恐れと信仰

2021/08/29 三位一体後第十三主日礼拝
「恐れと信仰」
マタイによる福音書645~52
                                                                          上田文
最近、稲盛和夫さんという方の文章を読みました。稲盛和夫さんは、元京都セラミック株
式会社、現在の京セラや、電気通信会社の KDDI を設立した人です。彼は、新しい事を成し
遂げる力としてこのような言葉を書いています。「仕事をしていく過程には、さまざまな障
害がありますが、これをどう乗り越えていくかによって結果は大きく違ってきます。何か新
しいことをしようとすると、反対意見やいろいろな障害が出てくるものです。そのようなこ
とがあると、すぐに諦めてしまう人がいますが、すばらしい仕事をした人は、すべてこれら
の壁を、高い理想に裏打ちされた信念でもってっき崩していった人たちです。そうした人た
ちは、これらの障害を試練として真正面から受け止め、自らの信念を高く掲げて進んでいっ
たのです。信念を貫くにはたいへんな勇気が必要ですが、これがなければ革新的で創造的な
仕事はできません」。この言葉を聞いてから、今日のみ言葉を読むと、ある意味で重なりあ
う所がある事に気が付きました。逆風が吹き荒れる湖の上で、諦めずに、信念をもって漕ぎ
続ければ、いつかイエスさまが助けてくれる。信念をつらぬくことには、大変な勇気が必要
だけれども、これによって、神の国が近づくのであると読むことが出来るように思うのです。
しかし、これでは信仰と信念をごちゃまぜにしてしまっていると言えます。今日の聖書箇
所は、信念と信仰を取り違えてしまう私たちに、イエスさまが信仰によって生きるという事
を教えてくださる話です。
私たちの人生は、しばしば舟に譬えられます。仕事や家庭、人間関係など、生きる中で出
会う様々な困難や障害を波と考え、その中を航海しているというイメージから来たのだと思
います。また、社会と個人を海と舟に譬えてこのように考える人もいるようです。私たちは
皆、小さな舟に乗っていて、一人ひとりが自分の意志でこの舟を動かす事が大切である。他
の人を自分の舟には乗せられないし、誰かの舟に乗って自分の意志を汲んでもらおうとした
り、誰かの意志を汲んで動かそうとすると、うまく行かない。同じ目標があるときは、小舟
が集まって船団を作り、目標が変わったら、解散したら良い。このように、自らの生き方を
舟に譬えるのです。
しかし、面白いことがあります。教会自体が、しばしば舟に譬えられることがあるのです。
そのため、舟が教会のシンボルとして表される事があります。内陣に三角の奥行をつけて、
舟の先端を表す、というような具合です。私たちの教会も、長い椅子を同じ方向に向けて並
べ、舟の座席を表していると言えるかもしれません。この地上の歩みを信仰の航海として捉
えることになります。しかし、この場合、私たちは一人ひとりが小舟に乗っているとは考え
ていないように思います。エフェソの手紙には「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適し
た者とされ、キリストの体を造り上げてゆき」とあります。信仰者の歩みは、同じ目標を持
つ小舟の船団ではなく、イエスキリストの体である教会という大きな舟に乗せられる事から

始まるという事を表しているのかもしれません。
今日の聖書箇所 45 節からは、イエスさまの弟子たちが舟に乗ってガリラヤの湖を渡って
いくことが記されています。この弟子たちの船旅での体験は、私たちが教会に連なる信仰者
として生きて行く中で体験する事と重なります。45 節には「それからすぐ、イエスは弟子
たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ行かせ」とあります。弟子たちは、主イエ
スに「強いて」舟に乗せられた。自分の意志とは関係なく、強制されて舟に乗せられたと言
えます。この文章を読むと、私たちは「いやいや、私は強いられて礼拝を守っているのでは
ない。自分の意志で教会に来ているのだ。一週間に一度、教会に来ることが出来るようにさ
まざまな努力をしているのだ」と言いたくなるように思います。確かに、私たちは、誰か別
の人に強いられて教会に来ているのではありません。しかし、イエスさまと私たちの関係に
置いては、「強いられて」という表現があてはまる事があります。イエスさまは、信仰者が
教会というこの地に建てられた群れに加わって生きる事を強いておられます。それは、別に
強いられているわけではない。教会が楽しいから、教会で癒されるから来ているのだという
人がいるかもしれません。しかし、その逆もあります。教会は人間関係が煩わしいから行き
たくない。それよりも、自分一人で神さまを信じて、イエスさまの教えを聞いて生きて行け
ばよいではないか。そして、時間があるときは教会に行って牧師の話を聞いて、人々と交わ
らずに帰ったら良いではないか。面倒な奉仕などしたくないという思いもまたあるように思
います。しかし、イエスさまが「強いて」教会という舟に私たちを乗せられるのです。それ
は、そこに乗らなければ私たちが本当に救いに与って生きることが出来ないからです。ヨハ
ネの手紙一にはこのように書かれています。「私たちが見、また聞いたことを、あなたがた
