墓を守る

2021/07/04 三位一体後第四主日

 「墓を守る」(マタイ説教136回) 27:57から66 

牧師 上田彰

 

 

*手放さない者が神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がたやすい

 かつてイエス様のところに弟子に入りたいと願い出た者は多くおりました。

しかし全ての志願が受け入れられたというわけではありません。

 弟子になることをイエス様によって断られたケースも多いのです。

 聖書の中で、弟子になれなかった者のうちで、皆さんが印象深く受け止めている人物は一体誰でしょうか。

 ある人は目を開かれた盲人のことを思い出すかもしれませんし、またある人は墓場で暴れていた、かつてのあの人のことを思い出すかもしれません。

 しかしなんと言っても印象的なのは、

 「金持ちの青年」とマタイが呼ぶ彼の人物ではないかと思います。

 イエス様の前に現れた一人の青年、ユダヤ人宗教議会の議員でもあります。

 ユダヤ人社会において、宗教議会の議員であるということは、名誉であると同時に、実権もまた握りうる立場にいたことでしょう。そしておまけに金持ちときています。

 現代人の私たちの感覚からすれば、なぜ彼がイエス様のところに来て弟子になりたいというのに、それをイエス様が断ったのか、と思ってしまいます。

 つまり、社会的に有力な人物を弟子にしたら好都合なのではないかという計算です。

 しかしイエス様は比較的冷淡でした。

 

 以前にもお話ししましたが、イエス様の弟子たちは、当時良い意味のライバルでもあった洗礼者ヨハネの弟子たちと比べると、数段見劣りがしました。

 ヨハネの弟子たちは断食を行う、いわゆる修行の達人でした。

 しかしイエス様の弟子たちは出身がガリラヤの漁師で、はっきり言って粗野な部分も多く、断食を行ったりして宗教的な修練に励んでいたわけでもありません。

 それに対して目の前に現れた金持ちの青年議員は、十戒を厳密に守る、信仰者としての実践も積んだ人物でした。永遠の命を求めてやまない一人の人が、イエス様に尋ねます。

 まだ何か足りないものがあるのでしょうか、と。イエス様はこうおっしゃいました。

 「完全になりたいのなら、持ち物を全て売り払って貧しい者に施し、そして私の弟子になりなさい」。青年は悲しみながら立ち去ります。

 財産を彼が手放せなかったのです。

 イエス様が彼は財産を手放せないことを見抜いていたのか、それとも彼が財産を手放すと考え、それなら弟子として受け入れたいと考えたのか、それはわかりません。

  とにかくはっきりしているのは、財産を持ったまま弟子となることをイエス様はお認めにならなかった、ということです。

 私たちはどう考えたら良いのでしょうか。

 ああ、私は財産をそれほどは持っていない。

 だからこの点ではイエス様から排除されることはないだろう。

 あるいは今の私は多少は財産を持っていることになるのだろうか、などなど。

 よくこの箇所に関して教会の青年会などでなされる典型的なやりとりは、次のように続きます。

 「いえいえ、ここでイエス様は、お金に換えることの出来る財産のことだけをおっしゃっているのではない。

 あなたが拘っているあのことや誇りにしているこのこと、あれだけはどうしても嫌という思い込みやこれだけはどうしてもやめられないということ、それら全てを手放すことが出来るかどうかとお尋ねになっているのだ」、…。

 

 そこで、手放さなかった者がどうなるのかということに関する、運命めいた次のイエス様の言葉を皆が口にするのです。金持ちという言葉を、手放さない者と読み替えます。

 「金持ち、いえ『手放さない者』が神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい」。手放さないままで主の弟子となり、神の国に入ることはできない、この厳しい主の言葉の前に、私たちは皆立ち尽くしてしまいます。

 

 

 *アリマタヤのヨセフ

 

