2021/06/06 三位一体後第一主日聖餐礼拝
マタイ説教第133回(27:27-44) 「十字架から降りない」
牧師 上田彰
*「褒め殺し」
30年以上前のことですが、歌舞伎などの伝統芸能で使われることが時折あった一つの言葉が、政治の出来事を報じる記事によって有名になりました。
それが「褒め殺し」という言葉です。
伝統芸能で使われる方の、本来的な意味とは少し違う使われ方が広まりました。
本来の意味というのは、こうです。
若手の役者で頭角を表し、将来が有望とみなされた人材が、必要以上に褒められることで有頂天になってしまい、結果としてその才能を生かすことができなくなってしまう、これが「褒め殺し」の本来の意味です。
ところが当時首相となることを目指していた与党のある政治家を「褒め殺し」にかかった右翼団体は、次のような街宣活動を行ったのです。
「日本一金儲けが上手い竹下さんを内閣総理大臣にしましょう」。
こういった街宣活動を繰り返したところ、当の本人が精神的に参ってしまって、右翼団体の要求に一部屈してしまったのです。
歌舞伎の世界の褒め殺しと政治の世界の褒め殺しは、別のものです。
しかし共通していることがあります。
それは、言葉と実態が離れていく様がそっくりだということです。
「本当の言葉」、人を育て養う言葉と、「偽物の言葉」、人の成長を妨げる言葉があるとするならば、世の中には実に多くの「偽物の言葉」があることに気付かされます。
例えば今日の箇所の直前で、ポンテオ・ピラトという人物が出て参ります。
私たちが毎週告白する使徒信条の中に出てくる、ある意味世界中の教会で毎週名指しで救い主を十字架にかけた首謀者としてあげつらわれる人物です。
しかし今日の前の箇所を見ますと、ピラトは主イエスを裁判で有罪にするつもりは全くありませんでした。
そもそも宗教裁判に加担するつもりはありませんでしたし、逆にこの裁判で死刑宣告をさせられることで、自分の経歴に何らかの意味で傷がつくのではないかと考えていた節もあります。
しかし結果として彼はこの裁判で死刑を宣告した張本人ということになってしまいました。
そのような形で毎週世界中の教会で名前が挙げられています。
相当に情状酌量の余地はあると思います。
無理矢理人々によって死刑判決を出させられたというのが実態です。
人々は次のようにピラトに叫んだのでした。
「その血の責任は、我々と子孫にある」。
イエスという男が死ぬことによる責任は、自分たちと、そして自分たちの子孫が取るつもりがある。
そのように言い、民族と世界の代表者であるかのように彼らは叫んだのでした。
しかし結果として、その場にいた無名の群衆を代表する形で、ピラトは死刑判決を下した者として人々の記憶に刻まれることになりました。
ピラトにも責任があります。
真実でない罪で死刑に処せられようとしている一人の宗教者を、身を張って守る責任が本来政治家にはあるはずです。
彼自身、褒め殺しと同種の、偽りの言葉の中に生きてしまっていたから、自分の身を守ることを最優先してしまった、これも事実です。
ピラトが主イエスを十字架につけたのか、というのと似たような問いに、江戸城を建てたのは誰か、というものがあるように思います。
歴史の教科書には太田道灌が江戸城を建てたと書いてあるかもしれません。
しかしマルクス主義的な歴史家はこう言うのです。
江戸城を建てたのは道灌ではない、大工たちだ、と。
しかしやはりその場合は、江戸城を建てたのが太田道灌だと言って、間違いはないでしょう。
太田道灌が大工たちに命じて江戸城を建てたのですから。
同じように、主イエスを十字架につけたのはやはりピラトだと言わねばならないように思います。
兵士たちに命じて主を十字架につけたのは、間違いなくピラトなのですから。偽りの言葉に生きる政治家も、その言葉には責任を持たなければなりません。
「この男の血は私たちと私たちの子孫に責任がある」
と声高に叫んだ民衆は、ついに責任を取ることなく歴史から消え去ってしまいました。
「ポンテオ・ピラトの元で十字架につけられ」。
ピラト自身からすれば「褒め殺し」以外の何者でもありません。
自分の分に合わない言葉によって自分が褒められているようでありながら、実際には殺されてしまう。偽りの言葉によって、ピラトは殺されてしまう。
*主イエス・キリスト、褒め殺される
今日の箇所で繰り返し出てくるのが、主イエスがそのような意味で「褒め殺される」姿です。
・主イエスは、赤い外套を着せられます。
