神と民となる日

2021/05/16 昇天後主日礼拝    

「神と民となる日」 

ヨハネによる福音書16515節       牧師 上田 文

 

 

 今日の週報には昇天後主日と書かれています。昇天後とあるのは、先週の木曜日である13日が昇天日であったからです。

昇天日は、イエスさまが死なれて3日目に復活し40日目に天に昇られた日です。

この日を私たちは、イエスさまが神さまの栄光を捧げられた日、父なる神さまのもとで、最高の権威を与えられた日としてお祝いします。

 我が家では、毎日朝ごはんの時にその日のローズゲンの聖句を読みます。

娘は、このローズゲンの言葉がイエスさまの言葉である事を理解しているように思います。

昇天日の朝の聖句を読み終わった後に、娘は嬉しそうにこのような事を教えてくれました。

 

「ねえねえ知ってる?イエスさまはね、天におられるんだけど、あそこにもここにも、私たちの近くにもおられるんだよ」

 私たち夫婦は、驚きました。

幼稚園でカトリック教会の神父に教わったのかも知れませんが、しかし、昇天日の喜びを見事に言い表したからです。

 私たちは、この日の朝、娘の言葉によって、改めてイエスさまが天に昇られた喜びを実感し、イエスさまに感謝する朝を与えられました。

 

 今日の聖書箇所は、イエスさまが何故天に行かれるのかを弟子たちと私たちに教えてくださる箇所です。

最後の晩餐の時に話された、「別れの説教」とも呼ばれる部分です。

この晩餐の後、イエスさまは捕らえられ、十字架に付けられます。

そのことを意識しながら、イエスさまは弟子たちに話されたのでした。

しかし、この「別れの説教」は、弟子たちに自分は明日に殺されてしまうのでこれがお別れだと話されたわけではありません。

死んでしまって、永遠の別れになるのではなくて、イエスさまは十字架の死と復活を経て、もともといた場所、父なる神のもとにお帰りになるのです。

しかし、弟子たちはイエスさまがこの世から居なくなってしまうという事ばかりに心が捕らわれてしまいました。

そのため、聖書には、弟子たちが「悲しみで満たされた」(6

それは「どこに行くのか」と尋ねることも出来ないほどであった(5

と記されています。

 弟子たちがイエスさまと共に歩いた宣教の旅は、多くの人が共に信頼しあえるような共同体を作る旅であったとも言えます。 

 生身の体を持つイエスさまと共に過ごせた事は、弟子たちにとってこの上ない恵みでした。

 

 すばらしい体験でした。

 共に食事をし、宿で寝て、イエスさまの宣教の業を間近で見る事が出来ました。 

 困っている人を奇跡的な業によって助け、隣人を愛することを生で見聞きしたのでしたのです。

 それにもかかわらず、その中心に立っておられる人が居なくなると言われるのです。互い顔と顔を突き合わせて確認し、安心し、信頼しあえた。

 そのような日々が、イエスさまが居なくなってしまうことによって、無くなってしまいます。

 それまで、イエスさまだけを見ていた弟子たちは、何を見れば良いのか分からなくなってしまいました。

 これは、弟子たちの弱さの表れでもありました。

 自分で見て、聞いて、触れる事によってしか確信を持つことの出来ない弱さです。

 イエスさまは、自分がどこに行くのか弟子たちがなぜ尋ねないのかと言われました。

 それは、弟子たちが、見えるイエスさまにしか確信を持つことが出来ないことにイエスさまは気付いておられたからです。

弟子たちは、イエスさまがこれから起こる事をいくら話されても、目の前の悲しみしか見れなくなっていたのです。

 このような弟子たちの姿を見て、イエスさまはますます自分が十字架によって死に復活し、天にあげられる必要があると思われました。

 そこで、なぜこのような事をする必要があるのか、弟子たちに少しずつ教えはじめられました。

 

