ポンテオ・ピラトの元に苦しみを受け

2021/05/09 復活説第五主日礼拝 

ポンテオ・ピラトの元に苦しみを受け マタイ132回 

マタイ27章11-26節                                               牧師 上田彰

 幼馴染であり、一度CSクリスマスの行事で子育てについて話してくれた木村護郎という友人が、娘が保育園に入った頃に、聖句を添えて一冊の絵本を送ってくれました。聖句の箇所はその絵本を送る手紙を書いた日のローズンゲンの箇所だと書かれていました。その箇所は、「恐れに囚われてはならない」という意味の、書簡の一節だったと記憶しています。本は今日持ってきました、『こわくないよ にじいろのさかな』という絵本で、シリーズものの一冊です。ある日、友達の「こぶうお」が病気になってしまいます。お医者さん魚がやってきて、この病気を治すためには「悪魔の谷」にあるという、赤い海藻が必要です。「悪魔の谷だって!」周りの魚は、その名前を聞いただけで怖がってしまいます。何しろ海底深くには、目がたくさんある魚とか、一度捕まると逃れることのできない草が生えている場所があったりするのです。しかし主人公の幼い「にじいろのさかな」は、勇敢にも友達を助けるために冒険に出かけるのです。今日は説教懇談会を礼拝後に持つので、そのときに実物を回覧しますので見ていただくことにして、友人はその手紙の中で、先程挙げた聖句、「恐れに囚われてはならない」というのと絵本の内容がぴったりだ、と書いていました。つまり恐れずに勇気を持って実際に冒険してみると、こわく見えていたものが本当は怖くなかったことがわかる、というわけです。

 

 疑心暗鬼、という言葉がこれほどピッタリくる一年というのも、滅多にないのではないかと思わされます。疑う心に闇が生まれ、鬼が出てくるという、元々は仏教用語から生まれた言葉だそうです。さすが、人間の心の中を捉える段になると、仏教の考察は優れています。今日の聖書箇所の18節に出てくる「ねたみ」という言葉は、聖書のもとの言葉からたどっていくと、疑心暗鬼といった感の意味合いを持った言葉です。イエス様が伝道に成功して多くの人を信仰へと導いた、それが自分と比べて羨ましいからねたんだ、というような話につながる意味合いの言葉ではありません。あえて訳せば、悪意、となるでしょうか。イエス様の一挙手一投足を知り、その全てをネガティブに、否定的にとる、これが「ねたみ」の内容です。ユダヤ人である祭司長や長老がイエス様のことを総督に散々に訴えます。その中身を「ねたみ」という言葉を手がかりに想像するならば、次のようになるでしょう。

 「イエスという男は、不思議な魔法を使っている。このまま生かしておくと、人々をどこに導くかわかったものではない」。あるいは、「あんなに見事に病気が治るというのは、きっと流行らせているのはイエス本人に違いない」。「神殿が倒れても三日で建て直してみせると豪語している。きっと神殿を破壊しようという過激派に違いない」。要するに、単なる言いがかりなのです。こうして、その直前に自分たちがユダヤ人最高会議において出したイエス様に対する死刑判決のお墨付きをもらうために、総督を説得しようとするのです。

 

 疑心暗鬼は伝染します。意図的に他人を巻き込みます。彼ら祭司長や長老たちは、エルサレムの群衆にも同じことを吹き込み、世論を盛り上げます。一週間前にエルサレムに入ったときにはシュロの葉を持って王の入城を歓迎した人々が、今は情報不足につけ込まれ、神殿の前庭で暴れたとも聞くあの男を死刑につけることに賛成するのです。

 実は似たような心理現象が、この一年ずっと続いているように思うのです。政治のニュースでも、情報不足から国や行政に対する不信感を人々は募らせます。そっくりの思いを教団に対して最近持っていることに気が付き、考えさせられました。最近は、インターネットで会議を持つことが増え、教団の現状についての情報も、会議の席上で交換するものがほとんどです。教団新報といった印刷メディアが本来は役割をもっと果たすべきだとも思いますが、何しろインターネットの方が情報が早いです。今度の秋の教団総会は400人が池袋のホテルに集まって行うのか、それとも教区ごとに集まってインターネットで繋いで会議を行うことになるのか。そのインターネット会議を確実に行うために業者に対して教団が出した見積もりを見ると、インターネットを使わずに東京に集まった方が安いという結果になりました。いくらなんでもそれはないだろうと見積もりを取り寄せてみたところ、今伊東教会に取り入れているシステムを使えばぐんと安くなる。いくらなんでもこういう状況を教団が知らないはずがないだろうと思いながら、頼まれてもいないのに提言を試みたところ、本当に何も知らないで業者に見積もりを丸投げしていたことがわかりました。しかし私と教団との間のやりとりもスムーズにいきません。全てにおいて、情報が足りないのです。そして恐れが生まれる、疑心暗鬼の状態です。

