても具体的です。「体のよみがえりを信ず」と告白するときに、私たちの信仰は具体的になるのです。

 

 *聖書を悟るために心の目が開かれる

 私たちにとって必要な、具体的な信仰にいたる鍵になるのが、今日お読みした最後の所です。「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開い」た。心と頭がバラバラにならずに平和でいるために何が必要なのでしょうか。それは聖書に何が書かれているのかを本当に理解し、本当に実感することなのではないか。

 今日の箇所を細かく観察すると、この「心の目を開く」というイエス様のわざの意味がわかってきます。

 (1)まず最初に、イエス様はこうおっしゃいました。「私について旧約聖書で書かれている事柄は、すべて実現する。そう約束したではないか」。

 (2)次に、この約束がすべて実現することに「気づき(悟り)」なさい、といってイエス様は弟子たちの心の目を開かれるのです。すると聖書には、キリストが十字架にかかって三日目に蘇ると書いてある、そしてすべての人が信仰に入るようになるとも書いてあるではないか、そうおっしゃるのです。

 (3)ここで気づく対象である聖書は、今でいう旧約聖書のことです。その中に、キリストの苦難とよみがえりが記されている、というわけではありません。旧約聖書にはそういう箇所はないのです。

 (4)しかし、イエス様はそのように信じて聖書を読みなさい、そうすればあなた方の中には平和が訪れる、頭と心が主にある平和によって包まれる、というのです。

 

 「聖書読みの聖書知らず」という言葉があります。聖書をよく読んでいるはずなのに、なぜか核心を外した読み方をしていて、何度も読んでいるのに中心にたどり着けない、という意味です。ちょうどそれは、コマを手作りするときに経験することに似ています。コマには軸が必要で、軸は完全に中心でなければなりません。軸がぶれていてはうまく回らないのです。

 ですからイエス様は、どこが中心であるかを示して下さった。そもそもイエス様は、挨拶をなさるときに「彼らの真ん中に立った」のです。どこが真ん中なのかを分からなくなってしまう私たちに対して、体をもって示して下さった。私たちコマが回り続けるために必要なのは、心の目が開かれ、中心がはっきりすることではないでしょうか。イエス様は示して下さるのです。聖書の中心は、私たちの生活の中心は、イエス様が十字架と復活を通じて人々が平和のうちにおかれることなのだ、と。中心がはっきりしたときに、コマは力強く回り続けます。

 あなた方に平和があるように。