2021/06/27 三位一体後第四主日礼拝
説教「十字架上で何が起こったのか」
(上田彰牧師)
マタイ(第135回)27:45-54
私たちの社会は、常に分断の危機にさらされています。
そのような分断は実は常にさまざまなところで起こっているのでしょうが、たまたま感染症の問題を通じて私たちは2、3年の間だけそのことを見える形で経験しています。
例えば国家は(日本の限らず、伝統的に)さまざまな敵の存在を示したり、さまざまなイベントを用意して国民を一つにしようとします。
それらは大方の場合、少なくとも短期的には成功しています。しかし一方で、今回のオリンピックと同様、イベントによる統合作戦には、禍根を伴うことがあります。
かつてヘロデ王は、毎年壮大な自分の誕生パーティーを開いていました。多くの人を招き、多くのもてなしによって自分の権力を示したのです。
そこにつけ込んで、妻へロディアは、長い間自分の夫が首を縦に振らなかった、ある作戦を実行することを思いつきました。
そのために道具として用いるのが自分の娘です。まず、少女から大人へと変わりかけている年頃の娘に、艶やかな踊りを踊らせます。
大いに満足した父親は、褒美になんでもやろうと公に言うと、娘は待ってましたと言わんばかりに母親から言われた通りに
「洗礼者ヨハネの首」を求めるのです。
妻へロディアはヘロデ王の兄弟と最初結婚をしており、生別離婚をしてヘロデ王と結婚したのでした。
王家の生別離婚は政治問題になるためにタブーとされていました。
実際そのことで政治不安が起こっていました。隣の国との軍事的な緊張を生んでいて、一触即発の状態になっていた中での誕生パーティー開催だったのです。
その原因となった結婚問題について、洗礼者ヨハネは政治問題ではなく律法の問題として、つまり生別離婚は誰であっても宗教的に許されないはずだという論理で、夫婦を批判していました。
ヘロデ王は彼を捕まえて牢屋に入れこそしましたが、ヨハネのことを宗教者として尊敬はしていたのに対して、ヘロディアはヨハネを殺したかったのです。
その機会を作ってしまったのがヘロデ王の誕生パーティーであったというのは皮肉です。
自分の王としての権勢を誇示することが、信仰的拠り所となる人物を殺すよう命じることにつながってしまう。
それから数年後、ユダヤ人社会はもう一人別の宗教的指導者を自ら殺すというイベントを考えつきます。
しかしこれはユダヤ人だけの問題ではありません。 私たちの問題です。
十字架に思いを向けることは、私たちの生き方に思いを向けることでもあります。
そして、十字架に向かって歩み、十字架の元に止まり続けることこそが、私たちの人生にとって最重要の課題です。
主イエスは、十字架上でこう叫ばれるのです。
我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになるのか。目をつぶってこの叫びを心の中で繰り返す時に、私たちは自分をどこに置くことになるでしょうか。
ある人は、ゴルゴダの丘に立てられた3本の十字架を思い起こし、その真ん中に架けられるのが主イエスなら、その右か左に架けられた犯罪人と自分とを重ね合わせる、と言うかもしれません。
またある人は、イエス様を侮辱するユダヤ人や兵士たちと自分とを重ね合わせ、イエス様の叫び声を聞く、と言うかもしれません。
群衆の中の一人としてイエス様に向い続けるという人もいることでしょう。
そこにいる者たちは、いえそこにいる私たちは、皆一度は自分が主イエスキリストと一心同体であるというつもりでいたのに、今や主がかかる十字架は、私とあのお方との間に隔たりを作ってしまっています。私たちは釘で手を打ち付けられてしまう痛みを経験することはありません。想像することさえほとんど不可能です。
そこで聖書は、十字架につけられたイエス様を自分たちと重ね合わせるために、詩編22編に注目することを提案します。詩編22編は、十字架にかかることのない私たちが十字架にかかる主イエスの苦しみに思いを向け、我が神我が神、なぜ私をお見捨てになるのかという叫びが、イエス様と神様とを深く結びつけたのと同じように、私たちもまた神様と深く結びつくことができるということを私たちに教えています。
*我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになるのか
