共に立ち上がる

2021/03/21 受難節第五主日 

「共に立ち上がる」ルカによる福音書19110節 牧師 上田文

 

突然の訪問を受けた時、あなたはどうしますか?という質問がインターネットに載っていました。この質問に答えた半分くらいの人は、「何にもないけど」だとか、「散らかっているけど」と言いながら、家に上がってもらうと答えていました。しかし、残りの半分の人は、「用事があって出かけなければならない」などといって、帰ってもらうと答えていました。この記事を読みながら、私はまだ婚約中であった時に何度も将来義理の母になる人の家、つまり曳舟教会に招待されて夕ご飯を食べた時の事を思い出しました。母は、私が行くと分かっていても絶対に掃除をしません。訪れた時に、今から掃除するからその辺に座っていてと言われた事もありました。結局、一緒に掃除をする事になったのですが、後になってこれは長年絶えず伝道のために家に人を招いていた母の戦略である事が分かりました。掃除をしたり、さまざまな準備をしたりして人を待つと、招待した自分が疲れてしまって、人を招くのが億劫になり始めます。そこで思いついたのが、人がくるのは大歓迎、でもお家の中は片付いていないのが当たり前、どうかこれに慣れて気を張らずにいつでも来てくださいという事にしたのだそうです。この戦略は、大成功しているようです。義母の周りにはいつも人がいます。そのうえ、慣れてくると、お掃除までしてくれるという嬉しいプレゼントが付く事もあります。教会員でない近所の人が、なぜかお掃除にきてお茶を飲んで帰ります。宅急便のお兄ちゃんが、座って長話をします。今でも、色々な人が、ここが自分の場所であるかのようにこの家を出入りしています。

 

 今日の聖書には、イエスさまがザアカイという男の家を訪問した事が書かれています。彼の家はどのような家だったのでしょうか。聖書には、ザアカイが徴税人の頭で金持ちであったと書かれています。彼が集めていた税金はユダヤを支配しているローマ帝国に納めるものでした。ザアカイの仕事は、その税金を同胞であるユダヤ人から徴収する事でした。人々は、彼を敵に国を売った人だとか、神の民を裏切り、神に逆らった罪人と見なしていました。人に好かれる仕事ではありません。そのため、そこには役得が与えられました。それは、ローマに納める分以上に取り立てて、それを自分のものにすることができたのです。ザアカイが金持ちであったとあるのは、彼がそのようにして財産を得ていたという事です。ここからも、彼が人々に憎まれていた事が分かります。

 彼の家はどのような状況であったか想像してみましょう。若い手下の徴税人が大勢出入りしていたことでしょう。しかし、彼は頭であったと言いますので、同等の同僚がいるわけではありません。また、ユダヤの中の嫌われ者です。一緒に食事をする友だちもいません。彼の家に来るお客さんは居ないのです。きっと彼の家は、散らかり放題になっていたと思います。

 

 そのようなザアカイが住むエリコの町に、ある日イエスさまが来られました。3節にザアカイは「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見る事が出来なかった」とあります。それは、ただ人が混んでいて見えなかった訳ではないと思います。人々は、面と向かって批判できない相手であり、心の中でいつもにくく思っている徴税人のザアカイに、ここぞとばかりに意地悪をしたのです。しかし、ザアカイは気にしません。人々に嫌われ、意地悪される事に慣れていました。散らかり放題の誰も来ない家で暮らす事に慣れているように、彼は、人々の意地悪の中で生きる事にも慣れていました。そんな事よりも彼は、「イエスがどんな人か見たかった」のです。イエスさまの評判は、エリコの町にも伝わっていました。神の国の到来を告げ、奇跡を行っているというイエス。この人が、昔から預言者たちが告げていた救い主、メシアではないかという期待をもって人々はイエスさまの下に押し寄せました。しかし、ザアカイの思いは少し違ったように思います。この福音書の15章の冒頭に「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」と書かれています。徴税人は神の民を裏切り、ローマに神の民の国を売った裏切り者、罪人とされていました。救いから除外された者、神の国に入れる望みがない人とされていたのです。ところが、イエスという人は、この救いから除外された者と食事を一緒にしたというのです。イエスさまについて、全く違う噂が二つ流れていました。一方では、神さまから遣わされたメシア、救い主ではないかと言われ、他方では、罪人の仲間に過ぎないと侮辱されていたのでした。ザアカイは、人々が期待したのとは違う、罪人の仲間と言われるイエスさまを一目見たいと思ったのでした。

