慰められる者の幸い

2021/08/15 三位一体後第十一主日礼拝(召天者記念礼拝) 

「慰められる者の幸い」 マタイ5:4、ヨハネ11章 

                                                                                                  説教者 牧師 上田彰

 

 悲しみのただ中に置かれている人がいます。主イエス・キリストはその人たちに向けてこう語ります。悲しむ人々は幸いである。

 

 *悲しい悲しみと、薄明かりの悲しみ

 教会という、悲しむ人の悲しみを重んじ、受け止めようとする者たちの集まりに身を置く者として、悲しみの表現には実に様々なものがあることを知らされています。自分の愛する子どもを失ってしまったある方は、その後数年にわたって、近況をお教え下さる度ごとに「毎日泣き続けています」と告げ続けてこられました。

 それに対して、泣いたり、悲しむことを極度におさえ、控える類の方々もおられます。現代の心理学の専門家の中には、悲しみの感情を露わにすることも大事なのだ、という見解を私たちに伝えようとしているようです。ですから、愛する人を失った方に対して、こう言えばいいのでしょうか。もっと泣いて良い、もっと悲しんで良いのだよ、と。

 しかし思うのです。この人は大事な人を亡くしたのだから、悲しいに違いない、そういう形で第三者がその人を悲しみの人に分類することはかなり難しい、ということを。あなたは悲しいんでしょ、分かります、無理しなくていいですから。そういう風に他人から言われる類のものではないのです。

 恐らくイエス様がおっしゃった、「悲しむ人々は幸いである」というのは、私たちが悲しむ人に対して投げかける言葉ではなく、イエス様ご自身がその人の傍らに立って、投げかける言葉では無いかと思います。この言葉が聞こえてくるときに、その人の側には主イエスがおられる。その人は悲しみのただ中にあって、嘆き悲しむことが出来る。

 

 シモーヌ・ヴェイユという人の言葉を紹介してみたいと思います。

「地獄についてのふたつの考え方。ふつうの考え方(慰めのない苦しみ)。わたしの考え方(にせの完全な幸福。あやまって天国にいると信じること)。」

 真っ暗な地獄と、薄明るい地獄、というところでしょうか。薄明るさというのは、ここではまやかしの希望を意味しています。人は時々真っ暗な地獄には到底いたくないけれども、薄明るい地獄であれば良い、と思ってしまうことがあります。

 ちょうどそれは、感染症の恐れに絶望して、一歩も家から出ないよりは、恐れだけを脱ぎ捨てて家を出たほうがマシだ、と考えることに少しだけですが、似ているかもしれません。

 

 悲しみのただ中に置かれていることを実感している人にも、また悲しみの中にいることを表現できない人にも、主イエス・キリストであればこう語りかけられるのです。悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる、と。悲しみの中にいる、大まかに分けるならば二通りの人たちに対して、つまりまさに悲しみを自覚し、失われたもののために泣き続ける人と、そして、喪失を受け止めきれずに、薄明るい悲しみの中で、泣くことも出来ずに戸惑っている人。そのどちらに対しても傍らに立ち続けてくださるお方がいる。それが主イエス・キリストです。

 

 *ラザロの復活を巡る「回復」の意味

 よく知られた、主イエスキリストが悲しみの人の傍らに立ち、慰められた聖書箇所を一緒にお読みしました。主イエスが喪失の悲しみを露わにする人々の前で、癒しと呼ばれる業を行ったことは、よく知られています。いわゆる「奇跡」の大半は、心身の病気からの回復です。愛する者が病気になった。そこでイエス様を呼ぶのです。病を癒してほしい、と。イエス様が病気になった心と体を元に戻すことで、元気になることで、再び元通りの生活が営めるようになる。

 しかし問いが生じるのです。癒し、つまり病気からの回復がせいぜいなのではないか。死んだ者が生き返るということはないのだから、キリスト教という大手の宗教の教祖であるイエス・キリストとて、死の前では無力なのではないか。