神様に自分の窮状を嘆く。自分が苦しみの中におかれていて、神様に見放されているのではないかと訴え、叫ぶ。そのような振る舞いを通じて私たちは救われるのではないか。詩編22編を手がかりに十字架に思いを向けてみたいと思います。
まず先ほどお読みした聖書箇所と詩編22編との関わりですが、非常に深い結びつきがあります。十字架にかかるときにユダヤ人やローマの兵士たちは、イエス様を侮辱した振る舞いをします。
今でいうとあっかんべーというところでしょうか、唇を突き出し頭を振るというのは相手を馬鹿にする仕草でした。
詩編22編とマタイ27章の両方に出てきます。また、着物をくじで分けるというのも共通の出来事です。イエス様は一度、王様に似せて安っぽい赤い服を着せられましたが今度はそれを脱がされ(結構慌ただしいのです)、今度は身につけていた僅かな衣類を奪われ、それを兵士たちがくじで分け合う、というのです。
身につけていた衣類というのは、借金のカタに取り上げてはならないものの一つとして今でいう鍋などと並んで律法(申命記24章)に記されています。それを奪われると生活ができない最低限のもの。
奪うことが人道的に禁じられているもの。それを、もう死ぬのだから奪ってしまっていいだろう、というのが詩編22編とマタイ27章に共通で現れる、周りの人間たちの態度です。
ところが、そのような周りの人間たちは、最初から侮辱される一人の信仰者に敵対的であったわけではありません。
イエス様を取り囲む人たちもそうです。彼らはある時にはイエス様と手を組み、一緒にローマ帝国を倒そうとさえ持ちかけて来た者たちでした。
詩編22編において侮辱される者を取り囲む者たちも、おそらく最初は仲間だったようです。
困っているようだから助けてあげよう。
何か手伝ってあげられることはないか。
そのような思いで話しかけることさえあったかもしれません。
ヨブ記の中で、正しい人であったヨブが苦しみを受け、周りの友人たちが助けの手を差し伸べるのですけれども結局それらは助けとはならなかったというのに似ているかもしれません。
そして詩編22編で祈り手は、こう叫ぶのです。
我が神我が神、なぜ私をお見捨てになるのか。
この叫びはおそらく、その時までに十分長い間周りの人たちとの対話や会話があったのだと考えることができます。
一人で苦しまなくてもいいのではないか。
何が問題なのか一緒に考えよう。
場合によっては助けられるかもしれない。
そして救助できるかどうかの予備的なやりとりが全て暗礁に乗り上げ、ついに詩編の歌い手は孤独に陥ります。
「我が神我が神、なぜ私をお見捨てになるのか」
とは、まず第一には親切心からの助けの手がもはや差し伸べられなくなってしまった状況があります。
色々な工夫を本人も周りの人も行った。
でもそれらは全てうまく行かなかった。
そこで一人で彼は嘆くのです。
そのような彼の周りに、再び人々が集まります。
かつては助けよう、かつては仲間として一緒にやっていこうとさえ考えていたかもしれない人々が、今度は彼を侮辱する側に回るのです。
かつて哲学者のカントは、他人を手段として用いてはならない、他人を目的として扱え、それが人間を人格として扱うということだと言いました。
聖書が説くのはさらに先を行きます。本当にあなたが他人を人格として受け入れるのであれば、一度限り助けるのではなく、助け続けるようにしなさい。なぜなら、あなたがその人を助けないのなら、いつでもあなたはその人を侮辱する側に回る可能性があるからです、というわけです。昨日まで助けることを画策していたのに、今日になると侮辱することを画策するようになる。
助け切ることができないのなら、今度はその人が侮辱する。あるいは存在しないかのように扱い始める。
その象徴が、着物を取り上げ、くじで分け合うということだったのです。
*神に訴える者から神に頼る者へ
そのようにして人間の最小限の持ち物、いえ人間の最後のプライドを奪われた時に、詩編の祈り手は真っ直ぐに神様に向かって祈り始めるのです。
かつて友人となり得たかもしれない者たちが自分に敵対するのを尻目に、この詩人はささやくようにして、しかし力強く、次のように神様への信頼を歌い始めます。
先ほどお読みした旧約聖書の箇所です。
「主よ、あなただけは私を遠く離れないでください」。
