先を進まれようとするイエス

2021/09/05三位一体後第十四主日 

「先を進まれようとするイエス」ルカ2413から35 牧師 上田彰

 *顧みられることのない伏線

 ルカ福音書において主の復活を告げる御使いたちの言葉は、二体の天使それぞれがなす、二つにして一つの促しになっています。一体目の促しは、こうです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」。この促しは、恐らく私たちが一生涯の中で、実は多くの希望に出会っているのに、それらに目を向けることなく、希望ではないものに希望を見出そうとする、そのような私たちに対する気づきを促す言葉です。私たちが希望にしてはならないものの中に希望を見出そうとする時に、この促しを思い出すことが出来れば幸いだと思います。

 さて今日の箇所と深く結びついている二体目の天使の促しは、こうです。「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい」。これは、エルサレムにおける十字架の出来事が起こる前の、およそ3年間にわたって、エルサレムよりはるかに北のガリラヤでのイエス様との交わりを思い起こしなさい、そこに希望があるのだ、という促しです。しかしその真意は、にわかには明らかではありません。というのは、確かにイエス様はガリラヤにおいて、希望の言葉を語りました。復活の預言です。復活ということは、究極の希望になるはずです。しかし、弟子たちはきょとんとしていた、というのです。その理由について福音書記者はこう記します。「彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである」(ルカ1834)。

 そういう事があると思うのです。復活の預言というのが、一種の伏線に留まってしまっているのです。小説にも伏線というものがあり、読み進めていくと、あああれが転換のきっかけだったのだ、と気づく、これが伏線です。日常生活の中にも伏線があります。大きな災害が起きた。直接的には天気や地震と関係して起こった自然災害だが、被害が大きくなる理由があった。それは人間が木を切りすぎたり、土を盛りすぎたりすることから起こる、人的災害という側面である。そしてそのような危険性が起こるということは、一部の環境保護団体からずっと指摘があった。しかし顧みられることはなかった。大体の場合、そういう指摘は起こってから思い出されるものです。イエス様の復活預言もまた、伏線扱いを受けているのです。つまり、実際にそれが起こるまでは思い出されることはなかった、という訳です。これが、「言葉の意味が弟子たちに隠されていた」ということです。いってみれば「言葉が右から左に抜けた」とか「言葉から耳と心が塞がれていた」ということにあたります。

 よく考えたら私たちを活かす言葉というものが、聖書を開くとあふれています。もしかするとその活かす言葉は、聖書からあふれ出て、そして聖書と教会から離れて、全く別の有名人の言葉として語られていることもあります。ああ良い言葉だなあ、座右の銘にしよう、といってずっと後になってからそれが聖書の言葉だと分かる、というような例です。結局の所天使達の二つの促し、生きておられる方を死者の中に捜してはならない、という促しと、ガリラヤ時代を思い起こしなさい、という促しは同じことを言っていて、もし私たちの目と耳と心が塞がれていなければ、私たちの周りには活かす言葉、命の言葉、生かして下さるお方の力に満ちあふれているのだ、そのことに気づきなさい、という促しです。

 今日お読みする箇所も、心が鈍くされている弟子たちが、真の命に気づき、目開かされるという所です。

 

 *ある人の登場

 出来事は日曜の昼過ぎに始まります。その日の早朝、何人かの女性たちが、イエス様を葬り直すために墓に向かいました。そこにはしかし、イエス様のご遺体は見あたらず、その代わりに先の御使いたちがいたのです。そして促しを受けます。二人目の御使いが言った言葉、人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか、という言葉を聞かされたときに、婦人たちはイエス様の言葉を思い出します。つまり婦人たちはこの促しを受け入れ、気づきを持つことがすぐに出来たのです。

 そして早速彼女たちは弟子たちの所に急ぎました。弟子たちは、皆一箇所に集まって隠れていたというのです。そして彼女たちは、御使いたちが告げた言葉を、そして正確には彼女たちが自分で得た気づきを、一生懸命弟子たちに伝えようとしました。しかしどうも弟子たちには伝わりません。十字架にかかって復活するとおっしゃっていたではありませんかと訴えているのにぴんと来てくれない。一言でいうならば、彼らの中で、預言と現実がつながらないのです。しかしその中で、ペトロだけは立ち上がり、つまり気づきを得て思い出し、墓に向かいます。そして確かに墓の中は空であったので、驚きながら他の弟子たちの元に帰った、と言います。

