帰るところ

2021/08/22 三位一体後第十二主日礼拝
「帰るところ」マルコによる福音書6:30~40
上田文
最近、日本キリスト教史について書かれた本を読みました。そこで、特に興
味深かったのは明治維新のプロテスタント・キリスト教の伝道です。この時代、
多くの没落士族の子供たちが青年になりキリスト教に改心していきます。この
青年たちは、戊辰戦争(ぼしんせんそう)により敗北した、旧幕府に仕える武
士の子どもたちでした。この子どもたちは、君主の教えを受け、仕えることを
教えられていました。しかし、その君主を失ってしまいました。仕えるという
生活の基盤を失ってしまいました。多くの物を取り上げられ、どうやって生き
て行けば良いのか分からなくなっていました。そのような彼らに出会ってくだ
さったのが、イエス・キリストでした。彼らは、この新しい君主の教えによっ
て、再び立ち上がり洗礼を授けられ、新しい命の中を歩み始めました。生涯、
イエスさまと共に歩む者とされたのです。このような青年の力によって、日本
のプロテスタントの伝道は進められて行きます。彼らは、イエスさまの教えに
よって、新しい日本を作るという、新しい目的を与えられました。けれども、
伝道はなかなか思うように前進していないように見えます。今も昔も、相変わ
らず教会は「敷居の高い」と言われ続けています。その理由の一つとしてあげ
られるのが、この伝道の担い手たちが、新しい日本を作ろうとした誇り高いサ
ムライであり、知的な人たちであったからであると言われています。この彼ら
のサムライであるという誇りが、「私たちは他の者とは違う」という奇妙なエリ
ート意識に繋がり、日本人一般に「教会は敷居が高い」と思わせる雰囲気をも
残したと分析する人もいます。
このイエスさまの教えによって、国を変えたいと願ったサムライたち。この
サムライたちが模範にしたのが、今日の聖書箇所に出てくる「使徒たち」では
なかったかと思います。「使徒」とは「遣わされた者」という意味です。6章の
7節以下には、イエスさまは、12人の弟子たちを宣教のため、また悪霊を追い
出し、病人を癒すために派遣されたとあります。今日の聖書箇所は、この「使
徒たち」が宣教から帰ってきて、イエスさまに報告をする所から始まります。
30節には、「使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったこと
や教えたこと残らず報告した」と書かれています。「先生!私たちは、こんな風
にみ言葉を語ると、人々が熱心に聞いてくれました。また、私たちが悪霊を追
い出すと、病気が治ったのです!」と自分たちの体験を興奮しながら語ったの
でした。
このような弟子たちの報告を聞いて、イエスさまは「さあ、あなたがただけ
で人里離れた所に行って、しばらく休むが良い」と言われました。しかし、イ
エスさまは「疲れただろうから、人のいない所にいって、疲れを癒してきなさ
い」と言われたのではないように思います。この福音書の1章の35節には「朝
早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出かけて行き、そこで
祈っておられた」と書かれています。イエスさまは、祈るために、しばしば人
里離れた所に行かれてのでした。それは、多くの人々から離れて、休むためで
はなくて、祈るためでした。イエスさまは、人里離れた所で祈って、父なる神
さまと語り合う交わりの時を持っておられたのでした。このような、神さまと
の交わりの時を、イエスさまは弟子たちに求められたのでした。
イエスさまが人里離れたところで祈られるようになった時というのは、イエ
スさまの働きがとても順調だった時であると言えます。多くの業を行い、み言
葉を述べ伝え、人々がイエスさまを追いかけ始めた時です。また、イエスさま
は、宣教の拡大のために 12 人を選び弟子とされた時にも、人里離れた山で祈っ
ておられます。イエスさまは、人々にもてはやされ、自分の働きが順調になり
はじめた時こそ祈る事を大切にされたのでした。私たちは、自分の働きがうま
く行っている時には、神さまから離れてしまうように思います。なんでも自分
の力で出来るように思ってしまい、神さまに頼る必要がないと考えてしまうか
らです。しかし、そのような時こそ、祈りなさいとイエスさまは教えてくださ
るのです。弟子たちも同じです。彼らは「『自分たちが』が行ったことを残らず
報告した」とあります。すべらしい働きができたという充実感に満たされてい
たと思います。そういう弟子たちを見てイエスさまは、働くのをやめて祈るこ
とが必要だとおっしゃたのでした。
しかし、イエスさまは充実感に満たされ、興奮している弟子たちが祈りの時
間を持つことは難しいという事に気づいておられました。そのためにイエスさ
まは、弟子たちについて来てくださいました。充実感に満たされ、興奮してい
る弟子たちは、祈るよりも、働き始めることをイエスさまは見通しておられた
のでした。それは私たちにも同じです。教会に来て、祈るよりも体を動かして
いる方が充実していると考えてしまいます。牧師になる事を目指す神学生が、
実習教会で良く言われる事があります。「落ち着いて、礼拝堂で座っていなさい。
そこに座っている事も実習です」と言われるのです。私の経験を踏まえて言い
ますと、大概の場合、神学生は自分が何かしなければならないと焦っています。
しかし、多くの場合何をしていいのか、分からないので気ぜわしくその辺を歩
き回っています。ジッと座っていると、何もしない中学生だと思われるようで、