 このコロナの状況下で、あちこちで起こっている現象の一つと言えるかもしれません。こういう状況下で、デマに踊らされるということを含めて、皆さんの周りでもっと深刻な何かが起こっていても不思議ではありません。

 

 実は今日の箇所に出てくる一人の人物、総督という職についているポンテオ・ピラトという人物は、政治家として、今エルサレムで起こっている疑心暗鬼の状況を打破しようと試みる、一人の勇敢な人物と見なすことができそうです。昨今の感染症対策において、医療従事者が対応する衛生対策とは別に、リスクコミュニケーションといって、恐れを取り除くのは別の部署のエキスパートがいます。感染対策を、脅すような仕方ではなく、しかし確実にわかりやすく人々に伝える役割は、本来政治家に課されている課題でもあるのです。

 ピラトの見解によれば、こうです。エルサレムの人々は今ねたみ、つまり疑心暗鬼の状態に陥っている。それを引き起こしている祭司長や長老たちには元々その傾向があった。そしてこの地域で最も偉い私をさしおいて、人々をねたみによって操ろうとしている。あのイエスという男は、なんの罪もないのにこの人たちのデマゴギーによって殺されようとしている。私はあの男が十字架にかかって殺されても得もしないし損もしない。しかし人々がねたみから一人の人を殺すのをただ見過ごしにするわけにはいかない。そこで、裁判官でもある私の役割は、彼らを冷静にすることだ。裁判席についているのはピラトです。被告席につくのは形式的にはイエス様です。それはピラトの立場からしても耐え忍んでもらうようイエス様にお願いするしかない。しかし本当のところ被告席につくべきなのは祭司長であり長老です。正確に言えば祭司長と長老、そして群衆の心の中に巣食っている疑心暗鬼、それこそが本当の意味で被告席につくべきものであると考えて、ユダヤ人最高議会からの申し出に対応して今日の裁判に取り組もうというのがピラトの考え方でした。

 実はこのような考え方は、ローマ帝国が今でいう民主主義の原型のようなものを目指していたという意味で、本国の意向にもそったものでした。例えば、裁判は公開で行うという原則が当時すでに確立していたそうです。現代でも独裁国家において、裁判は非公開で行います。なるべく情報は国家が独占して、民はよるべし知らしむべからずで、秘密裏に人を処刑します。逆に今日の箇所に出てくるようにローマ式に裁判を公開で行うと、人々も情報を持つようになります。さまざまな人と情報を交換し、できるだけ客観的に裁判を行う。もちろん本当の事実がそこで明らかになるとは限りません。しかしそうやって情報を交換して客観的な裁判を目指すという姿勢を、裁判官である総督のみならず、全ての人々が持つということは、必ず国家を健やかなものとする、という確信がローマ帝国にはあり、ピラトにもありました。本当の意味の健全な支配権を国家全体に行き渡らせるという、民主主義的な目標です。

 それより以前の、大昔の政治家は、軍隊と警察をバックにつけることで、武力を振りかざして人々に自分の言うことを聞かせていました。民族の代表者たり得ていました。その次に現れた、ピラトよりも前の世代の政治家たちは、パンとサーカスを人々に与えることによって民族の代表者になるタイプの政治を目指していました。今風に言えば、給付金をあげますと言って自分の支持を取り付ける政治家ということになるでしょうか。

 それらに対してピラトは、暴力によるのではなく、利権によるのでもない政治支配、ヘゲモニーを目指しました。その意味で、ずっと近代に近い感覚を持ち合わせた政治家でした。暴力でも利権でもない政治支配とは、民主主義を根付かせることでした。民主主義の基本は、情報共有です。人々が正しい情報を持てば、正しく判断し、自分で自分のことを治めることができるようになる。そのための手助けをするのが自分の役割だ、それがピラトの考えていた理想の政治でした。裁判を密室で行うという原則は、ローマ帝国にはありません。裁判を公開で行っているのです。その場所を利用して、ピラトはこのイエスという男が無罪であることを示そうとし、そしてさらに祭司長や長老たちが妬む性質を持っていることを反省してもらおうとさえ思っていた。