にも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるです。わたしたちの
交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」とあります。信仰者は、一人で生
きるのではなくて、キリストの体であり、舟である教会に乗り込む事によって、その頭であ
るイエスさまに繋がるという事です。また、兄弟姉妹は、そのイエスさまの体である教会の
一部です。同じキリストの体の部分である兄弟姉妹との交わりに生きる事によって、私たち
は恵みに本当に養われるという事になります。私たちは、キリストという舟にお客さんとし
て乗っているのではない事が分かります。乗組員とされているのです。同じ乗組員とされて
いる兄弟姉妹たちとの交わりは、楽しい事だけではない事が分かります。乗組員として、恵
みに養われているのです。その養いの中に、複雑な人間関係や、難しい奉仕があるという事
を、聖書は教えてくれるのです。
また、イエスさまに強いられる事として、この「伊東教会で信仰生活を送る者とされた」
という事があるでしょう。弟子たちは夕暮れに前に漕ぎ出しました。しかし「夜が明けるこ
ろ」になっても陸に到着しません。彼らは、湖の上に吹き荒れていた逆風に漕ぎ悩んでいた
のです。真夜中で、舟にはイエスさまが乗っておられません。舟は今にも沈没しそうです。
弟子たちは恐れたことでしょう。しかし、遠く離れた隣の舟の事を想像してみるとどうでし
ょう。湖の上は、全面同じ風が吹いているわけではありません。隣の舟には、それほど強い
風が当たっていない場合もあります。乗っている人たちも、それほど漕ぎ悩んでいるようで

はありません。あちらの舟のほうが、気楽に、はやく目的地に着けるような気がしたりもし
ます。しかし、イエスさまは私たちを「強いて」この伊東教会という舟に乗せられたのでし
た。弟子たちの乗っている舟は、木造の小さな舟でした。他の舟と比べても、とても立派と
は言えないような舟であったと思います。どうして、こんな舟に乗せられたのだろう。この
ままでは、この舟は沈んでしまうのではないかと弟子たちは思ったことでしょう。しかし、
弟子たちもそして私たちも、さまざまな出会いと導きによってこの舟を与えられました。自
分の意志によるというよりも、神さまによって導かれて、この伊東教会という舟に乗ったの
です。このように考えると、私たちはやはり、イエスさまとの関係において「強いられて」
この舟に乗り漕ぎ出したと言えます。
弟子たちは、この舟に乗り漕ぎ出しましたが、逆風のために「漕ぎ悩み」ました。弟子た
ちは、もともとガリラヤ湖で漁をする漁師たちでした。つまり、ガリラヤ湖の事は、誰より
も知り尽くしていたはずです。何時になったら逆風が吹く、その場合はどうしたらよいとい
う手段も知っていたはずです。しかし、そのような弟子たちが「漕ぎ悩んだ」のです。この
「悩む」という言葉は、「試す」とか「試験する」という意味があります。彼らは、ただ悩
んだのではなく、「試された」と言い換えることができます。教会が試される時というのは、
どのような時でしょうか。教会の使命は伝道だと言えます。しかし、その伝道はいつでも上
手く行くとは限りません。イエスさまは、自分が育った所や、家族を知っている人たちがい
る故郷では、ほとんど奇跡を行われませんでした。また、人々に悔い改めと罪の赦しを語っ
たヨハネは、結局、殺されてしまいました。神さまの事を伝えているのにも関わらず、伝道
にはいつも大きな危険があるのです。神さまはどうしてこのような事をされるのだろう。神
さまのことが分からない。そして、教会に集まる私たちにも、イエスさまが見えなくなると
思うのです。先月まで、彰牧師がマタイによる福音書の講解説教をしていました。その最後
の所でイエスさまは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ
28:20)と約束してくだいました。そして、聖霊によって私たちと教会と共にいてくださっ
ています。でも私たちの目には見えません。目に見えず、手で触れることも出来ないので、
私たちは、イエスさまが本当に教会にいらっしゃるのだろうか、本当のこの舟に乗ってくだ
さっているのだろうかと感じることがあります。弟子たちは、もっと強くこの事を感じたの
ではないでしょうか。なぜなら、イエスさまは、弟子たちを舟に乗せ、ご自分は祈るために
山に行かれたとあります。弟子たちは、舟にイエスさまが乗られなかった事を目で見て分か
っているのです。弟子たちの不安は、殊更だったと思います。弟子たちが漕ぎ悩んでいる時、
イエスさまは、いったい何をされていたのかと思います。
弟子たちだけを舟に乗せて出発させたイエスさまは、群衆を解散させた後、「祈るために
山へ行かれた」とあります。イエスさまは、神さまと交わりの時を大切にされました。神さ
まがイエスさまに求められたこと。それは、神さまから離れて、自分勝手に生きてしまう私
たちを、その罪の支配から解放し、神の国生きるものとする事です。そのために、イエス
さまは、悔い改めるべき罪人である私たちと同じ人となってくださいました。そして、罪の

ないイエスさまが、悔い改めを必要とする私たちと同じ洗礼を受けてくださいました。それ