 こうやって、一人、また一人とイエス様の間近にいた者たちが、イエス様が本当に自分たちに命を与えて下さるお方だということに順番に気づき始める。これが2000年前のイースターから始まって、現代に至るまで連綿と続く伝道のわざであると言っても差し支えありません。始めに婦人たちが、あのイエス様の言葉を思い出し、イエス様が真に生ける神の子だと信じるようになり、そして弟子たちの中で最初にペトロがその気づきの群れの中に入れられる。

 

 次に、四番目と五番目の、命への気づきに入れられる者たち、今日の出来事の登場人物たちが出て参ります。彼らは、戻ってきたペトロに出会ってから出発したようですが、やはり他の弟子たちと同じように、その心は約束の言葉からは塞がれたままになっています。ぴんとくることはないまま、二人の弟子は隠れ家を去り、そしてエルサレムを去ったのです。マタイ福音書で、私たちはガリラヤで会おうという約束の言葉を聞きました。しかし地図で見る限り、エマオへの道というのは、ガリラヤに向かう道とは異なるようです。ガリラヤでイエス様に出会うという約束を信じてエルサレムを離れたのではなく、その約束を忘れてしまった者たちが向かう場所がエマオという小さな村であった、という事になります。

 彼らは昼過ぎにエルサレムを出発し、エマオに向かいます。二人の弟子は、いわゆる十二弟子ではありません。片方の弟子はクレオパ、もう片方は名前さえ分からない弟子です。そして二人は、つい先ほど息も切れ切れに自分たちに空の墓の報告をしてくれたペトロの証言について話し合いながら歩いていました。彼らはぴんと来てはいませんでしたが、何かがあるということは気づき始めていた。こういう場合に、二人で行くということは重要です。かつてイエス様は宣教旅行に弟子を派遣するときに、二人ずつ組になって出発するように命じられます。その意味は、当時の裁判において何かの証言をするときに、一人の証言ではだめだと定められていたことと関係づけることが出来ます。二人または三人の証言であれば有効とされる、というわけです。そしてイエス様はこうもおっしゃいました。二人または三人が主イエスの名において集まるところには、私もまたいるのである、と。つまりこうです。エマオに向かう弟子たちの数は2、つまり複数です。しかし複数いるというだけでは、彼らはキリストの復活の証し人としてはまだ形式的であって、本物とは言えません。彼ら自身が気づき、納得し、深く信じているわけではないのです。二人の共同体の間にイエス様が立ってくださったときに、初めて彼らは証言台に立つような仕方でイエス様が生きたお方であり活かすお方であることを告げることが出来るようになるのです。

 

「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」

 

聖書にはそう書いてありますが、二人の弟子たちの視点でここからは語ります。ここからはイエス様という名前は伏せることにします。「ある一人の人」が彼らに近づいてきた。そう表現してみたいと思います。彼らが真に生きた者とされるまでの、ほんの数時間前の出来事です。

 

*暗い顔から明るい顔へ

 その人は、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われます。すると、二人は暗い顔をして立ち止まった、と言います。促してくれる方がいるのです。しかし彼らの顔は暗いままでした。

 ここで「顔」という印象的な言葉が出て参ります。「顔」というのは旧約聖書を見ると、「人柄そのもの」という意味合いで使われています。現代でいう「人格」という言葉は英語ではパーソンと言いますが、その元の言葉は「顔」という意味合いがあります。神様の顔は余りにも神々しくて、まともに見ることが出来ない、というのが出エジプト記の証言です(出エジプト記3320)。新約聖書の中ではパウロが、やがて終わりの日に人間がイエス様と顔と顔とを合わせてお会いすることが出来る、と述べています(第一コリント13章、「愛の賛歌」)。そしてガリラヤにおられたイエス様が、十字架にかかることをご決意しエルサレムへと出発されたときに、聖書の元の言葉では「エルサレムに顔を向けた」と表現されています。つまり、決心した、ここからまっすぐに定められた道を歩む、それは顔の向きを定めることだ、という訳です。

 そしてこのお方は二人の弟子に話しかけるのです。結局それは、私に顔を向けなさい、という促しだという事になります。しかし弟子たちは「暗い顔」をして立ち止まった。これは、心の暗さを意味しているとも言えます。単に落ち込んでいるということではありません。命の言葉への気づきを得ていないのです。「顔を塞ぐ」という言葉がありますが、心を命の言葉へと向けることが出来ず、隠されたままになっている様子です。

 そしてこうも彼らは言います。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」エルサレムでの出来事を知らないとしたら、それはあなただけですよ、という叱責の言葉です。このお方によって叱責されても不思議のないところで、彼らは逆に叱責してしまう。少し長いのですが、暗い顔をした二人の弟子たちの、その暗さをよく示しているセリフなので、聖書を読みながら実際にその暗さを追いかけてみたいと思います。

