主イエスの治療法

2021/05/30 三位一体主日礼拝

マルコによる福音書14045節   「主イエスの治療法」                                                                                    上田文

 

先日、脳科学者の中野信子さんという人の文章を読みました。

中野信子さんは、『ヒトはいじめ”をやめられない』という本を書いておられます。

その本のなかで、人は共同体を維持するための正義感、この正義感とは仲間意識や規範意識をさしているようですが、この正義感が行き過ぎて、協力的な行動を取らない人だけでなく、身体的能力の劣っている人や多数派とは違う異質の人、考え方の違う人を排除しようとするようになるそうです。

そして、これが「いじめ」発生のメカニズムだとありました。

また、人は「邪魔になりそうな人」を排除しようとする時に、頭の中で快感を感じる物質が分泌されて、その快感が理性を超えてしまう事があり、正義感が行き過ぎて、「いじめ」が発展したときに、これを止めることが出来なくなることや、規範意識が高い集団ほど「いじめ」が起こりやすいという事も書いておられました。

 

 今日の聖書箇所には「重い皮膚病」にかかった人が出てきます。

この「重い皮膚病」は、以前の聖書では「らい病」と訳されていました。

「らい病」は長い差別の歴史と結びつく言葉なので、今は「ハンセン病」と訳されます。

しかし、この「重い皮膚病」という言葉は、レプロスといい、もともとハンセン病に限らず皮膚病全体を指す言葉として使われていました。

けれども、「重い皮膚病」は、髪の毛が抜けたり、人が見て分かるところが変形したり、感染したりする場合があります。

そのため、この病を患った人は、人々から恐れられ、とても厳しい差別の対象にもなりました。

旧約聖書のレビ記には皮膚病のことが書かれていますが、ある人が「重い皮膚病」に罹っていると祭司が判断すれば、祭司はその人を汚れた者として町から追放しなければならないとあります。

そして、その人が町に入る時は

「衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。』と呼ばわらなければならない」(レビ1345

とも書かれています。

 人々に自分が病気であることを知らせ、人々が自分に近寄らないようにしなければいけなかったのです。

 また、レビ記にはこのようにも書かれています。

「この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は一人で宿営の外に住まねばならない」(レビ1346)。

 とてもひどい言葉のように思います。

しかし、これは共同体を守るために必要な事として大切な掟とされていました。

感染を防ぎ、共同体を守るために仕方がなかったと言えるかもしれません。

けれども、なぜ「病んでいる」ではなく、「汚れている」と記されたのでしょうか。

それは、宿営の外に住む患者は、この病のために人々が集まる礼拝に行く事が出来なくなるからだと言われています。

つまり、レビ記が記している「汚れている」とは、汚れに至る病であるというのであって、この人自身を「汚れている」と言っているわけではないという事が分かります

しかし、人々は、その人の内面まで、その人自体が「汚れている」と考えるようになったのでした。

先ほど言いましたように、規律意識が強すぎて「いじめ」に発展する経過のように、人を守るために神さまが与えられた律法が、人間の意識下で歪められてしまい、神さまが定められた「清さ」と「汚れ」をも変化させてしまったのでした。

 

 今日の聖書箇所の45節には

「それで、イエスはもはや公然と町に入る事ができず、町の外の人のいない所におられた」

とあります。

イエスさまはおそらく町の中に入る手前で、この重い皮膚病を患っている人に出会ったのだと想像できます。

重い皮膚病の人がイエスさまのもとに来て跪いて願いました。

「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。

この「御心ならば」という言葉を聞く時、私たちはどのように感じるでしょうか。

まず多くの場合、日本の文化に従ってこの言葉を「もしよろしければ」と読み違えてしまうように思います。

けれども、この言葉は「あなた、つまりイエスさまが望むなら、わたしを清くすることができる」という意味の言葉です。

「御心ならば」というのは、

「あなたが、つまりイエスさまが望むならば」ということです。

「重い皮膚病」を患っていた彼は、自分が清くされるのは、イエスさまのご意志にかかっている。

自分は、今、汚れた人間として神さまと人々の前に立つことが赦されていないけれども、イエスさまが、この私を清くしようと望んでくださるのならば、清くなる事が出来ると言ったのでした。