 当時の総督は、おそらく一年任期です。一年間この地域をうまく治めて、次の場所に赴任したいのです。うまく治めるというのは、人々が税金を献上し、暴動や反乱が起きない状態にするということです。

 

 しかし、雲行きが怪しくなるのです。その様子を示す微妙な表現が、19節にあります。ピラトが裁判の席についているときに、と書かれています。ヨハネ福音書ではもっと微妙な表現で、ピラトは裁判の席につかせられた、と取れる書き方をしています。つまり、無理矢理に裁判の席に座らされている、というわけです。あたかもピラトは裁判官の席ではなく被告席につかされているという塩梅です。

 祭司長や長老たちは、意図的に何かの罪をピラトに着せて処刑したいというわけではありません。むしろ、裁判官の席につくのはピラトではなくて自分たちだ、ということを考えていたようです。その表れとも言える言葉が、25節に出てきます。「民はこぞって答えた」という言い方です。これは聖書の元の言葉を訳し直すと、「彼らは民族の代表として答えた」ともなります。今日の箇所でここ以外では「群衆」と呼ばれている人々が、ここで「民族の代表」になるのです。「群衆」というのは、山上の説教を聞く人々に対して使われていた言葉です。イエス様の言葉を、よく理解はしていないがしかしそばにいる大勢の人々。その群衆が、シュロの葉を持ってエルサレム入城をも歓迎してくれました。しかし今やその群衆は、ピラトに立ちはだかる形で、イエスという男を殺せ、私たちが主導権を握っているのだ、と言い出すのです。

 今主導権という言葉を使いました。英語で言えばヘゲモニー、となります。総督という言葉は元々はヘゲモーン、です。ユダヤ人たちは、イエス様をねたみから十字架にかけよと総督に訴えることを通じて、ヘゲモーンからヘゲモニーを奪うのです。ねたみをてこに、一種の革命を起こしているようなものです。もしピラトが、イエス様を十字架につけることを認めなければ、群衆が暴れ出す。そうすれば総督として次の任地が保証されなくなってしまう。ピラトは、今や無実の人を十字架につけるという不公正を認めることによってしか自分の立場を守ることができなくなってしまうのです。

 

 ピラトはまさか、自分の考える民主主義的な教育の場として裁判を用いるという作戦がここまで失敗するとは、考えていなかったのではないでしょうか。群衆が正しく判断するために必要な情報の窓口を自ら捨て去り、ただ祭司長と長老たちのアジ演説に付き従うようになるなどとは、思っていなかったのです。

 

 ポンテオ・ピラトの元に苦しみを受け。この言葉は、残忍な政治家の記憶を私たちが持ち続けるために毎週唱えているというわけではありません。むしろ皆が、そこで自分の名前に置き換えて、自分がピラトの立場だったらどうするだろう、と考えるために使徒信条に収められている一節ともいえます。

 そのときに私たちにとって一つの重要なヒントになるのが、11節から14節の段落です。今日お読みした箇所の後半は、公開裁判の現場です。前半の段落は、その裁判の前に予備で行う尋問の時間であったと考えられます。何か申し開きをすべきことがあれば、あらかじめ聞いておく、というわけです。その場所でピラトはイエス様の無実の確証を得たかった。そうすれば群衆の暴走を止められると思ったのでしょう。

 ところがイエス様は一言も無実を主張したりしないのです。不思議なほどに沈黙を続けるのです。

 「苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった」。よく知られるイザヤ書53章の一節です。

 私たちは、情報不足によって疑心暗鬼に陥っています。それは事実だと思います。しかしでは、情報が十分に与えられれば、疑心暗鬼は完全に解消するでしょうか。祭司長や長老はエルサレム入城前からのイエス様の振る舞いを全て知っていながら、ねたみから自由になることはできませんでした。民主主義的になれば全てがうまくいく、というわけではなさそうです。

 

 イエス様がなぜ沈黙を貫いたのか、聖書を読む者の解釈は一通りではありません。しかし次のようなことは言えるのではないでしょうか。私たちは神様を信頼し、神様を愛するときに、全ての情報を生かすことができる。疑心暗鬼から解放される本当の筋道は、神様に全てを委ねる平安な思いです。