 こういった問いに対して、先ほどのヨハネ福音書は二段構えで答えようとしています。

 一段目はこうです。イエス様は、数少ないケースに限られますが、死の状態にある者を蘇らせることはおできになります。まず状況を確認してみましょう。

 ベタニアという村に、マルタ、マリア、ラザロという三きょうだいが暮らしていました。イエス様とは以前から親しかったようです。ところがラザロが病気になり、ついに亡くなってしまいます。多くの人が彼女たちの元に集まり、慰めていました。イエス様が村を訪れると聞いたマリアは、イエス様のところまで駆けよって、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言います。するとイエス様は、彼女が泣き、一緒に来た慰めるための友人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、イエス様もまた涙を流されます。そしてその後にラザロが収められた墓に向かって、主イエスは大声で叫びます。ラザロよ、出てきなさい、と。するとラザロはいわゆる死に装束に身を固めた状態で、外に出てくる。復活するのです。

 一段目の答えは、ですからこうです。このお方は、死の前で無力なのではない。死を覆すことが出来る力をお持ちなのだ、という訳です。

 しかしすぐに次の問いが生じることでしょう。ではなぜイエスというお方は、このラザロをだけ蘇らせたのだろう、他にも愛する人を亡くして悲しんでいる人は大勢いるのだから、今すぐたくさんの人を蘇らせたらいいではないか。

 その問いに対する答えは、おそらくこうです。もし悲しむ人が、失われたものがよみがえり、以前と同じように生活できたとしたら、その人は前に進めないことになるのではないか、そう推測できます。私たちは神さまを讃美するために生きています。神さまを讃美するために神様が備えて下さった道を前進し続けている、と言ってもいいかもしれません。ヨハネ11章には次のようなイエス様の言葉も紹介されています。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」

 つまり、今日の箇所で示されたラザロの復活は、彼が蘇ることを通じて、今までと同じ生活をマルタとマリアとラザロが送ることが出来るようにするためではなく、イエス様と共にある生き方を、悲しみの中にある人すべてが学ぶことが出来るという意味で、意味があるというわけです。悲しみからの回復。それは失われたものを取り戻すことによって得られるのではありません。失われたものが失われた状態にあることを受け入れて、もっと優れた慰めを発見することによって得られるのです。

 

 *ラザロの復活を巡る「涙」の意味

 注目すべきことは、この箇所に出てくる「涙」です。マルタもマリアも、イエス様が到着するまでに涙を流していたとは記されていません。泣くことなくこらえていたとも読めます。周りには、泣いていいんだよと慰めてくれる仲間が大勢家を訪れていました。マルタはそれらの人たちのもてなしに忙しく、マリアの方は座り込んでいる状態です。そこにイエス様が村に来ると知らせが入ります。それを聞いたマリアは、すぐに立ってイエス様に会いに行きました。

 マリアはイエス様に出会うまで、薄明るい悲しみの中をさまよっていたのです。弟が死んだ。悲しくないはずがありません。しかし、悲しみの中に浸りきることを断るかのごとく、彼女は泣くことを拒んでいた。そしてイエス様に出会ったときに、泣くことが出来るようになった。

 薄明かりの悲しみの中をさまよっていたマリアは、主イエスの足下で涙を流します。そして、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」という嘆きを、主にぶつけるのです。

 すると、驚くことに、主も涙を流された、というのです。大丈夫だ、これから私が復活させる。もう泣かなくても良い。そうおっしゃるのなら分かります。そして私たちは力強い主の御手からなされる業に驚き、神様の栄光を誉め讃える…。そういう展開を予想しがちですが、ここでイエス様はそうなさいません。泣くのです。

 真に悲しみ、真に涙を流すときに必要な慰め主は、悲しみ、泣く人と同じ涙を悲しんでくださるお方なのです。イエス様、つまり神様が、私たち一人一人の、それぞれに悲しむ状況は少しずつ違うはずなのに、その私たち一人一人の悲しみにあわせて、悲しんでくださる。

 後から復活させるのだから、泣く必要はないだろう、という風にはならない気がします。むしろイエス様は、マリアが流した涙以上の意味を込めて涙を流された、と言えるのではないでしょうか。

