空っぽの墓を前にして

2021/07/25 三位一体後第八主日礼拝 空っぽの墓を前にして

(マタイ説教第138回、28章1から15節)      牧師 上田彰

 

 *「いつかやがて」から「今まさに」へ、ラザロの姉マルタの信仰

 今回復活の出来事を扱うにあたり、復活について色々と思いを巡らしました。他の福音書にも目を通しました。8月の早々にマタイ福音書は終わりますので、その後は何回か、他の福音書における復活について扱ってみたいと思います。

 

 復活に思いを巡らす中で、どうしても拭い去ることのできない印象を与えているのが、ラザロの復活です(ヨハネ11章)。

 マルタ、またマリヤという姉妹がベタニアという村に住んでおりました。福音書記者ヨハネの言葉をまとめると、妹であるマリアは、もともとは罪深い仕事についていた女性であり、イエス様の足に香油を塗ったあの人であったと見ているようです。それに対してマルタは非常に真面目な、生真面目ともいえる信仰者です。姉妹でイエス様を家に迎えた際には、客人を迎える準備を手伝わずに貪りつくようにイエス様の話を聞く妹を尻目に、姉は準備に大わらわ。「心をなくす」と書いて「忙しい」と読むように、罪の赦しの経験を通して固くイエス様と結ばれた妹について、「諌めてくれればいいのに」とイエス様に愚痴を言ってしまう、あのやりとりをヨハネ福音書の記者は知っていたようです。

 

 そのヨハネの伝えるところによると、実はその姉妹にはもう一人兄弟がいて、ラザロという名前です。3人ともイエス様によって深く愛されていました。そのラザロが病気であると聞いたイエス様はベタニア村に向かいます。

 村に入ったイエス様と弟子たちのことを、マリアは迎えに行くことができず、姉のマルタだけが迎えに出ます。マルタとイエス様との間のやりとりは、こうです。

イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。

一度ここで区切ります。この場面は、姉マルタが大変に熱心なユダヤ教の信仰を持っていたことがわかります。人が訪問するときには全力でもてなすあの女性は、自分の信じている宗教の核心が、世界の終わりの日に皆が復活をするということにあるという、「模範回答」を口にするのです。

 しかしイエス様は、この模範回答をかき消すようにして、こう仰るのです。「わたしは復活であり、命である」。いつか人は蘇る、という信仰では不十分で、今あなたの目の前で復活が起こる、そのことを信じるか、とお尋ねになるのです。

 「いつするの」「今でしょ」というと、かつての流行語大賞を思い起こします。いつか大きな変化が起こるということを信じるということと、今大きな変化が起こるということを信じるということの間で、同じ「信じる」というのでも意味合いが違ってきます。

 イエス様は、マルタに問いかけているのです。あなたは信じるということを、建前を受け入れるという意味で使ってはいないか。いえ、マルタがそうだったとイエス様が見なしておられるのではないのかもしれません。むしろ、マルタを通じて教会の皆に問いかけていると言った方が良いでしょう。あなたは復活というものを、建前でだけ信じているのか、それとも本気で信じているのか。本気で信じるというのは、どういうことなのか。マルタはこう答えます。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」。マルタはこう答えているのです。あなたは、世においでに「なる」神の子です。現在形です。今まさに神の子がおいでになりつつある。

 かつてマルタはこう考えていた。いずれ神の子とでも呼ぶべきお方が来るに違いない。いつかはそういう時が来る。しかし今やこう信じているのです。今、神の子がおいでになっている。「やがて」から「今まさに」への転換。これが復活をめぐる信仰において起こるのです。そして主はこの転換がマルタにおいて起こっていることを確認した上で、つまり、建前でだけ信じる信仰から、本気で信じたときに信じ方が変わってくることについてマルタの準備が整ったことを見届けて、次の行動へと移るのです。少し省きますが、この箇所のハイライトは、墓場に移動してからのイエス様の次の言葉です。「ラザロ、出てきなさい」。すると墓からラザロが出てくる。復活するのです。

 復活が起これば人は信じるというほど単純ではありません。かつてイエス様は病気の人を大勢いやしました。しかし治った人々の全てがイエス様の弟子になったわけではありません。自分としては変わるつもりはない、今目の前の痛みや苦しみだけ誰かに取り除いてほしい。そうやって起こった癒しのわざと同列には論じられない、深くイエス様のみ懐(ふところ)の中に入る信仰を、イエス様はマルタに求められたのです。

 この、マルタを信仰へと導いたラザロの復活は、しかし単なる前触れに過ぎませんでした。ラザロはこのとき以降、永遠に生きたというわけではないのです。これは一種の蘇生であって、永遠の命ではありません。もう一度はっきりと、新しい時代の到来が起こらなければならないのです。やがていつか大きく変わる時代が来るという、建前だけで信じていた信仰から、大きく変わる時代が今来るのだという転換を、イエス様はご自身の復活を通じて示されたのです。