詩人が歌う神様への信頼は、実にささやかな歌声にとどまっています。
「あなただけは」、
これが地上において全てのよすがを失ってしまった信仰者の最後の頼みの綱です。
詩編22編は、この
「あなただけ」
という祈りの言葉にたどり着いた者が、この言葉を手がかりにして信仰を表明し、神様への信頼を明らかにするようになるという詩編です。
従って詩編22編は、かつては友情による困難の打破という可能性を探り、今度はその友情の裏返しで侮辱を受け、そして人間との友情ではなく神様への信仰によって救われるという、長いプロセスを歌っているということになります。
そして我が神我が神、なぜ私をお見捨てになるのか、という22編の冒頭の言葉にもう一度立ち戻ることができます。
この言葉は友情とか親切心とか絆と呼ばれるものに頼っていたのが、それでは十分ではないといって神様に頼るようになる、そのような信仰の言葉であることに気付かされます。
信仰の言葉として「我が神」と口にするというのは、信仰の歩みにおいて始まり(アルファ)であり、完成(オメガ)です。
*裂け目から現れる真のつながり
今日お読みした福音書の後半は、このように叫んでイエス様が息を引き取られた時に起こった出来事について記しています。51節からお読みします。「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。
そして、イエスの復活の後、墓から/出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」。
ゴルゴダの丘から離れた、エルサレムの城壁の真ん中に位置する神殿で、出来事が起こります。
神殿の垂れ幕が裂ける。垂れ幕というのは、かつて神様を礼拝するのが幕屋、つまりテントであった頃の名残りです。
信仰者がエルサレムに神殿を建てるより遥か前、人々は荒野を旅する寄留民でした。彼らの礼拝所は、いつもテントを使ってあつらえたものでした。広めのテントの中に礼拝をする場所をこしらえた、同じように神殿の奥の間にもテント礼拝時代のように垂れ幕がのれんのようにかかっていました。
聖なる場所に入ることは大祭司しか許されませんでしたが、大祭司は垂れ幕をあげて奥の間に入って皆の代わりに礼拝を捧げたのです。これが「神殿の垂れ幕」の背景です。
そしてイエス様が息を引き取った時に、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けるというのです。
これは、礼拝をエルサレム神殿の奥の間において行うのではなく、真の礼拝がたった今息を引き取られたイエス様を仰ぎ見る形でゴルゴダの丘でなされるようになった、ということを意味しています。
先ほどお読みした箇所はその後、地震が起こり、岩が裂けたという言い伝えを記しています。
古代教会の資料の中に、地震や岩や神殿の垂れ幕が裂けることはいずれも、人間の不信仰と関係があるという理解をしているものがあります。
「民が恐れに震えなかったから地が揺れ動いたのだ。
民が驚かないでいたから、天が驚いたのだ。
民が自分の着物を引き裂かなかったから、天使たちがそれを引き裂いたのだ。
民が嘆かなかったから、天の主が雷のような音をとどろかせたのだ」
(サルデスのメリトン、パッサ98)。
イエス様は、人間同士の絆に信頼をおくのではなく、神様に信頼を置く詩編を歌い、祈りながら息を引き取られました。
それは深く考えるとするならば、神様に捨てられるという不安を本当の意味で知っていたのはイエス様だけだ、ということになるのではないでしょうか。十字架上で
「神様に見放され、呪われる」恐れを知ったお方が、息を引き取られる。
その時に大地が、岩が、そして神殿が裂け目を見せるようになる。
人間の代わりに彼らが恐れ慄き、着物を裂いて悔い改め嘆きの声をあげるというのです。
父なる神と子なる神とが、裂け目を通じて深く結びつくのです。
私たちは、どのようにして神様と結びつき、人間同士の真の結びつきを経験するのでしょうか。
さまざまなイベントや、さまざまな災害を通じて連帯を経験することはあると思います。
しかしそれらは永続することはありません。
ただ主イエス・キリストの死を通じて、私たちは結びつきを経験する。
我が神我が神、なぜ私をお見捨てになるのか。
私たちに真の結びつきを与えてくださるお方の叫びです。