 

「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」

 

ここで区切ります。弟子たちがガリラヤ時代のイエス様との交わりを語っている部分です。弟子たちは、ガリラヤで弟子とされてから三年ほど、ずっとイエス様に期待をしていたことについて語っています。しかしイエス様が何を語り、何を約束してくださったかについては沈黙しています。少し厳しいことを言えば、イエス様がどういうお方であるかということに関して、弟子たち自身の主観に基づく期待は持っていたことが分かりますが、その根拠となるはずのイエス様の言葉について沈黙している。理解していないのです。

 私たちは普段、顔が明るいとか暗いというのを、どういう意味で使っているでしょうか。神様の言葉によって約束されているから明るくされる表情というものを知っているのでしょうか。イエス様がそうなさったように、神様が示して下さった道をまっすぐに向かっているから明るくされるという面持ち、顔(かんばせ)を知っているでしょうか。

 顔を上げて、このお方のお言葉を聞いてみましょう。私たちもまた明るい顔とされたいのです。

 

 「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

 

 もう余り説明も必要ないのではないかと思います。このお方は確かに二人の弟子を叱っています。責めています。物わかりが悪く、心が鈍い、それは預言者が言ったことを受け入れなかったからだ、メシアが受ける苦しみについて、そして栄光について、旧約聖書の預言者たちは語っているではないか、そういって、このお方は旧約聖書全体の説明をし、そしてそれらの説明のすべてが指し示している一人のお方、即ちイエス様について説明をなさったのです。

 聖書に詳しい方ならご存じだと思います。救い主が苦難を受けるという箇所は、いくらか旧約聖書にあります。ただ、救い主の名がイエスだということは出てこないのです。だからこそユダヤ人たちはイエス様を救い主ではないといって十字架につけたのです。しかしこのお方ははっきりおっしゃるのです。旧約聖書が預言の形で指し示す救い主とは、私のことなのだ。目を開きなさい、心を開きなさい。もうすでにあなた方の顔は明るくされている、と。

 

 

 *先を進まれようとするイエス様

 三人は、エマオの村に着きました。日が傾いてきていましたが、このお方はさらに先に進もうとされます。そこで弟子たちは頼みます。今晩はここに一緒に泊まってほしい。

 現代においても中東の人は、男性同士や女性同士で同じ部屋で寝るということは、アカの他人に近い関係であってもそれほど抵抗が無いようです。相手を信頼するという行為が、共に食卓を囲むこと、そして共に宿泊をするということにあるのです。二人の弟子たちは、この名も知らぬ旅人と同宿の友となりたい、と申し出るのです。このお方はそれでも先に進もうとされる様子でしたが、弟子たちがどうしてもというので、その晩はエマオに滞在することになりました。

 そして食事をするのです。そのお方は、パンを取り、賛美、つまり感謝の祈りを唱え、パンを割いて弟子たちに配ります。

 その様子が余りに最後の晩餐と重なるので、ついに弟子たちは気づきます。主だ。聖書は、「弟子たちの目が開けた」と表現します。初めて自分たちの目の前に救いの約束があり、命の言葉があることに気づいた弟子たちは、目が開け、心が明るくなり、顔を神さまの方にまっすぐ向けるようになるのです。

 しかしその時、話していたお方の姿はなくなりました。人が突然消えたという意味ではないでしょう。肉体を伴ったイエス様よりも、そのイエス様が発して下さった約束の言葉の方が、はるかに重要だということに気づいたのです。私たちの心は燃えている。それはこのお方が聖書について語ってくれたときに、燃えるのだ。

 ある説教者が、説教の極意はこれだ、という風に教えてくれた言葉があります。それは、説教をすることによって、説教者が消えていくことだ、というのです。もはや上田彰牧師や上田文牧師が語るということが重要なのではなく、イエス様のことについて語った、その言葉そのものが重要となるのです。説教者は消えてしまって良い。そして語られた言葉だけが残れば良い。

 

 もうすでにイエス様の姿はそこにはなくなりました。最初からこのお方が考えていたように、イエス様は先を進まれるのです。イエス様は何のために先に進まれたのでしょうか。次の、名も知られぬ弟子たちに、命の言葉への気づきを与えるために先へと進まれるのです。

 そしてエマオにまだ留まっているクレオパともう一人の弟子たちのもとには、何が残っているでしょうか。胸に残っているのは約束の言葉です。彼らにとってはそれだけで十分なのです。彼らもまた命の言葉への気づきを得て、前へと進みます。次の人に約束の言葉を託すために、前へと進みます。