これは紫の、王様が着る外套に近いけれども、兵士が自分の着ている外套を着せたものです。
言ってみれば、イエス様を本心ではそう思っていないが王様の格好をさせたというわけです。
・さらに、いばらで編んだ冠を頭に乗せます。
・葦の棒を持たせるというのも、本来王様が持つべき、「笏」の代わりと考えられます。
結局はこの「笏」を取り上げて、いばらの冠を被った頭を何発も叩き続けます。
当然、頭からは血が出ます。
…褒め殺しという名の侮辱はさらに続きますが、それらの一つに目が止まって進まなくなってしまいました。
それは、三十七節の言葉です。
「イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた」。
のちの絵画ではINRIと短く縮めた言い方が有名になりました。
ナザレのイエス、それはユダヤの王(Jesus of Nazareth, Ruler of Jew)、少し長いので絵でこのシーンを描くときには短く4文字で書き表すことが一般的になりました。
これも褒め殺しの言葉の一つだと考えられます。
つまり、イエスは王であった、そのように本心とは異なる評価をすることで、相手を貶め、侮辱するというわけです。
私たちはイエス様こそがこの地上の王たちの中の真の王様であると信じていますが、それでもここでローマの兵士たちが侮辱の意味でこのように看板を掲げたことを疑う余地はありません。
しかし、この看板書きにはある種の真実が含まれているとも考えられます。
その真実とは、実はイエス様は本当に王様だったということとは別の、もう一つの真実です。その真実とは、このINRI、イエスこそ王という看板は、
「罪状書き」として掲げられている、ということです。
他の福音書を見ると、当初この看板は、
「このイエスは、王と自称していた」とすべきだと処刑に賛成していた者たちによってピラトに提案されていたそうです。それなら話は辻褄が合います。
つまり、王と自称していたというのは、一種の罪に問えるからです。
ところがピラトは、「自称」という言い方を看板から外すように命じました。
ですからこうなります。
「このイエスというお方は、王であったが故に死刑に値する」。
少し戸惑います。
あたかも、人間であるが故に死に値する、と言われたようなものです。
しかしイエス様が十字架刑に値すると人々が考えた理由、それは突き詰めて言えば、このお方が王であった、実際に世界を支配するお方であったからだということに尽きるのではないか。考えてみると深い問題提起が37節に含まれていると思います。
世の中で、クーデターが起きて、古い王様が新しい王様によって殺されるということは歴史上たくさんありました。
王様を自称することによって刑に処せられるという人も探せばいたのかもしれません。
しかし、現在王であるが故に殺されるということはありませんでした。
この世の真の支配者であるが故にこの世から抹殺される、これが主イエスの運命だというのです。
「褒め殺し」とは一体なんなのでしょうか。
褒めることによって貶める。実態とは違う偽りの言葉を投げかけることによって、相手を低くするのが褒め殺しです。
しかし、ここで起こっているのは本当は、実態とは違う言葉を投げかけることによって、相手を高めることなのではないでしょうか。
褒め殺しの反対です。言葉はないと思いますが、あえていうなら「殺し褒め」でしょうか。
「彼は犯罪人である。なぜなら彼は真の王であったのだから」
というのは、侮辱する言葉を使いながら、つまり「殺し」ながら、相手を高めている(褒めている)ことになります。
あなたは犯罪人だ、というレッテル貼りをして殺しているのに、却ってそのことでそのお方が王であることが明らかになってしまう、褒めてしまうことになる。
主イエスにおいて、「殺し褒め」が成り立っているのです。
これは、単なる、退けられなければならない、偽りの言葉ではないように思います。実態とは合わない空疎で偽りに満ちた言葉は力を失い、わたし達を生かす真の力が頭をもたげてきていることに気が付かされます。
*侮辱まみれの中にある希望
古代から長く、今日の聖書箇所を通じて信仰者達は、侮辱にまみれた主のお姿から、希望を見出してきました。
十八世紀にバッハによって作曲されたマタイ受難曲は、その歌詞をルター教会の信仰の目を通して読まれた聖書と祈りの言葉から汲み取っています。
十字架にかけられ侮辱されているイエス様を描く場面で、一人の歌い手が低音で次のように歌うのです。
来たれ、甘き十字架よ。私はあえてそう言おう、我がイエスよ、さあ十字架を我に与えたまえ。(第57曲)
