幻に立つ教会

2021/05/23 聖霊降臨祭主日聖餐礼拝 

使徒言行録2章1〜13節 

「幻に立つ教会」                                                            上田彰

 

*「幻」、すなわち「約束手形」を信じる信仰者の群れ

 

 聖書の中に出てくる言葉の一つに、「幻」という言葉があります。

「あるのかないのか朧げなもの」という意味ではありません。

英語でヴィジョンと言います。「見させていただくもの」という具合でしょうか。

日本語で「幻」というと「幽霊」というような意味合いもあって、私たちの教会ではあえて「幻」と言わずに「教会将来計画」と呼んでいます。

「神様からの約束手形」という意味合いです。

 今日お読みした旧約聖書の箇所は、イスラエルの民に与えられた最初の約束手形の言葉が記されています。

 聖書の中ではしばしば、約束手形は「命令」の形で発行されています。

こうです。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい」。

 これが約束なのです。

 そしてアブラハムは、約束が実現する前からその約束が実現することを確信して、出発しました。「幻」という名の約束手形を信じる信仰者の姿こそ、アブラハム以来の信仰者の姿です。

 ペンテコステとは、この旧約以来の「幻」を信じ続けた信仰の民が、改めてはっきりと「幻」を見ることができた、そのような日と呼ぶことができるでしょう。

 2003年教会総会以来、私たちは教会将来計画を公式に掲げる教会です。

 そしてそれ以前から、私たちの教会は日本基督教団の中でも「伝道の幻に生きる教会」として「マケドニア伝道」「アンティオキア伝道」の幻を掲げる群れに属して参りました。

 今日は、まずは生まれ故郷から離れて神様が示す地に進んだ信仰の先達に始まり、信仰者の系譜に思いを向けたいと思います。

 

 

1 アブラハムとサラ

 

 イスラエル民族は、遊牧民族です。住まいを持たない神の民は、イスラエル王国の建設をあるときに「幻」として与えられますが、それまでは、出発したのはいいけれども行く先のはっきりしない旅でした。

 そして行く先がはっきりしないことが、信仰の旅路にマンネリ感を与えていました。

 神様の約束を頭の中では信じているのですが、どこか抽象的で、はっきりしないものになっていったのです。

 そのような時にしばしば人は、元からの約束を自分の都合の良い形で改変してしまいます。

 これからお話しするのは、神様からの約束をアブラハム自身が自分の都合の良い形で書き換えてしまい、それゆえに自分が最も愛するものを失いかけてしまうという話です。

 先ほどお読みした12章の後半で、さっそく信仰の旅路は隘路に入り込みます。

 エジプトに滞在する際に、自分の妻サラのことを「妹」と対外的には説明をしてしまうのです。

 その理由は、サラが美しすぎるので夫である自分の命が狙われる可能性がある、そこで「妹」ということで通して欲しい、ということでした。

 サラはエジプトの王ファラオに側女として召し上げられ、兄であったアブラハムは大変丁重に扱われました。

 そのうちにエジプトに流行病が発生し、その理由がファラオが他人の妻を召し上げたことにあるとファラオにわかります。

 王ファラオは困惑し、私はこの女性が夫のある身だとは知らなかった、そう言ってサラをアブラハムの元に送り返します。

 そして、多くの財産を土産としてつけるので、いますぐにこのエジプトを出ていって欲しい、と求めます。

 どこまでこの展開をアブラハムが読んでいたかはわかりません。

 自分の妻を滞在地の地元の王に差し出すことによって、自分たちが生き延びよう、などということは、最初は考えていなかったのかもしれません。

 しかし実際にはある程度うまくいってしまった。そこで彼はもう一回、はっきり意図的にこの作戦を繰り返します。

 ゲラルという地においてもサラを妹と紹介し、そして同じことが引き起こされます。

 アブラハムは一体どのような気持ちでこのような作戦を妻であるサラに持ちかけているのでしょうか。

 旧約聖書の中の発想方法では、アブラハムは、神様の約束手形があるのだから、自分の生存作戦は正当化される、となるのだと思います。

 実はサラもまた別件で同じような間違いを犯しました。

 星の数ほど子孫が生まれるという神様の約束を信じることができず、アブラハムに対して自分の召使いであるハガイを差し出し、自分の召使いと夫アブラハムの間に生まれた子供であれば自分たちの子孫とみなしうる、だから神様の約束は実現したことになる、と思い込んで実行してしまい、神様から怒られてしまうという一件が後日起こるのです。

 話を戻せば、アブラハムはエジプトとゲラルにおいて、自分とサラが生き延びるためには当然のこととして、サラを妹とあえて紹介し、滞在地の王に取り入ろうとしました。

 そうやって生き延びることが神様の御心に違いない、彼なりに、歪んだ仕方でサラを自分達夫婦が生き延び、神様の約束を実現するための道具として用いたのです。

 ではサラはどのような思いでこのアブラハムの「生存戦略」「神様の御計画、アブラハム風実現戦略」に付き合っているのでしょうか。

 どんな思いを持って「妹」と名乗り、どんな思いを持って地元の王の最初の謁見を受け、そしてどんな思いを持って手土産の財産とともに夫アブラハムの元に戻ってくるのでしょうか。