 そして気がつくのです。このお方は、私たちが悲しんでいるから一緒に悲しんで下さるというだけではなく、私たちが本当は悲しまなければならないがその悲しみの状況を受け止め切れていないときに、私たち以上に悲しんで下さるお方なのです。

 

 *悲しみを悲しむお方

 私たち日本の習慣では、冬の時期になりますと、喪中ハガキを受け取ります。身内が亡くなった最初の正月に、年賀ハガキを受け取らないという習慣です。いつの頃からか、友人や同僚の祖父母が亡くなったという知らせを受け取っていたのが、いつの間にか父や母が亡くなったという知らせに変わるようになりました。やがてそれが配偶者の逝去や、知り合い自身の逝去の知らせへと変わっていくのでしょうか。そうやって愛する者を失う悲しみを私たちは儀式や慣習の中に組み込んでいます。喪中の知らせ、年賀状欠礼のお断りの通知というものは、「おめでとう」という挨拶を交わす群れから一時的にであれ離れたい、ということを示しているのでしょうか。それとも愛する者に対する慰めを受け入れたくない、ということを示しているのでしょうか。

 おめでとうと言えない状況があるからこそおめでとうと言おうじゃないか、と言うことは許されないのでしょうか。離れた友が悲しみの中にあることを知らされながら、慰めの言葉を賀状の中に込めて送ることは許されないのでしょうか。私たちの習慣は、悲しむ者が交わりの輪から一時的に外れることを示唆しています。愛する者を失った悲しみを、おおっぴらにして泣き続けるという伝統ではないのです。悲しみに浸るというよりは、薄明かりの悲しみの中を、そっと悲しみ続け、悲しみを抱えたプライベートな世界と、日常のオフィシャルな世界の間をうろうろし続ける。

 

 そんな私たちの側に、私たちとともに悲しみ、慰めてくださるお方がおいでになる。悲しみが皆が生活する世界のただ中にあって良い、片隅で一人で悲しむ必要などないのだと、そうおっしゃる。そして薄明かりの悲しみの中に、主イエスのまなざしが注ぎ込まれ、主イエスの光が射し込んでくるのです。

 私たちはいつも勘違いを犯しています。私という存在がまずあって、私が悲しみを受け入れるかどうかが問題なのだ、どうやって私たちは悲しみを受け止めることが出来るだろう、そう考えがちなのです。しかし事態はこうなのです。私たちが悲しみを受け入れるかどうか判断するより前に、じつは悲しんで下さるお方が私たちを受け入れて下さる。もっと詩的な言葉を使ってよいのであれば、悲しみそのものが私たちを受け入れてくれる。どこまで行っても自己中心的でエゴイスティックな私たちを、つまり私の中の悲しみを一番よく知っているのは私自身なのだ、だから他の人は私の悲しみの中に土足で入り込まないでほしい、そんな思いに囚われてしまう私たちを、しかし、私たちが泣くより前に、涙の人が受け入れて下さる。

 

 *悲しむお方によって受け入れられる慰め

 2020年の召天者記念礼拝から一年が経ちました。この間に私たちの教会で召され、天国への旅の途についた兄弟姉妹のお名前を読み上げたいと思います。

 秋田美恵姉妹。渡泰子姉妹。熊谷靖子姉妹。高崎宏子姉妹。飯島振笮兄弟。酒井純兄弟。これらの方々をあわせ、359名の召天会員を私たちは覚えたいと思います。

 おそらく今日の聖書箇所を読むときに、自分自身が悲しむかどうか、自分自身が悲しみの中にいるかどうかということを問題にし続けることはもはや意味を持ちません。毎日涙を流し続ける私たちと、乾いた涙を流している私たちのために、より深い悲しみを悲しむお方が涙を流される。ただ主がおられるという慰めに身を委ねてよいことに気づかされるのです。

 読み上げられた359名自身が、それぞれに抱えていた悲しみがあることでしょう。愛する者たちが抱えていた悲しみもまた主イエスご自身によって慰められていると信じます。この信仰の先達が顔を上げて主の道を歩み、天国への旅路についた、同じように私たちも慰めと励ましを受けたいと願うのです。