不安になるのです。礼拝堂にジッと座って祈る事というのは、教会の大きな
仕の一つなのですが、自分の中でそれを受け止めることが出来ないのです。祈
る事というのは、何もしない事ではないのですが、それを実行する事が出来な
いのです。イエスさまはそのような私の姿も良く知ってくださっていたのでし
た。だから、弟子たちを通して、人里離れた所で祈る事の大切さを教えようと
されたのかもしれません。
しかし、弟子たちよりも人々がその祈りの場所に先についていました。人々
はきっと、イエスさまがその場所でいつも祈っておられたのを知っていたので
しょう。人里離れた祈りの場所は大変な騒ぎになっていたのでした。しかし、
それほどまでに、人々はイエスのさまのみ言葉を求めていたと考えられます。
イエスさまは、「飼い主のいない羊のような有様を見て深く憐れんだ」(34)と
あります。人々はそれほどまでに、自分を守ってくれる人を求めていたのでし
ょう。自分を保護してくれる人、信頼して自分を委ねることのできる、飼い主
を求めていたのです。このような人々を見てイエスさまは「深く憐れみ、いろ
いろと教えはじめられた」のでした。憐れむという言葉は「腸がよじれる」「内
臓が揺り動かされる」という意味の言葉から作られています。また、この言葉
はイエスさまが持たれる感情の表現以外には使われない言葉でもあります。イ
エスさまは、私たちが感じている困難や辛さ以上に、私たちが感じることが出
来ないくらいに、私たちの事を思い「内臓が揺れ動く」くらいに憐れんでくだ
さったのでした。そして、何とかしてこのような私たちを救いたいと願われ、
み言葉を聞かせてくださったのでした。
ところが、弟子たちはイエスさまのこの思いを受け止めることが出来ないで
いました。イエスさまの話が続いて行く間に、弟子たちは心配になりはじめま
した。弟子たちは、イエスさまの教えを止めるようにこのように言います。「こ
こは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。
そうすれば、自分たちで周りの里や村へ、何か食べる者を買いに行くでしょう」。
イエスさまは、飼い主を求めて集まった人にみ言葉を伝えていました。それに
も関わらず、弟子たちは、この人々に、自分たちで食べる者を何とかしなさい
と言おうとしたのでした。弟子たちは、「仕える者」として使徒とされていまし
た。しかし、宣教活動から帰ってきた弟子たちの充実感は、弟子たちを「仕え
る者」から、自分のために働く者へと変えてしまっていたのでした。このよう
な事は、教会で仕える私たちにもよくある事のように思います。例えば、礼拝
堂での感染予防のためにマスクをつける事は、隣人への感染を防ぐ、隣人への
愛から行うことです。しかし、充実した感染対策のもとに私たちは時折、その

ことを忘れてしまうのです。そのような時、私たちは、自分が感染しないため
に、感染をおそれて、隣人にマスクを着けさせようとしてしまうのです。感染
対策の忙しさから、隣人に「仕える者」から、自分のために働くものに変わっ
てしまうのです。
このような、弟子たちと私たちにイエスさまは、驚くようなことをおっしゃ
いました。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。あなたがたが何とかし
なさいとおっしゃるのです。
弟子たちは、きっと「そんな無理なことは出来ない」と思ったのでしょう。「私
たちが二百デナリオンものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか」
と聞き返したとあります。一デナリオンは一日分の賃金の事です。つまり二百
デナリオンは、一人の人が二百日かけて稼ぐお金という事になります。それく
らいなければ、人々を食べさせることは出来ないのです。弟子たちは、イエス
さまに「そんなことが出来ないのは、あなたがご存じでしょう」と言ったので
した。宣教の旅の充実感と興奮の中で、自分は何でも出来ると思い始めていた
弟子たちでした。しかし、イエスさまのこの言葉を聞いて、やっとその勘違い
に気づくことが出来たのでした。イエスさまは、このようにして、有頂天にな
っている弟子たちを、再び「仕える者」へと育てようとされたのでした。そし
て、イエスさまは「パンは幾つあるのか。見てきなさい」とおっしゃいました。
あなたがたは、今どれだけのものを持っているのか。見てきなさいと言われた
のです。弟子たちが持っていたのは、「五つのパンと魚が二匹」だけでした。こ
の少ない食料が弟子の持ち物でした。しかし、この五つのパンと魚二匹で、イ
エスさまは、男だけで五千人もの人々を満足させる奇跡を行ってくださったの
でした。
「パンは幾つあるのか。見てきなさい」とおっしゃったのは、弟子たちが今
もっているものを確認させるためでした。パン五つと、魚が二匹。弟子たちが
人々に分け与えることが出来るのはそれだけなのでした。弟子たちは、自分の
持っているものは、五千人以上いるこの人々の前では、何の役にも立たないこ
とに気づいたのでした。自分の力でなんでも出来ると思い始めていた弟子たち
は、自分のもっている物が本当に小さなものである事に気づいたのでした。し
かし、このことを弟子たち確かめられたイエスさまは、弟子たちの持っていた
パンと魚を手に取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちに
渡して配らせ、魚も皆に分配されたのです (41)。すると、すべての人が満腹し、
さらに、パンの屑と魚の残りが12の館にいっぱいになるほど余ったのでした。
イエスさまは、飼い主のいない羊のような洋衆に、満ち足りるほどの食べ物
を与え、養ってくださいました。イエスさまが群衆の飼い主になってください