 それぞれの時の彼女の思いは、アブラハムと一緒であるとは言えないと思います。

 現代日本のある牧師は、アブラハムの元にサラが戻ってくる時に、二人に和解をもたらそうとするのが教会で「牧会」と呼ばれるわざがそもそも目指すところなのだ、と定義をしています。

 「幻」を巡る誤解が解消していくことは、ペンテコステの課題であると言えるのかもしれません。

 ペンテコステといえば「外国語で話す」というのがすぐにイメージされると思いますが、実はペンテコステの課題は幅広いのです。

 

 

2 ペンテコステの日に

 

 お読みいたしました新約聖書の箇所は、聖霊降臨の様子を直接記している最も有名なテキストです。

 主イエスがよみがえられ、40日間にわたって弟子たちとともにいてくださいました。

 この40日間の間に伝道がめざましく進んだというようなことは記されていません。

 主イエスは、

 「今こそ真の神の国を地上に建設する時が来たのですか」という弟子たちの問いに対して、

 「それはあなた方の知るところではない」と、つれない返事をしておられます。

 神様の国が地上にできるというのが神様からの約束手形だ、そしてその約束手形が実現するためには    今が良いタイミングに違いない。

もしそのタイミングで私たち弟子が用いられるということなら、喜んでそのために仕えたい。

 弟子たちは「いつ行動するんですか、今でしょ」

 とイエス様に迫ったのです。

それに対して、イエス様は、

「今こそ『祈る』べきだ」と答えているのです。

 神様の約束をどうやって実現させようかと考えたアブラハムやサラの子孫たちは、この時にもまた、「神様の約束を実現させるのは自分達だ」と思い込んでいました。

しかしイエス様は、

「あなた方の力が今こそ必要だ」

と仰るのではなく

「あなた方の力が必要なのではなく、祈ることこそがあなた方にとって力になる」

「あなたが神様を助けるのが『祈り』なのではなく、『祈り』があなた方を助けるのだ」、そうおっしゃって、そして天に昇られました。

 残された弟子たちを中心に、自然に祈りの輪ができていきました。

加わった者の数はおおよそ百二十名、一旦は散り散りになった彼らが集まって、次第に周りの人を増やしていったのです。

考えてみると、イエス様に対して向けられた憎悪は、イエス様だけに向けられたのではなく、弟子たちにも向けられていました。

教会とも呼べる祈りの輪は地下活動のような形で広がっていたのです。

 

 そして主が天に昇られてから10日後、皆が一つになって祈っていた時のことです。

突然激しい風が吹いてくるような音が聞こえ、炎のような舌が各自の上に降りてきました。皆は聖霊に満たされ、外国語で話し始めます。そして物音のために集まってきた近所の人々が驚きます。皆、それぞれの国の故郷の言葉が語られているのを聞くからです。

 一体この時に、何が起こっているのでしょうか。

 

 1:そこに言語学者がいて、話されている言葉を分析し、パルティアの言葉、メディアの言葉が語られている、そういう、今で言えば、自動翻訳アプリがやりそうなことがスマホやパソコンなしで起こっている、これはすごいという話なのでしょうか。

 

 2:あるいはもっと夢のない話なのですが、次のような解釈もあるそうです。

それは、ここに出てくる言語のリストは、ペンテコステを機会に起こった伝道の機運があり、ここに書かれている言語を教える、伝道のための語学学校ができた、という解釈です。何をバカなことをと仰る方もおられると思いますが、現代でも世界各地の大きな語学研究機関は海外宣教のための人材養成を兼ねているケースが多いと聞きます。

 ペンテコステとは一体なんであるのか。ここでは極端な二つの解釈、つまり文字通り「異言」という、不思議な力が働くことによって不思議なことが語られていたのだという解釈と、合理的に説明できる、それなりに納得させられてしまう解釈を紹介しました。

 しかしこれらの解釈は、目の前の現象に引っ張られすぎています。

この現象が起こった、もっと重要な背景を忘れて、目の前の現象にだけ囚われない方が良いと思います。そこで次のようなことに目を向けてみたいと思います。

 もう一度状況を確認しますと、エルサレムの街の一角にある部屋で大きな物音がした。

 そこで近所の人たちが集まった時に、自分たち銘々の故郷の言葉が語られていたのを知った、という点です。つまり、近所の人々が、皆別々の故郷を持っている、ということです。

 今は神様の約束通りイスラエルに住んでいる彼らユダヤ人ですが、ここに至るまでに長く住んだ、別の故郷をそれぞれ持っているのです。言ってみれば今住んでいるエルサレムは心の故郷、皆がもう一つ別の体の故郷からやってきて、心の故郷に住むようになったという経緯があるのです。