それは、「重い皮膚病」を患っている人が、自分の全てをイエスさまに委ねようとした言葉なのでした。

 

そして、イエスさまは、この人に向かって

「よろしい。清くなれ」と言われたとあります。

また、その前には、

「深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ」と、イエスさまの様子が記されています。

「深く憐れまれた」という言葉は、「内臓」という言葉が元になった言葉です。

イエスさまは、内臓が揺り動かされるほどに憐れまれたという事です。

日本語で言えば「はらわたがよじれるほどに」と訳せるのでしょうか。

イエスさまは、この人の苦しみや悲しみに対して、自分の肉体が痛むほどの憐れみを感じてくださったという事です。

イエスさまの愛は、当事者である「重い皮膚病」の患者以上に、その人の痛みや傷を感じてくださる。

その当事者が気づかないほど深い部分まで、イエスさまが見てくださり、憐れんでくださるというという事です。

もし、私たちが自分の内臓が震えるほどに、相手の痛みを感じ、人を憐れむ事ができるのなら、「いじめ」は起きないでしょう。

しかし、この世に「いじめ」が存在するということは、私たちがどうしようもなく根本的な部分で愛に欠けているということなのです。

「汚れている」と言い、誰よりも助けを必要としている人を更なる苦しみの中に突き落とすような事をしてしまう。それが、私たちの姿なのです。

 こういった事情をもっと明らかにするために、別の翻訳をご紹介します。

ある聖書では、この「憐れんで」という部分を「怒って」と訳しているものがあります。

「憐れんで」と「怒って」ではまるで正反対のように思います。

では、なぜイエスさまは「怒った」のでしょうか。

この「重い皮膚病」の人に対して怒ったのでしょうか。

それなば、「よろしい」とは言われなかったはずです。

皮膚病を癒すこともなさらなかったはずです。

イエスさまが怒られたのは、この人をむしばんでいる病に対して、そして人間をむしばむ罪に対してです。

イエスさまにこの怒りがあるからこそ、人間の罪や死や病に対して「深い憐れみ」が起こるのです。

そして、内臓が震えるほどに相手のことを思い、その相手に何かせざるを得なくなる。

そのようなイエスさまの思いがここに記されているのです。

この内臓が震えるほどに相手のことを思われるイエスさまが「手を差し伸べてその人に触れて」くださったのでした。そして、内蔵が震えるほどの愛によって「怒って」くださったのでした。人間の社会の罪や死に対して、町の中で生きるべき人間と、外で生きるべき人間を分ける社会に対して、清い人間と汚れた人間を自分たちの感情によって分けてしまう人間の罪に対して怒ってくださったのでした。そして、今もその強い感情によって私たちに手を伸ばし続けてくださっています。

 

 イエスさまは、その人の願いを聞いて

「よろしい。清くなれ」と言われました。

これは「あなたが清くなることを、わたしは望む」と言われたということです。

そうしたら、「たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった」とあります。つまり、「イエスさまが望むなら、わたしを清くすることができる」と言った人に対して、イエスさまは「わたしは、あなたが清くなることを望む」とお答えくださったということです。

その望みには、深い憐れみが込められていたことは言うまでもありません。

 

 私たちも「御心ならば」と祈りたいと願うのです。

私たちはいつも祈りをします。

その際に、私たちは自分の願いや意志を押し通してしまう事があるように思うのです。

他者に対して自分の願いや意志を押し通してしまう私たちの姿が祈りの中にも表れるのです。

相手の心をたずねない。

神さまの御心さえもたずねない。

のような、私たちが祈りの中で浮彫にされるように思います。

そして、独りよがりに生きてしまう。祈りが、ただの独り言になってしまうという事があるように思います。そのような私たちに、イエスさまは祈りを通して神さまの心を聞く練習をさせてくださいます。「御心ならば」と聞く練習です。

神さまは、人の心を持っておられる方です。だから、私たちは聞きたいのです。

イエスさまは、聞くことによって、心と心を通い合わせる事を私たちに教えてくださっています。御心を問うのです。

あなたの思い、意志は何ですか。御心は何ですかと問いながら、神さまと、また隣人と心を通わせたいと願います。

 

 イエスさまが、人間の願いや人間が望む救いではなく、ご自分の憐れみの心によって人間を救う方である事を知る時、私たちはイエスさまが神の国、神の御支配をこの地上にもたらすために来てくださった事を思い出します。