弟子たちと共に旅を続けていたイエスさまは、いつも世の力と戦っておられました。

 なぜなら、弟子たちは目に見える世の力に引きずられ、イエスさまの御言葉が分からなくなる事が絶えずあったからです。

 弟子たちの信仰の弱点を知っておられたイエスさまは、あえてその弟子たちの信仰を不信仰と言われ、弟子たち自身に意識させようとされました。

 ヨハネによる福音書には、このことが数多く記されています。

 そのうちの一つが3章の19節です。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇のほうを好んだ。

 それが、もう裁きになっている」とあります。

 この世には闇があり、人間はその闇を好むのです。

 イエスさまがこの世に、肉体をもった見える姿で闇を無くすために来てくださったのに、人々は姿がみえない闇を好んだのです

 それは、私たちが悪魔の支配下にあり、悪魔を父としているからである。

「悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころにしないからである」(844)とイエスさまは言われます。

悪魔というのは、架空の者ではありません。悪魔がもし、イエスさまのように地上で見える肉体の姿で存在していたならば、多くの人が警戒し、その被害に遭わなくてすんだかもしれません。

 しかし、悪魔は初めから見えない悪霊として存在し、何時でも誰にでもその力を使う事が出来たのでした。

 悪霊の力とは、人間を神さまから引き離そうとする力、人間の中に入り込み、その欲望を自由に解放しようとする力です。

 人間はこの力によって、神さまのご支配を疎むようになります。

 そして、神さまのご支配から脱出することが自由であると考えるようになります。

しかし、それは真の自由を失うことであるとイエスさまは言われます。

 真の自由を失った人間はどのようになるでしょうか。

 自分が何者であるか分からなくなります。何故ここで生きているのか。

 何のために生きているのか分からなくなります。

 真の言葉を失います。自らの言葉を失い、言葉を求めてスマートフォンが手放せなくなる。

 そのような姿を私たちは良く知っていると思います。

失った何かを満たしたいのです。

自分の内から出てくる、何かを満たしたいと思う事。

これが、悪霊の力をかりた欲望の現れです。

 この見えない悪霊の力に支配された不信仰な世界ともイエスさまは、いつも戦ってくださっていました。

 見える者しか信じる事の出来ない弟子たちの目の前で、見える形で、悪霊払いをし、病を治し、隣人を愛する事を教えてくださったのです。

 肉体をもって、弟子たちの所に来てくださり、何が真実なのか、真理なのかを表してくださったのでした。

 そのことが、福音書には沢山記されています。けれども、結局、弟子たちは悪魔の支配から抜け出す事が出来ませんでした。弟子たちは、悪霊の支配下にある民衆と同じように、イエスさまを十字架につけてしまいました。

 肉体を持った、目に見える方に確信を持つのではなく、いつの間にか自分の中に入り込んだ悪霊に支配されていたのでした。

 イエスさまはそのことを初めから知っておられました。

だから、神さまのご計画どおり十字架で死なれ、復活し、天に上がられたのでした。

見えない悪霊と戦い、悪霊に支配される私たちを救うためにそうされたのでした。

「わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる」と言われたのは、そのためです。

 

 

 このイエスさまが、天に上がられ、送ってくださるのが聖霊です。

 聖霊の働きが8節に書かれています。

 

「その方が来れば、罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする」

とあります。

 聖霊は、罪と義と裁きについて真実を明らかにします。

 厳しい言葉のように思います。罪と聞く時、私たちは、自分が罪と定められるのではないかと不安になります。

 自分は悪い行いをしているのではないか、良い行いが出来ていないのではないかと心配になります。 信仰者としての心構えが出来ていないのではないかとも思います。

しかし、イエスさまがおっしゃっている罪はそのような事ではないようです。

 9節には、

「罪についてとは、彼らが私を信じないこと」と説明されています。

「あなたは自分について証をしている。その証は真実ではない。」(813)という御言葉を思い出します。イエスさまがファリサイ派のことを批判されたときの言葉です。

 彼らファリサイ派は、律法による行いによって自らが救われると信じていました。

その彼らが守る律法には、真実を証するためには、二人か三人の証人が必要であると決まりがありました。

 しかし、イエスさまは、この証人がないままに自らが神の子であると証されていました。

 そこで、彼らはイエスさまが自らが光の子だと主張しているが、他の証言者がいないではないかと責め立てたのです。

ここに、罪の姿を見ることが出来ます。

 