 

 *「空の墓伝承」の意味

 今日の聖書の箇所は、「やがて」という信仰から「今まさに」という信仰への転換を経験する、まさにそのような箇所として記されています。

 福音書を読みますと、復活に関する記事は大きく分けて二つに分類できることに気づきます。それは、空っぽの墓の前で立ち尽くす女性や弟子たちに関する記事、今日の箇所でいうと1から8節がそれです。それからもう一連の記事がありまして、復活したイエス様が彼ら、彼女らに話しかけ、また魚を食べ、食卓を共にしてくださり、伝道命令を下してくださるという類の記事です。今日の箇所でいうと9節と10節がそれです。前者は「空の墓伝承」と呼ばれ、後者は「現れる・顕れる」と書いて「顕現伝承」と呼ばれます。

 一見すると、「顕現伝承」に比べて、「空の墓伝承」はパンチが弱いように見えます。イエス様が肉の目で見える形でお会いくださるという方が、行き着くべきところに行き着いたはずなのにお会いできなかったというよりもありがたみがあるように思えるのです。しかし長いキリスト教の伝統において、空の墓伝承には、顕現伝承によって置き換えられることのない特別の価値があると見なされ続けています。なぜでしょうか。いろいろな説明があるようです。例えば、顕現伝承というのは結局はイエス様が癒しのわざをなさったということの延長線上にすぎないのではないか。イエス様に出会った時は興奮するけれども、しばらく経つと忘れてしまうような体験に過ぎない。それに比べて、空の墓伝承は、墓が空だった、それではイエス様は今どこにおられるのか、と自分で考えなければならない。受け身のままではいられない私たちの想像力が、イエス様と私たちをもっと深く結びつける、というわけです。

 そこでもう一度思い直してみるのです。私たちの復活信仰は、建前に過ぎないのか、それともこれを信じることによって何かが変わるという経験をしているのか。

 ロシアなどにある東方教会では、次のようにして復活信仰が空の墓伝承を含む必然性について考えているようです。それはこうです。墓に向かう女性というのは、陰府(よみ)に向かう女性なのではないか。つまり、イエス様は死んで陰府に降ったはずだった、ということです。しかし墓の中には、つまり陰府にはイエス様がおられなかった。このお方が陰府から帰られた、よみがえられたことは、空の墓を見ればもう明らかだ、そのことを喜ぼう、というわけです。この東方教会の信仰は、イエス様の死を、福音書には直接は記されていない陰府への降(くだ)りと結びつけている点で、私たちの信仰と完全に同じではありません。しかし、にもかかわらず、空の墓の伝承を聞き、祈りの中で黙想し思い起こすことによって、私たちがどのような喜びに包まれるのか具体的に考えてみよう、という東方教会の試みには、引かれる思いもいたします。

 

 イエス様は復活された。偉い人が復活するであろう、という話は、旧約聖書にも出てきます。場合によっては聖書以外の資料にも出てきます。例えばピラミッドに収められているミイラは、終わりの日に王様が蘇るという信仰から来ています。復活信仰が、キリスト教を他の宗教と区別する印とすることは出来ません。他の宗教にも、ユダヤ教やエジプトの古代宗教においても、復活信仰は出てくるのです。しかし、それらの信仰はいずれも、「いつかやがて」の信仰です。

 それに対して、イエス様がおいでになり、復活してくださることによって生まれた、いわば「今まさに」の宗教としてのキリスト教は、復活ということを実際に経験した者として、エジプトの宗教の真似事のように、「いつかやがて」の復活信仰ではなく、「今まさに」起こった復活を継承するための、新しいタイプの「言い伝え方」があることに気がつきました。

 頭の中だけで復活について想像することはしばしば人を不毛な問いに陥らせます。結婚したら相手が死んでしまうため、結局7人の兄弟と次々結婚する羽目になり、天国では誰と一緒に住めばいいのかという不毛な問いへと落ち込んでしまったサドカイ派についてマタイ福音書は言及します。今で言えば、復活した時に何歳ごろの自分に「戻る」ことになるのか、という問いが似ているかもしれません。復活のリアリティーがあまりにも貧弱になっているが故に、「天国で起こりそうな小さな問い」にこだわり、「戻る」形で考えてしまうのです。そこで福音書の記者は、「百聞は一見にしかず」と言うが、復活を体験した私たちに独自の言い伝え(伝承)の仕方があるのではないかということに気づいたのです。抽象的に「いつかやがて終わりの日が来るならその時には復活する」というのでも、「復活するならば〇〇才の頃の、私のピークに戻りたい」というのでもない、全く新しい形の復活伝承をつむぎ出すに至りました。それが、今日の箇所の8節までが報告する、「空の墓伝承」だというわけです。