イエスさまは、このように私たちおっしゃってくださいました。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15)。

今までとは違う全く新しい国である、神さまの国が近づいているのです。

この新しい国に私たちが入れられるようにイエスさまが来てくださったと言われるのです。

私たちが、古い者から新しい者に変えられるためです。

そのために、イエスさまは、悔い改めて、福音を信じることを私たちに教えられました。

古いままでは、新しい国に入れないのです。

後にイエスさまはこの事を、

「新しい葡萄酒は、新しい革袋に入れるものだ」(222

と譬えられました。

新しい葡萄酒は、まだまだ発酵途中にあります。

そのため、袋はどんどん膨らんでいきます。

新しい革袋に入れないと、古い革袋では破れてしまいます。

これと同じように、神さまの新しい国が来ているのに、私たちが古いままでは、私たちは破れてしまう。駄目になってしまう。

そのため、イエスさまは、悔い改め、福音を信じる事によって新しい袋になりなさいと言われたのでした。

けれども、私たちはなかなか新しい袋になれないように思います。

自分の中にある罪を見る事が出来ていませんし、罪があると認めたくありません。

冒頭で話したように、自分たちの仲間意識や規範意識による正義をふりかざし、なかなか「いじめ」がなくならないという現実があるのも事実です。

自分が正しいと思ってしまうからです。

やはり、私たちは、なかなか新しい袋になれないのです。

またひょっとすると、いつまでも古い革袋のままで良いと思っているのかもしれません。自分たちが慣れ親しんだ革袋の方が住みやすいからです。

 

先ほど話した、中野信子さんの『ヒトは“いじめ”をやめられない』という本ですが、とても人間的ないじめの回避策が提案されていて、興味を持ちました。

その一つが、学校のいじめに対する指導方法です。学校では、理想論が先走り

「いじめは悪いものだ」と教えがちであると言います。

しかし、心の底からそれを分かっている生徒は少ないとも言います。

また、心の底から理解していないため、それを行動にまで反映することが難しくなります。

特に、「いじめ」は集団の中で「ルールに従わない者に罰を与える」、

「間違っている者を正す」という正義感から発生し、

いじめ」をすることで、その正義感や集団から認められるといった感覚を満足させるらしいので、頭から「いじめは悪いものだ」と言っても、具体的に「いじめ」が発生したときに、

「いじめは悪い」と考えるのは難しいと言うのです。

こで、著者はヒトの本能を紹介しながら、ヒトにあった解決法を提案します。

ヒトは、本能として利己的な行動をすると言います。

そのため「自分の不利益になる行動をしません」

と言うと誰もが納得すると言います。著者は、教育もそこからスタートすると良いと言います。

つまり、ヒトが共同体を形成して協力し合う利己的動機に基づいて行動し、その延長線上に「いじめ」があるのならば、「いじめ」が本当に集団と個人の利益になっているかを考えさせればよいと言うのです。

著者は、「いじめ」が共同体を維持するための正義感が行き過ぎて機能不全になった結果と表現します。

集団が機能不全に陥り、違った方向に進もうとしているとき「いじめ」が起こる。

それは、集団にとっても、集団の構成員にとっても、個々人にとってもまったく不利益であるという事が分かると、「いじめは悪いものだ」と分かる。

これが解決法だと言うのです。一見なるほどと思わされるのですが、それで十分かと考えさせられます。中野さんは、いじめない方が結果的に集団の利益になるというのです。

しかし、それでは利益を求めて「いじめ」に至る、人間の本能的な弱さを解決できていないように思うのです。

 

 このような利己的動機に基づいて共同体を形成する人間の本能をイエスさまは、よく見ておられました。

そして、そのことを分かっていながら、イエスさまは、この「汚れている」とされた皮膚病の人が、宿営に戻り、家族や仲間たちのいる共同体に再び入る事を求めてくださいました。

それこそ、重い皮膚病を患った人が何よりも望んでいることをイエスさまは知ってくださっていたからです。

そのため、「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って、祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい」