 さてそのようなイエス様の言葉の前に立ち尽くす人々の群れの中で、ラクダが針の穴を通るチャンスをものにした人物がいます。

 それが今日の人物、アリマタヤ出身のヨセフです。

 彼のことをマタイは金持ちと形容します。

 他の福音書では、宗教議会の議員であったと記します。

 要するに、かつて針の穴を通れないラクダと呼ばれた人と似た状況なのです。

 なぜヨセフは主イエスの遺体を渡してくれと願い出たのでしょうか。総合的に判断すると、彼はいわゆる匿名の弟子であったようです。

 世間では「私淑」というのでしょうか。

 つまり、個人的に内心イエス様のことを慕っていた。しかし立場上、彼はそのことを明らかにする事ができなかった。

 ユダヤ人議会の主流派はファリサイ派とサドカイ派です。

 おそらくそのどちらにも属していなかったであろうヨセフは、議会で皆がイエス憎しで凝り固まっている中、こっそりと主イエスを支持していた。

 どこでイエス様のことを見かけたのか、どう魅力を感じるようになっていったのかは、わかりません。

 はっきりしているのはただ一つ、彼が主イエスへの信仰を表明する唯一の機会は、遺体を引き取るときであった、ということです。

 もちろんそうしない可能性もありました。

 おそらく当時の死刑囚が十字架上で亡くなった場合、その遺体は引き取られない場合は鳥に食べられる、いわゆる鳥葬になったのではないか、と思います。

 ヨセフとしては、それをただ傍観し、自分の信仰というものをあくまで内面の事柄として、自分の心の中にこっそりしまい続けることもできたのです。

 しかしそうはしなかった。

 今後、色々な不利な事態が自分に訪れることは覚悟しなければなりません。

 「迷った末に名乗り出た」、というマルコ福音書の想像も無理はありません。

 しかしそれを受けて書かれたマタイ福音書では、ヨセフがかかえていたのかもしれない

 「迷い」を示唆する言い回しをマルコ福音書から全て取り除いて書き改められています。

 マタイ福音書が描くヨセフは、主イエスへの憧れを隠すことなく、ご遺体を引き取ることを迷わずに申し出るのです。

 なぜマタイにおけるヨセフは、恐れないのでしょうか。

 迷わないのでしょうか。

 

 

 *惑わされないために

 

 この問題を考えるために、今日与えられました箇所に出て参ります、一群の人たちの振る舞いに一度注目してみたいと思います。

それは、祭司長たちとファリサイ派の人たちです。

つまりユダヤ人議会において圧倒的な多数を占めるグループに属する者たちが、おそらくはヨセフの動向を横睨みに見つつ、総督ピラトのところに行くのです。

呼びかけの言葉はこうです。

「閣下」、これは聖書の他のところでは「主よ」と訳されている言葉です。

自分の考え方に影響を強く与える者に向かって呼びかける際の言葉です。

 本国ローマによるユダヤ支配というのは、今までも何度か申し上げてきたように、ユダヤ人の思考に大きな影をもたらしてきました。

ローマ帝国による支配というのは巧妙で、もし仮に武力によって植民地ユダヤを徹底的に弾圧し宗教も禁止、膨大な税をむしりとるという具合であるならば、もう少し話は簡単であったかもしれません。