 イスラエルの民は私たち島国の民と違い、真の故郷を求めて放浪を重ねました。

 その過程で、あちらに住みやすいところがあれば私は移ろう、こちらが住みやすいと聞けばあなたは移る、というふうにバラバラになっていきました。

「離散の民(大文字でディアスポラ)」といえばイスラエル民族のことだとすぐに皆が連想するというほどに、弱小国の悲しさを味わい続けてきました。それでも彼らは心の故郷を忘れることをせず、体の故郷を離れてエルサレムに住んでいたのです。

 

 「離散の民イスラエル」と言われても、私たちは歴史の時間の出来事としてしか知りません。

 一方で差別された被害者という側面もありますが、他方現代では大国アメリカと結びつき、軍事力によって自分たちの都を守ることに明け暮れています。

 できれば目を背けたい、さまよいの歴史は繰り返され続けています。

 新約聖書は、私たちが本当に目指すべきところが「新しいイスラエル」であるとして、地理的なイスラエルに止まり続ける古い信仰を打破する事を、しばしば私たちに持ちかけています。

 

 古いイスラエルに拘ってしまうということの滑稽さを私たちの状況に置き換えて理解するために、少し例え話を用いたいと思います。

 例えばこうです。——日本のどこかで大きな災害が起きた。そのために住民が選択を迫られます。その地に残るか、移住するか、という選択です。

 そして移住した先でさまざまな出会いがあり、仮住まいのつもりで住み始めたが結構長く住んでしまった。

 しかしやはり故郷に帰りたくなった。

 荒れ放題だが自分の家もあるはずだ。ところが帰ってみてわかったのは、家のメンテナンスが必要である以上に、人間関係を整備する必要がある、ということであった。

 つまり、自分にはいつの間にか「故郷を一度捨てた人間」というレッテルが貼られていて、そのレッテルが邪魔になって昔の仲間との関係がギクシャクする。——残る者、移る者それぞれに理由があります。一概に非難することはお互いにできないはずです。しかし人間関係とは不思議なもので、信頼関係を失ってしまうと全てが裏目に出てしまうのです。

 この時イスラエルに住んでいた人々の元々の体の故郷の数は、ここに示された十いくつでは足りないほどだったのでしょう。離散した理由、戻ってきた理由は、おそらく住民の数だけあるのだと思います。そして住民の数だけ悲しみもまたあるのです。

 

 この、悲しみを癒す言葉がこの日語られたのです。この時120人のガリラヤ出身の者たちは、いつもと同じようにガリラヤなまりのヘブライ語で祈り続けていただけです。しかし、聖霊の力を受けた彼らの言葉は、それを聞いた者たちの心に届く言葉となった。エルサレムに住む人々の心の数だけ存在する悲しみ全てを溶かす言葉だった、だから彼らは自分たちのもう一つの故郷の言葉を聞いているかのように感じた。キリストの福音が、理解できる言葉で迫って来たのです。

 

 

3 私たちの教会

 

 星と星との間くらい離れている人間同士の心。

 それらを繋ぐことができる神様の力が発揮されて欲しいと願うことは、旧約聖書以来の信仰者共通の願いであると言えるでしょう。

 そして聖霊の力を借りて人間同士の心が繋がればと願わざるを得ないのは、単に外国語の壁という側面だけでないこともまた明らかです。

 ここで、ペンテコステに起こった出来事を、教会の外から客観的に眺めていた人の感想が出て参ります。

 13節の「あの人たちは、新しい葡萄酒に酔っているのだ」

というのがそれです。

 教会の外から見れば、お酒の力を借りて人間関係の改善を図ることと、聖霊の力を借りて人間関係の改善を図ることとは、外見上の区別がほとんどないのではないか、という批判があったことがわかります。 

 私たちはどう答えることができるでしょうか。お酒に満たされているのではなく聖霊に満たされている、とどうすれば言えるのでしょうか。

 私たちの教会は、教会将来計画というものをどのようにして得ることができると考えているでしょうか。

 牧師が神学校で学んだ事を伝えて、それをみなさんが正確に実行したら、ことたれりと考えるのでしょうか。

 それとも、みなさんから教会のこれからについての色々な希望を伺い、それを全部実現したらいいのでしょうか。

 そういったことももしかしたら大事かもしれません。

 しかしそれらは「幻」と呼ぶ類のものではありません。

 むしろ、神様が示してくださるご計画がなんであるのか、「幻の到来」を祈って待ち望むことが大事なのではないでしょうか。

 「幻」、つまり約束手形であるからには、「本体」があります。本体は未だ天のみ国に止まり続けています。教会は、そして私たち一人一人は、これからも「幻」に向けて右往左往する歩みを続けるに違いありません。

 

 教会将来計画、神様との約束手形の性格をよく言い表している事柄が、これから起こります。それは聖餐式です。聖餐式をある人は「救いの前味」と言い表しました。そこで実際に味わうのはウェファースと葡萄ジュースの味かもしれません。しかしそのような肉体の舌で味わう味を超えて、聖霊が舌のように私たちに及んで味わわせてくださる、み国の食卓の味わいがあります。感謝して聖餐に与り、そしてみ国の到来を祈り願いたいと思います。