ました。それと同時に、弟子たちを「使徒」として、何よりも深い愛と憐れみ
を持って養ってくださったのでした。イエスさまは祈ることの出来なくなって
いた弟子たちを誰よりも憐れんでくださいました。神さまと交わりが持てなく
なっている弟子たちを、「内臓が揺れ動く」ぐらいに憐れんでくださっていたの
です。そして、弟子たちがふたたび「使徒」とされるために、この五つのパン
と二匹の魚を用いて奇跡の業を行ってくださいました。弟子たちは、この奇跡
を通して、自分たちが持っている物で人々に何かを与え、宣教をしたのではな
い事に気づきました。それはただ、イエスさまと神さまが、み恵みによって、
何も持たない自分を用いてくださったので、あのような宣教が出来たのだとい
うことに気づきました。宣教から帰ってきた彼ら本当に知らなければいけなか
ったことは、神さまへの感謝でした。ところが、弟子たちは感謝するよりも、
自分たちが行ったことばかりに目を奪われて、興奮していたのでした。だから、
イエスさまは人里離れたところに行って祈るように言われたのでした。イエス
さまは、弟子たちが、神さまと向き合って生きるようになって欲しい。自分の
小ささを認めつつ、それでもみ恵みによって用いてくだる神さまに、良い働き
を与えてくださる神さまに感謝することを知ってほしいと願われたのでした。
このイエスさまの思いが、弟子たちの持っていたパンと魚を用いて五千人の人
に食べ物を与えるという御業となったのでした。弟子たちはこの御業を通して、
神さまの恵みによって用いられるなら、自分たちの、何の役にも立たないよう
な小さなものが、驚くべき実りを生むことを体験しました。
神さまに用いていただいたのは、彼らが持っていたパンと魚だけではありま
せん。イエスさまは、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちに配らせまし
た。イエスさまは、人々が恵みを与えられるために弟子たちを用いてください
ました。飼い主のいない羊たちへの神さまの恵みは、弟子たちを通して与えら
れるのです。イエスさまは、弟子たちを通して飼い主のいない羊を養われ、こ
の羊たちがイエスさまという飼い主に養われる羊となるようにされたのです。
つまり、弟子たちによって、羊たちに飼い主はイエスさまであることを知らさ
れ、養われたのです。
また、「十二の籠がいっぱいになった」とあります。十二の籠は十二人の弟子
を表しています。十二人の弟子たちがパンを配り、残りを集めました。ここに
集められたすべての人々が弟子たちを通して満腹したのです。この十二という
数は、旧約聖書に出てくる神の民イスラエルの部族の数でもあります。イエス
さまは、十二人の弟子たちをとおして、神の国に入る、新しい神の民を自分の
もとに集めようとしておられのです。


このことは、今ここにある教会でも起こりつづけています。イエスさまは、
弟子たちと同じように私たちをも、神の国の前進のために用いて下さいます。
私たちのもっている物は少ししかありません。これを自分の力で何とかしよう
としても、この世の中で神の国を進めるためには何の役にも立たないものとな
るでしょう。しかし、イエスさまが私たちを用いて下さっているのです。イエ
スさまが私たちを用いてくださるとき、私たちの小さな持ち物は、大きな実り
とされます。何の役にも立たない私たちが神の国と悔い改めを述べ伝え、人々
に神さまの恵みを分け与える者とされているのです。それは、ひょっとすると、
人の目にはつかない小さな働きかもしれません。しかし、イエスさまはこの働
きによって御国を前進させて下さるのです。そして、そのことはまず祈りによ
る神さまの交わりの中で、自らの力では何も出来ない事を確認し、この何も出
来ない自分を神さまが用いてくださるという恵みに感謝するとき事から始まり
ます。その時、教会はインテリの集まる敷居の高い所ではなくなります。教会
は、何の役にも立たないような私たちが、イエスさまに集められ、イエスさま
に用いられる事を恵みとする人たちの集まりとなります。そして、この何の役
にも立たない人の祈りによって、神の国が広げられるのです。このイエスさま
の御業に仕えるものとなりたいのです。