なぜ十字架を「甘い十字架」というのでしょうか。
なぜここで信仰者は、隣人を侮辱し、痛めつけるために褒め殺しを使うのではなく、絶望を侮辱し、死を痛めつける、殺し褒めを見出してきたのでしょうか。
それは、復活の希望の大きさを知っているが故に、この世における死の絶望がいかに小さなものであるかを言い表すことができるからではないでしょうか。
この世のかりそめの支配者ではなく永遠の真の支配者を知っているが故に、そして絶望の死で終わる人生ではなく永遠の命へと向かう人生を知っているが故に、主イエスの十字架への道のりがいかに苦しいものであったかを思い出すことは、つまり主イエスが殺される様を思い起こすことは、十字架に主をつけた人間の愚かさを思い起こすことを超えて、復活の希望を思い起こし、主を褒め称えることにつながるのです。褒め殺しという偽りの言葉は人を殺し、殺し褒めという真実の言葉、いえ賛美の言葉は人を生かします。私たちの神様への眼差しをくっきりはっきりさせるからです。
*十字架から降りない
そのような、十字架を通じて私たちが思い起こす「殺し褒め」の希望を、四十二節の、本来は侮辱である言葉から見出してみたいと思います。こう書かれています。
「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」。
まずは、他人は救ったのに自分は救えない、とイエス様を人々は侮辱したつもりでいます。
イエス様が他人を救ったことは認めざるを得ないのです。
しかし、自分を救うことができないのなら意味がない、これが侮辱者達の根本的な考え方です。たとえ世界を手に入れても、自分を失えばなんの価値があろうか、これがイエス様を十字架にかけた者たちの考え方だというのです。
実はイエス様がそっくりのことをおっしゃっています。
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」、これは16章の言葉ですが、その意味はこうです。イエス様ご自身に従わず、代わりにサタンに従うことで全世界を手に入れたとしても、サタンに従ってしまったら自分の命を失うことになるのでなんの意味もない、これがイエス様が16章でおっしゃった事柄です。
しかしイエス様を十字架にかける侮辱者たちは、自分の命さえ救えない者に、救い主という名前は相応しくないではないか、と勘違いをしてイエス様を侮辱し、
「あなたは自分を救えない変な救い主だ、いや救い主ではない」と言っているのです。
イエス様は確かにご自分の命を救おうとはなさいません。しかしそれは、全世界の民を救うためにご自分の命を諦めるということです。
自分を殺すことによって世界を褒めるのです。
今私たちは主が十字架にかかられる、福音書の最終盤を見ていますが、かなり福音書を遡り、その序盤を思い出してみたいと思います。
サタンが、全世界を支配させてあげようとイエス様に迫ってきた時があったのです。
イエス様の宣教の始まりの直前、イエス様は悪魔から荒野で誘惑を受けました。
石をパンに変えることを提案され、飛び降りても死なないはずだと唆され、全世界をあげるからわたしを拝みなさいと求めてきたのです。
これはイエス様の宣教の歩みがいつも悪魔からの誘惑に晒され続けながらのものであったことを先取りする出来事だと言えます。
(1)イエス様は、ある時には飢えや病で苦しむ人たちに出会い、憐れまれます。そういったイエス様に対してサタンは提案するのです。
結局のところ大事なのは心じゃなくてモノなのだ、だからどんどんパンを作ってしまいなさい。今でいえば、どんどんお金を印刷してしまいなさい、という誘惑を悪魔がしている、というところでしょうか。これが第一の誘惑でした。
(2)またある時には生死の境に置かれている人たちに出会い、憐れまれます。そういう人たちのために祈るイエス様に対してサタンは持ちかけます。
神様が不思議な力をどんどん発揮できるように、どんどん危ない目に遭うように人々を仕向けなさい。そうすれば神様の不思議なわざを人々はどんどん目撃して、どんどん神様を信じ、そして幸せにもなれるではないか。これが第二の誘惑です。
(3)こうして神様の力を人間の地上での幸せのために用いることを仕向けるサタンの仕上げの誘惑がこれです。世の中にはさまざまな苦しみにおかれている人たちがいる。