 

そのようなザアカイの思いが、滑稽にも彼を木に登らせます。しかし、彼は複雑な気持ちがありました。イエスさまを見たい。けれども、罪人であり裏切り者とされている自分の姿は、イエスさまから見られたくないという思いです。そこで彼は、誰にも知られず、こっそりと木の葉に隠れるように、イエスさまを遠くから眺めようとしたのでした。ただイエスさまを見物して満足して、家に帰りまた徴税の仕事の続きをしようと思っていたのでした。「ああ、あの時に見たイエスという男は、本当に優しい、愛に満ちた顔だった」と思い出しては、気持ちをなごませようと思っていたのでした。

 

木に登り、葉っぱの陰からイエスさまを眺めるザアカイ。そんなザアカイに思っても見ないことが起こりました。五節には「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』と言われたと書かれています。イエスさまは、ザアカイがそこにいる事を最初から知っていらしたかのように、彼の名前を呼ばれます。彼の名前をずっと知っていたかのように、とても親しげにザアカイと呼ばれました。ザアカイもイエスさまをすぐに受け入れる事ができました。この方は、自分の全てを知っている。自分がどのような人間であり、これまでどのように生きて来たのか、徴税人の頭であり金持ちであること、しかし人々から憎まれていること、友だちがいないこと。そして、頼りにできるのはお金だけで、そのお金によって人々を見返してやろうと、ひたすら仕事に励んでいること。けれども、心の中は、どんな財産でも満たされない寂しいさがあること。自分も神さまに救われた民でありたいと思っている事など、彼自身も気づいていない心の奥にある全ての事を、この方は知ってくださっていると彼は感じたのでした。

 

名前を呼ばれたザアカイ。彼が対等に、友だちを呼ぶように名前を呼ばれたのはいつ以来なのでしょうか。驚きと喜びでいっぱいになっているザアカイにイエスさまは更に言われます。「今日は、ぜひあなたの家で泊まりたい」。この言葉は厳密に言うと「あなたの家に泊まらなければならない」となります。ザアカイの家に泊まるのは、神の御意志であるからそうしなければならないとイエスさまはおっしゃるのです。ここで、ザアカイの意志は、全く聞かれていません。イエスさまは、ザアカイに「家に泊めてくれますか」と相談するのではなく、神さまが、今日はあなたの家に泊まるようにと示されていると人々の前で宣言なさったのでした。誰からも期待されず、救いはない罪人であると思われていたザアカイの家に、メシア、救い主と噂されている私は泊まるのだと、イエスさまはユダヤの町で公に言い表されたのでした。

 

その宣言を聞いて、ザアカイは「急いで降りて来て、喜んでイエスを家に迎えた」とあります。ある意味とても非常識であるとも言えるイエスさまの宣言をザアカイは受け入れました。ザアカイの散らかった家は、掃除をする事が出来ていたのでしょうか。もてなしの準備が出来ていたのでしょうか。そうとは、思えません。相変わらず、若い徴税人たちがひっきりなしに出入りする、汚れた散らかった家だったように思います。けれども、ザアカイは喜んでこの方を家に迎え入れました。何か高い所からジャンプをするように、思い切ってイエスさまを迎え入れたのではありません。いつもと同じ、自分が過ごしている散らかし放題の家にイエスさまをお迎えしたのでした。

 

しかし、その事のためにイエスさまは、人々の非難を受ける事になります。人々は「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」とつぶやいたとあります。ザアカイの喜ばしい姿を見ながら、人々は、やはりイエスは救い主などではない、悪党や罪人の仲間だと思ったのでした。自分たちは救われ事になっている神の民であるが、あいつたちはそうではない。救いが失われている者同士で仲良しごっこをしていればよい。そのような気分で黙って眺めていたのでした。人々は、つぶやいたとあります。面と向かって、ザアカイとイエスさまを非難したのではありません。ザアカイと同じように、高い木に登り、遠くから葉っぱの陰に隠れるようにしてつぶやいたのでした。

 