しかしローマは、ユダヤ人自身によるローマ帝国びいきの王朝を樹立することに成功し、その王朝を通じてユダヤを支配しました。

信仰も認められました。この状況で何かユダヤ人が抵抗したとしても、いつも小規模に止まってしまいます。

 ちょっとした反乱はいつもありましたが、みんなが立ち上がるという風にはならないのです。

 そこへ、今回のイエス様の十字架の一件で、ファリサイ派がすっかり弱腰になりました。

 元々は国家の支配より律法の支配、と唱え、そして実行することで定評のあった彼らでしたが、総督に借りを作ってしまい、すっかり従順になりました。

 十字架にかけるためには、ローマ本国から派遣された総督が実権を持っていたのです。

 それでユダヤ人たちは宗教議会においてイエス様を十字架にかけるという決議を賛成多数で可決したあと

 (ここにはヨセフがいて、賛成していなかったと思われます)、

 十字架刑の決定を総督に委ねたのです。

 そのため、ピラトに対して「閣下」、つまり「主よ」と呼びかけるとしっくりくる関係になっていました。

 そして彼らは総督にこう求めるのです。

 「人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、

 『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。

 ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。

 そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、

 『イエスは死者の中から復活した』

 などと民衆に言いふらすかもしれません。

 そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります」。

 63節から64節に出てくる、ファリサイ派たちの言葉をお読みしましたが、この総督に対する言葉は、「惑わす」で始まって「惑わす」で終わっています。

 表面的にはファリサイ派たちは、一般大衆が「惑う」ことがないようにと、一般大衆の心理状態を懸念するという立場から色々総督に対して提言をし、提案をしていることになっています。

 しかし実際には、一番惑わされている状態にあるのは、おそらく祭司長たちやファリサイ派の人たちです。

 一番不安を感じているのです。

 自分たちはイエスを処刑に導いてしまった。

 まがいなりにも多くの人々の支持を受けていた一人の宗教的指導者を、権力闘争の末に殺してしまったのです。

 聖書の中には、「惑わす」こと、さらには「惑わされる人々」について多くの記述が出て参ります。それで、今日の箇所に「惑う」という言葉が出てくるので、聖書の中におけるこの言葉の用いられ方について調べてみました。

 「惑う」という言葉を日本語で検索すると新約と旧約合わせて百回以上出てくるようですが、その中に、興味深い使われ方があるのを発見しました。

 惑うという言葉は、

 「惑わせる」「惑わせてはならない」「惑う人々」という使われ方が圧倒的なのですが、

 「惑わされない」実例というのは実は少ないのです。

 例えば聖書の中では星占いが禁じられています。

 具体的には律法(申命記13章)の中に、当時流行していた星占いは、他の神々の信仰へと人々を導き、迷わせるのでダメだという風に説明されています。

 しかしもう少し生産的に、私たちが迷いから脱却するためにはどうしたらいいのかというのを調べてみるならば、次の箇所に行き当たるかもしれないと思いました。

 「ユダの手紙」の一節をお読みします。

 

大天使ミカエルは、モーセの遺体のことで悪魔と言い争ったとき、あえてののしって相手を裁こうとはせず、「主がお前を懲らしめてくださるように」と言いました。

 この夢想家たちは、知らないことをののしり、分別のない動物のように、本能的に知っている事柄によって自滅します。不幸な者たちです。

 彼らは「カインの道」をたどり、金もうけのために「バラムの迷い」に陥り、「コラの反逆」によって滅んでしまうのです。(ユダの手紙9節)

 

 信仰の大先輩であるモーセは、葬られた後にその遺体の行き先を巡って天使と悪魔との間で争いがあった、というユダヤ教の言い伝えが話の発端です。

 モーセは信仰者の模範とされていますが、罪を犯さなかったわけではありません。知られている罪が、あるときにエジプト人の殺害にモーセが手を貸したという一件です。

 その罪のために、モーセは出エジプトを導いておきながら旅の最終目的地に足を踏み入れることが許されなかった、と申命記に出て参ります(32章)。

 すると、あのモーセであっても罪人なのだから、モーセの遺体を預かるのは私だ、と悪魔が言い出し、それに対していやいや他にはいくつもの信仰的な貢献を果たしているのだから、彼は直接天国に今すぐ移されなければならない、だから私がモーセの遺体を預かると天使ミカエルが主張するのです。

 かなり大掛かりな「遺体管理者選定問題」です。

 そしてこの問題が、「争い」とつながっています。ミカエルが争いを回避し、惑いから脱却するために用いた方法はこうです。

 「あえてののしって相手を裁こうとはせず、

 『主がお前を懲らしめてくださるように』と言」うというものだ、というのです。

 「自滅を待つ」というと少しニュアンスが違うかもしれません。確かに自滅を待つのですが、それは結局、神様がその人を裁いたことになる、それを待って、自分は何もしない方が良い。それがミカエルが悪魔に対抗するために行った方法だというのです。