 イエスさまの御言葉を信じるのではなく、目に見える律法の行為による正しさを信じたのでした。

 彼らが見ていたのは、律法を正しく守り生活する自分自身の救いの確信であり、律法を守らない、どこのだれだかも分からないイエスという男の律法違反なのでした。

 同じ事が私たちにも言えるように思います。

 自分たちが見て知っているこの世の事に忠実に従う事によって、安定や安心を確信できるのに、見えないイエスさまには確信が持てないのです。本当の意味でイエスさまを信じることが出来ないのです。 

 

 だからイエスさまは、

「『わたしはある』という事を信じなければ、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」(824)と私たちに警告してくださっていたのでした。

 

 私たちは、福音書を通してイエスさまの事を知っています。

 けれども、確信がもてない。

 イエスさまを本当に信じる事が出来ていないのかもしれません。

 それは、私たちがまだ罪の中にいるという事です。

 悪魔に支配されたままなのです。そのような私たちに、イエスさまは聖霊を送ってくださいました。

 

 私たちの中に入り込み、この世を支配する悪魔と戦うために、聖霊を送ってくださり、その力を注いでくださいました。

 聖霊の力は、私たち一人一人の中に潜む罪の力を明らかにします。

 私たちの中に入ってくださる聖霊は、弟子たちや、イエスさまに逆らった民衆だけでなく、私自身が罪人である事を知らせてくれます。

 イエスさまの言葉を信じるのではなく、目に見えるこの世のルールに確信を持ち、私がイエスさまを十字架に架けた事を知るのです。

 この世に従い、神の子を抹殺したのです。

 深い深い罪を犯したのです。聖霊はこのように私たちの罪を暴露します。

 しかし、私たち確信をもって見ていたこの世は、この罪を解決してくれません。

 私たちは、自らの罪に死ぬまで苦しめられるしかないのです。

 けれども、イエスさまは、もともと私たちの罪を赦すためにこの世に来てくださった方でした。

 

「わたしもあなたを罪に定めない。これからは、もう罪を犯してはならい」(811

と宣言してくださる方でした。

 このイエスさまが私たちに聖霊を送ってくださいます。

 イエスさまにとどまるならば、真の自由を与えてくれる聖霊です。

 自らの罪に縛られ、下を向いて死を待つばかりの存在となった私を、イエスさまが解放してくださるのです。救い主であるイエスさまの霊が、言葉として私の中に入って来てくださり、罪の死から解き放ってくださいます。

 このとき、私たちは再び天を見上げ生きることが赦されるのです。

 

 

 また10節には、

「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」

とあります。

 不思議な言葉に思います。

 イエスさまは、私たちに神さまの方を見なさいと勧められます。

 また、義という言葉は、この神さまと私たちの良い関係を表す言葉です。

 罪あるものが、神さまによって良い者と見なされる関係を表すのです。

 しかし、イエスさまは義とは、イエスさまが父なる神のもとに行かれること、イエスさまが見えなくなることだと言われます。

 宗教改革者であるカルバンは、義についてこのように説明しています。

 

「イエスは、天の栄光の座からかれの義の甘美な香りと快い匂いとをもって全世界をかぐわしいものとするのである」

 イエスさまは、弟子たちとの生活のなかで目に見えるさまざまな救いの業を成し遂げられました。

 しかし、天にあがられたため、それから今に至るまで私たちはイエスさまの救いの業を見る事が出来ません。

 目で見て確信をもってイエスさまを信じる事ができないのです。

 しかし、イエスさまはこの世にその救いの香りを残して下さっているとカルバンは言います。

 私たちは、礼拝を捧げる時このイエスさまの香りに触れることができます。

 聖霊は、このようにしてイエスさまの残してくれた香りに私たちを導き、私たちがイエス救いを信じその恵みに与ることが出来るようにしてくれるのです。

 