そこでザアカイは立ち上がって言いました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」。この言葉の前には、本来ならば「見てください!」という言葉が付けられています。イエスさまに対して非難のつぶやきをした人々と同じように、木の陰に隠れ、遠くからイエスさまを眺めていたザアカイが、イエスさまに対して全身をさらけ出して「見てください!」「わたしを見てください」と叫ぶ者と変えられていました。「イエスさま。私はこの人々を憎んできました。そして、自分の権威を精一杯使い、意地悪をするように税金を取り立ててきました。そうしなければ、心の欲求が満たされませんでした。そうしなければ、私を支えてくれるものは何一つありませんでした。でも、それらのことは何も私を満たしてくれませんでした。どうしてそうなるのか、分かりませんでした。分からないので、ますますお金を増やす事に腐心してきました。でも、あなたは徴税人の仲間以外は、だれも来ないこの家に来てくださいました。一緒に食事をしてくださり、友だちになってくださいました。私は、初めて安心する場所を見つけました。自分の居場所を見つけました。徴税人以外、誰の出入りもないこの散らかった家が、初めて私の居場所のある家になりました。あなたが、私のあるべき居場所を作ってくださいました。私は、あなたが与えてくださった居場所に相応しい生き方をします」。ザアカイはこのように語ったのでした。ザアカイは、イエスさまの訪問を受けて、初めて自分の家に居場所を見つけ、この家は掃除が必要であると気づき、この居場所に訪問客を迎えるための掃除を始めたのでした。

 

財産の半分を貧しい人々に施すことは、その人々と居場所を共にする事に繋がります。だれかから何かだまし取っていたなら、それを四倍にして返すことは、だまし取った人々の崩れた関係を回復する事に繋がります。ザアカイの家に訪れた福音は、ザアカイ一人だけの福音にとどまりません。ザアカイを通して、この福音が拡大していくのです。木の陰に隠れて、イエスさまとザアカイを軽蔑していた人々にも、ザアカイの福音は伝えられます。だまし取られていた人々は、それを四倍にして返される事によって、ザアカイを仲間として認めざるを得なくなりました。親しい来客が来なかったザアカイの家は、貧しい人々や、ザアカイを憎んでいた人々が訪問する家になりました。

 

イエスさまは言われます。「今日、救いがこの家を訪れた」。ザアカイの家は、彼を通してイエスさまに捜し出され、名前を呼ばれた者が集う家、つまり教会になっていったのでした。私たちの罪のために十字架によって死なれ、甦られたイエスさまが必ずいてくださる、私たちの居場所になりました。

 

私たちは、この教会に集められています。そして、礼拝を捧げています。イエスさまを見に来ています。イエスさまは私たちに関心を持って下さり、失われた者を救うために教会にいてくださる方です。私たちもまた、ザアカイのように木陰から、イエスさまを眺めるだけで終わらせる事は出来ません。イエスさまが、私たちにも出会ってくださり、私たちの正しい居場所を与えてくださいます。そして、イエスさまが私たちの命そのものになってくださいます。実際に私たちは、イエスさまの聖餐に招かれ、食事を共にします。命のパンを頂き、そのパンを自分のお腹の中に入れて、家に帰るわけです。ひょっとすると、その家は、以前のザアカイのように自分の安心できるような居場所がない家かもしれません。散らかし放題の家かもしれません。しかし、そのような家にイエスさまが「今日は、あなたの家に泊まる事になっている」と来てくださるのです。イエスさまが、聖餐式のパンと共に私たちのお腹の中に入って、私たちの散らかし放題の家を訪れてくださるのです。

 

イエスさまの訪問を迎え入れたザアカイは、徴税の仕事を辞めたのでしょうか。そうではありません。彼は、この仕事をイエスさまに与えられた仕事としてやり続けたでしょう。しかし、今までとは全く違います。救われた者として、愛され、真の居場所を与えられた者として彼は福音の行為を続けます。救われた喜びを持って、財産の半分を施し、不正に徴収した税金を四倍にして返すのです。散らかり放題の徴税人の家は、いつでも来客を受け入れる事のできる、お掃除された家に変わっていました。私たちも同じです。今、与えられた場所でその福音を体現化して生きるのです。そのとき、私たち一人一人が教会とされます。一人一人が教会とされている私たちは、さまざまな人々に居場所を提供する事ができます。共に、福音を味わうためです。救いがこの私の家を訪れたのです。私たちは居場所のない、失われた者を迎え入れる家になっているのです。私たちも、この家を掃除し続けイエスさまの救いを伝える福音の務めを、イエスさまと共に果たしたいと願います。