は、イエスさまが「私たちを救う」という神の御心に従うためでした。そのためにイエスさ
まは祈っておられたのです。イエスさまの「祈り」は、ただのお願いごとではありません。
神さまとの交わりによって、神さまに愛された者として生きるために、神さまの御心を生き
るために大切な事でした。そして、そのその祈りは、私たちを救うための、祈りであったの
でした。
イエスさまは、逆風の中、湖を渡っていく弟子たちのために、教会のために、私たちのた
めに祈ってくださっていたのでした。イエスさまが、舟に乗り込んでおられないのは、弟子
たちや私たちを突き放して、「試される」ためではありません。イエスさまは、湖を渡る私
たちと私たちの舟のために神さまに執り成しの祈りをしてくださっているのです。これは、
目に見えること以上の恵みです。イエスさまが、神さまの右の座において、私たちを、そし
て教会を守り支えて下さっているのです。
弟子たちと私たちのために執り成しの祈りをされているイエスさまは、その祈りの中で私
たちの事をしっかり見て下さっています。48 節には「逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んで
いるのを見て」と書かれています。そして、湖の上を歩いて来てくださったとあります。水
の上をどうして歩くことが出来たのかという事は問題ではないように思います。イエスさま
は神さまです。神さまなら、そのような事もなさるだろうと思います。しかし、イエスさま
が水の上を歩いたので、この方が神さまであると信じるべきであるというわけではありませ
ん。私たちは、イエスさまをそのように信じているのではありません。私たちは、イエスさ
まのみ言葉を聞いて信じています。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にい
る」という言葉を信じています。ここで見つめるべきなのは、イエスさまが漕ぎ悩んでいる
弟子たちと私たちの舟をいつも見守ってくださり、どのような隔たりや妨げも乗り越えて私
たちの所に来てくださるという事です。聖霊の働きによって来てくださり、共にいて下さる
のです。
しかし聖書には、イエスさまが湖の上を歩いて弟子たちの所に行かれたのですが、何故か
「通り過ぎようとされた」とあります。私たちは、このことを読むとき、イエスさまが自分
たちのところに来てくださったにも関わらず、知らぬ顔をして通り過ぎて行かれたように感
じます。けれども考えてみると、旧約聖書の中に似たような場面がある事に気づきます。出
エジプト記 33 章には、モーセが神さまに「どうか、あなたの栄光をお示しください」と願
います。これは、私たちの願いと重なるように思います。この私たちの願いに神さまはこの
ように答えられます。「人間は、神の顔を見て尚生きてはいかれない」。しかし、神さまにお
会いしたいと願う私たちのために、神さまは様々な方法で表れてくださいます。預言者エリ
ヤは、神さまのみ言葉を伝え、それを聞いた人々から殺されそうになります。エリヤは疲れ
切り、「もう十分だ」と投げ出してしまいます。しかし、そのようなエリヤに神さまはこの
ように言われました。「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」。するとこのような事が
起こります。「見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起
こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こ

った。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の
中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた」(列王記上19)
私たちの人生には風の時もあれば、地震や火事の時もあります。弟子たちは、逆風の漕ぎ悩
んでいるのです。しかし、その後で「静かにささやく声」をエリヤは聞きました。そのささ
やく声を聞いて、エリヤは神さまが生きておられる事を知りました。そして、それを語る者
とされたのです。このエリヤに起こったことは、弟子たちに、そして私たちにも関係がある
ことです。私たちは、逆風や火を経験しなければなりません。しかし、それを通じて今主が
山からこちらを見て下さり、舟まで来てくださるのを経験するのです。しかし、私たちはそ
のことを直ぐに理解する事は出来ません。「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるの
を見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見て脅えたのである」(4950) とあ
ります。私たちは、このように、イエスさまを幽霊だと思って大声で叫びます。弟子たちは
イエスさまを「見て」とあります。私たちの目はそのような物だということです。イエスさ
まを見ても理解できないのです。イエスさまが助けに来てくださるのに、その恵みを受け取
る事が出来ず、幽霊だと思って脅えてしまうのです。しかし、イエスさまは、いつか時が来
ればささやくような声で私たちに語ってくださるのです。私たちに理解できるように、教え