 

そしてこの義が現れる時、裁きが明らかにされます。

 神さまに義とされる礼拝を捧げている教会は、神さまの義に導かれると同時に裁きが明らかにされる場となります。

「裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである」

とあります。

「この世の支配者」というのは、政治的権力者とか、王様という意味ではありません。

 目に見えるこの世で、目に見える幸福を追求する私たち人間の事です。

 私たちは、目に見える幸福を手に入れるために、自分たちにとって目に見えて都合の悪いものを無くそうとします。

 時には、見えないように隠す必要もあります。

 そのため、私たちは自分たち人間社会が作り上げた裁きを利用しようとします。

 姦通の現場で捕らえられた女を連れて来た人々がそうです。

 この世で自分たちが都合よく生きるためには、イエスという自分たちにとって都合の悪い男を排除しなければなりませんでした。

 そこで、見るからに罪だとされる女性を連れ来て、裁きをはじめました。

 しかし、目的はイエスさまを裁く事です。目に見える形で、イエスさまが姦淫の罪を犯した女性を守るならば、イエスさまも罪人として捉える事が出来ます。

 これが、この世の幸福の追求方法です。

イエスさまは、

「罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい」

と言われました。

しかし、彼女に石を投げる人は誰も居ませんでした。

多くの人が、この世の肉体的な幸福を追求する事により、罪を犯していたからです。

 

 これは、私たちにも同じ事が言えるように思います。

私たちは目に見えて分かるルールや常識に従うことによって、社会を成り立たせています。

社会人として、仕事の組織の一員として、目に見えるルールがあります。

そして、それを守る人は安定した暮らしを手に入れる事ができます。

 しかし、私たちは、このルールに従わない人を見ないようにしたり、裁いたりしているのではないでしょうか。

そして、自らがこのルールに従えなかった時に、見えないように隠す事があるのではないでしょうか。

 

このような私たちに、イエスさまは、

「罪を犯したことのない者が、まずこの人に石を投げなさい」

と言われるのです。

これが、人間が作り上げた裁きではない、イエスさまの裁きの方法です。

 

この世の支配者である私たち自らが断罪に値すること知るのです。

この女に石を投げる事が出来たのは、罪を持っていないイエスさまだけです。

けれども、唯一、石を投げる権利をもっておられた方がこの権利を放棄されました。

なぜならイエスさまはこの世を救うために来られたからです。

教会に与えられる聖霊は、イエスさまが、目に見える断罪という形ではなく、赦しによってこの世を納めようとしてくださっていることを伝えるのです。

 

 

 教会は、この聖霊の働きがはっきり浮彫にされる所です。

 教会は、この世に立てられ、この世でイエスさまの救いの御業を表す場であるからです。

 この教会で礼拝を捧げる私たちは、相変わらず目の前にあるこの世と、目に見えないイエスさまの救いの教えの中で揺れ動いてしまいます。

 その度に聖霊の導かれ、罪を暴露されその罪を赦される中で、絶えず一喜一憂するのです。

 この聖霊は「弁護者」であるとイエスさまは言われます。

 7節にある「弁護者」という言葉は、口語訳聖書では「助け主」と訳されています。

イエスさまの計り知れない救いのご計画を、まだまだ理解出来ない私たちは、絶えずイエスさまを見失い、罪を繰り返してしまいます。

しかし、そのような私たちにイエスさまが聖霊を送ってくださり、励まし、助けてくださり、偉大な栄光に導いてくださっています。目に見えないイエスさまの支配が、着実に進んでいるのです。

 5歳の娘が

「イエスさまはね、天におられるんだけど、あそこにもここにも、私たちの近くにもおられるんだよ」と語る事が出来るのは、そのためです。

 天に上がられたイエスさまが、聖霊を通して私たち一人一人がその救いを知るように導いてくださっているのです。

 この霊に勇気づけられ、心を高くあげ主の御声に従い、歩み続けたいと願うのです。