それらの人たちのおかれている環境や困難を一手に支配することができれば、人々の苦しみを取り除くことができる、そのための条件はただ一つ、サタンであるわたしを礼拝することだ、わたしが神より偉いことを認めれば、この地上のあらゆるものが困ることなく生きられるよう、この世界を好きにする、2番目にえらい権限を与えよう。長い宣教の旅に出る必要など一切ない。
たった今、世界中のありとあらゆる困難を取り除き、救うことができるのだ。
なぜイエス様は、サタンの誘惑を退けたのでしょうか。
なぜ世界中の人々を救うお手伝いをしてあげようというサタンの提案を退けざるを得なかったのでしょうか。
それは、世界中の人々を救うというのは、世界中の人々が、世の中にある見た目の幸せに止まることなく、神様の方に心と体を向ける、つまり『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』という神様の求めへと人々を導くということだからです。
例え世の楽しみの全てが手に入ったとしても、わたしの心が世の楽しみに埋没してしまい、神様の方を向いていないとするならば、どれほどにその人生は虚しいでしょうか。
改めて今日の聖書箇所を思い起こします。
うつろな人生を送る者による、救い主を侮辱する言葉は、どこまで行ってもうつろです。
今日の聖書箇所は、地上の希望が全てだという考え方にたてば、たった一つの希望も見出すことができません。しかし地上をご支配になる天の御国の王に信頼を置くのであれば、全てが希望になります。
「今すぐ十字架から降りるがいい」。
この侮辱者からの言葉に対しても、主は十字架から降りてこないのです。目に見える形でお力を発揮なさることを一切やめ、ただ父なる神に全てを委ねる。
このお方に信頼を置くとき、私たちの目前の絶望は、希望に変わります。
*キレネ人シモンになる
以上のように、「褒め殺し」ならぬ「殺し褒め」の論理を今日の聖書箇所に見出していく時に、一つの落とし穴があるように思います。
それは、聖書の救いの論理を、何か人間的な知恵に置き換えてしまうという危険性です。
例えば、「明けない夜はない」とか「冬来りなば春近し」とか、
「マイナスを二乗すると大きなプラスになる」というような形で、「殺し褒め」を人間の精神力の問題に置き換えてしまう危険性は、私たちのうちにもあるのではないでしょうか。
今日の箇所にある小さな、しかし見逃せないのが、十字架を担ぐことを強いられたキレネ人シモンの記事です。
この人の素性はよくわからないのですが、アフリカから渡ってきてエルサレムに巡礼旅行に来ていたのかもしれません。
なんの因果もなくただそこを歩いていたというだけの理由で、ゴルゴダまでの道のりを、イエス様がかかるべき十字架の一部を背負うことを余儀なくされるのです。
このシモンの記事が四つの福音書に例外なく収められているのは、おそらくシモンの記事が小さいが欠かせない役割を果たしているからだと考えられます。
その役割とは、信仰者が背負う十字架とは進んで背負うものではなく、無理矢理背負わされるものだというのは重要なメッセージだと認識させるという役割です。主イエスはおっしゃいました。「わたしの十字架は負いやすい」、と。その意味は、だから十字架を探してどんどん担いなさい、他の人が困っていたらその労苦をどんどん引き受けなさい、というわけでは「ない」、ということです。進んで人の嫌がることをしてはならないというわけではありません。しかしそのような世にいうボランティアや、艱難辛苦を我に与えたまえという態度が私たちを救いへと導くわけではないのです。
私たちは期せずして背負わなければならない十字架というものがあります。強いられるようにして背負うさまざまな十字架を、下ろすことができれば下ろしたいと主に願うことがあるはずです。喜びに満ちた信仰生活を送りたいと願いながら、そうでない現実が待っているとしたら、どう考えたらいいのでしょうか。私たち自身が十字架にかかるつもりでその苦難を引き受けるべきだというのでないことに気づいた時に、私たちは自然とシモンのような存在になるのではないでしょうか。
私たちの前に備えられているパンと杯は、もちろん私たちが主の十字架を思い起こすためにあるわけですが、それらに与る私たちが、シモンと自らを重ね合わせながら食卓につくということには意味があるのではないでしょうか。
私たちもまた主の十字架を背負うのです。
私たちが経験する信仰にある逆転とは、主イエス・キリストにおける逆転です。
「これは私たちのために割かれた主イエスキリストの体」
「これは私たちのために流された主イエスの血潮」、
この言葉によって生かされるものとなります。