と言ってくださったのでした。

そのあと、イエスさまは「町の外の人のいない所におられた」(45

とあります。

あえて、町に入らないで、一人でおられたのだと思います。

「だれにも、何も話さないように」と言われたのは、このイエスさまの癒しの奇跡を誰も本質的に理解している人が居ない事を、イエスさまが知っておられたからです。皮膚病を癒されたこの人でさえ、病気を治され共同体の中に入れるようになったという、益に繋がる喜びしか理解していなかったのだと思います。イエスさまを迎え入れる人々は、神さまを求めるのでなく、利益を求める人たちなのでした。

だから、イエスさまは町の外の人のいない所におられたのでした。

 

 イエスさまが誰にも理解されないというのは、聖書の中の話だけではないように思います。

先ほど、極めて人間的な「いじめ」の解決法について話をしました。

「いじめ」は、ヒトの利己的な考えによって発生するものでした。

そして、今、その解決法を私たちは必死になって探しているにも関わらず、その利己主義から離れられない現実がある事を知りました。

不利益であるから「いじめ」を止めるという、利益追求の構造を変える事が出来ないままでいるのです。

隣人の心を聞く、神さまの御心を聞くという、イエスさまが教えてくださる方法。

つまり、私たちが人と神さまが繋がる方法を理解できていないということです。

理解できていない、というより求めていないと言っても良いかもしれません。

相変わらず、神さまによって新しい命を頂いて、新しい神の国に入る準備が出来ないままでいるのです。古い革袋に居心地のよさを感じているということです。

 

 結局、古い革袋のままで生きたいと願った人々は、イエスさまの新しい教えを受け入れる事が出来ず、感情の赴くままにイエスさまを異質で

「汚れている」と判断し、十字架につけてしまいました。

しかし、イエスさまはこのような人々の感情とは全く逆の思いを持って十字架への道を歩まれました。イエスさまは、自分を十字架に付けようとするこの人々が、永遠の命を得て、神の国に入るために十字架に架かられたのでした。

そのため、イエスさまは、いつも、人々が「汚れている」と思う方を選ばれたように思います。それは、なぜでしょうか。自分の利益を追い求め、神さまに耳をかさない、神さまから離れてしまった人々。罪であるとされる人々を、罪のない自分と逆転させるためです。

罪を持ちながら、罪であるとも分からない私たち人間を、内蔵が痛むくらいに憐れんでくださり、手を差し伸べてくださり、本当は何の汚れもないイエスさまが、神さまの前で汚れているとされる私たちと入れ替わってくださる。これが、イエスさまの「清め」の奇跡です。

 

この事は、イエスさまの十字架の死の贖いによって、私たち全てに与えられる恵みです。

イエスさまは、私たちと神さまの間を隔て、私たちが神の国の民として生きる事を妨げている罪と汚れを全て背負って十字架にかかってくださいました。

自分にとって不利益であるという情報によってしか、自分の生き方を変えられないような、私たちの弱さとその中で生きる苦しみにイエスさまが手を差し伸べてくださり、触れて下さり、その全てを引き受けて十字架に架かってくださったのです。

このイエスさまの恵みによって、私たちは本当に清められ、毎週、神さまの御前に出て礼拝を捧げることをゆるされています。

 

「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる(詩編139810)」。

詩編の言葉です。

私たちの歩みは、罪と汚れの苦しみの中にあります。相変わらず、利益、不利益によって人を振り分けるような行為をしてしまう事があります。

私たち自身が、「汚れた者」を作り出していじめ、苦しめてしまうことが起こります。だからこそ、イエスさまは私たちに手を差し伸べ続けてくださいます。

利益を求める共同体から、神の御心を求める共同体へと私たちを引き上げてくださるのです。私たちは、やはり「主よ、御心ならば」と祈りたいと思います。

この祈りが、例え「主よ御心ならば、わたしの利益となるように」という祈りに繋がってしまっていたとしても、イエスさまは、私たちをこの罪から救ってくださると信じたいのです。

なぜなら、「御心ならば」と祈るとき、私たちは神さまと人と心を通い合わせることが許されるからです。

あの「重い皮膚病」の人が、イエスさまの前に跪くのを許されたように、私が「御心ならば」と祈る時、神さまの前に跪くことを許してくださるのです。

イエスさまは、私たちの祈りに心を震わせながら答えてくださいます。

「よろしい。清くなれ」。

このようにして私たちを新しい革袋として作り変えてくださいます