 「空の墓伝承」はおそらく何十回と礼拝の中で繰り返し語られたのでしょう。私たちはこのマタイ福音書を読み終えてから、使徒言行録の講解に移ります。その中で、当時の礼拝の様子についても触れることになると思います。新約聖書はありませんでした。説教を専門に行う牧師もいるわけではありません。皆が自分の知っている証言を紹介しあうのが、今でいう説教の時間です。そうやってお互いに証言を付き合わせる中で、「顕現伝承」だけでは復活を味わうには足りていないことに気がつき、今日の聖書箇所に色濃く現れているように、「空の墓伝承」が「復活を信じる者たち」の群れにふさわしい、という実感を持ち始めるのです。

 わかる気がします。マルタのような形で私たちも復活というものをかつては頭の中でだけ信じていたのではないか。復活した主に実際に出会った時に、従来の終末における復活信仰から来ている「顕現伝承」だけではまだ私たちはイエス様の復活というリアリティーの中には入りきれていないのではないか。私たちはもっと具体的に、もっと現実的に、「キリストの体」の中へとイエス様の復活の出来事を通じて入り込んでいるのではないか。

 

 *「伝承」の外にいるユダヤ人

 今日の聖書箇所では、前半の8節までが「空の墓伝承」、そして9節と10節で従来の信仰の形とも言える「顕現伝承」が短く続きます。つまり、「全く新しい復活伝承」である「墓は空だったと天使に告げられる」ということを言い伝えることで、「復活信仰の群れ」に組み入れられたわたしたちが、さらに重ねて復活者(つまりイエス様)に出会うという、顕現伝承をも受け継ぐことになるのです。来週、このことについては扱いたいと思います。むしろ今日は11節以下のことに触れます。

 

 「復活した主キリストの体」である教会に組み入れられつつあるマタイ教会の人たちにとって、自分たちが体験している「教会の中に入っていく」という感覚を共有できないユダヤ人たちがその後どうなったか、ということは大変な関心事だったようです。その様子について記している11節以下を見ておきたいと思います。

 すでに見た通り、墓には番兵がいました。ユダヤ人たちは、弟子が遺体を墓から盗むことがないようにと番兵をおいたのです。ちなみにその費用を行政の負担にしてほしいと申し出たのですが、自分たちの負担にせよと総督は命じました。小さなやりとりですが、番兵を雇うお金を誰が負担するか、ということについての取り決めがされたのです。

 そして三日目の朝に、番兵は自分たちを雇ってくれたユダヤ人たちに、自分たちの管理が不行き届きだったという報告をしにいかなければならなくなりました。その報告のためにエルサレムへと向かう彼らの足は、途中でイエス様に出会ってしまうマリアたちの足よりも早かった、とあります。ユダヤ人たちは相談をし、お金で番兵たちの口を封じようと企みます。このことからわかるのは、彼ら番兵はいつもユダヤ人たちに雇われているわけではなく、もし誰かから事情を聞かれたら全てを話してしまう可能性があった、ということです。だからもし総督自身から事情を聞かれても、「方便としての嘘」をつくように、と命令し、多額のお金を渡したようです。

 こうして、イスカリオテのユダに銀貨30枚を渡したことに始まり、ユダヤ人たちはイエス様を墓に葬るために多くのお金を使いました。果たして、それだけの甲斐はあったのでしょうか。彼らは大量にお金を用い、また相当に不名誉な噂も獲得してしまったと思います。そこまでしてイエス様を抹殺する必要があったのでしょうか。もしかすると、今のオリンピックのように、危機管理をもっとしっかりしておく立場からすれば、この夏の開催は得策ではない、しかしはじめてしまったからには成し遂げなければならないというのと似たような構造に陥ってしまい、「単なる惰性」で、イエス様を抹殺する試みを続けたのでしょうか。もしかするとそうかもしれません。

 そしてこの試みにもかかわらず、イエス様は復活し、教会が生まれました。これは、「新しい価値観」の誕生です。「イエスを抹殺するのにいくらかかるだろう」という算盤算用は、「復活するときに何歳くらいの時に戻れるのかしら」という算盤算用に似ています。イエス様は、「復活する時には娶ることも嫁ぐこともない」とおっしゃいました。その意味は、「復活」というのは、「結婚」よりも重大な事態の中にいるということではないか、という問いかけです。「抹殺にはいくらかかるか」というのは「復活以前の小さな問い」に過ぎない。

 私たちが属するのは「キリストの体なる教会」です。主イエスがよみがえられた。よみがえりの体に入れられている私たちは、私たちを、「最も大事な問い」に取り組むことを通じて私たちを中へと招き入れられています。私たちが一歩中に入った時に、「信じることってこういうことだったのか」と教えられる、そのような共同体が、私たちの教会です。「キリストの恵みの中に入れられる」ことを味わい続けたいと願います。