 イエス様を十字架につけた者たちが、他人の問題として「惑い」を口にすることは滑稽なことです。「主の裁き」に委ね切ることができなかった者たちが、自分たちが惑いの中にあることを棚に上げて、他人が惑うから遺体監視役を派遣して欲しいとユダヤ人たちは願い出ていることになるからです。

 

 

*墓を守る

 

  おそらくこのユダの手紙の中に出てくる故事で悪魔と天使の争い、つまり「惑い」の具体的なテーマになっているのがモーセの遺体管理問題であるというのは、偶然ではないように思います。死者は、自分で自分の体の管理ができません。

 生きているときは自分の住むところを自分で決められます。

 しかし死んでしまうと、自分が入る墓を選ぶことができないのです。

 誰かに委ねないとならないのです。

 以前、ユニークな体験をしました。

 教会員が、自分の両親のお寺での法要をするのだが、ぜひ牧師である私にも出席して欲しい、と頼みにおいでになったのです。

 自分の代からはキリスト者だが、親は親の信仰があるので、それは大事にしたい。しかし自分が長男として親の葬りをかつて仏教で行い、今回も法要をお寺で行うにあたって、自分自身はキリスト者であるのだから、何か自分と教会とを結びつけるものが必要だ。

 牧師に同行して欲しい。もちろん、お焼香などはしなくて良いよう、牧師が行くということは住職にも伝えてあって了承済みである。

 そこでその方に連れられて参りました。本堂での供養のあと、別室でお茶を飲み、牧師と住職、それにその教会員の方との宗教談義を楽しんでから墓前で私がお祈りを捧げ、その日は失礼しました。

 誰であっても「惑い」はあるのです。

 完全に黒白つけるということは不可能です。その人なりの折り合いの付け方というものがあるはずです。その人にとって、親の信仰に基づいて供養を行うことは、親御さんとの約束の中では意味があることだったのでしょう。

 牧師を連れての法要というのもその人にとっての正解だ、という風に言えるのかもしれません。

 その体験を思い出しながら何度も立ち戻る事実があることに気づきます。

 それは、自分の墓を守ることは自分ではできない、ということです。

 イエス様の墓を守るのは誰でしょうか。

 それは弟子の仕事だ、といって、聖書は墓を築いたアリマタヤのヨセフを、

 「弟子」と呼ぶのです。

 墓を建てたこの人が、もしイエス様のところに行って直接弟子志願をしていたとしても、イエス様が受け入れたかどうかは、微妙だと思います。

 彼は金持ちのままだし、ユダヤ人議会を辞めることもしていません。

 言ってみれば手放すことを一切していないように見えます。にもかかわらず、聖書は彼を

「弟子」と呼ぶ。

金持ちのまま、彼は弟子となったのです。

「金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい」。

 ラクダが針の穴を通るよりも難しい奇跡が、遺体の引き取りをめぐって起こりました。

 主イエスがご自分の遺体を委ねる相手を見出した時に、その遺体を受け取った者は弟子と呼ばれます。

 主イエスのお体のあるところに教会がある、そう言っても良い。

 多少語弊のある言い方をお許しいただけるならば、私たちは自分の両親の葬りを引き受けることは当然の義務だと考えています。

 自分が何らかの意味で誰かの弟子であるとするならば、その師匠を葬る義務をも自覚することでしょう。

 イエス様を葬る義務を持つ人はどこにいるでしょうか。

 十字架に主がおかかりになる時に、直接の弟子たちは蜘蛛の子を散らすようにしていなくなりました。

 それでアリマタヤのヨセフが弟子として追加で選ばれたのです。

 ラクダが針の穴を通るような奇跡が、ここで起こったのです。

 主の体があるところに弟子がいます。

 そこが教会と呼ばれるのです。私たちは、主の弟子としてイエス様の御体とともにいるようにと招かれています。

 聖餐式を通じて、主の死は告げ広められ続けています。

 聖餐式を通じて、復活した主の臨在を私たちは信じ続けることができます。

 聖餐式を通じて、私たちは主の弟子であり続けるのです。