てくださいます。そして、私たちはそれを聞き、福音を語る者とされるのです。逆風を経験
し、火や地震を経験した者にとって、それは事実となります。
イエスさまのささやき声。それは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」という
言葉です。この「わたしだ」という言葉は、「幽霊ではなくわたしだ」という意味だけでは
ありません。この言葉は「わたしはある」と訳すこともできます。出エジプト記3章で、神
さまがモーセにご自分のお名前をお示しになった時の言葉です。神さまは「わたしはある。
わたしはあるという者だ」という言葉によって、人間の考えを超えた所で、神さまは確かに
存在し、生きておられるという事を教えてくださったのです。その言葉がここでイエスさま
によって告げられました。見ても信じることが出来なく、また見えないので不安になる私た
ちにイエスさまが「わたしはある」と告げてくださったのです。逆風の中でうろたえ、脅え
る弟子たちと私たちに、イエスさまが、確かに生きて働き、共に生きてくださるまことの神
である事を、ご自身の言葉で示してくださったのです。
また、イエスさまは「恐れることはない」ともおっしゃいました。この言葉は、今読んで
いる福音書の前の章である5章の終わりに出てくる言葉です。娘が死んだと聞かされた、会
堂長のヤイロにイエスさまは、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われたのでした。
恐れは、私たちの目を閉じさせ、暗くし、心を混乱させます。特に死という現実を前にした
ときはそうです。私たちは死を乗り越えることができません。そうなると、私たちは自分勝
手に希望を失い、終止符を打ってしまういます。しかし、わたしたちを舟に強いて乗せられ
たイエスさまは、わたしたちを救うために来てくださった方です。イエスさまには、私たち
が想像も出来ないようなご計画があるのです。祈りもせず動き、神さまのご計画を台無しに
してしまってはいけません。イエスさまは、「恐れることはない」とおっしゃり、わたした

ちが、み言葉に耳を傾け、イエスさまを信頼することを求められたのでした。
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。そうおしゃってから、イエスさまは舟
に乗り込まれました。すると、「風は静まった」のです。イエスさまの御心によって、漕ぎ
出した教会という舟は、確かに生きて働き、共にいて下くださるイエスさまによって守られ、
支えられているのです。
しかし、そういうことが分かる弟子になるには時間がかかります。また、イエスさまに遣
わされて、神の国を告げ知らせる使徒になるには、さらにもっと時間がかかります。弟子た
ちはこの出来事に「非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからであ
る」とあります。自分たちが持っている小さなものを用いて、イエスさまが大きな救いの御
業を行ってくださいました。しかし、弟子たちはその恵みを受け止めることが出来ずに、ま
た、イエスさまを信頼することもできなかったのです。わたしたちも同じです。わたしたち
は、さまざまな逆風や壁に会う時に、立ち止まってしまい、後戻りしてしまいます。そして、
イエスさまのご計画を無視して、自分勝手に絶望するのです。心が鈍くなるのです。そして、
このことは全ての人を救うために、神の国を前進させようとしてくださっている、イエスさ
まのご計画の逆風になります。私たちの不信仰こそ、教会という舟の逆風になってしまう事
があるという事です。
しかし、イエスさまはその逆風の中で、私たちに恵みの御業を行ってくださいました。私
たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んでくださり、それによって罪の赦しを与えて
くださいます。イエスさまは、今も生きて、私たちを見てくださり、世の終わりの再臨の時
まで、私たちを導いてくださるのです。わたしたちは、「安心しなさい。わたしだ。恐れる
ことはない」と言ってくださる神さまを信じています。そして、私たちの救いのために、十
字架の上で死んで、神さまによって復活され、私たちと神さまを繋ぐ道となってくださった
このイエスさまを「わが父」「わが主」「わが神」と呼び、一歩一歩を前進するのです。
「すばらしい仕事をした人は、障害を試練として真正面から受け止め、自らの信念を高く
掲げて進んでいった人」であると言った稲盛和夫さんの言葉を思い出します。私たちは、自
らの信念を掲げて生きることは出来ません。信念では、死を乗り越えるような事もできない
のです。死だけではありません。私たちは、さまざまな逆風の中で、いつか力尽きてしまい
ます。しかし、私たちの舟は、イエスさまが見ていてくださり、「安心しなさい。わたしだ」
と導いでくださる舟です。私たちを救うために神さまがいつも導いていてくださるのです。
イエスさまは、この舟に私たちを強いて乗せてられたのです。乗せてくださったのです。だ
から、最後までこの方を信頼して歩めば良いのです。自らの信念ではなく、与えられた信仰
により歩めば良いのです。なんという幸いかと思います。私たちには神さまが与えられてい
ます。この神さまに感謝したいのです。